20240108

「主人の言説」は人々に規範的な命令を与える権力の言説であり、「大学の言説」は大学が担う知や科学の言説であると指摘した。「大学の言説」とは、科学的言説であり、事実を表明するものなので、それ自体は、主人の言説のような命令性をもたない。しかし昨今では、健康番組の内容の権威を保証するように、価値自由であるはずの知——「大学の言説」が、大衆の無知と不安をいいことに、「主人の言説」化している。「喫煙は癌になる確率」が高いという「大学の言説」は、「喫煙するな」という「主人の言説」として機能している。ジジェクは以上のように批判するのである。
「ヒステリーの言説」とは、権力に抵抗する言説であった。これに対し「精神分析の言説」は、「主人の言説」とも「大学の言説」とも異なり、言葉にならない抵抗や症状を示すヒステリーを読解しそれに対応して言説化を可能にする言説(実践)である。
 精神分析王国フランスでは、この間、精神分析の言説の固有性を揺るがそうとする法(前述の「アコワイエ修正案」)が作られようとした。
「アコワイエ修正案」は、精神的弱者を食い物にするとされる「まがいものセラピー(カルトなど)」を規制するという名目で、現在フランスで四つのカテゴリー、「精神科医」「サイコロジスト」「精神分析家」「サイコセラピスト」において行使されている心理療法を国家によって「評価」し、制度的統一を行おうとするものだった。
 すなわち「アコワイエ修正案」は「精神分析の言説」を解体し「大学の言説」化しようとするものであり、さらにいえば、現在不在である「主人の言説」を埋めるものとして、「精神分析の言説」に、「大学の言説」の名を借りて「主人の言説」機能を果たさせようとするものだったのである。
樫村愛子ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』より「第四章 共同性を維持する現代の社会象」 p.236-237)


  • 11時半ごろ起床。きのうの就寝は6時をまわっていたはずだが、おもいのほかはやく目が覚めた。三年生の(…)さんから微信。無事実家にたどりついたようす。(…)が彼女のモスグリーンのロングマフラーを噛んで引っ張っている写真が送られてくる。
  • 第五食堂をおとずれたのは12時半ごろだったと思う。店は半分以上閉まっていた。そして開いているようにみえた店もすでに学期末の清掃をはじめており、営業しているのは一箇所きりだった。学生らがみんなそこに集まっていたが、ならんでいるおかずがどれもこれもあまりうまそうにはみえなかったのでそのまま食堂をあとにし、近くにあるパン屋でクリームの入ったクロワッサンやソーセージをはさんだパンを買った。
  • 食後、(…)にteaching planを送信。その後、阳台に移動し、「実弾(仮)」第五稿。13時半から16時半まで。シーン16をもういちどチェックしたのち、きのうにひきつづきシーン17に手を加える。やや麻痺。寝不足のせいかもしれない。作業中は主に『unpeople』(蓮沼執太)と『聴象発景』(evala)を流した。
  • (…)でも食うつもりで西門のほうに歩いていったのだが、第四食堂がまだ営業していたのでそこで打包。たぶん今日が最終営業日ではないかと思うのだが(学生の期末試験は今日が最終日だったはず)、もしかしたらまだ大学に残って仕事をする必要がある教員のためにここだけは今週いっぱい営業するかもしれない(去年そんなふうな措置がとられていたのをおぼえている)。
  • 食後は一時間ほど寝た。それからシャワーを浴び、ストレッチをし、きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の記事を読み返す。一年前の記事に『ストーナー』(ジョン・ウィリアムズ東江一紀・訳)のクライマックスのくだりが引かれていて、ああ、やっぱりすばらしいなァと嘆息した。最初に翻訳で読んで、その後原文で読んだわけだが、また翻訳で再読するのもいいかもしれない。

