20240111

 丘に登って周囲を見渡せば、生い茂る草原の上や木々の間に間に空が見える。それは小さく切り取られた空の一部にすぎないが、人はそんな形で空の大きさを確認するしかない。なぜなら人の目に映るのは一人ひとりの視野に分断された空にすぎず、空本来の大きさではないからだ。
(グエン・ゴック・トゥアン/加藤栄・訳『囚われた天使たちの丘』)


  • 11時前起床。朝昼兼用でトースト二枚食す。明日はいよいよ出発であるしその前にメールボックスだけチェックしておこうとアクセスしたところ、クソ驚いたことに(…)からメールが届いていた。何年ぶりだ? 

(…)

  • まず、なんでまたいまさら? という驚き。もう10年以上も前のできごとなのだ。I yelled at you at the train stationとあるけれども、はっきり言って全然おぼえていない、そんなことあったか? と思う(毎日いそがしくてろくに日記を書くことのできなかった日々の弊害!)。こういうメールを突然送ってくるということはたぶん旦那とケンカしたか、あるいは離婚したか、それとも離婚危機にあるほどまずいケンカをしているか、たぶんそういう状況にあるのではないかと思うのだが、どうだろう。あるいはもしかしたらまたあやしい詐欺師まがいのfake buddistが主催するmeditationのprojectかなにかに参加し、そこで過去にさかのぼってもっとも悔やんでいることを掘りおこしなさいみたいなことを言われたのかもしれない。
  • こちらの記憶にあるかぎり、最後に彼女から連絡があったのははじめて中国をおとずれた日の夜、(…)のホテルに到着したあとに(…)が受付のスタッフとなにやら相談しているあいだ、うわさのVPNとやらはほんとうに機能するのだろうかとおそるおそるアプリをオンにしたところ、当時はインストールしたままだったWhatsApp経由で、ひさしぶり! 元気にしている? みたいなメッセージが届き、それで、きみは絶対信じないと思うけどおれいま中国にいるよ、今日到着したばかりなんだよと応じたのをきっかけに少々やりとりをして——で、その数日後だったか数ヶ月後だったか忘れたが、わたしもあなたのいる大学で語学教師をすることはできないかなとの打診があり、正直こちらが頼めば大学側としても願ってもないという反応だったと思うのだが、そんなことをすれば平穏なこちらの生活がぶっ壊されてしまうというアレから、うちはいま募集していないようだよと応じたのだった——というのが最後ではないか?
  • 返信はあとまわしにして阳台に移動。12時過ぎから16時まで「実弾」第五稿執筆。シーン17をいちおうケツまで通した。しかしまだ足りない。作業中は『For Emma, Forever Ago』(Bon Iver)や『Private/Public』(高木正勝)のほかに『クロノ・クロス』のサウンドトラックから「テルミナ アナザー」もリピートして流した(シーン17はイベント中の商店街が舞台なので、お祭りっぽいBGMが欲しくなったのだ)。
  • (…)でメシ食う。ローソンでおにぎりをまたふたつ買うという愛国クソ野郎的ふるまいをとったのち、(…)に立ち寄ってこちらのおすすめの袋麺を弟へのお土産として買う。ついでに母の好きそうな氷砂糖入りの菊茶も買う。あとはこれもやっぱりゲテモノ好きの弟のために鳥の足首を唐辛子とレモンで味付けしたおやつも買った——と書いたところで思ったのだが、これ、税関でアウトか? ググってみたが、どうもダメっぽい。たぶん内密に持ち込むこともできるのだろうが、下手すりゃ罰金を喰らうようであるし、あきらめるか。余計な買い物をしてしまった。
  • (…)の前で買い物帰りの(…)先生とばったり遭遇した。おひさしぶりですとあいさつ。かたわらに(…)先生とおなじ年頃の女性がいたので、日本語学科の教員ではないなとひそかに確認しつつ、おともだちですかとたずねたところ、教務室の先生ですよという返事。いつ帰国するのですかというので、明日(…)を出ます、明後日に帰国ですと応じると、その前にまた食事をおごるつもりだったのにというので、もう三回か四回連続でおごってもらっていますし、次はぼくの番ですよと笑った。(…)先生は今日はじめて(…)で買い物をしたとのこと。ひさしぶりに話してみて思ったのだが、(…)先生の発音、これほどめちゃくちゃだったろうか? もともとたしかにそれほど発音はきれいでなかったし、それにくわえて普段日本語を使う機会なんてほとんどない生活を送っているだろうから、衰えるのも仕方ないとは思うのだけれども、それにしてもこれほど? と内心ひそかにおどろくレベルだった。日語会話(一)の期末試験の問題のひとつに日本語での自己紹介があったが、この発音であれば良くてもC評価だよなと思う。
  • 帰宅。明日は早起きしなければならないので仮眠はとらず、とっととシャワーを浴びる。そしてまとめて洗濯。これで汚れものをひとつも残さずに出発することができる。コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書く。ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の記事の読み返し。以下は2023年1月11日づけの記事より。

