20231229

 文化は、「本能が壊れている」人間にとって、人間と世界を橋渡しする社会的生産物である。文化の中で最も大きな位置を占めているのは「言語」である。
 人間は、他の動物と比べて他者に絶対に依存しており、その他者が現実的に不在になるとき、その不在(は同時に自身の不在を意味する)を言語によって代補し、恒存させた。
 お母さんが目の前にいないという危機において、お母さんは「いない」という言葉によって、常に世界に存在しているものに変えたのだった。
 動物的能力(目で見て認知できる能力)を超えて世界を記述するツールを得た人間は、本能の内部で自足している動物と比べ、どんどん自分にとって広がる世界に対し、逆に世界の無根拠さ、過酷さに立ち向かわなくてはならなかった。
 人間は、最初に他者の全能性に守られて、自分が全能だというポジションからスタートしている。それは想像的なものとしての自我の出発点であり人間を支えている。それゆえ自分が死ぬとか何ものでもないということは受け入れがたいし、自分が生きていることが無根拠であることを受け入れがたい。
 しかし現実に適応していくためには、客観的に世界を認識する必要がある。この埋めがたい二つの自己——全能から出発してナルシシズムを引きずり、他者に依存する自己と、世界を認識、支配し、自分の世界を実質的に拡大するが、自己の卑小さも受け入れざるをえない自己——の両者を埋めるものが文化であるといってもよい。
 単に、世界を客観的に記述する科学的知だけが文化なのではなく、人間がそのような世界の中でどう生きるか、どう自分を位置づけるかを考え、作り出す営みが文化である。それは人間が世界に向き合って生き続けていくための装置である。
 この意味で、人間が何に対して幸福を感じるのか、どのように他者に憧れ転移をもって自分を変えていくのか、といった人間に対する認識(精神分析的認識。これまでの文化でいえば哲学や文学による人間についての認識)を文化は含んでいる。
樫村愛子ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』より「第三章 なぜ恒常性が必要なのか」 p.131-133)


  • 11時前起床。(…)にきのうシャワーの修理業者が来なかったよと連絡。朝昼兼用でトースト三枚食す。
  • 12時から15時過ぎまで「実弾(仮)」第五稿執筆。シーン12、問題なしとする。何日も時間をかけてあれこれいじったが、結局、ひととおり加筆したのち、ほかでもないその加筆部分を削除しただけ。ま、レイモンド・カーヴァー的にいえば、このシーンはこれで完成ということになるのだろう。そのままシーン13にも着手。ここはほぼ問題なく片付いた。
  • (…)が電気系統の技師と(…)とそろってやってくる。年末恒例の電気まわりのチェック。ほぼ形式主义。シャワーの修理業者にはあらためて連絡しておくという。キーボードを指さしてピアノは弾けるのかというので、弾けないと返事。コロナ前に練習するつもりで買った、しかし結局その後二年近く日本に待機することになった、そのあいだにlost interestしたと伝えると、(…)は笑った。いつか中国を去ることになったら、そのときはきみの娘にこれをあげるよと伝える。(…)は去りぎわにHappy new year! とフライング気味に言った。学生から例年この時期、まだ元旦を迎えていないにもかかわらず、あけましておめでとうございますという微信が届くこともあるのだが、中国語の新年快乐は、年明けしばらく会う予定のない相手に事前に使用することのできるという特徴があったりするのだろうか? 日本語であれば「良いお年を!」という便利なあいさつがあるわけだが。
  • きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の記事を読み返す。以下、2022年12月29日づけの記事より。

大江 僕はオペラが好きなものですから、マリア・カラスの『メディア』からさかのぼって、ギリシャ悲劇の『メディア』も読む。そうすると、呪いが、呪われた人にとってどんなに親しく重要なものかという瞬間もあることを感じます。
古井 そうですね。
大江 それはパシオンということでもあるかもしれませんけれども、呪いによって人が滅びてしまう。例えばお前は海に沈んでしまうだろうといわれて、海に沈んでしまっても、あらためてそこから浮かび上がってくるということが、それこそ和解というか、認識、啓示というか、そういうものとしてある。どうもそれだけ大きい認識、大きい啓示に、呪われる側から加担する人物も大きい人物だという感じが僕はするんです。
古井 呪われているというのは、見捨てられていないしるしだそうですね。カフカの小説は、呪われているのか、見捨てられているのか、その境目の孤独のように僕には読めるときもありますね。だけど、あの明快さは、呪われているという確信の明快さでしょうね。それがあの小説の骨である。時々ただ見捨てられているんじゃないかという荒涼さが出ますけれども。
大江健三郎古井由吉『文学の淵を渡る』)