 イーディスが部屋に入ってきた。ゴードン・フィンチは立ち上がり、邪魔が入ってほっとしたように、おおげさな励ましの言葉を口にした。
「イーディス、きみがここに坐ってくれ」
 イーディスは首を振り、ストーナーに目をやった。
「ウィリアムはよくなっているよ」ゴードンが言う。「先週よりうんと元気になっている」
 イーディスは初めて彼の存在に気がついたように、ゴードンと向き合った。
「ああ、ゴードン。ひどい状態だわ。かわいそうなウィリー。先はもう長くないのではないかしら」
 ゴードンは殴られたかのように、青ざめ、一歩あとずさった。「何を言うんだ、イーディス!」
「あまり長くない」イーディスはまた言って、小さな笑みを浮かべた夫にしげしげと見入った。「わたしはどうすればいいのかしら? この人がいなくなったら、どうすればいい?」
 ストーナーは目を閉じ、すると誰もいなくなった。ゴードンが何かささやくのが聞こえ、やがて遠ざかる靴音が聞こえた。
 驚かされるのは、それがとてもたやすいということだった。どんなにたやすいかをゴードンに伝えたかったし、それについて語るのも考えるのも苦にならないことを訴えたかった。なのに、できなかった。今はそれがまた、どうでもいいことに思えた。台所での話し声、低く張り詰めたゴードンの声と、恨みがましいイーディスの声が聞こえた。ふたりは何を話しているのだろう?
 ……突然、痛みが前触れもなく襲ってきて、備えのない体を暴れ回り、ストーナーは音をあげそうになった。シーツをつかんでいた手をゆるめて、徐々にわきテーブルのほうへのばしていく。痛み止めを何錠か取り、口にほうり込んで、少量の水で呑み込んだ。額に冷たい汗がにじみ、ストーナーは痛みが和らぐまでじっと横たわる。
 また話し声がした。ストーナーは目を開かなかった。ゴードンだろうか? ストーナーの聴力は肉体を離れ、宙空を漂って、あらゆる繊細な音を拾い届けた。けれど、言葉を正確に聞き分ける力はもうなかった。
 ある声――ゴードンか?――がストーナーの人生について語っていた。言葉は聞き取れず、ほんとうに言葉が発せられているかどうかも定かではなかったが、ストーナーの知力は、手負いの猛獣のように夢中でその主題に飛びついた。否応なく、自分の人生が他人にどう映るかが見えてきた。
 冷静に、理詰めに、ストーナーははた目に挫折と映るはずの自分の来し方を振り返った。ストーナーは友情を求めた。自分を人類の一員たらしめてくれる篤い友情を。そして友をふたり得て、ひとりは世に知られることもなく非業の死を遂げ、ひとりは遠い生者の戦列へと撤退していった……。ストーナーは二心(ふたごころ)のない誠意と変わらぬ情熱を捧げる結婚を望み、それも手に入れたが、御しかたがわからず持て余しているうちに、それは潰え去った。ストーナーは愛を求め、愛を手にして、やがてそれを可能性の泥沼に放り投げた。キャサリン。思わず名を呼ぶ。「キャサリン
 そして、ストーナーは教師であることを求め、その願いをかなえたものの、人生のあらかた、自分が凡庸な教師だったことに思い至って、それはまた、前々からわかっていたことでもあるような気がした。高潔にして、一点の曇りもない純粋な生き方を夢見ていたが、得られたのは妥協と雑多な些事に煩わされる日常だけだった。知恵を授かりながら、長い年月の果てに、それはすっかり涸れてしまった。ほかには、とストーナーは自問した。ほかに何があった?
 自分は何を期待していたのだろう?
 目をあけてみると、あたりは暗かった。窓の外の空が、深い紫紺の空間に見え、細い月影が雲間から差した。夜もずいぶん更けてきたに違いない。明るい午後の光のもと、ゴードンとイーディスがそばに立っていたのは、つい先刻のことに思えるのに……。それとも、遠い昔? 自分でも判然としなかった。