 思考とは、外から捉えれば、環境とのギャップに際した一つないし集合的な知覚行為体が、潜在的な諸可能性を背景としつつ、特定の形を選択的に実現していく過程である。たとえば何も描かれていない画布は、描く人の前に広がる未規定のギャップ(=問い)であり、他でもありえた潜在的な諸可能性から、特定の布置が実現していく過程自体が思考である。
 この定義は以下のことを含意している。
 第一に、思考は非意識的・非言語的でありうる。たとえば山を登るとき。どこに足を置き、どこを手でつかむか、複数の可能性を背景としながら特定の動きを実現することで環境とのギャップを越えていく身体の姿勢は、それ自体が、登山という問題を局所的に解き続ける思考である。そこに意識的な思考は必ずしも必要ない。
 第二に、思考は集合的でありうる。複数人が集まって考えるときだけではない。思考する個人はしばしば、外的事物とともに集合的な思考体を構成する(例:複雑な計算をするときの紙と鉛筆)。思考する人はまた、内的にも集合的だ。たとえば物をつかむとき、手の腱の複雑なネットワークは、意識的思考とは独立に適切な形態を生成し続ける。それはサブパーソナルな(個人というスケール以下で働く)思考体だ。
 第三に、思考体は非人間(人間以外のもの)でありうる。変動する環境に応じて生長する植物は、他でもありえた可能性を背景としつつ特定の形を実現していく点で、本書の観点からは思考していると言われうる。
 第四に、思考の背景をなす諸可能性は、必ずしも現前しない。食堂のメニューから一つを選ぶとき、選択の可能性は目の前に一覧されるが、絵画をどのように描きうるかの可能性は事前に見通すことができない。
 最後に、思考は問いを必ずしも解かない。問い、すなわち環境とのギャップに直面して混乱し、もつれ、ともかく実験的に一つの形をとり続ける過程は、思考である。
 「思考の集合性」という、第二の含意をさらに掘り下げよう。紙の上に鉛筆で計算をおこなうとき、計算の記号過程は、紙の繊維とグラファイトの粒子の間で生じる物的過程からいわば「隔離」されている。つまり線のかすれは計算過程に影響しない。対してカンヴァスに絵具で描くとき、絵具と画布の繊維の間で起こる物的過程は、絵画の思考の内的な一部をなしている。だが絵具と繊維の間で生じる出来事の細部を、画家が全的に意識できるわけではない。絵画の思考は部分的に非意識的であり、画家の生物学的身体の外で起こる物質的過程に開かれている。
 アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは『科学と近代世界』(一九二五)において、一七世紀に哲学者フランシス・ベイコンが物的対象の「知覚(perception)」を論じていたことに注目している。ホワイトヘッドが引くのは、ベイコンの『森の森、または自然誌』(一六二六)第九センチュリー冒頭である。

あらゆる物体は、よし覚識(sense)を持たないにしても、知覚(perception)を持っている、ということは確かである。なぜなら、一つの物体が他の物体に出会うとき、好ましいものを抱き、好ましからぬものを排除または排斥する一種の選択が行われる。[……]たとえば、晴雨計は、われわれが発見しないのに、寒暑の極めて微細な相違を発見する。またこの表象は接触した場合だけでなく、時には距離をおいて得られることがある。たとえば、磁石が鉄を引きつけたり、あるいは焔がバビロンの揮発油を相当離れたところから引きつける場合などである。

