20231203

"Does everybody have to die?" asked Kezia.
"Everybody!"
"Me?" Kezia sounded fearfully incredulous.
"Some day, my darling."
"But, grandma." Kezia waved her left leg and waggled the toes. They felt sandy. "What if I just won't?"
The old woman sighed again and drew a long thread from the ball.
"We're not asked, Kezia," she said sadly. "It happens to all of us sooner or later."
Kezia lay still thinking this over. She didn't want to die. It meant she would have to leave here, leave everywhere, for ever, leave–leave her grandma. She rolled over quickly.
"Grandma," she said in a startled voice.
"What, my pet!"
"You're not to die." Kezia was very decided.
"Ah, Kezia"–her grandma looked up and smiled and shook her head–"don't let's talk about it."
"But you're not to. You couldn't leave me. You couldn't not be there." This was awful. "Promise me you won't ever do it, grandma," pleaded Kezia.
The old woman went on knitting.
"Promise me! Say never!"
But still her grandma was silent.
Kezia rolled off her bed; she couldn't bear it any longer, and lightly she leapt on to her grandma's knees, clasped her hand round the old woman's throat and began kissing her, under the chin, behind the ear, and blowing down her neck.
"Say never . . . say never . . . say never–" She gasped between the kisses. And then she began, very softly and lightly, to tickle her grandma. 
"Kezia!" The old woman dropped her knitting. She swung back in the rocker. She began to tickle Kezia. "Say never, say never, say never," gurgled Kezia, while they lay there laughing in each other's arms. "Come, that's enough, my squirrel! That's enough, my wild pony!" said old Mrs. Fairfield, setting her cap straight. "Pick up my knitting."
Both of them had forgotten what the "never" was about.
(Katherine Mansfield, At the Bay)

 この描写も完璧。本当にすごい。こんなにも子どもをうまく描くことのできる作家は世界中見渡してもなかなかいない。


  • 10時半起床。朝昼兼用で第五食堂。マスク姿がちらほら。こちらもぼちぼち人混みには気をつけたほうがいいかもしれない。帰国のタイミングでコロナだのインフルエンザだのになる展開だけは避けたい。空気が乾燥しているので痰がからむ。
  • 帰宅して食す。洗濯物を干しているあいだにふとHASAMI groupの“病気が治ったら”のメロディがあたまをよぎったので鼻歌をうたう。
  • 12時半前から15時半まで「実弾(仮)」第五稿執筆。シーン8、無事かたづく。シーン9の序盤も手直し。「ビーチ」のモデルは当然(…)であるのだが、四階建て計21室規模のラブホがはたして(…)をモデルにした田舎に存在するだろうかと気になったので、「(…)+ラブホ」でググって出てきた複数のホテルの部屋数をチェックしてみたところ、やはり10室前後のものが目立ったが、なかには30室以上のホテルもあるにはあったので、じゃあ問題ないかなと判断した。
  • 執筆中、三年生の(…)さんから自分で作ったという料理の写真が届く。故郷の母親が年糕を送ってくれたので、それを使ってこしらえたのだという。「午後に料理を作って送りますが、よろしいでしょうか」とあったので、今日は二年生との先約があるからと断ったところ、自炊するチャンスは週末しかないのに的な、言語の壁があるのでニュアンスはつかみにくいのだが、しかしおそらくはややうらみがましいものだろうと思われる返信が届いた。(…)さん、こちらが彼女以外の学生と約束があるという話になると、ほとんど毎回、何年生ですか? 女の子ですか? と追求してくるし、こちらがプライベートにかかわる話をすると、その話はわたし以外の学生も知っていますか? と確認してくる。そこにちょっとあやういものを感じないでもない。
  • きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、一年前と十年前の記事を読み返す。以下は2022年12月3日づけの記事より。

