20240107

 哲学者の樫村晴香は、モノは、人間にとって依然、人間の操作的想像力に対し粘性の抵抗力をもって、瞬間的には生成できず、一定の時間と周期を必要とするものであると指摘する。例えば一台の車を作るのは大変な労働で、それを消費するということは、その労働の成果を手にしているわけである。
 しかし、そのようなモノであれ、現代のような消費社会では、消費してしまえば最初の興奮も欲望も一瞬で消失してしまう。が、ここで、それでもその車を自分が所有することは、その一瞬の危うい欲望を、他者に対する優越の形式でつなぎ止めることができる。
 樫村晴香は、それを「所有とは、モノの生成の困難がモノを支配する力と権利における他人と自分への対立にすり替えられることで起こる感情である」と示唆する。車が与える快楽は、一瞬のものだが、車を所有するということは、すぐには手に入らない車を、人が車をもっていることを羨む視線を通じて、永続化すると述べるのである。
 使用価値をもつモノ、生きていくための労働を隠喩するモノは、それを手に入れるための困難や長い労働時間によって、モノを消費する一瞬の快楽までの時間を引き延ばす。しかしそれが消費されてしまうと、快楽と欲望は消失する。が「所有」という制度は、他人がそれを簡単にもてないということを隠喩させることで、モノが手に入った瞬間の快楽を持続させているというのである。ここではむしろ交換価値が使用価値を支えている。精神分析では欲望とは「欲望の欲望(人が欲しがるものが欲しくなること)」ゆえ、このような発想が基本となる。
 しかし現在は、脱所有の時代となりつつある。なぜなら、次々と新しい車が現れる時代、所有は、むしろ所有の維持コストを示唆する。今の車を所有していることが、新しい車を獲得することを阻害する。こうして、消費社会の恒常性を支えていた欲望もそれをつなぎ止めていた所有の欲望も、それを進める資本主義のサイクルの加速により摩滅し、人々は未来へ向かうベースをなくしていく。
樫村愛子ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』より「第三章 なぜ恒常性が必要なのか」 p.174-175)


  • 10時ごろ起床。三年生の(…)さんから微信。今日の17時ごろに冷凍肉を回収しにいく、と。期末テスト自体は今日の午前中で終わったらしいが、夜21時の電車に乗る予定なので、それまでは大学に滞在するのだ。今日の午前中に受けたテストは高級日本語だったらしいのだが、かなり難しかったという。
  • 第五食堂の炒面を打包。寮の階段をあがっている最中、大荷物の(…)夫妻とすれちがう。これからカナダに帰国するという。6週間後にまた会おうというので、Have a nice trip! と受けたが、帰国する相手にこの表現はやっぱりちょっと変なのかな? ちょっとだけググってみたのだが、Have a safe trip home! という表現があるようだ。これがいちばんおぼえやすいし、使い勝手もよさそう。
  • 今日は日差しも出ていなかったし、部屋にいてもけっこう冷えたので、阳台には出ず寝室で「実弾」第五稿執筆。13時前から16時過ぎまでカタカタやる。シーン16は問題なく片付いた。シーン17は二番目となる鬼門。ここは全シーンのなかでおそらく最長。シーン18と合わせて何度も何度も書き直しているので、またここに手を加えるのか……と内心うんざりする。
  • きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の記事を読み返す。以下は2023年1月7日づけの記事より。

古井 大きく文学の流れを見ていくと、コロキアル(口語)の方向に時が流れたとき、しゃべるように書くのが流行ったときにはかえって多様性が失われるようです。
大江 ええ。一箇の人間がしゃべるようにそのまま書くことで多様性が生まれるものではないですね。ただそれが文学の原初の形態ではあって、どの作家でも一人称かその置きかえによって成果をあげることが一作だけは可能です。例えば二葉亭四迷にも『平凡』がある。しかしそれは当人にもそのまま繰り返しうるものではない。他の人間のやれることではない。
大江健三郎古井由吉『文学の淵を渡る』)