  • 今日づけの記事をここまで書いたのち、『S&T』の中から「塵と光線」に修正&転載するものの選別作業。17時になったところで第五食堂で打包。(…)からLINE。13日の夜に大阪に到着する予定であるが、13日のみならず14日も(…)家に宿泊させてもらうことに。14日の昼間には一家の家のすぐ近くにあるいちご園にいちご狩りに行こうというので了承。中国にもどるのはいつだというので、21日に発つというと、ちょうど三連休前ではないかという反応。知らんかった。仮にその三連休中もこちらが日本に滞在しているようであれば、そろって養老天命反転地に行こうと考えていたという。養老天命反転地訪問計画、最初に口にしてからすでに15年近く経過している。
  • 仮眠とる。三年生の(…)さんがひさびさにスピーチコンテストのグループチャットに写真を投稿している。夏休み前に四人でおとずれた韓国料理屋の写真。彼氏といっしょにまたおとずれたらしい。
  • シャワーを浴びてから「実弾(仮)」第五稿にふたたび着手。23時に作業中断。シーン14の途中まで進める。
  • 今日は「跨年音乐节」。第一グラウンドに仮設されたステージでフェスのようなものが行われており、「ちょっと有名」な女性歌手が来ている。モーメンツを見るかぎり、小雨が降っているにもかかわらず、多くの学生が会場をおとずれたようす。クライマックスはドローンまで飛び、夜空に「(…)」という文字や校章などを描きだしたようだ。うちの大学にそんな金あったんか?
  • 「実弾(仮)についてはおそらく来年中に発表できると思う。前々から考えているように、発表はPDFとEPUBで無料配布というかたちをとろうと思っているのだが、それ以外にnoteやカクヨムみたいなプラットフォーム上でガシガシばら撒いてもいいかなとも思った。なりふりかまわずとにかくばら撒くみたいな。『A』と『S』についても同様。BCCKSからは撤退するかもしれない。
  • 夜食はラーメン。その後、眠りに落ちるまで『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』(西川アサキ)の続き。ティルト・シフトについてのくだりが大変示唆的。

(…)ティルト・シフトとは、ピントの位置を補正できる特殊なレンズを用いた写真の技法で、元々は、高層建築などの撮影をする時に、遠近法的な歪みが出過ぎるのを補正するために考案された。しかし、現在では現実の光景をミニチュア風に変えてしまう特殊効果としてのほうが有名かもしれない。
 しかし、これが「ミニチュア」に感じられるのは何故なのだろう? ピントのぼける場所と合っている場所の配分が、普通の写真と異なるだけで他は変わらない。つまり、ピントの勾配から、見る人は「自分の視点の位置」を強制的に推定させられてしまう。その位置はどこか? それは、その映像を見ているときの「実際の」身体の位置、つまり画像から三十センチほどという場所だ。
 このとき、潜在的に行っているかもしれない推論を再構成すると、次のようになる。[1]この映像に出てくる人間は二ミリほどに見える。[2]ピントの配分から考えて、これを見ている視点は、遠くからではなく三十センチほどしか離れていないはずだ。[3]よって、この人間達は、距離のせいで「小さく見える」のではなく、「実際に」小さい。

 この錯覚が面白いのは、ティルト・シフトの効果が、[2]の推論の結果、「画像から三十センチほど、つまり、「実際の」身体の位置に視点を置くしかない」という点に現れていることだ。ティルト・シフトは、視点の位置を「実際の」身体の中に強制的に置き直し、その効果として[3]「ミニチュアだと感じる」が出現する。
 逆に言えば、我々は普段写真や映画を見る際、ティルト・シフト映像を見るときと違い、潜在的なレベルで「小さな映像を離れた位置から見る視点」に移動して見ていることになる。それはスキー場を眺めるヘリからの視点かもしれないが、物として画面を眺める身体の内部にはない。身体がある実際の位置と視点の位置は一致しない。常識的な見え方の背後では、大きな補正が自然に行われている。