(…)『彼岸過迄』(夏目漱石)の続き。序文ともいうべき「彼岸過迄に就て」のなかで、

彼岸過迄」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は空しい標題(みだし)である。かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持していた。が、ついそれを試みる機会もなくて今日(こんにち)まで過ぎたのであるから、もし自分の手際が許すならばこの「彼岸過迄」をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている。けれども小説は建築家の図面と違って、いくら下手でも活動と発展を含まない訳に行かないので、たとい自分が作るとは云いながら、自分の計画通りに進行しかねる場合がよく起って来るのは、普通の実世間において吾々の企てが意外の障害を受けて予期のごとくに纏まらないのと一般である。したがってこれはずっと書進んで見ないとちょっと分らない全く未来に属する問題かも知れない。けれどもよし旨く行かなくっても、離れるともつくとも片のつかない短篇が続くだけの事だろうとは予想できる。自分はそれでも差支えなかろうと思っている。

と書いていて、実際そんなふうにある意味いきあたりばったりというか、本当にただただ短編単位のエピソードが無理やり長編の体裁で並んでいるようにみえるだけのだらしない構成になっている。特に、松本が雨の降る日には客人の面会を断る理由が語られる「雨の降る日」というブロックなど、それまで語り手が付き添っていた敬太郎から完全に分離して松本一家のエピソードが長々と語られており(しかしこのエピソードは読むのがけっこうつらかった、小さな子どもや犬猫が死ぬ話はきつい)、本当にとってつけた感がある。このだらしなさ、このとってつけた感、たがの外れたこの感じをより極端な方向におしすすめていけば、ブロックごとにほとんど完全に独立しているとしか思えない非必然的なエピソードの連鎖からなるカフカの『アメリカ』になるのだろうし、そうした解体をよりミクロな次元にまでおしすすめていけば、一時期の磯﨑憲一郎にもなるはず。
「雨の降る日」では幼子の宵子——という名前には『虞美人草』の小夜子を想起してしまう——が突然死して荼毘に付されるまでの経緯が語られるのだが、出来事の悲惨さの割に、現代の基準から見ると身内の口から漏れる悲嘆の調子がずいぶん軽い。特に、親族の男たちである田口や須永の反応は、これが現代の小説であればまずまちがいなく書き込み不足というそしりを受けるだろうと思われるくらい薄く、ほとんど冷淡ですらある。いまよりもずっと子沢山だった時代の反応だよな、幼子の死亡率がずっと高かった時代の受け止め方だよなと思いながら読んでいると、最後は以下のようになっていた。

 車に乗るとき千代子は杉の箱に入れた白い壺を抱いてそれを膝の上に載せた。車が馳け出すと冷たい風が膝掛と杉箱の間から吹き込んだ。高い欅が白茶けた幹を路の左右に並べて、彼らを送り迎えるごとくに細い枝を揺り動かした。その細い枝が遥か頭の上で交叉するほど繁(しげ)く両側から出ているのに、自分の通る所は存外明るいのを奇妙に思って、千代子は折々頭を上げては、遠い空を眺めた。宅(うち)へ着いて遺骨を仏壇の前に置いた時、すぐ寄って来た小供が、葢を開けて見せてくれというのを彼女は断然拒絶した。
 やがて家内中同じ室(へや)で昼飯の膳に向った。「こうして見ると、まだ子供がたくさんいるようだが、これで一人もう欠けたんだね」と須永が云い出した。
「生きてる内はそれほどにも思わないが、逝(ゆ)かれて見ると一番惜しいようだね。ここにいる連中のうちで誰か代りになればいいと思うくらいだ」と松本が云った。
「非道いわね」と重子が咲子に耳語(ささや)いた。
「叔母さんまた奮発して、宵子さんと瓜二つのような子を拵えてちょうだい。可愛がって上げるから」
「宵子と同じ子じゃいけないでしょう、宵子でなくっちゃ。御茶碗や帽子と違って代りができたって、亡くしたのを忘れる訳にゃ行かないんだから」
「己(おれ)は雨の降る日に紹介状を持って会いに来る男が厭になった」

