20231119

 大澤や島薗がすでに指摘したように、オウム真理教には否定の契機が不在である。ということは、精神分析的には、隠喩と呼ばれる世界の説明原理のレトリックが不在であり、それは去勢の契機と呼ばれる、ある種の現実の断念(=世界の説明のレトリックを受け入れ、世界の知についてそれ以上欲望しない)が不在であることを意味している。ここでは、宗教に見られるような反復強迫と呼ばれる症候的事態が、隠喩的な言説と結合せず、修行と言説の両者は分裂的に存在する。オウム真理教において、原始仏教の言説や科学的言説はオタク的に(閉所的に) 豊かであった。
 つまりここでは、大澤がいうように言説が不在なのではなく、隠喩としての言説、文化としての高度な言説が不在なのである。精神分析は、身体と言語という異質なものが結合するのは、他者および対象関係が媒介するからであり、それは対象の相同物となるような言語としての隠喩(分節が不十分であるため逆に主体に幻想を与えることができる)が媒介するからであると示唆する。宗教および文化が与えるのは、言説におけるこの隠喩(例えば「信じるものは救われる」などのトートロジカルな言説)なのである。
 オウム真理教における隠喩の貧困さは、それゆえテクノロジーという現実の力能によって埋められようとする。隠喩の高度さとは、比喩や言説が現実との関係をもって、現実と距離をもち、リアリティをもって人々に受け取られることを意味しているが、オウム真理教は、隠喩の貧困さをまさにテクノロジーの力能によって埋め、大澤のいうように虚構を現実化したといえるだろう。その意味で、オウム真理教の文化性は低く、それは日本のポストモダニズム社会の文化の貧困さとつり合っているものであったともいえる。それは、社会空間がゲーム文化や商品やイメージによって埋められている日本文化の鏡像でもある。
 さらに宗教は、対象関係を言説としての隠喩以外の様々な装置によっても補完する。音楽や美術などがそうであるが、オウム真理教におけるテクノロジーは隠喩的言説の不在と同様、芸術のような隠喩の装置として働かなかったことに注意しよう。一方、マンガやアニメのようにやはり日本文化の鏡像的産物はあったが、いわば虚構の空間(幻想の幻想の空間)に人々を憩わせる装置も存在していなかった。
 共同体の構成も一つの対象関係の構成である。オウム真理教の中には人間関係は不在で、麻原との関係も非常に人工的なものとなっている。また、そこへ対象関係の苦手な理工系のオタクたちが呼応するように集まってきている。
 このように、単に、大澤のいうように、虚構の時代を突き抜けようとしたというよりも、虚構の時代においても人々に世界の安定性を与えるような、生活世界に内在する装置を人工的に構成する契機に欠けていたと考えられるだろう。宗教の内実とは、この点にあるからである。こういった点を議論しなければ、宗教の種別性は議論できなくなるだろう。
樫村愛子『「心理学化する社会」の臨床社会学』より「ラカン社会学から見た「オウム真理教」」 p.287-289)


  • 10時前起床。歯磨き中に首を軽く寝違える。最悪。朝昼兼用で第五食堂の炒面。
  • きのうづけの記事の続きを書いて投稿。阳台にパソコンとスピーカーを持ち出す。ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の日記の読み返し。以下、2022年11月19日づけの記事より。『ローベルト・ムージル 可能性感覚の軌跡』(オリヴァー・プフォールマン/早坂七緒、高橋 完治、渡辺幸子、満留伸一郎・訳)を読んでの感想。

 それから、ムージルと同時代の批評家であるフランツ・ブライはあらためてすごいひとだなと思った。「フランツ・ブライは一八七一年一月一八日、ウィーンに生まれた。モデルネの文学の最も重要な仲介者のひとりとして活躍。ムージルの他にローベルト・ヴァルザー、ヘルマン・ブロッホフランツ・カフカに才能を見いだし」という記述だけで、あれ? 歴史上最強の批評家じゃない? となる。ちなみにWikiには、「ジッド、ワイルド、クローデル、チェスタートンやピランデルロ、ウナムーノなどの外国の小説や哲学を翻訳紹介し、無名だったカフカプルーストジョイスムージルをいち早く評価した功績は大きい」とある。同時代でカフカプルーストジョイスムージルブロッホ、ヴァルザーすべてを評価した批評家なんてほかに存在するのか? マジですごくない?
 また、『合一』については、「当初の意図と実際に書かれた作品とのこの食い違いほど、不可解なものは他にあるまい。この食い違いがいかに大きいかは、短い物語を一本手早く書き上げるつもりでいたのに、短編二本に結局二年半、それもほとんど昼夜ぶっ通しでかかずらったことからも知れる。この短編のせいで、あやうく神経をやられるところだった。所詮ほとんど儲けにならない仕事にあそこまで精力を傾注するのは、偏執狂と紙一重だからだ。[…]要するに、これは一個人の愚行、そうでないとすれば、個人にとって重要かどうかを超えた重みのあるエピソードである」とふりかえっており、この二作を読み返すときは、「たくさん読もうとしても辛抱が続かない。そこで、いつも一頁か二頁、選んで読むことにしている」とのことで、作家本人ですらこれなのかよと笑った。
 精神分析フロイト)については、「得体の知れぬ脅威であると同時に興味をそそる手強き隣人」と評価していたらしい。
 それから、いつ読んでも興奮する、ムージルカフカが歴史の中で交差する一瞬。ムージルが雑誌『新展望』の編集部の一員となったあとのエピソード。

