20240110

 ひとたび足を地につけ、そこでバランスをとることを覚えた瞬間、人は永遠に大地から離れられなくなる。
(グエン・ゴック・トゥアン/加藤栄・訳『囚われた天使たちの丘』)


  • 朝方、5時ごろだったと思うが、胸の悪さで目が覚めた。目が覚める直前にげっぷしたような感触があった。しばらく横になっていたのだが、あんまりよくならないふうだった。胃をやっているときの気持ち悪さとはちょっと違った。逆流性食道炎っぽいなと思った。どうなるかわからんが試してみようと思い、体を起こして寝床に座ってみると、せりあがっていたものがみるみるうちに落下していくのがわかった。それでひと心地ついた。人間なんてしょせんは一本の上等な筒に過ぎんわけやなと思った。きのうの夜に食べた広州料理の弁当には脂身がたくさん入っていた。それがもしかしたら原因かもしれない。
  • 二度寝。次に目が覚めると11時過ぎだった。(…)からLINEが届いた。先週末に(…)ちゃん、(…)、(…)の三人がコロナになったという。いまは三人とも元気だというのだが、念のために報告しておくというので、こちらも一度感染しているわけであるし、まあたぶんだいじょうぶだろうと受けた(とはいえ、抗体はほぼ残っていないだろうし、なによりいま流行しはじめているのはオミクロンですらないあらたな変異株ではなかったか?)。それよりもなぜ(…)ひとりが無事だったのか、そっちのほうがふしぎだったのでたずねたところ、数ヶ月前に単独感染したとのこと。そのときはそっこうで自主隔離して家族には移さずにすんだらしい。
  • (…)からも連絡。中国にもどってくる予定日を教えてくれというので、スケジュールを送信。ついでにWishing you have a wonderful winter vacation and a great spring festivalと恒例のあいさつ。ほか、三年生の(…)さんがモーメンツに教師資格試験に合格した旨を投稿していたので、コメント欄にお祝いのメッセージを送っておいた。(…)さんは一年生のときとくらべるとまるで別人になったなァ。
  • 12時半から15時半過ぎまで阳台で「実弾(仮)」第五稿。例によってシーン17。ここはマジで長い。全シーンのなかでいちばん苦手意識がある。とりあえず半分ほど進めた。作業中は『Bi-Piano Recital』(Zygmunt Krauze)を流した。ほか、蓮沼執太&U-zhaanやヴィキングル・オラフソンやStock, Hausen & WalkmanやBob OstertagやBing & RuthやSZAやMall BoyzやTohjiもちょこちょこ。
  • ケッタにのって第四食堂近くの郵便局へ。耳栓回収。それから(…)楼の快递に移動し、こちらでは蛸足ケーブルを回収。リビングで使用しているケーブルからときどきパチパチと火花の爆ぜるような音がきこえるようになったので、火事になったらかなわんわというわけで新調した格好。冬休み中で閉店している快递も多いからだろう、荷物はどちらも代理の店舗で受け取りというかたちになっているらしく、セルフで回収手続きをすませることができなかった。
  • (…)へ。今日はトマトと魚の切り身の麺の大盛り。腹いっぱいになった。近くにあるローソンで夜食用のおにぎりをふたつ買う。異国のセブンイレブンやローソンで日々おにぎりを買う日本人というじぶんのキャラにぞっとする。齢四十を前にしていよいよ愛国糞野郎にまで落ちぶれた。
  • 帰宅。『フェイク広告の巨匠』(牧野楠葉)を最後まで読んだ。表題作がきわだってよかった。30分ほど仮眠をとったのち、きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の記事を読み返す。以下は2023年1月10日づけの記事より(初出は2021年1月10日づけの記事)。大麻のくだり、いいね!