 意識を欠く物体もまた「知覚」する。ベイコンの言うこのような知覚(=影響受容)を、ホワイトヘッドは「抱握(prehension)」という概念で呼び換えている。物体は互いを知覚=抱握する。絵画で言えば、画家は、画布上の事物たちの知覚=抱握過程と協働しながら、思考している。非生命的な物体どうしの作用もまた、集合的な思考過程の一部をなすのだ。
 集合的思考は、内から捉えれば、物的・心的な抱握関係による記号の連鎖からできていると考えることができる。ここで「記号」とは、何らかの仕方で他の形を部分的に変換して伝える形のことだ。抱握する形は抱握される形の記号となる。絵具のにじみ(抱握する形)は、画布の繊維構造(抱握される形)を部分的にうつす記号である。生物の知覚(抱握する形)は、外的環境(抱握される形)を部分的に抽出して変換する記号である。現在の私の思考(抱握する形)は、過去の私や他の者たちの思考(抱握される形)を変換して継続する記号である。生物の関わらない事物連鎖——風に吹かれて舞う砂、水流に削られる岩など——もまた、ある事物のパターンが他の事物のパターンに抱握され部分的に変換されている点で、物的な記号過程として考えることができる。生物の心的記号過程はそれら物的記号過程と連続し、分かちがたく絡まりあっている。
平倉圭『かたちは思考する 芸術制作の分析』より「序章 布置を解く」 p.5-7)

  • 以下は「『妄想はなぜ必要か ラカン派の精神病臨床』(コンタルドカリガリス/小出浩之+西尾彰秦訳)と『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 (國分功一郎/熊谷晋一郎)を踏まえた内容っぽい」とのこと。初出は2021年1月11日づけの記事。

神経症者の自律妄想」という言葉が出てきたが、この考え方がとても面白い。まず神経症的主体の説明として「父の隠喩によって、神経症者は特権的な参照点を獲得し、この点を中心にしてさまざまな意味作用が配分されると同時にひとつの意味作用が神経症者に約束されます。神経症の主体が、父への依拠から手に入れたこの意味作用は、父の系譜から獲得されたものです」(23)とある。それに対して精神病的主体はそのような父を持たず、しかるがゆえにパラノイア的な妄想という手段によって父の機能を組織する必要があるとされる。ここまではラカン派の基礎的な理解だが、精神病的主体のそのような妄想(父なるものの構築)について、「神経症者の自律妄想にもこれと似たものが認められます」とカリガリスはいう。では、その自律妄想とは何かといえば、以下のように説明されている。「この妄想では、無意識の知の側で父の機能が禁圧されるために、主体は意味作用を系譜不在の中で作り上げなくてはならないのです。ですから、神経症者は自分が自分の父であるという隠喩の上に自らを基礎づけることになるのです。」「自律妄想は系譜不在妄想です。「私がすることは私自身の自由選択である。私は自由に選択することができる。私は自由にどんな選択をすることもできる」ということです。」(25)。これはまさしくアーレント的な意志にほかならない。「系譜不在」であることがそのまま「自由に選択することができる」という妄想につながる。そしてこのような自律妄想を、神経症的主体は免れえない。「あらゆる神経症者に共通な運命である自律妄想の中で、神経症者は自分が自分の父の位置にあるという隠喩の上に自らを基礎づけています。そこでは、まるで彼が自分自身の父であるかのようです」(25)。これを自由意志の不在を主張するものとして読むのはおそらくあやまりだろう。それよりも無限性を否定し有限性を主張するものとして、つまり、神経症的主体はあくまでも去勢のほどこされた主体であるという当然の事実を確認するものとして読むべきだろう。「意志」とは、「自律妄想」に過ぎない。

