20231218

 再帰性が、コントロールを意識し、操作性を高めることであるならば、計算可能性、予測性、制御を高めることが目指される。生産性のための効率性も望まれるだろう。しかし、計算や予測、制御には、不確実な点が存在する。その不確実性に対し、計算可能性を超えた判断や行為が要請されることもあり、むしろそれが創造性を形作る。
 これに対しマクドナルド化における予測可能性とは、偶然性を排除することであり、計算可能性においては、質より量を重視する。このようにマクドナルド化は、創造性の源泉を排除していく。
 ブルデューは「私にとって知的な生活とは、学級のルーティーンよりも芸術家の生活に近いものである」と述べている。
 本来の再帰性は、オリジナルから変化することを含む。つまり本来的な再帰性——実質的合理性をはらんだ再帰性——は、この創造性を含むはずである。
 私たちの生活は、生涯賃金から医療保険のシミュレーション、老後の生活設計、毎日のカロリー計算まで、現在、管理によってがんじがらめになりつつある。
 もちろん、自分ではどんなに自由に行動しているようでも、これらのシミュレーションが一定の妥当性をもつ場合は多い。こういったデータに基づく計画を全く無視することはできない。また有用な手段となることもある。
 しかし、すべてが可視化され、私たちの毎日がタスクをこなすだけのものであるならば、私たちの生は枯渇してしまう。シミュレーションを前提にしつつ、むしろそこから跳躍する行為が求められている。
 それなのに現在、労働や教育といった最も人間の創造性に近い領域まで、量的な基準で測定され、コントロールされようとしている。
 確かに一方で、質的測定は職人芸的な要素をもち、人格支配とつながりやすい。中学生の内申書評価は、目の前の教師に全人格的に従属させる弊害を生んだ。その結果、近代的合理性や法による支配から、前近代的人格支配へと逆戻りしている。だからといって、質的評価が重要な領域で、質を形式的に量化して全面的にコントロールしようとするのは無理があるだろう。
 昨今、大学の授業評価でも、種々の量的な評価の変数は決定的なものでなく、一つの材料として、総合的に分析評価しようとする傾向が高まっている。
 当初は、その授業が良かったかどうかだけの判断では、形式的な合理性を欠くので、黒板の字が見やすい、声が聞きやすい。授業の流れがわかりやすいなどの各項目の点数を加算していく方式がとられた。
 しかし、いくら点数化しそれを加算していっても、調査票の変数に載らない評価がある。また、学生がそのときは辛くて嫌だと思った授業が、結果的に学生の成長を生む場合もある。このように、形式的合理性で得られたデータは、決して現実のすべてを説明するものではない。むしろ、あくまで一つの材料にすぎないという判断をとる大学の方が、教育の中身を作る上で自由があり、成功している。逆に、この形式合理性だけで教員評価を行おうとする大学は、長期的には教育を腐敗させていく。
 あとの議論で詳しく見るが、人間の成長は、他者への転移を通じ、転形や変移と呼べるような、創発的変化を内包している。
 恋愛をしたり、旅に出たりすることで、大きく変化し、成長するのが人間である。他者や他なるものとの出会いに憧れ、また、実際に出会って今までと違う自分に変わっていく力を人間はもっている。魅力的な先生や学問に出会って、今までの考え方を打破していく力をもつのである。
 これを打破していく過程では、もちろん自己組織的なメカニズムが働いているが、そのきっかけとなり、この変化への大きな一歩を踏み出させるのは、他者への同一化や強い憧れ、幻想といったものである。そこには、最初に他者に強く依存するように構成された、人間に固有のメカニズムが働いている。そういった現象は、内部的変数や自己組織的なメカニズムなどに注目した計算では予想できない人間の大きな可塑性を示している。
樫村愛子ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』より「第二章 再帰性のもつ問題」 p.86-89)


  • 今日も昨日と同様クソ寒い。最高気温は3度。雪は降らなかった。学生らはモーメンツで、こんなに寒いのにどうして雪が降らないのかと不満をこぼしている。南方人は雪が好きなのだ。