 ほかに、アフォーダンスを物や植物からの声として記述しているのも印象に残った。動植物や無生物と交わすことのできるものとして「会話」という概念を更新・拡張できそうな予感がする。また、熊谷晋一郎のいう「行動のまとめあげパターン」(208)を一種のダンスとして見ることもできるかもしれないと思った。固有の身体と周囲の環境をすりよせた結果ねりあげられていく行動のまとめあげパターンとは、脳性麻痺の熊谷晋一郎やASDの綾屋紗月が、健常者や定型発達者をベースとして設計された環境で生活をする上でのさまざまな工夫を例とすればわかりやすいが、そのような行動のまとめあげパターンとは、健常者であり定型発達者である人間も当然(日々微調整しながら)身につけているものである。こちらがすぐに思いつくのは、たとえば実家でも職場でもいいのだが、日頃長い時間身を置いている環境でのあの動線が決まりきっている感じ、そしてその動線にしたがって移動する足音の数やリズムや響きだけでだれが移動しているのか理解できるあの感じで、そういうパターン化された日常の所作も含めてダンスといってしまってもいいのではないかというのが、書見中、ふとひらめいたことであるのだが、このような概念拡張の先になにがあるのかはまだわからない。
 いちばん印象に残ったのはやはり、『〈責任〉の生成』でも言及されていたが、差異というものが苦痛であり、主体に傷をもたらすものであるという観点だろう。これはポストモダン的な差異の称揚に対して完璧な一石を投じているし、無限にたいして有限を、接続にたいして切断を強調してみせた千葉雅也の戦略とも共鳴する部分がある。徹底的に微分化されたたえまない差異の奔流に身をさらすことは苦痛であるということ、そこにユートピアはないということ(これはかつての分裂症神話、そしてその代替わりとしてもちあげられかねない自閉症神話にたいしてしっかりと釘を刺す)、そう考えるとやはり重要なのは程度問題であり、中途半端さであるのだということになるだろう。物語と出来事の配分、象徴秩序とそこにおさまらない現実的なものの配分、一般性と特異性の配分——「配分」と「度合い」という、決して華やかではなくむしろ地味な概念こそが、今後の哲学をうらなうことになるのだと、部外者だからこそ可能な放言をここでひとつしておこう。そしてそれは「調停」というテーマと大きくかかわるのだ。
 あと、かつて大麻による酩酊状態を、感度を上昇させるという通説とは逆に、あれはむしろ感度を低下させるものであると分析したことがあるが(だからこそ味の濃くてあぶらっぽい食い物をあれほどうまく感じてしまうのであり、反復する単調なリズムにたいしてなすすべなく体が動いてしまったり逆にストーンになってしまうのであり、単純きわまりない物語に感動してしまうのである)、この経験的な仮説も裏打ちを得た感じがする。つまり、自閉症的主体は解像度が高すぎるがゆえに「情報」をまとめあげることができない(象徴化/意味化/物語化/パターン化できない)のに対し、大麻による酩酊状態にある主体は解像度が低すぎるがゆえに本来は複雑極まりない「情報」をたやすく一本化してしまう、つまり「解像度の低下」を引き換えにして入力情報が単純化されてしまうのを「感度の上昇」と理解しているにすぎないというわけだ。酩酊状態のいわゆる「勘ぐり」、それから大麻常用者と陰謀論の相性の良さなども、解像度の低さゆえに物語化が過度に進行してしまうのが原因だろう。ガンギマリの果てに「すべてがわかった」としかいえなくなる状態など、物語化の進行がその極点に達しただけにすぎない、あんなものは悟りでもなんでもない。

  • 今日づけの記事もここまで書く。作業中は『P53』を流す。それから荷造りをちょっとだけ進める。本は部屋にたまっていくいっぽうでもかまわないというあたまでずっといたのだが、なんとなく本帰国がそれほど遠くない時期にひかえているのではないかという予感があるので、すでに抜き書きを終えた書籍だけはまとめて実家に持ち帰ることに決めた。『定本 夜戦と永遠(上・下)』(佐々木中)、『ラカン入門』(向井雅明)、『創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで』(松本卓也)、『リアルの倫理――カントとラカン』(アレンカ・ジュパンチッチ/冨樫剛訳)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(東浩紀)、『かたちは思考する 芸術制作の分析』(平倉圭)、『精神分析の再発明 フロイトの神話、ラカンの闘争』(工藤顕太)、『精神分析にとって女とは何か』(西見奈子 編著)、『ラカン精神分析の治療論 理論と実践の交点』(赤坂和哉)、『「心理学化する社会」の臨床社会学』(樫村愛子)、『「エクリ」を読む 文字に添って』(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮=訳)——と、ここまで書いたところで、いま、これほんまに23キロ以内におさまっとるんやろかとちょっと不安になった。ためしにスーツケースをもちあげてみた感じ、たぶんだいじょうぶ、23キロぎりぎりまで詰めて運んだときはもっとずっとしんどかったはずだと思ったが、正直どうかわからん。最悪、空港で(授業準備のために持ち帰る予定の)教科書を捨てればいいか。あれは無限に手に入るので。
  • シャワーを浴びる。あがってストレッチをしたのち、Kindleストアで『塔の中の女』(間宮緑)をポチる。これ、たしか『A』を発刊する直前に知った作品で——いやそうではないか、早稲田文学新人賞に「Z」を送ったものの選考を途中で辞退したあのタイミングだったかもしれないが、いずれにせよ十年以上前に知った作家の作品であることはまちがいなく、なんとなく『A』と似たテイストの作品なのかもしれないと思って気になっていたのだが、例によってそのままにずっとなっていたのを昨日だったか一昨日だったか、不意に、あ、そういえばあれまだ読んでないなと思いだし、で、ググってみたところ、Kindleでリリースされていることに気づき、それでポチったのだった。さっそくちょろっと読んでみたのだが、『A』とは全然タイプの違う作品だった、というか架空の国家が舞台になっており、かつ、その国家というのが一見するとファンタジックな感じなのかなと思いきやけっこう現代文明に近い水準のアレを備えており(鉄道だのなんだのがある)、というあたりが先日読んだ『海の向こうで戦争が始まる』(村上龍)にむしろ近い印象を抱かせる。舞台設定が舞台設定だけにガンガン展開していくのかなと思ったが、けっこうのんびりとした歩みで、不穏な動きはあるのだけれどもめまぐるしいわけでもなくじわじわとしている、そういう意味ではちょっと『シルトの岸辺』(ジュリアン・グラック)を思い出しもするのだが、ところで、主人公の青年オレステスが姉エレクトラとはじめて再会する場面の姉の辛辣すぎるセリフにクソ笑ってしまった。

