20240114

「おばちゃんには皺が二本あるよ」
「年をとったらもっと増えるのよ」
「そんなに皺が増えたら、誰だかわからなくなっちゃうよ!」
「そうね、誰だかわからなくなっちゃうわね」
(グエン・ゴック・トゥアン/加藤栄・訳『囚われた天使たちの丘』)


  • 起床したのは11時をすぎていたかもしれない。(…)くんは前夜からずっと鼻づまりに悩まされていた。咳もちょくちょくしていたので、ひょっとして風邪でもひいたのではないかと思ったが、鼻炎だという。子どものときからずっと寝る前と起きた後のひとときは鼻炎に悩まされているらしい。原因不明。
  • 济南は把子肉という料理が有名だという。豚の角煮みたいなやつだ。朝食兼昼食はそれを食べることに。身支度を整えていると、清掃のおばちゃんが部屋にやってきたが、どうせもう一泊するのであるし掃除の必要はないと断った。おばちゃんはゴミ箱の中身だけさらっていった。こちらの話す日本語をきいて听不懂と笑った。
  • ホテルをあとにする。把子肉を出してくれる店は周囲にたくさんある。(…)くんは小さな店にこだわった。夫婦で個人経営しているような小さくて古い店のほうがメシはうまいのだという。それで歩いて十分くらいのところにある店にむかった。おもては晴天だったが、日本にくらべるとやはり空の青さがくすぶっている。全然澄んでいない。そして寒い。济南は山東省の省都らしいのだが、われわれのホテルがある周辺はふつうにさびれており、大都市とはとてもいえなかった。たぶん青島のほうが盛えているのだろう。
  • 目的の店に到着。(…)の后街にあるような店構え。中に入る。調理済みの肉だの野菜だのがずらりとならんでいるウインドウを兼ねたカウンターの向こう側におばちゃんがひとりいる。テーブルは五つほど。把子肉ひときれと青梗菜とゆでたまごを皿に盛ってもらう。それに白ごはん。把子肉は四角く切っていない豚の角煮みたいな代物。下の写真を見てもらったら一発でわかると思うが、とにかく脂身が多い。それでこちらはひときれだけにするつもりだったのだが、(…)くんはふたきれ食べたほうがいいとこちらにすすめた。味は甘くてうまい。湖南人が食ったら激怒しかねない味つけだ。脂身には少ししか口をつけなかった。食い過ぎたら絶対に気持ち悪くなる。地元のおっちゃんらも続々と店にやってくる。

 

 

  • 济南には有名な観光地がいくつかあるという。そこをまずまわってみようということになった。(…)くんは店のおばちゃんにその観光地までの行き方をたずねた。おばちゃんはバスに乗っていけといった。(…)くんは省都にもかかわらず地下鉄がないことにショックを受けていた。店の外に出て大通り沿いに達したところで、バスではなくタクシーに乗ればいいのだと(…)くんは突然ひらめいたように口にした。こちらはもとよりそのつもりだったが、(…)くんは最近ずっと日本で生活していたのでタクシーが安いことをすっかり忘れていたみたいなことをいった。これはたぶんかわいい嘘だなと内心ひそかに思った。じぶんが日本での生活にすっかり順応していることをちょっとアピってみたのだろう。(…)くんはこの夜だったか、あるいは前夜だったかもしれないが、ホテルのトイレでうんこをしたときも、日本での生活にすっかり慣れてしまっているためにあやまってトイレットペーパーをトイレに流してしまったと言った。
  • 滴滴で呼んだ車を待つ。近くにある歩行者用の横断信号がバグっていた。緑色のライトで表示される歩行者の歩いている姿——日本で目にするものとは異なり、この歩行者信号に表示される歩行者のシルエットは静止状態ではなく横向きに歩いているのだ——が早送りしたようになっていた。まるで横断歩道を全力疾走せよとうながすようなそのバグり方に(…)くんはケラケラ笑いながらスマホをかまえた。(…)くんはよく笑う子だった、というかこれは中国の若者全般にいえることであるけれども、基本的に笑いの沸点がやたらと低い。それにくわえて、人前で笑うことに対する羞恥というか構えみたいなものもない。たとえば、夜ホテルでこちらがKindleで書見したりパソコンで日記を書いたりしているあいだ、(…)くんは基本的にずっとスマホで抖音を視聴しているのだが、その間平気で笑い声を漏らすし、しかもその笑い声というのがそれでもってこちらの注意をひきつけようとするタイプのものではないのだ、ごくごく自然に漏れたものなのだ。
  • 到着した車に乗りこむ。ドライバーは女性だった。滴滴で呼んだ車のドライバーが女性であるというケース、これが初めてだ。女性はこちらが日本人であると知ると、スマホをかまえて後部座席のわれわれのようすを撮影しながら、你好! 日本的小朋友! といった。小朋友なんて言ってもらえる歳でもないんだけどなァと思いながら手をふる。省都ではあるけれども外国人はめずらしいらしい。(…)くんはのちほどこのドライバーのことをとても親切で優しいひとだったといった。
  • (…)くんはドライバーの女性に济南の状況についていろいろたずねていた。地下鉄については今年中には開通する予定らしい(あるいはもともと開通していたのだが、いまは工事中という話だったかもしれない)。われわれが今日おとずれるのは二箇所。まずは入場料なしの公園を散歩する。続いて、こちらは入場料が必要であるが、とても有名だという泉をおとずれるという話であったが、これを書いているいまググってみたところ、最初の公園はたぶん大明湖公园というところだ。で、その次におとずれたのは趵突泉公园だろう。
  • まず大明湖公园を散策した。鳥居みたいな門をくぐりぬけるとさっそく五重塔みたいなのがみえたので、うわ、奈良や京都みたいだな、と思った。