  • 以下、2014年1月11日づけの記事。なつかしい青春の日々。

三日連続で宿泊している客がいるので要注意という引き継ぎがあったのだが、話を聞いてみると、昨日であったかおとついであったか、部屋にたまっていた食器を返してもらいにいったところ、返却されたトレイの上に脱法ハーブが置いてあったとのことで、どうやらそいつを使っていい気持ちになりながらこの三日間デリヘルを呼びまくっているらしかった。初日などは三人連続で呼んだとかいう話で、バクチで勝った金でただ豪遊しているだけだったら問題ないんだが、死ぬまえにやりたいことやっとくかみたいなアレだったらこれけっこう後々困るなという感じだった(ホテルやら旅館やらはときどき自殺目的で来るのがいるのでめんどうくさい)。その客が昼前だったか、金がないのでコンビニに現金をおろしにいきたいと言い出したので、身代わりといえばアレだけれどもそれじゃあ携帯電話をこちらでいったんあずからせていただきますねと、そういう話の流れになったのでじっさいにフロントまで来てもらって携帯電話を受け取ったのだけれど見るからにガンギマリの兄ちゃんで、これ相当いってんじゃないのか、無事にもどってこれんだろうかと、見ているこっちがひやひやするほどだったのだけれど、十分もしないうちにちゃんともどってきてちゃんと支払うものを支払ってくれたので、こりゃかなりの手だれだなとなった。退室後の部屋を(…)さんとワイワイ騒ぎながらすかさずチェックしにいったところ案の定カスみたいな分量ではあったもののパケに入ったハーブが残っていて、見るからにケミカルでにおいもそっち系統だった。

(…)さんが去年あたりからやたらと自身のMっ気について語りはじめるようになっていて、というか端的にいって超ど級のマゾに覚醒しつつあるみたいでこれまでにも性感にいちどいけば人生は変わるだとかどんなにかわいい女の子の小便でもあれはけっして美味しいものではないのだだとかいろいろと話をうかがっていたのだけれど、今日とうとうペニバンはほんっまにやばいという言葉を聞くにいたった。正月に(…)から彼の勤め先の美容室のオーナーがここ最近ニューハーフにはまっていてという話を聞いていたのでそれについて伝えると、興味はすごくあるのだがいちど踏みこんでしまえばもうこちらに戻ってこれなくなるんでないかという気がしてこわいという返事があった。場にいあわせた唯一の女性である(…)さんはその手の専門用語についてほとんど無知といっていいアレだったので、エネマグラってなに?ドライオーガズムってなに?ペニバンってなに?などとたずねられるたびに逐一説明するのが四年間にわたってアダルトショップで働いてきたじぶんの仕事であった。

  • そのまま今日づけの記事もここまで書いたのだが、(…)からのメールが7日(日)に届いたものであることに気づき、あれ? じゃあもう四日間も無視していることになるの? それはまずい! となった。それでちゃちゃっと返信を作成した。
  • シンクにたまっていた洗い物を片付ける。それからパソコンの電源も落としてパッキングを最後まで詰める。機内持ち込み荷物は5キロ以内であるのだが、リュックにMacBook AiriPadとほかもろもろを詰めた感じ、これ普通に5キロ以上じゃないの? と思う。持ち込み荷物の重量なんてよほどのことがないかぎり口うるさく言われないと思うのでだいじょうぶなんだろうが、しかし荷物が重いのは普通にうっとうしいし、iPadはもう置いていこうかなと思った。実際、実家でiPadを使った記憶なんてこれまでほぼないし——というわけでいったんリュックサックから排除したのだが、いやしかしじぶんにとってiPadとはパソコンがなんらかの事情で使えなくなったときのための予備の道具なのであり、実際もしパソコンが使えなくなったらこちらは実家で執筆もできないし授業準備もできないし日記も書けないし、つまり、まともに生きることができないわけで、いやこれは保険なんだよ、保険として必要なんだよと考えをあらため、やはりリュックサックに詰めていくことにした。
  • スーツケースのほうもちょっと不安。なんせ本が多い。それもそこそこ厚みのあるハードカバーばかりだ。いちど完全にパッキングしてから持ちあげてみたのだが、うーん、これやっぱり23キロオーバーしてんじゃないの? と思う。カウンターで仮にオーバーだと判断された場合、本を二冊か三冊、無理やりリュックサックに詰め込むなり、コートのポケットにねじこむなりしてどうにか凌ぐという手もあるにはあるのだが、それでもがっつりオーバーだったら手のうちようがない。それで結局、きのう選別した本の中から二冊ほど、やっぱり寮に置いていくことにした。
  • 寝床に移動後も荷物のことがちょっと心配だった。体重計、淘宝で買っておくべきだった。スーツケースの中身、片面はけっこうスカスカであるし、たぶん20キロ程度だと思うのだけど、いやでも心配だなァ。