「あなたは憎悪の塊だったわ。いつも不機嫌で、難しいことばかり考えてて、一度だって笑ったりなんかしなかった。《おはなし》を読んでくれる乳母を冷たく罵って、くそ面白くもない算数問題を黙って解いていた、そんな子供だった。私の可愛い弟。それが、こんな、ふやけたお人好しの顔をして、ぼく人間愛にあふれてますみたいなことを言うようになるなんて、反吐が出そうよ。がっかりだわ。あんたみたいな人間が、わたし、一番嫌いなのよ。どこかで野垂れ死にでもしていた方がましだった。ただわたしを苦しめるために現れたんだわ、あなたは。なぜ笑っているの? そのにやにやは、一体何のつもりかしら?」
 女はもう遠い床に思いをはせるのをやめて、今度は僕を冷ややかに、にらんでいた。僕は彼女を愛しいと思った。
「僕、きょうだいがいて、嬉しいんです。それに、僕の姉さんは、とっても怒りん坊なんだなあと思って」
「あのねえ、ぶっ殺すわよ。写真、返して。それからそのくだらない本を持ってとっとと消えてくださいな。もう二度とわたしの前に姿を現さないでね。二度とよ。あなたは多分、死んじゃったのよ。もうあなたは、私のオレステスじゃないわ。ばいばい。せいぜい道徳でも説いて偽善者になるのね」

  • 舞台は架空の国家であるし、鉄道が出てくるまでは現代文明とは無縁のちょっとファンタジーっぽい世界観なのかもしれないと思う程度には非現実的で幻想的な雰囲気もあり、で、実際そういう世界観に即して形成されたかのように登場人物らのセリフもやはりフィクショナルで、というのはつまり役割語を使うことをまったくおそれておらずむしろがっつり利用しているというわけなのだが(ちなみに「役割」という語はこの作品の序盤で特権的に扱われている)、そんなかで不意に、この姉はそうした作品の法をぶち壊すかのように、「あのねえ、ぶっ殺すわよ」というとんでもなく俗っぽくかつ「キャラ」から外れた言葉を口にする。その姉の目標は彼らの住まう地域の公爵をぶっ殺すことである。公爵は全身がらくたの組み合わせでできた人物であり、かつ、みずからが住まう宮殿だか城だか砦だかの内側には詩人しか住むことを許さないという人物である、そしてまた彼の土地に住む人物は自身の《役割》を学ぶようにと子どものころから教育される——というような序盤で言及された「設定」を比喩の結節点としてすなおに確保して読み筋をたどっていけば、姉のこのほとんど場違いな口調、作品の象徴秩序をぶちこわすような言葉遣いというのは、おそらく意図して採用されたものなのだろう。言語にかかわるあれこれが寓意的に組み立てられている印象。
  • ローソンで買ったおにぎりを食し、歯磨きをすませてから、寝床に移動して就寝。セブンイレブンにしてもローソンにしても、中国のコンビニで売っているおにぎりは米が日本と全然違う気がする。粘度が足りないというか、かなりパラパラしていてほどけやすく、それがちょっと物足りない。