20231120

 心理療法の文化にとっての危険性とは、人間が根底的にもつ他者依存性を徹底的に認識として対象化し、人間にとって先験的構造としてあるはずの他者を相対化・認識化してしまうことである。それは一方ではリスク社会にとって最も適合的な科学的自己認識であるが、フロイトも述べるように、それは高度な現実認識や教養を必要としインテリにしか困難である。これに対し、宗教としてのニューエイジは、心理療法がもつ先験的なものとして保障されている他者関係性に対する最大の破壊力から文化・社会・人間を防衛し、自己の無意識という最後の他者性の砦から、他者性を宗教的に構成する。ここで心理療法にとってこのような文化破壊が可能なのは、心理療法が人工的にセラピストとの人工空間の中で実験的依存関係を構成し他者依存性を文化や社会と切断した場で構成しうるためであり、宗教はこの人工的な幻想操作力のみを科学的認識と切断して宗教として利用し、他者性を構成するのである。
樫村愛子『「心理学化する社会」の臨床社会学』より「グローバリゼーションとニューエイジ」 p.306-307)


  • 8時40分に起床。昨日に引き続き首が動かない。寝返りを打てないせいでか、起き抜けの体もあちこち痛い。一年生1班のグループチャットに休講の通知を送る。頭痛という体裁。グループチャット上での返信とは別に、(…)くん、(…)くん、(…)さんから個別にお大事にのメッセージが届く。(…)くんも(…)くんもこのクラスの男子学生のなかではめずらしくやる気のある子。
  • しばらく寝床にとどまる。活動開始後は洗濯したりきのうづけの記事の続きを書いたりして過ごす。11時になったところで朝昼兼用のメシを打包。食後に記事を投稿し、一年前と十年前の記事を読み返す。以下、2022年11月20日づけの記事より。(…)市および(…)のコロナ対策が連日アップデートされている。

 10時半ごろにスマホの震動で目が覚める。健康コードとitinerary codeのスクショを投稿して二度寝する。30分ほど経ったところで(…)から着信。睡眠を邪魔して申し訳ないと前置きがあったので、あ、おれがいつもこの時間まで寝ていることはバレているのね、とちょっと恥ずかしく思った。今日からさらにコロナ対策が厳重になる、具体的にいえば今日の午後4時以降はたとえ教師であってもemergency以外はキャンパスの外に出ることはできなくなる、supermarketで買い物をするつもりであればそれまでにすませておくようにとのこと。了解。あらためてグループチャットを確認すると、同様の通知が投稿されている。ひとまず今日の16時から23日の16時まで続く措置らしい。この間、なにかしらの用事があって外から大学内に入る必要がある教職員は、two codeを提示すればいいらしいのだが、ただし出入りは一方通行、いちど中に入ったら23日の16時まで外に出ることはできなくなるとのこと。

  • 以下も2022年11月20日づけの記事より。『ローベルト・ムージル 可能性感覚の軌跡』(オリヴァー・プフォールマン/早坂七緒、高橋 完治、渡辺幸子、満留伸一郎・訳)の一節とそれを受けての感想。

『合一』を再読したときもそうだが、後年ムージルは『熱狂家たち』をあらためて読み返した折り、自分の要求が読者にとって過大なものになりかねないことを、身にしみて感じないわけにはいかなかった。「それから自分はこれを読んでいるうちにくたびれてしまった(案の定、自分ですらそうなのだ!)そこで、自分は何か重大な誤りを犯したのではないか、と思案してみる[…]。戯曲には無駄な部分がなければならない。一息入れる箇所とか、薄っぺらなところとか。そしてその対立物として、問題解明に注意を集中させる箇所が」(H 33/69, T 939)。

 『特性のない男』を書いたあとですら『熱狂家たち』を「わが代表作」(M1/7/37, P 954)と呼んだほど、ムージルがこの戯曲に込めた野心は大きかったわけだが、それだけに不成功と失望は大きな痛手となった。