(…)「遠くの視点から写真を見ている」と無意識に感じることで、「小さな人」ではなく「遠くから見た普通の大きさの人間」のスキーが見えている。それが「常識」というものだ。つまり、身体の内部から見るのではなく、視点を遠くに飛ばし、そこから眺めたことにして、ある種の連続性を保つのが「常識」だ。ここで「連続性」とは、次のような「不連続」がない、という意味で使っている。つまり、もしこの視点移動をしなければ、「自分が巨人になり小人達が歩き回っているのだが、周りの人間には分からない」というような、「非常識」な推論を行わなければならないかもしれない。が、まわりはびっくりしてしまうだろう。だから、その場合には、ある種の「不連続」がある。逆に言えば、このような「非常識」が突然露呈しないことを「連続」といっている。では、この「不連続」の正体はなんだろうか?
「あなたが巨人であり、実際にそこに小さな人がいる」という世界はありうるかもしれない。しかし、それは、「私は、小さな人や大きな人がいる世界にではなく、みな同程度の大きさの人が、遠近法で異なる大きさに見える世界に住んでいる」という世界観とは両立しないだろう。このようなタイプの「両立しなさ」を、ライプニッツにならって「不共可能性 imcompossibilité」と呼ぼう。逆に言えば、両立可能な二つの世界の感じ方は「共可能」である。これが「矛盾」と違うのは、それぞれの世界は内的には矛盾せず、世界相互がふれあう界面でのみ矛盾が顕在化するからだ。逆に言えば、小さな人が写っている写真を見るとき、私は潜在的に視点を遥か遠くまで飛ばすことで、他人との「共可能性」をキープし、それを自分自身の視点が持つ「連続性」として感じている。しかし、その連続性はかなり怪しげであり、潜在的な視点位置の、ある意味でそちらこそ不連続と言える大きな移動というモンタージュによって支えられている。このような視点の連続性を維持する「何か」をとりあえず「統一性」と呼ぼう。それは普通には「脳」と呼ばれているものに近いだろうが、同じかどうか現時点では分からない。

  • これらのくだり、やはり小説における事後的な「語り(手)」の生成問題とアナロジカルに読んでみたくなる。ピントの勾配=語りの工夫によって、自分の視点の位置=(存在論的な)語り手が「強制的に推定させられてしまう」。「A」や「S」においてときおり顔をのぞかせるナレーターや活動弁士のような語り手の存在は、小説における意味作用をそれ自体が特権的にたばねる存在に擬態しながらあらわれたり消えたりする。つまり、あれらの作品では(機能としての)「語り」と(存在論的な)「語り手」のゆらぎを意味論的に利用する方法がとられていたわけだが(さらに、「S&T」ではその不確かさを、語り手の存在が確かなものであるとされる私小説という形式に無理やりつなげるという実験が試みられたわけだが、これは明確に失敗した)、その一方で、「非常識」および「不連続」な視点(語り)にただ付きつづけるというやり方もある(これのもっともポップな成功例が岡田利規だろう)。そのとき、事後的に仮構される語り手は、人間(常識)の域を半歩踏み出した存在となるわけだが、これをさらにおしすすめることで、すなわち、西川アサキ+ライプニッツにならっていえば、「両立しなさ」「不共可能性 imcompossibilité」をそれでも強引に——常識的な理屈づけなしに——両立せしめることで、人間を逸脱した語り手を生成せしめることもできるだろう。「A」以前にこちらが書いていたいくつかのメタフィクション小説は、そういう化け物・怪物・幽霊・非人間的な語り手=ホムンクルスを生成する試みでもあったはずだが、当時はそこのところをうまく言語化できなかった(しかるがゆえにその方向にいきづまってしまい、問題意識を一部継承しつつ、物語回帰としての「A」を書くにいたった)。「実弾(仮)」はこうした語りの問題系からは距離を置き、これまでのキャリアでほとんど意識してこなかった(1)映像的な文体(2)リアリズム(3)土地および人物モデルの使用という別種の方法論を利用したものになっているが、それを脱稿したあとに着手するものはおそらく、ふたたびホムンクルスを生み出す実験の場(短編小説)となるだろう。
  • 今日は『Un lièvre était un très cher baiser』(Léonore Boulanger & Jean-Daniel Botta)と『Les pointes et les détours』(Léonore Boulanger)と『Square Ouh La La』(Léonore Boulanger)と『Feigen Feigen』(Léonore Boulanger)と『The Mountain Swallowing Sadness』(Wang Changcun)と『Wake UP!』(Hazel English)と『Philip Glass: Violin Concerto No. 1 - Leonard Bernstein: Serenade after Plato’s Symposium』(Renaud Capuçon, Dennis Russell Davies & Bruckner Orchester Linz)と『Decay Music』(Michael Nyman)をききかえした。