20231217

 このように「再帰性」は、現代社会を考えていく上でのキーワードであるが、一方、「再帰性」だけで社会を設計し、考えようとすると、困難が生じる。
 なぜなら、人は、生まれたときから再帰的主体なわけではなく(もちろん生物としてのフィードバック回路や学習性をもつ人間の脳の機能などは、生まれたときから備わっているが)、人から教えられなければ歩行も言語も獲得できない。
 また、一定の教育や文化のもとで主体は形成されていくので、「再帰的主体の形成過程」を抜きに、再帰性は成立しない。
 が、ここが困難な点であるが、再帰性を評価する議論や論理は、人間が再帰性をもつこと、すなわち人間が合理性や論理性、高度な知的レベルをもつことを前提に形成されており、再帰性を形成する過程を、それらの議論内部では語れない。
 人が再帰的人間になるには、そのように育てられる過程が必要であるが、その過程は再帰的ではない。親は、何が良くて何が危険かを子どもに教えなくてはならない。ここでの親子関係は非対称である。が、再帰性の議論は、極端なことをいえば、こういった非対称な関係を権力的関係として認めないだろう。友達親子以外なくなっていくように。
 また、ギデンズ自身、再帰的主体を支えるものとして、「存在論的安心」という、再帰性と相容れない再帰性の外部にある概念を精神分析理論から導入している(後に詳述)。でありながら、それと再帰性の関係は十分論じることがない。再帰性の議論と精神分析の議論は切断されているのである。
「コミュニケーションの再帰性」を評価し、それによる社会を構想する独社会学者のハバーマスも、コミュニケーションは権力によって動かされたり支えられたりするのではなく、コミュニケーションの内部でコミュニケーションの正当性が承認され、互いの合意が成立すべきであると、コミニケーションにおける再帰性を重要視している。
 が、一方ハバーマスは、こういった行為内部で正当性を承認し合うとするコミュニケーションの根幹に、やはりコミュニケーションの相手への「信頼」という変数を導入せざるをえないとしている。「信頼」は、コミュニケーションの内部で互いに認め合う再帰的な行為の対象ではなく、やはり前提とされているのである。
 また、現実に「存在論的安心」も「信頼」も欠き、社会生活やコミュニケーションを脅かされている統合失調症者が存在することを見れば、「存在論的安心」や「信頼」をもつことを生得的なものとしたり、議論の前提にしたりはできず、社会的に構成されるべきもの(本書では「恒常性」)として考察し、構想する必要があることがわかる。
 さらに、これまでは「存在論的安心」も「信頼」も、ここまで危機的に解体していなかったので、自明な前提とすることも可能だった。が、現在は「存在論的安心」や「信頼」が社会全体で解体しており(すなわち、統合失調症者の危機を私たちも共有し、同じ地平に立ちつつある)、社会の再構成を考えなくてはならない情況となっているのである。
 このように、現在の「自己決定社会」「自己責任社会」の大きな難点は、その中に生きる主体をどう形成するのか、また問題のある者をどうケアするのかについて、その内部に、それを扱う理論がないことである。
 精神分析が示すように、人は他者に絶対依存して生まれてくる。
 それなのに再帰的議論が想定するように、人が自分で何かを決定できるという前提に立てば、この初期の他者依存と、それがその後の人間にも及ぼす影響を見ることができなくなってしまう。他者に依存していた人間は、成長してからも他者に対して合理的な判断を超えた信頼や依存を持ち続け、それは、ネガティヴにもポジティヴにも作用する。
樫村愛子ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』より「第二章 再帰性のもつ問題」 p.65-68)


  • 9時起床。一年生1班の(…)さんから微信。昨夜さっそく『千年女優』(今敏)を観たという。「すごい、この転換手法、この画風、そして映画のテーマの構想、素晴らしいでしょう」とのこと。よほどハマったのか、「本当に素晴らしい、私はとても好きです。以前はどうしてこの「天才」作家を発見しませんでしたか」と自身のアンテナを嘆く言葉が続く。
  • きのうづけの記事に書き忘れていたことがひとつ。1班の(…)さんと2班の(…)さんと(…)さんがどうして仲良しなのかなとちょっと気になっていたのだが、三人はおなじバドミントンサークルの仲間らしかった。
  • 今日もクソ寒い。最高気温は3度。夜には雪が降るらしい。そしてその雪は明日も続く様子。明日は死ぬほど寒い教室で、死ぬほど空気の冷えている一年生1班の授業をしなければならないというわけだ。勘弁してほしい。授業態度のクソ悪い学生の姿が脳裏をよぎるたびに「俺の人生においてお前らはその他」というDELTA9KIDのVERSEで武装する。
  • 朝昼兼用の炒面を第五食堂で打包。外に出たわけだが、当然寒い。寒すぎる。ダウンジャケットでもしのげない。しかし今年は暖冬で良かった。凍えながら授業をするのは今週いっぱいだけだ。食後はコーヒーを飲みながらきのうづけの記事。ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の記事も読み返す。以下は2022年12月17日づけの記事より。