 『合一』や『熱狂家たち』は小説や戯曲として失敗作だと思う。というか『特性のない男』ですら、『三人の女』の完成度にはいたっていないというのが、こちらの率直な感想だ。ムージルは『熱狂家たち』の誤りについて、「戯曲には無駄な部分がなければならない。一息入れる箇所とか、薄っぺらなところとか。そしてその対立物として、問題解明に注意を集中させる箇所が」と反省しているが、これも間違っている。ムージルの誤りは、戯曲および舞台というフォーマットとともに考えることがなかった点に尽きる。ムージルはただ言葉で考えたものを、戯曲および舞台というフォーマットに無理やり落とし込んだにすぎない(であるからそこにはバグとしての文字化けが生じる)。フォーマットの条件(束縛)とともに、そこに内在するかたちでみずからの思考を練り上げようとしなかった、だから『熱狂家たち』はアフォリズム集としては優れているが、戯曲としては完全に失敗してしまった。もちろん、フォーマットをあえて無視するという批評性(グリーンバーグのいうメディウム・スペシフィックに対するような)がそこにはあると擁護することもできなくはないのかもしれないが。

  • またこの日は、ブログを七年ぶりだったか八年ぶりだったかに一般公開しようと考えた日らしかった。そうか、もうぼちぼち丸一年になるのか。

 あと、最近ちょくちょく考えていたことであるのだが、2023年の年明けと同時に、またブログを一般公開しようと思う。といっても、このブログをそのまま公開してしまえば、それこそ一発で御陀仏になってしまいかねないので、このブログは限定公開のまま継続しつつ、あたらしいブログをひとつ用意して、そちらに(…)くんがやっているように、検閲をほどこした版の記事を投稿するかたちにすると思う。なぜそうしようと思ったかというと、ひとつは文に対して緊張感を持つため。むかしはしょっちゅうブログを引っ越したり、そしてそのたびに文体を変更したりしてきたわけだが、いまはそういう文の実験もほとんどここではやらなくなってしまった(箇条書き風にしたり(…)弁で文章を書いたりもいちおうしたわけだが)。もうちょっとブログを、「きのう生まれたわけじゃない」がそうだったように、文の実験場として再起動させたい。
 ふたつめは、これもひとつめとある意味重複したアレかもしれないが、読み手が身内のみであるという意識に甘えてしまっている、というかその甘えは甘えでそれ特有のテクスチャを文にもたらしてくれるのでそれ自体は別に悪いことではないのだが、ただそのテクスチャに飽きてきた、だから変化のきっかけとして不特定の第三者の視線を取り入れる必要があると思った。たとえばいま、このブログの読み手がみな顔見知りであり、長年の読者であり、しかるがゆえに本来であれば断るべきところを断らない乱暴な書きっぷりをしたり、こんなこといちいち説明することもないだろうというわけで考えを言葉に起こさず行間に押し流してしまったりすることも多いのだが(それが「甘え」だ)、そのせいなのかなんなのか、いつのまにか「物書き病」が癒えてしまった、あたまのなかで文章が自動生成することがなくなってしまった、目にしたものすべてが「文」のかたちをとってあたまのなかでテロップのように生成される、あの働きがずいぶん弱くなってしまっていることに気づいた。気づいた当初はそれはそれでなにかしらの良い変化かもしれないと思っていたわけだが(文との関係にある種の弛緩をもたらしてくれるのでは?)、やっぱり緊張感がある程度ないとダメだなと最近はまた思うようになったし、あと、さっき「こんなこといちいち説明することもないだろうというわけで考えを言葉に起こさず行間に押し流してしまったりすることも多い」と書いたが、これのせいでじぶんでじぶんの考えを忘れることも多くなってしまったという事情もある。つまり、重複をおそれず、同じようなことを何度も何度もくりかえし書きつける、そうした日々の営みによって思考が血肉化していたかつてとくらべると、現在はやっぱりどこかちょっとほうけているんではないかという気がするのだ。だから、ま、2023年からという区切りには別に深い意味はないのだが、そのころにはちょうど期末試験シーズンでこちらも時間的にゆとりができているだろうし、ひさしぶりに一般公開するということで生じるだろうさまざまな葛藤のせいで日記に時間がかかるようになっても対応できるなというアレがあるのでそうすることにした。で、冬休みを通してあたらしいスタイルにも慣れれば、新学期がはじまってバタバタしはじめても問題ないだろうという目論見。
 あと、みっつめの理由として大々的にあげるほどではないかもしれないが、しかしやっぱりずっとひっかかっていたのが、(…)さんと以前お会いしたとき(あれはもう何年前になるのだ?)、いつかまたブログが一般公開されるのを希望していると言われたことで、理由はたずねなかったのだがその言葉があたまの片隅にあるにはあった。さらにいえばその翌日だったか、(…)くんと(…)くんといっしょにメシを食った夜、ふたりからもまた公開すればいいじゃないですかと後押しされたことがあり、ま、いつかはたぶんそうすることになるかもしれないなと思ったわけだが、そのいつかはいましかないんではないか? と今日思ったのだ。とりあえずブログタイトルを考えておかないと。「続・きのう生まれたわけじゃない」とかダサいよな。でも「きのう生まれたわけじゃない」をかつて読んでくれていたひとにやっぱりリーチさせるべきだと思うし、そういうタイプのタイトルにすべきなのかもしれない。