フィッシャーの指図でムージルが口説いた若手作家の一人に、プラハ出身の前途多望な新人がいた。小品をいくつか発表したばかりだったが、一読したムージルはこれなら大丈夫だと確信し、いわば白紙委任の形で『新展望』への寄稿を依頼した——ところがフランツ・カフカはこの誘いを受けると、すぐさま自分の才能を疑いはじめた。マックス・ブロート宛ての手紙のなかでカフカ曰く、「きみはムージルにぼくの住所を教えるべきではなかったんだ。あの人は何を望んでいる? あの人が、いやそもそも誰かがぼくに何を望める? 望んだところで、ぼくから何を得られる?」とはいえ、カフカは『変身』の原稿をわたせる状態にあった。しかし、この思い切った企ては、結局失敗に終わった。出版社から圧力を受けたムージルが、不本意ではありますがと作品の大幅な短縮を求めてきたため、カフカは原稿を引っ込めてしまったのである。

  • 2013年11月19日では病院の待合スペースでわけわからんジジイと交流している。こんなこと、すっかり忘れていた!

皮膚科の診療室のまえにあるベンチに腰かけてコートを脱ぎiPodのコードをぐるぐる巻きにして鞄のなかにしまおうとしているととなりに腰かけていた狐のような目をした老人がそれそこに出しとかあかんでといいながらこちらの手にしていた受診なんちゃらみたいなのが記されている紙片を指さしていうので、あ、これですかというと、うん、それそこに出しとかな、そやないとわからんで、といって診察室の扉の横にもうけられた小窓のほうに顎をしゃくってみせるので、いわれたとおりに紙片をそこに提出しておいた。そうしてふたたびベンチに座りなおすと、それ音楽聞くやつか、とこちらのiPodを指さしながらいうので、こりゃまたなんかすごいのひっかけてしまったかもしれんとミュージックじじい(…)のことをなつかしく思い出したりしながらめんどうくさいという気持ちとワクワクする気持ちの双方を秤にかけつつそうですよと応じると、それナンボくらいするんやと続けてたずねてみせる。いやそりゃモノによりますよ。モノったってワシそんなん詳しくないやんか。まあ安いんやったら一万円くらいで買えるんちゃいますかね。それで何曲ついてくんの?や、曲はついてきませんよ。そんじゃいくらくらいすんの?曲がっすか?そう、そのーあるやないか、ダウンロードっちゅうんか?ぼくダウンロードしたことないからよお知らんのすけど一曲100円とかちゃいますの?ダウンロードしたことないって、じぶんそれ……。ぼくはCD買うてそれパソコンにいれてからこっちに移しとるんです。てことは結局CD買わなあかんやないか。そうっすね。ほなら高くつくやないかい(ドヤ顔)!まあまあそうかもしれんすね。あのーほれ寝るまえにな、それ耳につけて布団に横になったら寝つきやすそうやと思うてな、いつもラジオ聞いとるんやけどおもんないやろ?まあぼくもちょいちょい音楽聴きながら寝ることはありますね、たしかにいいもんすわ。そんで結局あれか、それは家電屋いったら買えるんか?そうっすね。一万円くらい?何曲入るかによって値段変わってきますけど安いのやったらそんなもんちゃいます?50曲もあればいいわ。そんならたぶん一万あれば買えますわ、店いって店員さんにきいてみたらいいっすよ。50曲あればワシはいい。てかパソコン持ってはります?いやーパソコン、ワシは持ってへんねんけどやな、と、ここまで話が進んだところで狐目のじいさんがこちらの後方にむけてふたたび顎をしゃくりながら呼んでる呼んでるというのでふりかえってみると、先週も見かけたでっぷりとした看護婦さんが(…)さんですね、こちらでお待ちいただけますかといって診療室とカーテン一枚でへだてられたネクストバッターズサークルにこちらを誘導するので、到着時間が受付時間締め切り20分前とかそこらだったので長い待ち時間になるだろうと見込んでいたのだけれど内化や整形外科ではなしそんなことはないのかといくらか拍子抜けした心地で規定位置につき素振りを開始した。