  • 10時から一年生1班の日語会話(一)。第9課。どうしてかわからないのだが、今日の授業は変に盛りあがった。別にそれほど盛りあがりやすい教案というわけでもないと思うのだが、日頃は退屈そうな顔をして後ろのほうに座っている(…)さんもいつもより集中しているふうで、これはいったいどうしたことだろうと思った。このクラスは(…)くんが放っておいてもバカみたいにひとりで騒いでくれるおかげでそこをフックにいろいろできるという強みがあるし、劣等生の(…)さんもかなりイジりやすい(しかし今日は彼女と(…)さんを見誤ってしまった)。実際、今日もそのあたりを狙っていろいろ脱線したのがよかったかもしれない。あと、(…)さんも、ぱっと見はおとなしくひかえめなタイプであるが、先日いっしょに『名探偵コナン』の映画を観に行った件以降けっこういろいろイジってもだいじょうぶな子であるなという感触を得ていたので、(…)で激辛ヌードルを食っておきながらもこちらに対しては一点都不辣と言ってみせたその口ぶりをおおげさに勝ち誇る調子に捏造してモノマネしたところ、学籍番号から察するにルームメイトらしい(…)さんを中心としてみんなゲラゲラ笑っていて、うん、やっぱりだいじょうぶだなと思った。突破口がまたひとつ増えた。その(…)さんからは午後の授業の休憩時間中、5歳のときにピアスをあけたという話をきいた。じぶんから望んだのではない。親の希望によるものらしい。そんな話はじめて聞いた。もしかしたら少数民族なのだろうか?
  • このクラスでいちばんあたまにくるのは(…)さんかもしれない。高校一年生から日本語を勉強している女子学生であるが、こちらの質問に一発で答えることのできた試しがない。学籍番号順で指名しているのに指名される直前までずっとスマホを見ている、そのせいで指名したあとにまた問題なりなんなりを説明しなおす必要がある二度手間を、ほとんど毎回といってこちらに課すのだ。そんなふうに授業のテンポを阻害する学生はどこのクラスにも複数いるものであるし、やる気のない学生の目立つこのクラスであれば特にそうであるのだが、(…)さんはその程度がひどすぎる。マジで叱りつけたくなるレベル。高一から日本語を勉強しているということで一年生の授業内容をなめているのかもしれないが、彼女の口語能力は正直全然高くないし、この調子だと高校時代の貯金を食い潰すかたちで一年ほど余裕をぶっこくも気づけば大学組に追い抜かれてしまうという例のパターンに堕ちるだろうなという印象。
  • 第9課のアクティビティ、先週2班でやったのがちょっとパッとしなかったので、ルールを部分的に変更して挑んだのだが、それでもやっぱりパッとしなかった。これはちょっとしくじったかなと思っていたところ、突然教室が停電してパソコンの電源も電気も切れたので、残り15分ほどあったが、学生らの期待に応じつつこちらとしてもこれ幸いというわけで、授業をはやめに切りあげた。率直にいって、救われた。
  • 授業中、二年生の(…)&(…)くんカップルが廊下の窓から教室をのぞきこんでいることに気づき、のこのこと廊下の外に出ていったが、逃げられた。休憩時間中には三年生の(…)くんが同様に教室をのぞきこんでいることに気づいた。こちらはいくらか言葉を交わした。(…)くんは翻訳の授業が終わったところらしかった。どうだった? とたずねると、簡単! という返事。
  • 第四食堂でハンバーガーを打包。二年生の(…)さんから声をかけられる。彼女もここで打包するつもりらしい。おおぶりのかっこいいマフラーを巻いていたので、いいねそれというと、父親のものだと中国語で返事がある。父親に買ってもらったものではない、父親の私物をそのまま借りパクしているらしい。日本に帰国したらマフラーを買おうかなとふと思った。
  • 帰宅してハンバーガー食す。昼寝はしない。14時半からふたたび一年生1班の日語会話(一)。今週と来週は軍事訓練で遅れた分の補講があるのだ。補講の教室はB205だったのだが(いつも2班の授業で使っている教室だ)、こちらはたぶん座席数が少ないからだろう、学生らが前列に詰めて座らざるをえない配置になっているために距離が近く、それもあって午前中よりもさらにやりやすいという印象を受けたし、2班のほうが1班よりもやりやすいという印象の何割とまではいかないだろうが、何分かはもしかしたらこの教室の違いに由来するものなのかもしれんと思った。この回の授業は期末試験の説明。さすがにみんな真剣に耳をかたむける。