20240109

 しかし人間は、異質な他者と関係する中で現実的なものと自己の幻想の落差に出会い、現実を学習して幻想を再構築していく力をもっている。このように他者を通じてこそ主体が現実と出会えるところに(なぜなら他者の誘惑なしに、人はわざわざ現実的なものと出会わない)、他者の存在の意味がある。また、このとき現実を受け入れ、幻想を再構築するときの支えとなるのも他者である。そこに、現実の他者、自分を超えた存在である他者によって構成され、人々がリソースにできる文化(象徴的他者と象徴的なもの)や、人々の現実的な交流としての高度な愛の意義がある。
樫村愛子ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』より「第五章 電子メディアと解離的人格システム」 p.269-270)


  • 11時ごろ起床。朝食兼昼食はトースト。阳台に移動し、13時前から16時まで「実弾(仮)」第五稿執筆。シーン17の続き。難所をひとつクリアできた。作業中は『Tomorrow Was the Golden Age』(Bing & Ruth)と『Hydration / 水分補給』(天花)と『我用什么把你留住』(福禄寿)を流す。
  • ケッタにのって(…)へ。牛肉担担面の大盛りを食す。今日のはいまひとつうまくなかった気がする。帰路、(…)で食パンを三袋、セブンイレブンで弁当とスタバが出しているペットボトルのラテを買う。キャンパスではスーツケースをガラガラさせている学生の姿を三人か四人目にした。さすがにほぼ全員帰省しているはず。帰宅後、買ったばかりのラテを飲んだのち、あるかなしかの仮眠。
  • 母からLINE。実家に帰省するのは何日になるのか、と。帰国後は京都で二泊、場合によっては三泊するかもしれないと返信。6日から8日まで従姉妹の(…)がひとりで(…)に来ていたというので、あんな田舎になにしにきたんねと思った。弟といっしょにずっとゲームでもしていたのだろうか?
  • (…)さんに微信を送る。本帰国前に中国の銀行口座にある金は全部日本に送金したのか、それともいまもATMでちびちび引き出しているのか、と。前者であるという返事。外教らはみんなそうしているはずであるし、(…)にきけば手続きの方法も知っているだろうという。本帰国を視野に入れているのかというので、そういうわけでもないのだが、ATMでの引き出し限度額がまた厳しくなったという情報も最近小耳にはさんだし、ここらで一度まとまった額を送金しようかなと考えているのだと応じる。
  • シャワーを浴びる。卒業生の(…)くんから微信どらやきのことをドラケーキということはあるだろうか、と。長沙でどらやきを売っている店を見かけたのだが、そこにドラケーキという文字が付されていたのだという。ググってみると、「どらケーキ」なるものがいくつかヒットする。どらやきを西洋風のケーキっぽくアレンジしたもの。でもこれじゃないだろうなと思ったところで、あ、もしかしてとdora cakeでググりなおしてみたところ、どらやきの画像がバンバンヒットした。英訳がdora cakeなのだ。
  • 荷造りをはじめることにする。しかし一瞬で終わる、というかパソコンとタブレットKindleとイヤホンと外付けハードディスクと配線各種、それに授業準備用の教科書と着替えだけで荷物は全部であるし、それらの荷物の大半は出発前日でないとパッキングすることができない(ぎりぎりまで使用するので)。だから荷造りのしようがないのだ。航空券の予約画面だけ念のために印刷しておく。
  • 『馬』(betcover!!)を流しながらきのうづけの記事にとりかかる。Zygmunt Krauze(ジグムント・クラウゼ)について書いた流れで、AppleMusicで音源を探してみたところ、『P53』というアルバムがヒットする。Chris Cutler(drums, objects, low grade electronics)とMarie Goyette(grand piano)とZygmunt Krauze(grand piano)と大友良英(turntables, homebuilt guitar)とLutz Glandien(computer, samples, real-time processing)からなる同名バンドのライブアルバム。英語版Wikipediaによると、the 25th Frankfurt Jazz Festival in Germany in September 1994で演奏するためにChris Cutlerが組んだバンドらしい。で、さっそくそのアルバムも流してみたのだけど、グランドピアノを担当するZygmunt KrauzeもMarie Goyetteもやっぱりクラシック畑の人間だからか、全然アヴァンギャルドでもなければインプロヴィゼーショナルでもなく、ほとんど古典的な調性音楽の断片ばかり弾いている感じで、うーん、やっぱりこういうのはジャズ畑の人間じゃないとむずかしいのかなと思ったのだが、でもグランドピアノ(クラシック)とほかの楽器および方法(アヴァンギャルド)のその分離具合がむしろおもしろく聴取される瞬間もあり、あれ、やっぱりこのアルバムいいかもと思ったりもしたのだが、のちほどあらためてWikipediaを確認してみたところ、The pianists were instructed to play "a few small sections from the classical repertoire", in any way and at any tempo, while the other musicians were free to, according to Rick Anderson of AllMusic, "romp around them wreaking gleeful havoc”とあった。なるほど。

The instrumentation of the p53 project consisted of two grand pianos, amplified turntables, a homemade electric guitar, percussion, electronics and real time processing. Cutler's interest in sampling and turntablism began when it became possible to "play" them as instruments, and not just "run them in”. This led to the idea of "real-time montaging", which formed the basis of p53.