「ここにいる連中のうちで誰か代りになればいいと思うくらいだ」というセリフもたいがいすさまじいが、やはりそのあとの「叔母さんまた奮発して、宵子さんと瓜二つのような子を拵えてちょうだい。可愛がって上げるから」という千代子の言葉とそれに対する「宵子と同じ子じゃいけないでしょう、宵子でなくっちゃ。御茶碗や帽子と違って代りができたって、亡くしたのを忘れる訳にゃ行かないんだから」という叔母の返答がすごい。こうした考え方や感じ方がなにも不自然ではなく、倫理的・道徳的に鑑みてもごくごく自然で常識的であった時代がかつてあった——というかそういう時代のほうが、「かけがえのなさ」が当然の前提とされている現代よりもはるかに長いのだ。
 こうした考え方にこちらがはじめて触れたのは(…)時代の同僚である(…)さんの言葉だった。子どもと妻のどちらかしか助けることができないのだとすればどちらを助けるかという話になったとき、(…)さんは子どもだと即座に答えた。嫁も同じこというわと続く彼の言葉に対して、(…)さんはびっくりした様子で、奥さんと答えると思った、だって奥さんがいればまた子どもを作ることができるからといって、そのやりとりを聞いていたこちらは心底びっくりしたのだった、そんな考え方があるのか、と(それは換言すれば、「子どもは宝である」「子どものために親(大人)はすすんで犠牲になるべきである」というのが一種のイデオロギーであるということに気づいた衝撃でもあった)。あるいは、飼い犬をなくした実家のご近所さんらがことごとく、あたらしく飼い出した犬に死んだ犬と同じ名前をつけているのを知ったとき(犬種が同じ場合もままある)。どちらも「かけがえのなさ」の重々しさとは無縁、とまではいえないのかもしれないが、少なくともそれがイデオロギーでしかないかもしれないという可能性を突きつけるエピソードだ。そこを足場にしてうまく考えを進めることができれば、あるいは死を乗り越えることができるかもしれないというポジティヴな勇気を与えてくれるという意味で、こちらはこれらのエピソードを驚きのみならず一種の爽快さとともに受け止めた。だから、『S』は、この二つのエピソードを要となるかたちで採用した。実存の特異性と代替可能性を組み合わせるという試みは、一歩間違えればファシズム的なものに足を踏み外す可能性があるので、なかなか厳しい道のりとなるわけだが。

  • 以下は2013年12月3日づけの記事より。

起き抜けのストレッチをしながら、プルーストの小説における頻出度のもっとも高い名詞と動詞と形容詞をピックアップしてそれらを組み合わせて構築した簡単な一文を『失われた時を求めて』の基軸であるとの強引な仮定を推進力として作品を読み解いていくという批評を考えたが、だれがそんな面倒くさいことをしてたまるか。

英語での会話がどうしておもしろいのかと考えてみるに、英語で物を考えるじぶんが日本語で物を考えるじぶんよりもずっと馬鹿だからなんじゃないかと思った。だから退屈な話題、紋切り型の言説の交換される最中にあっても、ある程度は楽しむことができる。少なくとも日本語で言葉を交わしているときよりはげんなりしたりうんざりしたりイライラしたりせずにすむところがある。というかアレか、それは単純に英語をあやつるじぶんの焦点が話題ではなくてむしろあるひとつのお題のもとで営まれる瞬間英作文にあるからにすぎないのか。うんざりするようなクリシェの交換から離れてひとり英作文のパズルに耽ることができるからにすぎないのか。となれば英語が上達すればするほど英語での会話もまた日本語でのそれのようにうんざりげんなりイライラするようになってしまうのか。すると語学が上達するのも考えものだということになる。明晰さの此岸に逃げ場はない。まずしさと曖昧さの彼岸だけがユートピアになりうるのかもしれない。痴呆の楽園、認知症の天国、機能不全の桃源郷