 体力の減退に伴って、気力も萎えていくことはわかっていたが、これほど急に来るとは思っていなかった。肉体は強い。誰の想像も及ばないほどに。それはいつも先へ先へと進みたがる。
 声が聞こえ、光が見え、痛みの去来が感じられた。イーディスの顔が目の前にぬっと現われ、ストーナーは思わず笑みを誘われた。ときおり気がつくと、自分の声がしゃべっていて、それは筋の通った話に聞こえたが、そう言い切る自信はなかった。イーディスは夫に手を触れ、その体を動かし、全身を拭いていく。妻はふたたび子どもを手に入れたのだ。ようやく、自分で構うことのできるわが子を。ストーナーはイーディスと話をしたかった。言うべきことがあるように思う。
 何を期待していたのか。
 重いものがまぶたを押していた。その力にわななきが生じた瞬間、ストーナーはぱっちりと目を見開いた。光が、午後の明るい陽射しが感じられた。まばたきをし、窓の外の青空を、そして日輪のまばゆいへりを、眺めるともなく眺めた。これが現実だ、と心に決めた。手を動かすと、動きにつれて、宙から舞い降りたような力が加わった。深呼吸をする。痛みが消えた。
 ひと息ごとに力が増すように感じられた。肌が火照り、顔にかかる光と影の繊細な重みがわかるような気がした。ストーナーはベッドに身を起こし、半坐りの状態になって、背中を壁に預けた。これで室外が見渡せる。
 長い眠りから覚めたような爽快な気分だった。いまは晩春か、もしくは初夏。外のようすから見て、初夏らしい。裏庭の楡の巨木は、みずみずしい緑の膜に葉を覆われ、かねて知る深く涼しい木陰を与えている。空気は濃く、その重みが草や葉や花の甘い香気を孕んで宙に漂っていた。ストーナーはもう一度深く息を吸った。耳障りな呼吸音がして、夏の香気が肺に流れ込んだ。
 と、同時に、体の奥で変化が起き、何かが妨げられて、頭を動かすことができなくなった。だがやがてそれは収まった。なるほど、こういうものか、とストーナーは思った。
 イーディスを呼ぶべきだと思ったが、自分がそうしないことは承知していた。死者はわがままだ。子どものようにみずからの時間を独占したがる。
 ストーナーはふたたび息を吸い、体内に、名づけようのない違和感を覚えた。自分は何かを、何かが明らかになるのを待っている。そう感じたが、時間はまだいくらでもあるように思えた。
 かなたに笑い声が聞こえ、ストーナーはその源を振り返った。どこかへ急ぐ若い学生の集団が裏庭を横切っていく。三組のカップルだ。娘たちは手足が長く、薄地のサマードレスをまとっている。男たちは幸福そうにその優美な姿に見とれていた。三組は軽々と芝を踏み、そこにいた痕跡すら残さず、飛ぶように去っていった。そのあとも長いあいだ、夏の午後の静謐に、屈託のない笑い声が遠く弾けていた。
 何を期待していたのか、ともう一度問う。
 夏風に運ばれてきたかのように、歓喜の情が押し寄せてくる。挫折について――それが重要な意味を持つかのように――考えていたことをうっすら思い出した。いまはそのような考察が、自分の生涯にふさわしくない、つまらないものに思える。意識のへりにぼんやりとした影がいくつも集まっていた。姿は見えないが確かにそこに存在し、しだいに力を増して、見ることも聞くこともできないが、はっきりした形をとろうとしているのはわかった。自分がそこへ近づこうとしていることも。しかし急ぐ必要はない。無視したければそうしてもよい。時間はいくらでもあるのだから。
 柔らかさがストーナーを包み、四肢にけだるさが忍び込んでくる。ふいに、自分が何者たるかを覚り、その力を感じた。わたしはわたしだ。自分がどういう人間であったかがわかった。
ジョン・ウィリアムズ東江一紀・訳『ストーナー』)