 夕飯までまだ時間があったので書見。『「エクリ」を読む 文字に添って』(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳)の続き。ラカン派を読んでいると、とりわけ享楽とかサントームとかにかかわる議論を追っているとよく思うのだが、これってつまり、ものすごく大雑把で解像度の低い言い方をすれば、小学校の道徳の授業で使用される紋切り型のフレーズであるところの「みなさん、じぶんの個性を大切に!」だよなと思うことも多い。いや、この場合の「個性」という語はとんでもなく複雑にねじれており、非常に多岐にわたる文脈をずるずるとひきずりまくっていてひどく重く、いってみれば、一般的な意味で用いられる「個性」の何周も何十周も先にある「個性」なのだが。ラカン派で個性という語が用いられることはないが、あえてその語を用いて続けると、こうした個性とは、かならずしもポジティヴに受け止めることのできるものではない。一般的な意味で用いられる個性という語は、基本的にはポジティヴな響きを有しており、その力能は社会的に正の印をおびた生産性と結びつけられる(そのとき、そのような個性は「長所」とほぼ同義として取り扱われる)。いわゆる「障害は個性である」という言説においても、事情は変わらない。その場合の障害は、やはり正の生産性と結びつけられている(というよりも、「生の生産性と結びつけられるべきだ」という抑圧が、善意と理解の名のもとに押しつけられている)。それに対してラカン派における個性は、そもそも通常の意味で生産的であるとはかぎらない。そしてまた、生産的であったとしても、社会的に負の印を帯びた生産性と結びつけられていることもままある。一般的な意味での個性が、言語化可能であり、カテゴライズ可能であり、しかるがゆえに社会に組み込み可能であり、社会的に正しい生産性に奉仕するかたちにたやすく包摂されてしまうのに対して、ラカン派における個性とは、そもそもが〈他者〉に含まれていない。それは、何の役にも立たない残滓であり、ゴミである。それは、不気味であり、他人を居心地悪くさせるもの、落ち着きなくさせるもの、絶句させたりどもらせたりするものであり、この社会に居場所のないもの、おさまりのつかないものである。そしてだからこそ、ガタリであれば、そこに革命可能性を見る。
 だから、と続けてしまっていいのかどうかわからないが、語りを喚起する芸術作品というのは、良くも悪くも佳作止まりということなのかもしれない。本物の傑作は、それを前にしてもどこかうまく語れない、どもってしまう、あるいはそもそも語る欲望が喚起されない、そういうものなのかもしれない(だからそれは、少なくとも同時代の人間からは傑作と呼ばれることなく、多くの場合は黙殺される)。この社会に固有の位置を与えられていない、単なる邪魔者、障害物、ゴミとしての芸術作品。それでいてときに、物好きから不確かな言葉を浴びせられ、あいまいな光で照らされしているうちに、あるとき不意に、〈他者〉をこそ更新するものとして——みずからの位置を社会から奪いとるのではなく、社会そのものをその分だけ拡張するものとして——見出されることになる。そういうものがやっぱり本物なのかもしれない。

  • 14時から授業準備。明日の日語会話(一)第9課の下準備。それから期末テストの説明用資料も作成し、余った時間でやるための心理テストも準備する。
  • 日語会話(一)は本来「転籍」組である二年生の(…)さんと(…)くん、三年生の(…)さんと(…)さんも受講する必要があるのだが、いまさら一年生レベルの授業なんて彼女らも受けたくないだろうし、一年生は一年生で先輩の乱入に戸惑うだろうから、教務室には内緒にするという前提のもと、授業には出席しなくてもよいという措置をとっていた。しかし成績は付ける必要がある。だから四人にも期末テストを受けてもらう必要があるのだが、テストの内容も一年生が本来受けるものよりも減らすことにした。日付の読み方および曜日の読み方の暗記のみ。もちろん一年生らには秘密にせよと伝える。1班と2班のどちらに所属という形式になっているのかとたずねると、二年生ふたりからは2班という返事。三年生ふたりはわからないという。わからないもクソもないだろうがという話なので、そのあたりちゃんと調べてからこちらにあらためて連絡するように告げる。のちほど二年生のふたりも三年生のふたりも1班に登録されているという報告があった。テストは金曜日の15時から四人だけで行うことに。
  • 夕飯は第五食堂で打包。食後30分ほど仮眠。シャワーを浴びたあとは書見。『ヴァリス』(フィリップ・K・ディック山形浩生訳)読み終わる。あんまり楽しめなかった。そのまま『闇の精神史』(木澤佐登志)に着手。
  • 今日は『Kinda Happy, Kinda Sad』(Alien Tango)、『Music for Growing Flowers』(Erland Cooper エルランド・クーパー)、『VUOY』(想い出波止場)、『Lucy & Aaron』(Aaron Dilloway & Lucrecia Dalt)、『The Gag File』(Aaron Dilloway)、『Damaged Particulates』(Ben Vida)、『Jon Gibson: Relative Calm』(Jon Gibson, Joseph Kubera & David Van Tieghem)、『Songs & Melodies, 1973-1977』(Jon Gibson)をききかえした。