各問題と配点についてざっと解説したのち、90点以上は「優」、80点以上は「良」、70点以上は「中」とすると続ける。会話の授業では不合格者は出さないことにしているので、60点以下は全員まとめて「合格」と説明すると、その範囲の広さにみんな笑った。それからテストの日程を発表したのち、いまは風邪やインフルエンザや肺炎が流行しているし女子は生理痛もある、仮に体調が悪くなった場合は遠慮なく連絡してほしい、そのときはテストの日程を変更する、もちろんそれで減点はしないと強調しておいた。外国語学院はたとえ体調不良で自習を欠席するとしても総合成績から減点するというあたまのイカれたシステムを今学期から採用しているようであるし、事務室の人間は女子の生理休暇も認めないことがあると以前二年生たちから聞いたところであるし、せめてこちらの授業だけは健康的で文化的な最低限度の生活を保障したいというか人道的にやりたいというアレがあるので、その点強調しておいた格好。こちらの年代の男性がPMSを気にかける発言をするのはやはり中国ではめずらしいからだろうか、(…)さんから驚きの声があがった。
  • あまった時間は「心理テスト」。一年生とはまだ関係がそれほどしっかり成立していないので、下ネタ系のものは避けておいた。たいそう盛りあがった。授業後、(…)さんがさっそく心理テストの結果についてモーメンツに投稿していた。さらに(…)さんが、月曜日は日本のドラマを見るような感じでいつも日本人をながめているみたいな文章を投稿しており、これはつまり、こちらの授業をぼちぼち楽しんでいるという意味であるのだろうが、この投稿にはちょっとびっくりした。(…)さんは全然やる気のない学生だと思っていたのだが、今日はなぜかしっかり授業を受けていたし、やる気のめちゃくちゃある(…)さんと仲が良いようであることにも気づいた。さらに先取りして書いてしまうが、夜、(…)くんと長々とやりとりすることになったそのなかで、彼が注目している学生として(…)さんと(…)さんのふたりの名前をあげていたのだった。それで、え? マジ? となった。そんなタイプなの? こちらとしては、彼女はまずまちがいなく「転籍」組だろうし、仮に「転籍」が不可能となった場合、教室最後尾でだらだらスマホをいじり続けるだけの学生になるのだろうなと思っていたのだが!
  • クラス全員が引けたところで、例によって(…)くんが教壇にやってきたので、少しだけ会話。「あなた」という言葉を使う機会はほとんどないのではないかというので、よくわかっているなあ! と感心しつつ、教科書では便宜的に二人称「あなた」を採用しているが、実際の会話で用いる場面はほぼないと応じる(中国語や英語にくらべて、日本語ではそもそも二人称を使う機会が圧倒的に少ない)。どうしてそんなことに気づいたのかとたずねると、アニメを見ていて気づいたという返事。
  • (…)で食パン三袋を購入。さらに(…)楼の快递でクリスマスプレゼントのパッケージを回収。帰宅後モーメンツをのぞいたところ、一年生の学生が複数、外国語学院の新入生全員からなるグループチャットのスクショを投稿していた。同様の投稿は昨夜目にしていた。この寒波およびインフルエンザの流行を受けてだろう、ほかの学院はすでに自習取りやめの決定を下しているのに外国語学院は自習を継続するつもりなのかと担当教員に訴える数パターンの文章——「風邪をひいた学生の99%が朝晩の自習が原因だと言っている」「外の道路は凍っていて危険だ」「こんな寒いなかで自習なんてしていたら健康を損ねてしまう」——を無数の学生がコピペしてチャット内に絨毯爆撃みたいに連投しており、というのが昨夜のことで(この爆撃のことを「12.17事変」と名付けている学生がいた)、今日あらためてモーメンツに投稿されていたスクショによれば、担当教員がそうした学生らの訴えを前にとうとう折れたらしかった。しかしメッセージによれば、自習を中止にするという決定を下したわけではない。自習はあくまでもこれまでどおり継続する、しかし欠席者がいないかどうかを確認する監査を外すというもので、なるほど、この対応はちょっと中国っぽいなと思った。大学(体制)が学生(人民)に屈するわけには絶対にいかない、しかし学生(人民)に不満をためこませるのはまずい、そこで大学(体制)の面子を立てつつ、学生(人民)のガス抜きをこころみる折衷案として、このようなまわりくどい判断が下されたのだろう。興味深い。
