20231230

 人間は言語の世界に入る前には、言語の指し示すような部分的世界には生きていない。ミルクを飲めばお腹がいっぱいになって幸福になるし、排泄すると気持ちがよくなる。フロイトが指摘しているように、そのとき同時にミルクの入ってくる唇の刺激が快感の記憶となる。外界から流入する刺激と興奮は、その多くが他者が媒介しているので、他者とのやり取りそのものが快感となる。精神分析は、このような快感を「対象性」と呼んでいる。人間が言語の世界に参入する以前の十全で幸福なやり取りである。
 これに対し、言語の世界に入れば、人は対象性を失う。
 言語の世界に参入した人間は、対象性や十全性からは遠ざけられてしまう。言語はどこまでも限定的であり、対象(他者)のような十全性をもたない。例を挙げよう。「私は十八歳である」「私はサラリーマンである」「私は男である」といった言明をいくら続けても私のすべてにはたどり着けない。こうして、詩人がいうように「言葉なんか覚えるんじゃなかった」「言葉は私と世界を殺してしまう」となる。
 しかし文化は、この対象性を復元する。「私は私である」という言明はどうだろうか。それ自体は意味のないトートロジーである。しかしこの言葉が人間において意味をもつのは、この隠喩が意味の麻痺を通じて対象性の感覚を与えるからである。この対象の十全性を再度保証するのが文化である。
 文化は、人間が言語の世界に入る以前の対象性や十全性を享受させ、文化と触れるものに喜びや満足、生きていることの実感を与える。不透明性や留保、想像性、統合性などは、幼児期において他者から与えられる対象(ミルクの出てくる乳房)や、他者の実感と等価なものを与えてくれる。言語の世界に参入した人間にとって、言語は常に部分的、限定的なものでしかないが、「私は私である」のような隠喩的表現は、言語の世界では本来存在しない全体性と等価なものを与えるのである。
 それは、常に先送りされる欲望の運動に対しては、その場と現在における充足(今、ここの充足)を与えるものである。
 芸術は、言語の意味作用の麻痺によって対象性を与える。詩的な表現とは、明示的思考や意味作用とは異なって、狭義の意味分節が後退し、意味や意味作用を恒常的に支えている人間の基底的処理過程の特異な傾向性が前面化するものである。「君の瞳は星」では、瞳と星の類似性を思考の潜在性の中で維持する、(先述した)無意識的な言語の結合のもとで、人間固有の感覚的短絡が起こっている。
 言語は辞書や共時的分節構造のように最初から固定的なものとして人間に一挙的に獲得されるのではないことを見てきた。言語は、単語ごとに異なった神経経路を経て、認知や運動の制御野との連携の上に構築される。この結合過程の多様なプロセスと関わる形で、詩的言語を生み出される。そしてそれが独語にはならず、万人に共有されるのは、人間が原初的には似たような認知や運動や感情をもっているからである。
樫村愛子ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』より「第三章 なぜ恒常性が必要なのか」 p.134-136)


  • 5時ごろに一度目が覚めた。口の中が乾燥していたので浴室に移動し、小便したついでに口をすすいで、それから白湯をのんだ。寝床にもどるころには少し冴えてしまっていたので、しかたなくスマホをいじってニュース記事などを適当にザッピングした。
  • 次に目が覚めると10時半だった。ケッタに乗って后街の快递に向かった。道路は濡れていた。夜のあいだに雨が降ったのだろう。しかし気温は低くない、それどころか昼間には20度に達するほどだった。信じられない。12月30日で最高気温20度!
  • 快递ではセーターを回収。(…)で鱼柳面を食す。帰宅後、回収したばかりのセーターを着てみたが、アホみたいにデカかった。去年買ったセーターが、Lサイズであったけれども思ったよりも大きくなく、それにくわえて洗濯した分だけ縮んだので、それを踏まえて今回はXLをポチったのだが、普通にクソデカすぎて使いようがない。どうも元々オーバーサイズのものだったようだ。淘宝で服を買うのはやっぱりむずかしい。セーターは弟への手土産ということにする。
  • 阳台で「実弾(仮)」第五稿執筆。13時から16時まで。シーン14、片付く。それからシーン15を追加することに決める。シーン15はもともと景人がバスをおりるシーンだったのだが(シーン1の反復)、これは第三稿か第四稿の段階でまるごとボツにした。しかしやはりここにひとつなにかシーンがあったほうがいい。そういうわけで前々からチャンスがあればどこかに挿入したいと考えていた夢のシーンをここにもってくることに決めた。具体的にどんな夢にするかはまだ決めていないが、悪い意味で「文学的」にしないのが一番大切だということだけははっきりしている。ホン・サンスっぽいなまなましさを目指したい。どう書けばいいのかについてはある程度検討がついている。勝算アリだ。
  • その夢の内容についてぼんやり考えるために、いったん作業は中断して部屋の掃除をすることに。大掃除とまではいかないが、掃除機で床のほこりを吸いとり、雑巾でこびりついた汚れを落とす。掃除中は『Vendome, la sick KAISEKI』(SPANK HAPPY)をひさしぶりに通してきいた(サブスク解禁されていることに今日気づいた)。何度でも書き記すが、「実弾(仮)」は『青の稲妻』(ジャ・ジャンクー)と『汚れた血』(レオス・カラックス)と“Vendome, la sick KAISEKI”がインスピレーションの源になっている(といっても『汚れた血』にかんしては、十数年前にいちど観たきりであるのだが!)。
  • 三年生の(…)さんから微信。メシをたくさん作ったので持っていくという。じきに部屋までやってくる。ステンレスの容器に入った善哉みたいな食いもの。時間が時間だったので食後のデザートとして夕飯後にいただこうと思ったのだが、その場で食え食えとうながすのでスプーンで食った。見た目は完全に善哉。餅の代わりに汤圆が入っている。甘さはややひかえめ。しかしのちほど聞いたところによれば、彼女にとってはこれでも甘ったるすぎるとのことだった。(…)さんはすぐに去った。相棒の(…)さんが今日誕生日らしく、彼女のために朝からたっぷり時間をかけてこいつをこしらえたらしい。夜は夜でまたいっしょに過ごすのだろう。
  • 善哉もどきを食ったあと、第五食堂で打包。食後は30分ほど仮眠。善哉もどきの入っていた皿とほかにもう一皿、(…)さんからあずかったままのものがあったので洗って返却することに。連絡をとってみると、いまは寮にいないというので、帰宅したら連絡くださいと告げる。その後、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の記事を読み返す。以下、2022年12月30日づけの記事より。