Cutler established p53 as a free improvisation project within a predetermined structure to investigate the notion of making "improvisation a compositional endeavour". Cutler wanted it to question the nature of music and how listening to music has changed. He wanted to "pit acoustic sounds and the classical music tradition", two grand pianos, against "electronic timbres and the contemporary sound world", amplified turntables, electric guitar, computer generated sounds and real-time processing. He also wanted to contrast the difference between "early 20th century concert listening and the channel-hopping aesthetic of the fin de siecle ’90's".


The pianists were instructed to play "a few small sections from the classical repertoire", in any way and at any tempo, while the other musicians were free to, according to Rick Anderson of AllMusic, "romp around them wreaking gleeful havoc". Glandien periodically played back amplified and distorted live samples of the pianists, making them, in effect, human samplers, providing raw material for him to manipulate.

  • きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、一年前の記事を読み返す。以下は2021年1月9日づけの記事からの孫引き。

 いまはむかしよりずいぶんマシになったとはいえ、じぶんのなかにある地元にたいする憎悪に近い感情は、『責任の生成』を読んだ現在、よく理解できる。地元を捨てるというのは過去を捨てるということであり、つまり「意志」であるわけだ。二十代のころのじぶんはこの「意志」に圧倒的に依存していた(いまもやはり依存しているのかもしれないが)。つまり、じぶんは地元にいたころのじぶんとはすでに別人なのだ、完全に生まれ変わったのだという自負が、そのままアイデンティティになっているようなところがあった。人間は生まれ変わる、やりなおせる、たえまなく変化しつづける、首尾一貫する必要などないという、いまにいたるまでじぶんの基本的な構えとなっている思考も(そしてその構えとやはり地続きになっている「A」という小説も)、結局、先のような意味での「意志」を擁護するために要請されたものであり、だからこそ、現代思想によくみられる構築主義的な傾向や、ドゥルーズ=ガタリの(「ある」ではない)「なる」哲学にもすんなりなじむことができたのだろう。
 いまでも地元にいたころを前世のように感じるとたびたび書いてしまうし、実際そう感じもするのだが、これも結局、十代のころの圧倒的な無気力、地獄のような退屈さが外傷となっており、それがよみがえるのをおそれているのかもしれない、おそれているからこそことあるごとに「前世」という言葉で遠ざけようとしているだけなのかもしれない。本と出会ってから退屈や暇を感じることがなくなったというようなこともじぶんはよく口にするが、この言明だってやはりその裏にあるのはそのような退屈や暇に対する潜在的な恐怖ではないか。そして環境が変わるたびに、元の環境でつちかいはぐくんできた人間関係をバッサリとリセットしてしまう傾向は、十代の外傷を「意志」により克服した(と誤認している)成功体験を、強迫的に反復しているだけでしかないと理解することもできる。
 親族関係を厭うのも、地元を厭うのと同じで、それがじぶんの過去や来歴にかかわるからだろうか。血縁と地縁を否定したはてにはいま・ここしか残らない。そのいま・ここからあらたに行為をはじめることを「意志」というのであれば、「意志」とは自分自身に対する征服欲、コントロール欲でしかなく、もっといえばそれは、自己の有限性を認めるという意味での去勢を拒んで万能であろうとする傾向でしかない。
 そのような幼児性に憑かれていたじぶんが、ここ一二年、まさしくいま・ここから過去(来歴)に遡行し、その極点にみずからをみずからたらしめる特異性を見出しそれに寄り添い生きていこうとする精神分析に、なぜかひかれているというのはなんとも示唆的ではないか。ドゥルーズ=ガタリの、(その「有限性」の側面を排除したうえで誤読すれば)無限の可能性というチープなスローガンに短絡されかねない生成変化の哲学にではなく、むしろその「有限性」(原抑圧? 去勢?)こそが最大の問題であるとするラカン派に、仮定法過去と仮定法現在が釣り合う35歳前後に魅入られてしまうとは、ほとんど必然的な成り行きであったような気すらする。

  • 一年前の記事にはだれがなんといおうとFlannery O'Connorの最高傑作である“Good Country People”についてのメモ書きも残されていた。ムージルの「ポルトガルの女」とならんで世界文学史上最強最高の短編小説。
  • セブンイレブンで買った弁当食す。今日づけの記事を書き、ベッドに移動後、『フェイク広告の巨匠』(牧野楠葉)の続きを読んで就寝。