 


 

  • 敷地はとんでもなく広い。われわれは公園をぐるりと一周まわっただけであるのだが、それでも二時間以上はかかったと思う。蓮の仙女を祀った寺があった。抗日記念館があった。盆栽展みたいな催しをしている建物があった(入場料が10元だったので入らなかった)。詩人や文人を記念した建物が複数あった。展望台みたいな建物があった。そのどれもが外観だけならお寺みたいだった。狛犬もあちこちにいた。京都のかわらけ投げみたいなものも見かけた。小さな泉の真ん中にむかしの硬貨みたいなかたちをした円い石が吊るされている。石の真ん中には正方形の穴があいており、その穴には小さな鐘が吊るされている。観光客はその鐘めがけてコインのようなものを遠くから投げつける(コインは近くの売店に売っている)。コインが無事鐘に命中するとその背後の水面から水が噴きあがる。それが幸運のしるしらしい。
  • 公園内では湖に沿って歩いた。晴れていたので、水面がきらきらしていた。(…)くんはそのようすを魚の鱗にたとえた詩があるといった。中国人であればだれでも知っているような古い詩だという。こちらが文学を愛好すると知ったからだろう、彼自身はふだんまったく本など読まないらしいのだが、高考を受験するにあたっておぼえた古代の詩人のあれこれについてちょくちょくレクチャーしてくれた。
  • 雰囲気のよろしい公園ではあったが、しょうもないお土産屋もあったし、閉鎖された小さな遊園地(古びた観覧車やメリーゴーラウンドがある)もあったし、自動車の販売イベントをおこなうための仮設ステージみたいなものもあった。つまり、雰囲気をぶちこわすあれこれもそれ相応にあったというわけだが、これは京都の観光地でもおなじだろう。途中、背の高いすすきのようなものが湖面近くに大量に生えているのを見て、あれは日本語でなんといいますかと(…)くんからたずねられた。すすきみたいだけどすすきはあんなにも背が高くないしなァと答えあぐねていると、中国語ではこういいますといってスマホを見せてくれたのだが、「葦」の字があったので、あ! 葦ってこんな植物なんだ! パスカルが言ってたのってこいつのことなのか! と思った。
  • 公園を出た。コーヒーが飲みたかった。近くに瑞幸咖啡があるとのことだったので、そこまで移動することにした。公園の出口にはトゥクトゥクみたいな三輪車が何台も停車していた。おっちゃんが運転席にひとり腰かけており、その後ろに前後で向かい合わせになって座る席が設けられている車。窓はないが、代わりに厚手のビニールシートみたいなものが風除けとして設けられており(中国語のショッピングモールの出入り口によくかかっているやつだ)、クリスマスのイルミネーションみたいな電飾がその上を飾っている。おっちゃんの呼び込みに対して(…)くんは足を止めないままいくらだとたずねた。相手が値段を答えると、高すぎるといってそのまま過ぎ去ろうとしたが、そこでおっちゃんがもうすこし安い値段を提示すると、さらにひと声もとめた。おっちゃんがそれにのっかると、じゃあ乗りましょうと即決した。そのやりとりが全然よどみなかった。そもそもこちらに相談することすらなく一方的にすらすらっと決めてしまったわけだが、いや手慣れているな、たいしたもんだな、とこちらは感心した。タイにこれによく似た乗り物があったよというと、ハルビンにもじぶんが子どものころはこういう乗り物がたくさんあった、でもいまはほとんど見かけなくなったと(…)くんはいった。
  • 10分も移動しなかったと思う。交差点でおりた。すぐ近くにちょっとしたショッピングモールがあった。瑞幸咖啡はその建物の外周沿いにあるのだった。美式咖啡のホットをオーダーした。(…)くんはココナッツミルクの入ったラテ。店の外に出たところでサングラスを装着した。趵突泉公园はすぐそこにあった。ここでの入場料はたしか40元ほどだったと思う。きのうの夜食にしても今日の朝食兼昼食にしても交通費にしても入場料にしてもそうだが、(…)くんは中国式の支払い方法をもとめた。つまり、今回はわたしがおごります、ですから次回はあなたがおごってくださいというやつだ。そういうわけでわれわれは支払いの場面に遭遇するたびに、「今回はぼくが払います」と交代交代で口にした。
  • 趵突泉公园は金沢の兼六園にちょっと雰囲気が似ていた。大明湖公园はいかにも中国的な湖沿いのひろびろとした公園であったが、趵突泉公园はむしろ庭園といったほうがいい。敷地が先の公園よりもこじんまりとしているだけではなく、鯉のいる池があり、石橋があり、植木があり、古い書院があり、竹林があったのだ。(…)くんがトイレに行きたいというので、入園後はまずトイレにむかった。そこから敷地内をしらみつぶしにするかたちで練り歩いた。ここでもっとも有名なのは趵突泉という泉だった。济南は泉が有名らしいのだが、この趵突泉はなかでも第一の泉と称されるほど有名なものらしく、古代から詩人や文人がたびたびおとずれる地であるのだという。以下がその泉。