  • 第五食堂で打包。寮の門前でスクーターに乗った(…)と(…)の姿を見かけたので門をひらいてやる。今日は寒いねと話す。教室が停電して大変だったよというと、PPTもエアコンも使えなくなったの? というので、そうそう、だからちょっとはやく授業を切りあげたんだと応じる。食後は20分ほど仮眠。
  • シャワーを浴びる。きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の記事の読み返し。以下、2013年12月18日づけの記事より夢の記述。「ドル換算」のくだりでクソ笑ってしまった。

その二時間で夢を見た。大学のクラスメイトの(…)と(…)とじぶんの三人でカフェのテラス席かどこかで軽食をとっているようなのだが、夜で、食事の途中で席をたち自動販売機の前にやってきたじぶんのところにふたりのうちのいずれかがやってきて、もうそろそろ帰らなければならないから行くねと告げて去ってしまい、さてそうなるとわれわれのもといた席にはこちらの鞄と財布が置きっぱなしになっているんでないか、そう思って席にもどると両者ともに無事で、それでタクシーにのりこんでから財布の中身を確認したのだけれど、先日5万円おろしたばかりなのに財布のなかに万札が一枚も入っていないことに気づき、これはぜったいにとられたにちがいないと、となりの座席にいた(…)か(…)かのいずれか、とにかく地元勢の人間にたいしてそう訴えていると、タクシーの運転手が居丈高な調子で、じゃあどっちに行けばいいんですかね、とバックミラー越しに問うてみせるので、そんなもんさっきの店に戻るに決まってるでしょうが、と告げると、余分に料金かかるってわかってんのじぶん、とますます偉そうな口を利くものだから、おまえコラいいかげんにせえよ的な怒声を撒きちらし、すると運転手のほうも後部座席にむけて身をよじりながらやる気まんまんの表情で手をのばしてきて、結果、せまい車内で派手な殴りあいがはじまったのだけれど、しばらくすると運転手が唐突に、おまえすごい腹筋だなと、おそらくはこちらの腹部をどついたあとに漏らし、一瞬前までのシリアスな殴りあい含めてすべて冗談とじゃれ合いの体で帰結してしまおうとするらしい魂胆のありありとのぞく一言で、ゆえに相手が完全に戦意を喪失しつつあることを察し、こちらもこちらでやや劣勢気味だったこともあったのでその魂胆にのっかることにしてひとまず殴り合いに終止符を打つことになったのだけれど、カフェに到着し、認識上はカフェなのだけれどじっさいはあいかわらずじぶんが乗りこんでいたタクシーの車内で、車内にはじぶんひとりしかおらず、あたりを見渡してみるも当然のことながら万札はどこにも見当たらない、が、シートのあちこちやダッシュボードの中に五百円玉をはじめとする硬貨の数々が認められたのでそれらをすべて合算したら一万円になるんではないかと思い、それで拾いあつめた硬貨をひとところに寄せあつめていくらになるか声にだして計算しはじめると、小学校低学年くらいの弟らしい人物が、こちらが口にだしていう計算途上の日本円をいちいちドル換算してつぶやいてみせるので、そのせいで計算がぐちゃぐちゃになってしまい、おまえちょっと黙っていろとものすごく派手な一発を顔面にぶちこんで、そこで終わった。

  • 以下も2013年12月18日づけの記事より。ここで引かれている『夏の花』の一節はいまでもたびたび思い出す。

食後は30分の仮眠をはさみつつバッハを流しながら買ったばかりの『夏の花』を読んだ。小説としての出来はそれほどよいとはいえない。しかしところどころこれは実地にその地獄を体験したものだけしか書けないのではないかと戦慄するような記述がある。地獄が描かれるためには地獄が体験されるだけではまだ足りない。まがりなりにも言葉をあやつることのできるものが地獄を体験してはじめて地獄は描かれうるのだ。抽象的な言葉遣いではなくそれこそ偶景を採集するようなどこまでも具体的で鮮明で細部にむけられたまなざしと言葉をあやつる書き手だけが描きだすことのできるものがあるはず。巨大な歴史は後世の人間の想像力にとどかない。歴史の天蓋におおわれたなんでもない事物となんでもない挿話にこそ身にせまる想像力の発端となりうる具体性がひそんでいる。イデオロギーでもなく物語でもなく、そのような細部をこそ保護すること。以下に引用する原爆投下直後のくだりの丸括弧でくくられた最後の一文が読み手にあたえるリアリティの感触!

