20240104

 ここで、ギデンズの議論の矛盾にぶちあたる。ギデンズはルーティーンが存在論的安心を支えているというが、今見たように、ルーティーンそのものが存在論的安心を支えているわけではないのではないか。むしろルーティンは、存在論的安心の結果なのではないか。
 確かに私たちは、社会が不安定になっても、仕事や雇用が不安定になっても、教育制度や家族関係が不安定になっても、まだ存在論的安心を失うことなく、現代社会において淡々と日常を生きえている。現象学的精神医学では、この存在論的安心を「自明性」という言葉で記述している。統合失調症者は「自明性」が解体してしまった人たちである。生活世界や自己存在のリアリティがなくなっているのである。
 しかしラカンが「精神病者こそむしろ正気だ」と述べるように、いつ死ぬかもしれず、いつ災害に襲われるかもしれず、なぜそのような日常を生きているのかわからないのに、この日常が明日も続くという無根拠な信頼をもつ私たちの方が、正気ではなく夢想者なのである。ここからわかることは、「自明性」は、ルーティーンの生活を送っていようがいまいが、維持されたり解体されたりするものだということである。
 再帰的社会である現在は、二四時間稼働型のライフスタイルになっており、それぞれ離れて暮らす家族もおり、日常の食事や場の持続性や共有性のみが存在論的安心を支えているとはいえなくなりつつある。一緒に暮らしていることが必ずしも存在論的安心を支えているわけではなく、離れて暮らすライフスタイルが自分たちの生き方だとする共有された信念が家族のイマジナリーを維持しているかもしれない。移動ばかりの忙しいサラリーマンの人生でも、それはルーティーンとなる。確かにどのような人生にも人は慣れてしまう。
 一方、外国に行って、急に周りのすべての人々がよそよそしくなったり、そんなとき自分を支える世界が全くなかったりすれば、統合失調症のような状態になる人もいる。しかしそれは、物理的な環境変化に直接原因があるというよりも、その人を支える人間関係や象徴的なものを支えているイマジナリーが解体するためである。いきなり外国に行って生活が変わっても、支える人や世界があれば、自明性が解体されないですむ。必ずしも日常のルーティーンそれ自身が、直接人々の存在を支えているわけではない。
 またここでルーティーンは、確かに実存的な問題から私たちの目をそらしてくれるとはいえ、実存的な問題、象徴的な資源に全くアクセスしない毎日なら、逆に私たちは、毎日同じ生活の中で何のために生きているのかと疑問を感じるだろう。生きているという感情は、前章の再帰性についての議論で見たように創造性と結びついている。スティグレールのいう「個体化」であり自分が固有のものであるという感覚と結びついている。新しい現実に触れ、自分の中でものごとや世界の意味が変わるような経験が個体化である。そこに最初の他者との同化の喜びの再現がある。
 存在論的安心とは、精神分析でいう対象関係、他者とのつながり、他者や社会への信頼によって成立しているもので、ギデンズのいうようにルーティンが支えているものではない。
樫村愛子ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』より「第三章 なぜ恒常性が必要なのか」 p.144-146)