  • 実際一年近くやってみて、ここに書きつけられている目的意識みたいなものの通りに事が運んでいるのかといえば全然そうではなく、「文の実験場」にもなっていないし「甘え」もとれていない。でも、まあ、そういう意識的な働きかけなしに結果的におのずと生じるゆるやかな変化みたいなものは、この一年のあいだにもおそらくあっただろうしこれからもきっと生じていくものだと思うので、しばらくこのまま続ける。なんかまずいなと思ったらすぐにまた閉じるつもりでいるが。
  • 「実弾(仮)」第五稿。阳台にて14時から16時までカタカタする。
  • 国際交流処へ。事務室の入り口で(…)と遭遇。約束通り健康診断の結果を手渡す。領収書もろもろは来年までいちおう保存しておいてほしいという。今回の再検査代は自腹だったわけだが、来年の健康診断でもおなじように肺に異常アリとなって要再検査になるかもしれない、そのときに去年も同様の診断結果だったと言うことができるようにみたいな話だったと思う。仮に再検査になっても次回は大学が費用を負担するかもしれないみたいな話もあったが、このあたりあまりよく聞きとれなかった。
  • 金曜日のボランティア(という名の強制労働)についてたずねる。朝ここに来ればいいのかというと、別の一室だという。ついでだから案内するというので、並んで歩く。6階の部屋。扉は鍵がかかっていたが、たぶんかなりデカい会議室だと思う。デカめのイベントがあるときに利用する部屋とのこと。dutyであるならちゃんと参加するよ、心配しないでというと、そう、volunteerということになっているけど実際はdutyだ、わたしたちにとっても同じだと笑っていう。それじゃあまた金曜日と別れてひとりエレベーターに乗りこむ。やっとれるか。金曜日はぎっくり腰ということでサボろうと決める。なにが好きで朝から晩まで水質検査だの野鳥保護だのいうプロジェクトに外国人だからという理由でかかわらなければならないのだ。おれは! もう! 限界なんだ!
  • 限界といいながらもしかし、運動会+今日のサボりをふくめると六連休を終えたばかりだったりする。いや、そういう問題じゃない。とにかく限界だ。やる気のない一年生1班にあたまを悩ませて心労、放っておくと死ぬかもしれない(…)さんの相手を頻繁にして心労(逆転位)、そういうもろもろがただでさえクソ面倒で厄介な授業準備に重なって忙しい。いや、そうじゃない、これも不正確だ。忙しいのが問題ではない。小説を読み書きするための時間がろくにとれないのが問題なのだ。(…)時代もたびたびキャパオーバーで暴発暴走することがあったが、あれだって連勤がどうとか死ぬほど厄介な同僚らのケアがどうとかそういう問題ではなく、そうした事情のせいで読み書きのための時間が全然とれない、それに耐えられなくなってある日とつぜん全部うっちゃってしまいたくなるのだ。イベントが発生するとそのイベントを記述するための日記が長くなってそれでまた読み書きの時間が失われる。箇条書きスタイルに数年ぶりにもどしたのもそのほうが記述が節約できるからというあたまだったはずなのに、ここ最近は主に(…)さん関連のイベントがたてつづけに発生して気づけば結局10000字とか書いてしまう。ボランティア? 一日中ほかの外国人教師に囲まれながら? 英語漬けで? やっとれるか! ストレス半端ないし日記もクソ長くなるやろが! そんなもん参加したら翌日土曜日もまるっと日記に奪われるやんけ! やめだ、やめだ! おれをだれやと思うとんねん! 