 私たちは小さな筏を見つけたので、綱を解いて、向岸の方へ漕いで行った。筏が向の砂原に着いた時、あたりはもう薄暗かったが、ここにも沢山の負傷者が控えているらしかった。水際に蹲っていた一人の兵士が、「お湯をのましてくれ」と頼むので、私は彼を自分の肩に依り掛からしてやりながら、歩いて行った。苦しげに、彼はよろよろと砂の上を進んでいたが、ふと、「死んだ方がましさ」と吐き棄てるように呟いた。私も暗然として肯き、言葉は出なかった。愚劣なものに対する、やりきれない憤りが、この時我々を無言で結びつけているようであった。私は彼を中途に待たしておき、土手の上にある給湯所を石崖の下から見上げた。すると、今湯気の立昇っている台の処で、茶碗を抱えて、黒焦(くろこげ)の大頭がゆっくりと、お湯を呑んでいるのであった。その厖大な、奇妙な顔は全体が黒豆の粒々で出来上っているようであった。それに頭髪は耳のあたりで一直線に刈上げられていた。(その後、一直線に頭髪の刈上げられている火傷者を見るにつけ、これは帽子を境に髪が焼きとられているのだということを気付くようになった。)
原民喜「夏の花」)

  • 1年生2班の(…)さんから微信。明日は教師参加型の大学イベントがあり、その関係で午後の授業は全部休みになるという通知が入っているのだがどうするのだろうかというので、そんな話ははじめてきいたと受ける。しかし休めるものなら休むに越したことはないので、じゃあ明日はお休みにしましょうと応じた直後、(…)先生に確認してみたところ外教の授業は関係がないという返事があったと届いたので、じゃあやっぱり授業をしましょうと泣き顔の絵文字で受けた。ぬかよろこびさせんじゃねーよ!
  • 読み返しをしたり今日づけの記事を書いたりしているあいだは先にも少し触れたが一年生1班の(…)くんとやりとり。最初に連絡があったのは食後の仮眠直前で、期末テスト全四題のうち一題は自己紹介であるのだがその自己紹介では主に発音をチェックするので、もし発音を確認してほしい学生がいればいつでも微信を送ってくださいと今日の授業中で告げたその告知にさっそく応じる格好で自己紹介の文章と音声が送られてきたものだから長音と促音が弱い点を注意しつつ、手本となる音声を送ったのがきっかけとなって、その後ゆったりとしたペースでやりとりを交わすことになった。(…)くんは発音専門の教科書を買ったという。それで練習してみるつもりだというので、なかなかけっこうなことではないかと思った。(…)くんと(…)くんとそろって叱りつけたのはもう一ヶ月以上前になるのか、(…)くんと(…)くんのふたりは結局あれから一度も授業に来ていないし期末テストに参加するかどうかも不明であるが、(…)くんは授業態度をあらためてあれから毎回出席している。そんな彼によると、「実は、学校外の発音矯正コースに登録した人もいました」とのことで、え? マジで? 1班の学生にそんな勉強熱心な子がいるの? という感じで驚いたところに、先のくりかえしになるが、「私の観察によると大部分の学友はやはり比較的努力して、独学の能力はとても強くて、特に(…)さんと(…)さんに感心して」と続いたのだった。(…)さんはわかる。彼女はまちがいなく卒業までにペラペラになる。しかし(…)さんに対するこの高評価は本当に意外だ。「やっぱり真剣にやらないとみんなに追いつかれます」とあったが、これは前回おまえらマジでいい加減にしろよと叱りつけたのちに彼から送られてきた謝罪メッセージをきっかけに交わしたやりとりにて、高校時代に日本語を勉強していた学生の大半はその後脱落する、きみもこのままだと間違いなくそうなるとはっきり宣告したこちらの言葉を踏まえてのことだ。
  • 寝床に移動後は『闇の精神史』(木澤佐登志)の続き。今日は『夢中夢』(Cornelius)と『Hands That Bind (Original Motion Picture Soundtrack)』(Jim O’Rourke)をききかえした。