  • 10時ごろ起床。第五食堂で炒面を打包。阳台に移動してひたすらきのうづけの記事の続きを書く。作業中は『Planetário da Gávea』(Hermeto Pascoal)を流す。洗濯機を三度まわした。スニーカー→通常の衣類→羊毛のセーター。
  • 15時前に(…)から微信。いつパスポートを取りにくるのかというので、いまから向かうと返信。筋肉痛ほかで痛む足をかばいながら階段をおりる。ケッタにのって国際交流処の事務室へ。パスポートを回収。teaching planを提出してほしいというので、今学期のはじめに送ったはずだがと思いながら了承。帰宅して気づいた。送ったのはtime tableであってteaching planではない。teaching planはいつどの授業をしたか、その授業内容はどういうものでありどういう狙いがあるものかというのを細かく記入する必要のある書類だ。しかし先学期も先々学期も(…)にこいつを提出した記憶はない。というか過去二回ほどしか提出をもとめられていないのだが、今回本当に提出する必要があるのだろうか? 明日このあたりを確認してみたい。
  • 16時前に一年生1班の(…)さんから微信。先生テストを忘れないでください、と。だいじょうぶです、忘れていません、いまから外国語学院に向かいます、と返信。学生らはすでに全員B101にそろっているというので、教卓のコンピューターの電源だけ入れておいてくださいと伝える。
  • 教室に入る。あけましておめでとうございますとあいさつするも、ほぼ全員理解できていないふうだったので、新年快乐と中国語で言い直す。それで1班の期末試験その三。今日は(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さんの計10人。まあボロボロだった! 実にひどい! 出題範囲を、というか試験問題を事前にこれほど明確に通知してあるにもかかわらず、なぜこれほどボロボロなのかと愕然とするレベルの学生が複数いた。既習組は(…)さん(高二)と(…)さん(高一)と(…)さん(高二)と(…)さん(高一)の四人だが、(…)さんはぎりぎり「優」かもしれないが、(…)さんは途中で打ち切るレベルだったし、というか彼女は試験中にもかかわらずふつうにポケットからスマホを出して調べものをはじめて、これにはさすがにキレかけた、あぶなかった、冷静な口調で日本語と中国語チャンポンで注意したが、マジでこいつなに考えとんじゃ? 一日三食なに食っとったらこんなクソたわけになるんや? とぞっとした。(…)さんもパッとしない。(…)さんは授業中完全に舐めた態度ばかりとっている子なのでやや採点を厳しく設定したのだが、その必要もないくらいダメダメだった。油断しまくっている既習組にはガンガン悪い成績をつけていきたい。メンツなんか知るか。(…)さんも途中で試験を打ち切るレベルでまずかった。頼むからほかの学部に「転籍」してくれ。マジでしんどい。
  • 今学期最後の授業はこれで終わり。あとはペーパーワークのみ。(…)から明日の夕方は空いているかという微信。dinnerに招待したいという。これで明日の日記もまた長くなる。週末は日記とペーパーワークに捧げることになるだろう。
  • 第五食堂で残り少なくなっているおかずを打包。帰宅して食し、30分ほど仮眠をとる。シャワーを浴びたのち、コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを長々と書き記す。投稿し、ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の記事を読み返す。以下、2023年1月4日づけの記事より。「『〈責任〉の生成ー中動態と当事者研究』の内容をまとめつつ、じぶんの考えもぐちゃぐちゃに混ぜこんでいるっぽい以下のくだりがなかなかおもしろかった。初出は2021年1月4日づけの記事」とのこと。