  • このくだりは本当にすばらしい。こんなふうに死を内側から書き切っている小説をほかに知らない。というか、ブランショを引くまでもなく、ひとはだれも死を経験することはできないはずであるのに(こちらはかつて「人類共通のコンプレックス——わたしはまだ一度も死んだことがない」という一説を『S&T』に収録した)、ここを読んでいるとなぜかリアルだと感じる。そのリアルとはなんだろうと思う。死を経験したことなどないはずであるのに、ああそうだ、死とはたしかにこんなふうなものだろう、わたしはこれは知っている、この感覚におぼえがあるとすら感じる、それがほんとうに不思議だ。あるいはここで描かれているのは死ではなく、死に至る——死のまぎわの——衰弱であるといったほうが正確であるから、これらの記述になまなましいリアリティを感じ、親近感や既視感をおぼえるのであるとすれば、それは(「死」にではなく)そのような「衰弱」に対するものであるのかもしれない。あるいは意識の飛び方などにかぎっていえば、バケボンで完全にストーンになってしまったときの感じに通ずるところもあるような気がするが。いずれにせよこのくだりはほんとうにすごい。読むと、いつもちょっと安心する。じぶんもいつかはこんなふうに「ちゃんと死んでいける」(磯﨑憲一郎)んだろうな、と。
  • 2014年1月8日づけの記事では、およそ一週間遅れの大掃除をしているようすが書き残されているのだが、そのなかに「畳は一部が腐っていたりアーロンチェアの重みに耐えかねて波打ったりしているのでそれらをすべてガムテープを用いて力ずくでごまかした」という記述があり、そうだった、そうだった! 当時の下宿先は畳が本当に死ぬほどボロボロだったのだ! となつかしくなった。放っておくともっとボロボロになってしまうし、ほつれたいぐさが散らかって散らかって仕方ないので、上からガムテープを定期的に貼りつけていたのだが、そのせいで退去まぎわになるころには、アーロンチェアの下敷きになっている一畳など、むしろガムテープで補強していない面積のほうが小さいくらいになっていたんではなかったか? あと、兄からMacBook Airを送ってもらったのもこの日らしい。そのMacBook Airは今年——ではなかった、もう去年になるのか、去年とうとう壊れたわけで、都合十年使っていた計算になる。今回新調したMacBook Airもせめて十年はもってほしいな。
  • 帰国したらまとめて購入する本のリストを整理した。その流れでふと漱石ラソンを中断していることに気づいたので、Kindleストアで『こころ』をポチった(以前は漱石のほぼ全作品が、たぶん青空文庫名義だったと思うが、Kindleストアで無料で配信されていたはずであるのに、なぜかそれらがほぼすべてなくなっていた)。さらに『フェイク広告の巨匠』(牧野楠葉)もポチった。これは中原昌也が帯文を書いているのでリリース時から気になっていたのだが、紙本のみならずKindleでもリリースされていることにいまさら気づいた格好。
  • その『フェイク広告の巨匠』(牧野楠葉)を読みはじめた。とりあえず表題作だけ読んだのだが、すばらしかった。作者は双極性障害当事者らしいのだが、双極性障害の女性(ミニ)の同僚でありビジネスパートナーであり不倫相手である男性をあえて語り手とすることで、双極性障害当事者の内面を内側から書くのではなく、その行動をただ外側から書くことに終始しており、それが非常にうまくハマっている。内側から内面を書くという方法をとれば、突飛にみえる行動にその都度その都度(暫定的な)理由づけがされるのだろうが(少なくとも一人称的な語りではそうせざるをえない)、外側から行動を書くというかたちではそのような理由づけが不在になり、それがかえってミニという存在にきわだつリアリティをあたえている(と同時に、作中でミニが吐いたかもしれない嘘=小説上の仕掛けが作動する余地を確保することができる)。送別会の場でミニが同僚を一瞬きつくにらみつける場面でその理由がはっきり語られないところであったり(凡百の作家であれば、その機微を言葉を尽くして説明しようとするだろう)、Twitterハッシュタグ運動をしているくだりでそれまで政治的な側面がほぼ語られていなかったミニという人物に突然また別の奥行きがあたえられるところであったり(凡百の作家であれば、こうした具体的な場面を描く前に、彼女の政治思想をエピソードではなく抽象的な記述として「説明」してしまうだろう)、うーん、うまいなァと思う。いや、ミニの政治思想については、「毎日中原昌也が作りそうな安倍の首がギロチンでぶっ飛ばされてるようなTシャツを着ていたミニ」という序盤の記述でいちおうあきらかになっているともいえるわけだが(このくだりには声を出して笑った)。
  • ほか、以下のくだりも印象に残った。