しばらくたって名前を呼ばれたので診察室に入ってみると先週とは別人のそれでいて若い女医さんで、この病院の皮膚科担当はみんな若い女医さんなのかという感じであるのだけれど、とりあえずここ二三日で劇的に回復しつつあること、それでも薬が切れるといまだに症状の出ることを伝え、いまどこか出てるとこはありますかというので、シャツの袖をまくって右肘の外側あたりにぶつぶつ出ているのを見せた。蕁麻疹というやつはたいていのばあい原因がわからない、それだからひとまず薬を飲んで様子を見るしかない、幸い薬はよく効いているようであるし症状も改善されているという話である、ひとまず十日分の薬をひきつづき出しておくので基本は一日二錠、症状がやわらいできたら一日一錠、次いで二日に一錠というふうにだんだんと減らしていくように、薬が切れてまだ治らないようだったらもういちど来院してくださいとのことだったのだけれど、ちょっとびっくりするくらいコッテコテの関西弁を使う女医さんで、吉本新喜劇のヒロイン役とかで出てきそうだと思った。それで診察を終えてベンチに戻ると狐目のじいさんがさっそく若いきれいな先生やったやろとただでさえ細い目をますます細めていって、このときの表情というのがこれぞまさしく好色の権化というほかないくらいすばらしいものだったのでふつうに大笑いしてしまったのだけれど、うん、すげえきれいなひとでした、と応じると、そやろ、ワシの知るかぎりな、一番や、あのー診てくれるひと、先生だけでいうたらな、この病院のなかでいちばんべっぴんや、という。やーでもぼくこないだ来たときは別の先生やったんすけど、そっちのひとも若くてべっぴんさんでしたよ。そうか、そりゃワシ知らんだわ。タイプのちがうひとでしたけどきれいでした。以前はな、不細工なオヤジやったんや、いまこんなべっぴんさんやろ、ええもんやでー、ほんまにええもんやでー! まーたしかにどんだけでも通いたくなりますね。そやろ、ほやけどワシこの先生になってからいっぺんに治ってしもての。ぼくもたぶん今回で終わりっすわ。なんでや?ほとんど治ってしまいましたもん。そんなもんあれーあの、デコぶつけてやな、それでもっかい来たらええんや、あ、でもデコじゃあかんか、内科連れてかれるか、擦り傷、そやし擦り傷こしらえてな、そいでもっかい来たらええんや、ええ、そやろ?そやろちゃいますよ(笑)なにをいうとんすか(笑)なにをいうとるっておめえ(笑)ワシらくらいになってしもたらまあ相手されへんけどやな、(こちらを指さしながら)いくつや、25くらいか、25くらいやろ?えーと今年で28になりましたね。そやろ、25くらいのもんや、そしたらおめえ、ぴったしやないか、(こちらの下半身にむけて顎をしゃくりながら)バリバリやないか、ええ、そやろ、ワシら75とかなってみい、そういうわけにもいかんけどやな、25っていうたらもー、(ふたたび顎をしゃくりながら)バリバリやないか、そやろ?バリバリかどうかはあやしいけどそこそこ元気っすね。そやろ、そやしやな、(顔をややこちらに近づけて内緒話のていで)あんな、痛いっていうといたらわからんのや、とりあえずなんでもええから痛いいうといたらやな、それでええんや、ほやしワシが次いうといたるからやな、兄ちゃんが先生のことべっぴんやいうてたってやな、そうやって伝えとくから、擦り傷だけどっかでこしらえて、それで痛い痛いいうてまた来たらええんや、ええ、そやろ?なにがそやろですの(笑)いやいやワシに任せときゃええねん、ええ思いさせたるから。わっかりました、そんならええ思いさせてください。よっしゃ、任せとき。そんじゃあそろそろお先に失礼します。おう。