帰宅後、國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成ー中動態と当事者研究』の続き。クソ面白い。ほぼ全ページに付箋を貼っているので抜書のことを考えるとけっこうしんどい。第二章まで読み終えたが、ここで語られている内容を精神分析の用語や文学の用語で換言したり補足したりもできそう。
まずスピノザ由来の概念であるところのコナトゥスというものがある。これを熊谷晋一郎は「恒常性の維持」とパラフレーズする。主体は基本的に「恒常性の維持」を目指している。これは精神分析の用語でいえば、快感原則ということになるだろう。緊張(刺激)をなるべく避けるという傾向。
主体は常に予測している。予測したものと到来したものとの差を予測誤差という。予測誤差は緊張をもたらす。それはコナトゥス(恒常性の維持)をおびやかすものであり、一種の傷である。到来したものが予測したものと大きく違った場合、それはおそらく精神分析的な意味での外傷となる。しかるがゆえに主体は予測したものと到来したものとの誤差を常に調整し続けることになる。調整することで予測誤差を最小にしようとする。傷を避けるようになる。
現実の出来事はそのひとつひとつが特異的であり、〈これ性〉を帯びているものであるが、定型発達者はそれらを容易にパターン化(カテゴライズ)して処理する。特異的なものを一般化し、出来事を物語化し、現実的なものを象徴的なものとして、いわば低い解像度で処理する。つまり、到来したものと予測したものの誤差を、その解像度の低さでうやむやにし、「同じ」もしくは「近似」として処理する。その処理のシステムを仮に学習とした場合、学習をもっともブーストさせるのはやはり言語ということになるだろう。言語の習得(象徴界への参入)とは、既成の共有可能なカテゴリー(伝統的な知)のインストールと同義である。この場合の定型発達者とは、精神分析でいうところの神経症的主体にひとしい。
この文脈で去勢をどのように考えるかという問題がある。妥当なものとしては、伝統的な知と引き換えに、高い解像度を失い、出来事のひとつひとつを特異的に体験することができなくなることという理解がある。くりかえしになるが、これは分裂症的主体に対する神経症的主体の特徴とほぼ同じである。しかし、出来事を出来事として、特異的なものを特異的なものとしてそのまままとめあげることができず(物語化できず)、たえず責め苛まれるようにして生きているのはむしろASDであり、これは自閉症的主体の特徴といったほうが適切であることが当事者研究によって明らかになりつつある(この点については松本卓也も『症例でわかる精神病理学』で、ドゥルーズのいう分裂病者はむしろ自閉症者に近いというかたちで指摘していた)。
分裂病的主体を去勢の適切になされていない主体であるとする前期から中期にかけてのラカンの理解にしたがってみるとき、去勢の理解とはすなわち、自閉症的主体という四つ目の主体があらわになったいま(そしてその主体が従来分裂症的主体として理解されていたものにきわめて近いことがあきらかになったいま)、分裂症的主体をどう理解するかという問題になる。図式的になってしまうことをおそれず仮説をたててみるなら、自閉症的主体と神経症的主体を両極端とするその中央に分裂症的主体を位置づけることができるだろう。解像度が高すぎるがゆえに出来事を物語化しそこねる自閉症的主体と、解像度が低すぎる(出来合いの知に全面的に依拠している)ゆえに過度に物語化してしまう神経症的主体のあいだで、刃の雨のように降りそそぐ出来事の特異性によって傷つけられることもなければ、全体主義的に容易に短絡する物語のなまぬるい一般性によって「規格化」(これは自由の対義語である)されることもなく、独自の知の履歴(真理=症状)を蓄積しつづける主体。中途半端であること。そしてみずからの症状=真理とうまくやっていくこと。出来事の特異性を生きるのでもなければ、物語の一般性を生きるのでもなく、特異的な物語(主体の真理=症状としての物語)を生きるということ。
去勢の問題のほかに享楽の問題も残っている。ひとはコナトゥスにしたがって(恒常性の維持を目的として)生きる。そしてそのために常に予測誤差を修正し、外傷を呼び込まないように学習を重ねていく。ただ、そのようなコナトゥスを裏切るものとして死の欲動があると考えることもできる。死の欲動とは主体の死にむかう傾向である。学習の集積、予測誤差の履歴こそが主体であると考えた場合、主体がみずからの死をもとめるとはつまり、それらの集積と履歴をリセットをもとめることであるといえる。神経症的主体にとってそれは伝統的な知を排除(アンイストール)するということであり、自閉症的主体のほうに向かうことを意味する。調整を重ねてきた予測/カテゴリー/パターンを大きく逸脱したもの(現実的なものとしての享楽)に触れることで、コナトゥスをおびやかしみずからに外傷を与えること。それは別の言い方をすれば、奪われた特異性=出来事を取り戻そうとする動きである。
予測(カントのいう想像力)。それがまず人間のベースにある(これは時間がまず存在するというのとほとんど同義かもしれない)。外部から到来する出来事をひとつひとつ外傷として傷だらけになりながら受け止めつつも、パターンとカテゴリーを特異的に学習していく特異的な主体が、言語を習得し、他者の世界(象徴界)に参入し、去勢される(特異的なその予測誤差の履歴——個性的な傷跡?——を失う)代わりに、すでに大枠のできあがったパターンとカテゴリーを一挙に得る(個性的な傷跡を、一様の傷跡で上書きする?)。主体はしかし同時に、コナトゥス(快感原則/生の欲動)にあらがうように、失われた特異性を求めようともする(死の欲動)。