〝今日の夜カラオケ行きません?〟
 おれはなんとなくチャットを飛ばしてみた。
 おれたちは毎週行くようになった。

  • 二行目から三行目への飛躍がいい。そうか、こういうテクがあるのかと感心した。この作品ではわりとしょっちゅう行空けでシーンを切り替えていくのだが、そういうタイプの作家だったらふつう上の二行目のあとに行明けをはさみ、三行目を次のブロックの書き出しとして利用するものだと思う。でも、ここではおなじブロックのケツに「おれたちは毎週行くようになった」までつめこんでしまう。すごくいい。
  • あと、以下のくだりも、けっこうなんでもないといえばなんでもない記述なのだが、印象に残った。

 おれたちはがらがらの新宿を歩いて油そばの店に入った。屋外の席の風があまりに気持ち良くて、おれたちは不倫なんかしてないって気がした。

  • それから最後の一行「しばらくして怒声のような泣き声が聞こえてきた」もいい。自殺未遂したミニが運ばれた病院の廊下でおれ(佐藤)とミニの夫である真木さんがしばらくやりとりする。その後、「それから、何分経ったのかは正確にはわからない。看護師に呼ばれて真木さんは病室に入っていった。おれは立ち上がったまま動けなかった。しばらくして怒声のような泣き声が聞こえてきた」と続くのだが、この「怒声のような泣き声」という表現もすばらしいし、それがミニのものであるのか真木さんのものであるのか明言されていないのがなによりもいい。さらにいえば、ここでミニが死んだかもしれない可能性もいちおう残されているわけで、そういうもろもろの読み筋をふくんだ一行でバシッとむすばれている。これもやっぱりうまいなァと思う。
  • いい小説を読んだという満足感があった。なので続きを読むのはやめにした。この作品の後味を味わったほうがいいと思ったのだ。それで書見は中断し、夜食の餃子を食った。それから今日づけの記事に着手した。購入予定の本のリストを整理しているとき、スマホのメモ帳にStock, Hausen & Walkmanという文字が残されていて、シュトックハウゼンはわかるけどアンドウォークマンってなんやねん、シュトックハウゼンがそんな名義のミュージシャンとコラボしている楽曲でもあるのかなと思ってググってみたところ、シュトックハウゼンとはまったく関係のないアーティストだった。Discogsのプロフィールには以下のようにある。

No other artist's name makes quite as much sense as Stock, Hausen & Walkman (1991-2001) - a triple pun embracing pioneering electronic composer and theorist Karlheinz Stockhausen, the '80s pop-by-numbers production team Stock, Aitken & Waterman, and the Sony Walkman.
At the time of the group's formation in the late '80s, they were an experimental/improv duo consisting of Matt Wand ( who named and started the band ) & guitarist Rex Casswell. Cellist Dan Weaver, drummer Richard Harrison, Andrew Sharpley & others contributing in live and studio roles along the way, They played at Company Week at Derek Bailey's request in 1990. The project was continued with arguably the most successful albums Organ Transplants vol1 & 2 conceived & designed by Wand with musical contributions from Sharpley after Casswell moved to Denmark and Weaver began taking recording time-outs to perform for dance and theatre. Wand started and ran Hot Air Records to get the S,H&W records ‘out there’ and began releasing a wide range of albums, also by other artists over that decade and continues conceiving, designing and producing albums as that label to the present. Matt Wand wrapped the project up in 2001 but continues to release archive S,H&W material of “some interest” on Hot Air. There are vague rumours that new material might see the light in the near future.
Stock, Hausen & Walkman (now Matt Wand, Andrew Sharpley and Daniel Weaver) is known for making sample-heavy, subversively funny collages with a healthy disregard for copyright issues: "taking pot shots at anything that moves, be it high art music, low pop or cheesy listening" (The Wire 163). Distinctive packaging has been prevalent in most SHW's releases.
The duo's music (Daniel Weaver leave them before the "Ventilating Deer" CD-ROM came out) has a hands-on, DIY approach, consisting of obscure samples and messed up beats, collaged into short, quirky songs. Wand and Sharpley continued on with an album-per-year release schedule until their split in 2001.

  • AppleMusicで検索してみたが、『Angelica 1997』というオムニバスしかヒットしなかった(大友良英の楽曲も収録されている)。それでそのオムニバスをきいてみたのだが、Stock, Hausen & Walkmanの楽曲では“Oops!”というのがかなりかっこよかった。もっとガチガチなコラージュなのかな、ハーシュノイズっぽいのかなと思っていたのだが、意外なことにビートがしっかりしていてかなりききやすいものだった。ほかにZygmunt Krauze(ジグムント・クラウゼ)というポーランドの現代音楽家の“Folk Music (feat. Orchestra Del Teatro Comunale Di Bologna & Franco Sebastiani) [Angelica Version]”という楽曲もすばらしかった。ちょっとほかの音源にもあたってみたい。それから、Bob Ostertagというひとの“Solo”という楽曲もバグったミニマルミュージックみたいでけっこういいのだが、英語版のWikipediaによるとこのひとはアメリカ人で、音楽だけではなく文筆や映像も手にかけているようだ。AppleMusicに音源はないけれど、bandcampのほうで手に入る。
  • 『Angelica 1997』をききながらしばらく日記を書いたのち、ベッドに移動。『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』(西川アサキ)の続きを読み進めて就寝。