  • ふたつ目の引用の「だから退屈な話題、紋切り型の言説の交換される最中にあっても、ある程度は楽しむことができる。少なくとも日本語で言葉を交わしているときよりはげんなりしたりうんざりしたりイライラしたりせずにすむところがある」というくだりを読んで、あ、この当時のじぶんはまだ「普通の会話を愛している」(cero)というあたまになっていないんだなと思った。文学とか哲学とか芸術とかそういうものをはなれた話題であったとしても、それはそれでこちらのこころがまえひとつでものすごくおもしろく愛すべきものになる、たとえその相手がどれほど俗っぽいやつであったとしてもその俗っ気がそれはそれでおもしろい——とまでいうとさすがに気どりすぎというか、俗っ気だらけの会話にうんざりすることはいまでもやはりあるだろうが、それでいて同時に、その会話その口ぶりその思考をそれそのものとして味わおうとする態度はたしかにいまあり、そして十年前にはまだなかった。
  • 書見して時間をつぶしたのち、18時半に女子寮前へ。二年生の(…)さん、(…)さん、(…)さんと合流。西門に向けて歩きだす。前日、(…)さんと微信でやりとりしている最中、韓国語の授業の「罰」でたくさんノートを書く必要があるという話が出たので、具体的にどういうことであるのかとあらためてたずねてみたところ、授業に教科書だかノートだかを忘れてしまった罰として、教科書本文をノートに書き写すという課題を与えられたとのことだった。ちなみにくだんの課題(罰)を与えられたのはおよそ10人。クラスの四分の一以上だ。どんだけやる気ないねん。韓国語の先生にも同情する。彼女にとっても授業はなかなか地獄だろう。韓国語の先生はやさしいという話を以前(…)くんから聞いたおぼえがあるのでそういうと、表面上はニコニコしているけれども中身はおそろしいという反応。いや、そりゃ三人がまともに授業受けとらんからやろ。
  • 西門のゲート、こちらはいつも饭卡をかざして通るわけだが、学生らの場合は顔認証でもいけるっぽい。しかしせっかくそんなぎょうぎょうしいゲートを用意しておきながら、通りぬける学生らはだいたいみんな同行している友人らの顔認証に反応してひらいたゲートにそのまま続くというゴリ押しで外に出ていて、われわれももちろんそうするわけだが((…)さんの顔認証でひらいたゲートに残り三人が一気に続く)、こういう感じ、ある意味ではいまの中国を象徴しているよなと思う。ハイテクノロジーがあらゆる場面に導入されているのだが、その導入すらもが一種形式主义的であるというか、導入することが(これも一種の面子といえるだろうが)目的となっていて運用の次元ではただただお粗末、みたいな。
  • 目的地は塔斯汀。道中、後ろから「先生!」と声をかけられる。三年生の(…)さん。かたわらには噂の彼氏。なかなかさわやかな男前だったので、おー! きみがうわさのー! と相手が日本語を解さないことなどまったく気にせず、肩をばんばんと叩いてあいさつする。近くにある新疆烤肉の店がおいしいと教えてくれたので、今日はハンバーガーを食べる予定だから今度また食べてみるよと応じる。今日はN1でしたねというので、そうそうと応じると、(…)さんから難しすぎたという連絡が届いたとあった。それでいえば、試験が終わったにもかかわらず、学生からはまだひとりも報告が届いていない。みんなあまり自信がないのかもしれない(二年生の男子ふたりにかんしては問題ないだろうが)。
  • 塔斯汀では月見バーガーみたいなやつとフライドチキンとスプライトのセットをオーダー。しかし少ない。女子らはむしろこちらよりもボリュームの多いセットをオーダーしていたが、食べるのはふつうに遅いしハンバーガーも残したりしていて、こりゃ逆にすべきだったなと思った。学生らがメシを残すたびにこちらはエコフードもったいねえなぁという気持ちで食べたくなるのだが、相手の食い物だの飲み物だのに口をつけることに対する抵抗は日本人よりも中国人のほうがおおきそうに感じられる場面にこれまで何度か遭遇したことがあるし、相手が若い女子であるのに対してこちらはもう言い訳無用のおっさんであるしで、残すんだったらちょうだいとはなかなか言えない。そういうのって気持ち悪いと思うんだろうかと気になって、以前学生にたずねてみたこともあるのだが、相手が仲良しであれば別に残り物をあげることに抵抗はないという話だったように思う。