  • 以下も2023年1月4日づけの記事より。

(…)A Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続きを読み進める。“A Temple of the Holy Ghost”を読み終えたが、序盤から中盤にかけてはさほどでもないものの、クライマックスは死ぬほどバッチリきまってんなという感じ。少女がミサかなんかそういう場でお祈りしながらダメダメな自分自身の変化をのぞむ場面で、その前夜にあったfairの見世物小屋で両性具有のfreakが口上として述べたセリフが、一種の啓示としてよみがえる以下のくだり。

The child knelt down between her mother and the nun and they were well into the “Tantum Ergo” before her ugly thoughts stopped and she began to realize that she was in the presence of God. Hep me not to be so mean, she began mechanically. Hep me not to give her so much sass. Hep me not to talk like I do. Her mind began to get quiet and then empty but when the priest raised the monstrance with the Host shining ivory-colored in the center of it, she was thinking of the tent at the fair that had the freak in it. The freak was saying, “I don’t dispute hit. This is the way He wanted me to be.”

 こういうのはやっぱり(多少整理されすぎているきらいがあるけれども)巧いなァと感心する。両性具有という存在自体が、異性愛をその原理とするカトリックの教義からはみだすものであるのだが、そのfreakはみずからを見せ物のひとつとする見世物小屋の前口上で、神(He)こそが望んでじぶんをこのようにかたちづくったのだと何度も何度も口にする。少女はいじわるで生意気で口の利き方がなっていないじぶんを変えたいという祈りの最中、不意にその言葉を思い出し、(そうとは明言されていないが)じぶんを変える必要はない、変わる必要はないのかもしれないという啓示を得るにいたる。freakの前口上はあきらかに山っ気のある、いってみれば瀆神的ですらある言葉であるのだが(事実彼の見世物小屋は地元の神父から注意を受けて翌日撤退することになる)、少女はそれをliteralに受けとり、自身の文脈に接木することで、そこにある種の聖性を見出すにいたる——このやりくちが、完璧にオコナーなのだ。さらに面白いのは、少女は実はその見世物小屋をおとずれていない、ただ週末の二日間だけ修道院に送られてきた素行不良っぽい年長の少女ふたりがfairの見世物小屋で目にしてきたものを彼女らの口からあいまいなかたちで聞かされたにすぎないわけで、だからそこには距離がある、freakの言葉と少女のあいだには疎隔がある、そんなふうに読んでみることもできるわけだ。
 しかし聖なる言葉をその文脈から切断し、別の文脈に接木することで、(ときにデーモニッシュな)啓示を得るにいたる——そしてそれはしばしば狂気として、ラカン的な妄想として表象される——というオコナーの諸作品に認められるこの構図、ある意味めちゃくちゃSNS時代っぽいな。いや、なにかあるごとにこれはSNS時代を予見してうんぬんかんぬんなんてクソつまらんこと、なるべく言いたくはないんだが。

  • 10年前の大晦日、『A』の年内出版をあきらめ、(…)といっしょに(…)を吸ってスーファミの『ボンバーマン』をプレイしているみたいで、いいなァ、やっぱりあの日々こそがおれの青春だったよな、なんで年長者になっちまったんだろ、どうして「先生」と呼ばれるような立場になっちまったんだろ、こんなの絶対まちがっているよなと、ひどく悲しい気持ちになった。ずっと二十代後半のフリーターでいたかった。ずっとクズみたいな暮らしのなかで笑っていたかった。教師なんて最悪だ。人間、権威をもったら終わりだ、敬われるようになったら最後だ。ずっとあまえたことばっかり言っていたい。年上にかわいがられたい。貧乏暮らしを楽しむことのできる人間をひとは若者と呼ぶ。じぶんはいまも若者だろうか? なんで教師なんかやっているんだ? イライラする。そういうんじゃないんだ本当は!
  • 夜食はトースト。成績表の記入。今夜中に片付けて明日の午前中に教務室に持っていくつもりだったが、別にそんなに急ぐ必要はないかと中断。教務室に持っていくのは明日の午後でいい。寝床に移動後、『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』(西川アサキ)の続きを読み進めて就寝。