 「しゃべるように書くのが流行ったときにはかえって多様性が失われる」という箇所を読んで思ったのだが、こちらの観測するかぎり、若い世代のうちけっこうなボリュームが、いま、書き言葉としては2ちゃんねる的な文体をデフォルトとしているというか、その文体なくしては文を書くことができない——書き方がわからない——状態にある。2ちゃんねる的な文体というのも、それが出てきた当初は、それはそれで一種オルタナティヴな文体だったのかもしれないが、いまはもう全然そうではないようにみえる。「あえてそう書く」の「あえて」が欠落してしまった、アイロニカルな批評精神が漂白されてしまい、ただただ貧しい、LINEのスタンプにひとしいお決まりのフレーズや言い回しだけで成立する、まるで動物の鳴き声を思わせるほど大雑把で情緒だけが前面化した、そうしたやりとりのための道具。
と、書いていて、ブコウスキーは自作でスラングを全然使わないというエピソードが語られていた柴田元幸高橋源一郎の対談を思い出したので、該当箇所を引いておく。2019年2月6日づけの記事より。

柴田(…)ブコウスキーを訳していて、「ああいう汚い世界を書いてるから、スラングをいっぱい使ってるんでしょう」と訊かれることがあるんですけど、考えてみると、ブコウスキーにはほとんどスラングが出てこないんですね。
高橋 たしかにないですね。すごくわかりやすい。
柴田 わかりやすいですね。スラングというのは仲間内の通り言葉で、特定の小さい閉じた共同体のなかでしか使わないものですよね。ブコウスキーはどこの共同体にも属さないからスラングが使わない。友だちいないとスラングって要らないんですよね(笑)。
 そういう意味で言うと、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はスラングがいっぱい出てきて対照的です。ホールデンは孤独な少年という感じだけれども、見えない友だちはちゃんといるんですね。ああいう喋り方をする子たちがいて、言語を共有してる。ブコウスキーには、そういう言葉の共同体がない。
柴田元幸高橋源一郎『小説の読み方、書き方、訳し方』)

  • (…)さんから訪問を18時にずらすという微信が届く。第五食堂でまた広州料理を打包。食後ほどなくして(…)さんから連絡があったので、冷凍庫のなかにしまいこんであった大量の肉を取り出して外に出ようとしたところ、すでに扉の前に彼女の姿があったので、うわ! とびっくりした。肉はかなり重い。全部で四キロほどある。いったん女子寮のほうにもどるつもりだというので、だったらそこまで運びましょうとそろって階下に移動。おもては小雨。しかし週間予報によると明後日以降はまた晴れるようであるし、最高気温も15度以上をマークするようす。というかこちらが出国する13日にいたっては21度とある。先生の故郷と(…)どちらが寒いですかと(…)さんから質問されたが、予報によれば少なくともこれから一週間は最高気温に10度ほど差がある。地元のほうがずっと寒い。
  • 21時発の高铁で(…)に移動。その後(…)から通常の電車に乗り換え、故郷の駅に到着するころには朝の7時になっている予定だという。寝台列車に乗るということなのだろう。きのうは夜の2時に寝たというので、ずっと勉強していたのかとたずねると、愛犬の(…)に会えるのが楽しみで寝付けなかったという返事。小学生かよ。こちらの冷凍庫にあずけていた肉のほかに(…)でサーモンも買ったらしい。もちろん(…)のためだ。スーツケースの中は(…)へのお土産でいっぱいだという。幸せなワン公やな!
  • 女子寮前で別れる。また来学期! 気をつけてね! とあいさつ。帰宅後は30分ほど仮眠。それからシャワーを浴び、ストレッチをし、コーヒーをいれてから今日づけの記事を書き、教案作成の続き。日語基礎写作(一)のものを片付ける。作業中はヴィキングル・オラフソンの演奏するフィリップ・グラスエチュード第9番と君島大空の“c r a z y”をくりかえし流した。
  • 書見。『海の向こうで戦争が始まる』(村上龍)を最後まで。梶井基次郎がいうところの「聖なる時刻」に関する記述があった。

 昔、小学生の頃、学校を早退してこの並木道を歩いた。あの時感じた胸騒ぎのする新鮮さを思い出す。あの気分に似ている。知らない時間帯の街並を見る時の、午前中なのに夕暮れを歩いているような気分、それを思い出す。
村上龍「海の向こうで戦争が始まる」)

――それはたとえば彼が半紙などを忘れて学校へ行ったとき、先生に断わりを言って急いで自家(うち)へ取りに帰って来る、学校は授業中の、なにか珍しい午前の路であった。そんなときでもなければ垣間見ることを許されなかった、聖なる時刻の有様であった。
梶井基次郎「冬の日」)

  • ラーメンを食し、「実弾(仮)」の原稿にちょっとだけ目を通し、歯磨きをすませる。その後ベッドに移動するも書見する気が起きず、なんとなくVampire Survivorsを再インストールし、朝方までプレイし続け、バカらしくなってまたアンイストールした。なにしとんねん。