  • 店内での会話はやや中国語寄り。授業外での交流あるあるだ。はじめのうちはみんながんばって日本語を使うのだが、こちらの存在に慣れてくるにつれて次第に中国語の割合が増していくという現象。(…)さんのスマホの背景はテイラー・スウィフトだった。ちょっと意外。アニソン以外まったく聞かないのかと思っていた。(…)さんは歌がかなり上手だと思う。鼻歌をちょっと耳にするだけで、あ、この子はちょっとものがちがうな、とわかる。その(…)さんと(…)さんはともに(…)市の出身。ふたりが方言で会話すると、(…)さんは全然わからない。杭州の方言もやっぱり普通话と全然違うの? とたずねると、じぶんは杭州の方言を話すことができないという返事。杭州で過ごすようになったのは高校生のころからで、それまでは河南省で生活していた、だから彼女の方言は河南省のものらしい。
  • 店を出る。となりはローソン。夜食のおにぎりをふたつ買う。歩くのもおぼつかない女の子が商品の牛乳を手にとって遊んでいる。かわいいねと学生らと言いあっていると、ママらしい人物が、あなたたちが話しているのは日本語? 韓国語? と話しかけてくる。日本語だ、わたしたちは日本語専攻の学生だ、このひとは外教だ、と(…)さんが応じる。娘はまだ二歳になったばかり。店内には日本の商品もたくさんある。『鬼滅の刃』の炭治郎がパッケージに印刷されているガムだかチョコだかがひとつだけ売れ残っているのを見た学生たちが、炭治郎は人気がないといって笑う。(…)さんは伊之助が好きらしい。
  • 近所でスクラッチの宝くじを売っているのを見つける。かまえた店舗とは別にその入り口に屋台のようなものが出ている。一枚20元。もちろんやる。結果、20元当たる。再ベットだ! 外国語でワイワイやっているうちに、地元のヤンキーみたいな男の子たちや暇そうなおっちゃんたちもわらわらと集まってくる。再ベットの結果は0元。ヤンキーもおっちゃんも笑う。
  • そのまま散歩する流れになる。后街のほうに歩き出してほどなく、やはり逆方向に行こうと学生らが言い出す。学生三人は自習をサボっている。后街の周辺をぶらぶらしていると、自習終わりの学生らと遭遇する可能性がある、それでそちら方面にむかうのは避けた模様。
  • (…)に入る。コインロッカーにリュックサックをあずけて、飲み物とお菓子の商品棚を延々とながめる。日本の商品も多い。花茶や茶葉のコーナーをのぞくと、ぼちぼち高級品もある。冬休みの手土産はここで買ってもいいかもしれない。先生のお母さんにはこれがいいですよと学生らが茶葉の一種をこちらに示す。パッケージには女性のイラストが描かれています。なんとなくそうなのかなと思っていたとおり、生理痛によく効きますという話が続く。むかし付き合っていた彼女が生理痛のかなりひどい子で大変そうだったというと、三人ともおなじだと言う。中国の男は生理に対する理解が全然ないって以前先輩が怒っていたなというと、女同士でもそういうことはあると(…)さんがいう。生理痛がひどいので授業を休みたいと事務室に申し出たところ、ダメだと拒否されたと続けるので、そういう話は日本でもちょくちょく耳にすると応じる。
  • その(…)さんが、じぶんの両親と先生は年齢が差不多だという。そんなことないでしょと確認してみたところ、ご両親のほうがこちらよりも七つ年上であることが判明。しかし若い彼女らにとってはそんなものは誤差にすぎないらしい。わたしの両親が先生みたいに「開放的」だったらよかったのにと(…)さんがいう。
  • お菓子のコーナーで、(…)さんと(…)さんのふたりが辛く味付けした豚のひづめを買う。(…)さんはMeltykissを買う。こちらもなにか買おうかなと思っていると、(…)さんと(…)さんのふたりが笑いながらレジのほうを指差し、先生これを買えばどうですかという。見ると、コンドームが置いてある。そういう冗談を言うタイプだとは思っていなかった。きみたちがこういうものの存在を知ったのっていつなの? 中学生? 高校生? とたずねると、中学生という返事。