古井 僕は罪に関してはこんなイメージを持っています。
 人は何をやっても、やった後からその行為が黒々とした罪になる。だけど、いつもその黒々としたものから、無垢のごとく抜け出てくる、その連続だと思うんです。これもまた罪なのかもしれないが、とにかく、人はそうやってその都度救われて生きていると思うんです。
 ところが、文学者、詩人、小説家は、その罪から常に無垢になって抜け出てくるという人生の反復に異議を唱えるわけではないけれども、少なくともその仔細を書きとめようとする。すると、書くことによって罪が固定する。無垢になって抜け出てくるようなところはめったに書けるものじゃないから、負債ばかりやたらにふやす生涯をしていることになる。これを最後に何とか清算したいという気持で常にやっているわけです。
 それはできなくてもいいとは思いますが、ただ、そうして見ると、小説家が最終的に狙っているのは、いつぞや大江さんの短篇集について書かせていただいたときに、「聖譚」という言葉を使って、あるいはご迷惑になるのかなとも思ったのですが、「聖譚」がどこから根差してくるかその源、あるいは、聖譚を既に踏まえて、一種の奇跡の起こるいきさつか、でなければせめてその結末だけでも書こうとする小説ではないか。
 これは作家の意志の問題ではなくて、小説を書くことに常に内在している。小説というのは、どんなに暗澹とした解決不能なことを書いても、おのずから形が聖譚に寄っていくという楽天的なものを内在させていると思う。今の世の作家として、これを早めに引き受けると非常にみっともないことになる。ぎりぎりのタイミングで引き受けるかどうか。
 実際にそんな料簡がなくて、およそ正反対の感情で小説を書いていても、書き込んでくると、どこか聖譚めいたものに収斂してくる。
大江健三郎古井由吉『文学の淵を渡る』)