  • 14時から授業準備。翌日と翌々日の授業にそなえて必要な資料を印刷し、USBメモリにデータをインポートする。その後、今学期のスケジュールを組み直し、来学期の日語文章選読で使う教科書を淘宝で探す。いろいろヒットするのだが、収録されている文章の一覧や目次などいっさい公開されていない、立ち読みすらできない、だから選びようがない。本を探して購入するのであれば、淘宝ではない別のアプリがそっち方面に特化しているという話を以前聞いたことがあるので、今度学生に相談してみよう。
  • 第五食堂で打包。食後は20分ほど仮眠。首を寝違えているせいで寝返りを打つことができない。
  • シャワーを浴びる。浴びている最中、明日の授業をサボろうと決める。一年生の授業、月曜日にやる気のない1組、その翌日火曜日にやる気のある2組という流れになっているのだが、これは逆にしたほうがいい、やる気のある2組でまず授業をやって感触をたしかめたうえ、微調整(強化)した教案で1組の授業をするという流れのほうがこちらの精神的負担が減少する。そういうわけで明日は仮病でお休みし、2組の授業が先行するかたちにする。サボった分は学期末に補講する。
  • (…)先生から微信が届いている。メッセージはなく、アカウントの現在地を示す「場所」機能のみ。東京となっている。帰国したという報告のつもりかなと思い、ご自宅の住所ですかと返信。そこから軽くやりとりしたのだが、あれ? やっぱりこのひと日本語が母語じゃないのかな? と思う瞬間が何度かあった。メッセージの大半がいかにも教科書めいた短いセンテンスであるほか、「楽しいに教えれば」という誤字、やる気のない新入生に難儀しているというこちらの言葉に対する「そのことは、中国の先生にお任せください」の「お任せください」という違和感のある表現、そしてきわめつけは(彼が来年3月から赴任することになっている)(…)大学にいつでも遊びにきてくださいという言葉に旅行がてらいつかうかがいますと応じたこちらに対する「ようこそ」という返信。この違和感のある「ようこそ」の使い方、つまり、いまかの地をおとずれた相手に使うのではなく、いつかそこに行きますと予定を告げた相手に使うその用法は、うちの学生たちがたびたび用いる誤用なのだ。これは母語干渉を受けた誤用ではないかとこちらは前々から推測していたのだが(中国語の欢迎にそうした用法があるのではないか?)、それを(…)先生が使うということはやっぱり彼の母語は中国語なのではないか? それはそれとして、学生のやる気あるなし問題については中国人の先生方に任せておけばいいという考え方には、ちょっと気持ちが楽になるところがあった。もうちょっと無責任でいいというか、ビジネスとして割り切ったほうがいいのかもしれない。まあ、そういう割り切りが苦手で、(…)でも(…)でもこうして一部の同僚ないしは学生らのプライベートにまで深く関与する結果になってしまっている、下手くそな「調停者」(『クロノ・クロス』)としてふるまうはめになってしまうのがじぶんという人間の業みたいなものなのだが(そしてそのくせにキャパに限界があり、しばしば暴発する)。
  • 「実弾(仮)」。昨日に引き続き、加筆すべき情報を整理する。目処のたったところで、いよいよ第五稿。年内いっぱいは休むかもしれないと以前書いたばかりだが、結局はやくも着手してしまう。とりあえずシーン1を加筆修正。漢字のひらきの統一もふくめて、第五稿ですべて終わらせるつもりで、慎重に、丁寧に、細部にまで気を配りながら進める。0時に中断。すごくいい小説かもしれないというよろこばしい手応え。
  • 作業中、22時ごろだったと思うが、(…)さんから微信。グラウンドの写真。「一人でいる時、生きている感じます」というメッセージ付き。しかしそのメッセージを、今じぶんがいる場所のわかる写真付きで送ってよこすということは、結局のところSOSのサインなのではないか? わからない。ちょうど筆がのっていたタイミングであったこともあり、めんどくさいなァと内心思いつつも、ひとりでだいじょうぶか、門限まで付き合おうかというと、だいじょうぶという返事。そのだいじょうぶをあえて真に受ける。
  • ベッドに移動後、Bliss and Other Stories(Katherine Mansfield)の続き。“The Little Governess”を読み終える。異国で親切に接してくれた老人がとんでもないスケベ野郎だったという話。James JoyceのDublinersに収録されている、あれはなんという作品だったろうか? と思っていまググってみたところ、“An Encounter”であることが判明したが、一読してすぐにその“An Encounter”のことを思い出したのだが、あれに出てくる変態のおっさんはしかし“The Little Governess”のジジイとはちがって、最初からけっこうやばい雰囲気をまとっていた。Flannery O’Connorの“Good Country People”のこともやはり想起した。素朴な田舎の聖書売りが豹変する瞬間と、“The Little Governess”のジジイが性欲をむきだしにする瞬間を重ねたのだ。「豹変」というか、イメージの撤回ないしは上書きというか、先入観や第一印象の破れる瞬間というか、そういうのはやっぱりどうもじぶんの琴線に触れるっぽい。そうしたもののもっともグロテスクでもっともラディカルな達成がカフカの「判決」だと思うのだが。