  • レジが閉まる。スマホで時刻をたしかめると21時半前だ。本来であれば会計もすでに不可とのことだったが(レジが閉まる前に店員が声をかけてくれるみたいなアレはいっさいない)、特別に学生三人の分だけレジを通してくれる。学生らの買ったものをすべてあずかってこちらのリュックサックにぶちこむ。店内入り口近くのロビーでは店の従業員全員があつまって列をなしている。終礼らしい。はずかしいはずかしいと学生たちがそろって口にしながら小走りで出入り口にむかう。われわれが店を出た直後、正面入り口が施錠される。もうすこし長く店にとどまっていたら、店内に閉じ込められて一晩過ごすことになったと三人がぎゃーぎゃー叫ぶ。そうなったらそうなったで、ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』みたいでちょっとおもしろい。
  • 北門を経由して寮にもどる。道中、(…)さんと(…)さんのふたりはずっとにやにやしながら話している。あのふたりはいつもエロい話ばかりしていますと(…)さんがいうと、そうですと(…)さんは否定しない。(…)さんはいまエロ・グロについて話していたという。先日インターネットで偶然グロいイラスト作品を目にしたのだという。(…)さんは百合とBLがとにかく大好き。(…)さんみたいにいちばんおとなしくみえる子がいちばんエロいことばかり考えているんだよというと、中国でもおなじような言い回しがありますと三人がいう。(…)さんと(…)さんの興奮した会話に(…)さんがなにを話しているのだと割り込もうとしたところ、小孩子不要听! と(…)さんに一蹴されていたのはちょっとおもしろかった。
  • こちらの寮の前で別れる。帰宅。スマホをみると、(…)さんからケーキがほしいですかという微信が届いている。午前中に彼女からの食事の誘いは一度断った。にもかかわらず、塔斯汀でメシを食っている最中にも彼女からいまどこにいますかという微信が届き、二年生といっしょに食事をしている最中だよと応じた。それに続く三回目のコンタクトで、いやいやさすがにちょっとしつこすぎるだろと思ったが、まあ二年生らに対する嫉妬もあるのかもしれないなと鷹揚に受けることにする。いまから先生の寮までいきますというので、帰宅したばかりであるがまた下におりる。
  • ほどなくして(…)さんがやってくる。切り分けたケーキを紙皿にのせたまま歩いてくるので、えー! 裸のままなの! とびっくり。それにくわえて彼女はパジャマだった。いかにもパジャマらしいパジャマにもこもこの上着を一着羽織っているのみ。なんでそんな格好なのとたずねると、お風呂を出たばかりだからという返事。いわれてみれば、髪もまだすこし濡れている。風邪をひくよというと、だいじょうぶですという。中国ではおばちゃん世代のひとたちがパジャマのまま外を出歩いている姿を見ることはよくあるが、若い子がおなじようにふるまうのをみるのはこれがはじめてなのでそう言うと、別にめずらしいことではないという返事。夜に(…)の散歩をするときはいつもパジャマだという。しかし(…)省ではたしかにあまり見かけないかもしれないと続けたのち、もしかしたら失礼ですかというので、別に失礼ではないよ、ただちょっと驚いただけと応じる。(…)さんはその後もじぶんが失礼かもしれないと何度かくりかえし口にした。失礼ではないですか? 失礼だから先生はびっくりしましたか? と追求がしつこいので、パジャマの女の子はかわいいでしょ? だからかわいくてびっくりしただけだよと適当に受ける。納得した模様。その後、予想通りではあるが、今日はどこでなにを何人の女子学生といっしょに食べたのかとことこまかに詰問。
  • 歩きながらケーキを食ったが、これがなかなかうまかった。ルームメイトの誕生日ということでもらったものらしい。しかしダイエット中なので食べたくないという。暗闇の前方に電動自転車が停止している。またがっている後ろ姿に見覚えがある。一年生1班の(…)くんだった。(…)くんこんなもの持っていたのとたずねると、友達のものだという返事。そのまま走り去る。彼は日本人みたいな発音でしたと(…)さんがいうので、うーん、そうでもないんだけどなァと思う。