高校の修学旅行すらサボった男やぞ! lakeでbird watching? beach parkでcleaning? そんでもって食事の席でecologyがうんぬんnatureがうんぬんfutureがうんぬん議論するって? アホか! おれは学生服の代わりに寅一の作業ズボンで高校に通っとったようなどん底のカッペや! どのツラさげて教師ぶんねん! やっとれるかクソッタレ! ぎっくり腰だ、ぎっくり腰だ! 木曜日の夜、ぎっくり腰になったというていで(…)に連絡する! そして金曜日は念のために一歩も外出せず過ごす! ほぼ寝たきりだったという嘘のアリバイを一生懸命作ってやる! おれはいまこのひととき傍若無人だった過去のおれを召喚して憑依合体する!
  • 第五食堂の近くにあるパン屋で夜食と朝食の菓子パンを買う。寮にもどる途中、四年生の(…)くんとばったり遭遇。院試まで残り一ヶ月。進捗具合をたずねると、合格する自信はないという返事。先月が志望校を決める締め切り日だったらしい。(…)くんの希望は(…)。本人も言っていたが、正直かなり厳しいと思う。そもそも四級試験に不合格というレベルなのだ。しかし本人に不安はないという。落ちたら就職すればいいという楽観的なあたまでいるらしい。就職するのであればできれば翻訳関係がいいというので、それだったらこんな田舎は出て都市部にいったほうがいいなと受ける。もし翻訳関係の仕事につくことができたら、仕事をしながら勉強して院試に再挑戦するのもいいかもしれないと、一年前の(…)くんみたいなことをいう。(…)くんの口語レベルはさほど高くない。しかしこちらの言葉はすべて聞き取れている。以前はそんなことなかったのだが、今日はやたらと「でもさ、でもさ」と口にした。アニメの影響? あるいはドラマ?
  • 20分ほど立ち話しただろうか。そのまま寮にもどってもじきに夕飯の時間になるだけなので、まだちょっとはやかったが第五食堂にむかうことにする。今日は授業だったのかというので、授業だったが偏頭痛でお休みしたと堂々たる嘘で応じる。ストレスかもしれないねと適当な言葉を続けると、先生は(…)でひとりきりだからと同情したようすでいうので、ほんまそやで! このクソデカい土地に日本人ワシひとりやで! と思ったが、仮にほかに日本人がいたところで積極的に友誼を結ぶかといえばきっとそんなことは全然ないだろうし、むしろひとりきりのこの環境が気に入っている。
  • (…)くんは第五食堂の一階で食うという。辛い店? とたずねると、全然辛くはない、でも二時間後に腹が減るほど量が少ないというので、じゃあぼくはいつもの店にいくよといって別れる。で、二階で打包。帰宅して食し、その後30分ほど寝る。
  • 夜はふたたび「実弾(仮)」第五稿執筆。20時15分から22時半まで慎重に細部をつめていく。シーン2終わる。そのままシーン3の途中まで進める。
  • 首の寝違え、どうも椅子での作業に由来するやつっぽい。執筆中、首から肩にかけてのあたりがじんじん熱をおびていくのがわかった。

いざその手の購入を検討しはじめると、ひたすらそのことばかり考えてしまい、ああでもないこうでもないと、候補をとっかえひっかえして、実に馬鹿馬鹿しく無駄な時間を費消してしまう。そういう検討の時間が楽しいとはもはや思わない。端的に無駄である。だから決断時は、ああ、もうこれで迷わなくて済むという安堵の思いしかない。