  • 卒業生の(…)くんから微信。日本語翻訳試験2級に合格したという報告。仕事が忙しかったのであまり準備する時間はなかったのだが、大学院時代の貯金でどうにかなったという。日本語の勉強は死ぬまで続けるつもりだと続ける。最近ますます好きになってきたというので、仕事で日本語を使う機会があまりない環境に身を置いているからこそのアレかなと思った。よいお年をとあいさつ。
  • (…)さんから微信。寮の下に着いたというので、お皿二枚とオレンジ三つの入った紙袋を持って外に出る。合流。(…)さんといっしょにおいしいものでも食べていたのかとたずねると、アルバイトしていたという意外すぎる返事。后街に重慶料理を出している店がある。そこの店主は彼女とおなじ江西人らしいのだが、奥さんがいま妊娠しており体調がすぐれないのでホールスタッフが足りない、そういうわけで今日一日限定という約束で三時間半ほど働いていたという。給料は50元、つまり、およそ1000円。少ないなと漏らすと、少ないですかとびっくりした表情でいう。食堂の給料はと続けるので、たしかに食堂でバイトするよりはずっといいけどと受ける。仕事自体は忙しくなかった、ひまなときはずっとスマホをいじっていてもいい、アルバイトがなかったら寮でスマホをいじっているだけだったので変わりないという。バイト中にクラスメイトが店にやってくることはなかったのとたずねると、それはなかったと(…)さんは笑った。
  • 女子寮に向けて歩いていたのだが、例によって途中で「先生、もっと歩きたいですか?」という。笑ってしまう。きみが歩きたいんでしょうと受ける。それでいつものように散歩する流れに。鉄柵越しにセブンイレブンの明かりがみえたので、ちょっとコンビニに行きましょうとうながす。それで地下道を抜けてセブンイレブンへ。夜食用に焼き鳥を一本買う。レジには見知らぬ男性店員がひとり入っていたのだが、支払いの際に突然「日本人ですか?」と日本語で話しかけられた。びっくりした。それでちょっとやりとりしたのだが、かつて仕事の関係で一年間滋賀に住んでいたことがあるらしい。一年だけですか? とたずねると、来日する前にちょっとだけ日本語を勉強しましたがというのだが、そのわりにはめちゃくちゃ流暢であるし発音もきれいである。特にアクセントが全然中国人っぽくない。うちの大学で四年間みっちり勉強していてもこんなふうにはなれない。こちらの存在については早稲田に留学していたおなじく日本語ペラペラの店長から聞き知っていたという。
  • われわれがやりとりしているあいだ、(…)さんはやや気まずそうだった。中国は職業差別がけっこうあるというか、ブルーワーカーとホワイトワーカーのあいだにめちゃくちゃ太い線を引いているひとが大半であるので(去年からさんざん取り沙汰されている新卒者の失業率についても、仕事そのものがマジで全然ないわけではなく、大卒もしくは院卒の肩書を有する新卒者らがその肩書に見合った仕事がないとより好みしている結果としての数値である、ちなみに両親をはじめとする家族もそのより好みを支持する)、(…)さんとしては自分より格下であるはずの人物(実際の学歴は不明であるが、コンビニ店員が大卒者であるはずがないというあたまが彼女にはきっとある)が、自分よりもはるかに流暢な日本語をあやつっているのに面子の潰れる思いがしたのではないか。(…)さん、根は悪い子ではないし、本人は「進歩的」な価値観を望んでいるつもりらしいのだが、それでもやっぱり農村の旧弊な価値観がインストールされてしまっているなと感じる場面がけっこうあるのだ。
  • 焼き鳥を食いながら新校区にもどる道のりをたどる。途中、赤毛のハスキーを連れた男子学生らしいふたりを見かける。原付に2ケツしている。そしてその足元に犬をのせて移動しようとしている。そこを呼びとめて、ふわふわの毛を触らせてもらう。まだ六ヶ月か七ヶ月だという。ハスキーじゃないと(…)さんがいう。阿拉斯加というので、アラスカ? となる。帰宅してググってみたところ、どうもアラスカンマラミュートという犬種らしいことが判明したが、夏場が40度に達するこの土地ではなかなかしんどいやろなと思う。あの飼い主らが夏場はせめて冷房のきいた室内に招き入れてやっているのであればいいが、犬に対するあつかいは正直けっこうひどい土地柄であるしなァ。
  • 犬と別れて新校区に入る。きのうのコンサートには行きましたかというので、行っていないと答える。きみは? とたずねると、予想通り行っていないという返事。あした(…)に行くかもしれないという。(…)のための肉を追加でさらに2キロ買いたいのだと続く。ということはつまり、明日また肉をもってうちにやってくるということだろうか? 場合によってはそのまま夕飯をいっしょにという流れになるかもしれないなと思われたので、とりあえずその点についてはあまり触れずに軽く流した。大晦日はひとりでゆっくり過ごすというのがここ数年の習慣なのだ。
  • 女子寮まで彼女を送り届けたところで帰宅。シャワーを浴び、ヨーグルトとトーストを食し、歯磨きをすませたのち、日語基礎写作(一)の成績表記入。この作業、おもしろいといえばおもしろいのだけど(RPGの攻略本にあるキャラステータスをながめているときの気持ちにときどきなる)、それ以上にめんどい。
  • 寝床に移動後、『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』(西川アサキ)の続き。ここで語られる「不確実」や「出来事」って、脳科学的にいえば、まんま「予測誤差」だよなと思う。

 さて、なぜ「出来事」について考えるときに「欲望機械」について考える必要があるのだろうか? そして、脳、中枢、心身問題について考えることと、それは何の関係があるのか? 鍵は「不確実性」にある。そもそも上の二つの時間の議論は[引用者註:「クロノスの時間(通常の時間の流れ/規則(コード)内部の時間)」と「アイオーンの時間」(別の時間の流れ/規則(コード)内部の時間とは別の方向を向いた——規則(コード)そのものに変更を加えうる——時間)]、不確実性によって規則が変更される時、別の時間が生じるという話からスタートしていた。つまり、別の時間、アイオーンの時間を持ち出す根拠は、「不確実性」の存在にある。換言すると、「永遠的対象」を体験する方法は、「死」だけではない。それは「不確実性」としても体験されうる。

  • 深夜、(…)先生からあけましておめでとうございますの微信が届いた。まだ22時間はやいですよと返信すると、日付をまちがっていたという反応。見なかったことにしてくださいというので、おっちょこちょいですねと受ける。ちょっと笑った。