  

 

  • とはいえ、観光客らが昨晩の空港のカウンターに押し寄せる群衆みたいにこぞって押しかけてスマホをかまえている泉よりも、周囲にあるちょっとした池や泉に群れをなして泳いでいる鯉や金魚をながめているほうが楽しかった。谷川俊太郎の詩を思い出した。ギャラリーのオーナーが館内で猫は飼わないことにしていると語るもの。猫がいれば客は絵ではなくその猫ばかり見てしまうから。
  • 入場料が必要な観光地であるにもかかわらず、竹林の道の入り口付近だったと思うが、地元の老人らが椅子と机を出して麻雀をしている姿も目にした。あれはどういうことだろう? わざわざ入場料を払ってまでこの一画で麻雀をしているのだろうか? それとも敷地内にもともと家屋がある住人だったりするのだろうか? 

 

 

  • 詩人や画家を記念した建物であったりちょっとしたギャラリーであったりもたくさんあった(そしてそのような人物の功績を讃える文章にまで「爱国」の文字が頻繁に散見せられるのにうんざりした)。この地にゆかりのある人物だと思うが、わりと最近まで生きていた人物による水墨画の類がたくさん展示されていた。そのすべてがべらぼうに退屈だった。ただ、その人物の年表やゆかりの品や写真が展示されている一画だったと思うが、中国でもっとも有名な画家だという人物との交流について言及しているものがあり、そのもっとも有名な画家というのは徐悲鸿という名前らしいのだけれども、(…)くんがスマホで見せてくれたその徐悲鸿の馬の絵画はすばらしかった、スマホでちらっと見ただけであるにもかかわらずその後しばらくその図像が頭のなかに残りつづけた。あと、齐白石という人物についても教えてもらった。これはたしか徐悲鸿とならんで中国国内で有名な画家であるという話だったはず。
  • 济南出身の辛棄疾という詩人についても教えてもらったと手元に記録が残っている。しかしより印象に残っているのは李清照という詩人だ。(…)くんがもっとも好きな詩人のひとり。彼女の作風は「ロマン」だという。Wikipediaには以下のようにある。

李清照は数々の詞・詩・文を書き残している。中国の人民文学出版社から出版された『李清照集校注』(王学初)には彼女が残した詞・詩・文のほとんどを網羅している。
南宋を代表する儒学者朱熹は、李清照の詞作について「本朝の婦人の文を能くするは、ただ李易安と魏夫人有るのみ」と称えている。また宋代の文人の王灼は「才力華贍にして、前輩に逼り近づき、士大夫の中に在りても已に多くを得ず。若し本朝の婦人ならば、当に文采第一と推すべし」と記している。
清代には李清照は婉約派という宋詞の流派の宗匠であるとされ詞壇における地位は生前以上に確かなものとなっていった。
現代にあっては中国現代を代表する文学者の鄭振鐸をして「李清照は宋代で最も偉大な女流詩人であるばかりでなく、中国文学史上最も偉大な女流詩人である」と言わしめるほどである。
ただし、動乱の真っただ中を生きたことなどもあって、作品の大部分は散逸し、資料は少ないという。
日本においても、李清照への評価は高く、漢文学の女性翻訳家として著名な花崎采琰(子は作家花崎皋平)は述べている。
「李清照は宋代が生んだ女詞人の至宝である。彼女の才能は全く男女の別を思はせない完璧のものであって、南宋十傑中に指折られる大家である。男では李後主(李煜)、女では李清照、と対照されてゐる。李白を加へて詞家の三李と認められてゐる」。
中田勇次郎は花崎采琰の編・訳による詞集の序文で「詞はわが國の和歌ににて、やさしくうつくしいものであるが、李清照の詞はさらにそのうえに理智のかがやきがそえられて、清新な感覚のうちに、宋詞のもっともよい特質であるさびしさとほそみが、本格的なすがたをよそおってつつまれている點では宋詞のもっともよい例であるといっても過言ではない」と称賛している。

  • 趵突泉公园を出たあとは近くにあるショッピングモールまで歩いた。公園内からでも遠く認めることのできるほど巨大で近代的なビルで、たぶん地上50階ほどあると思うのだが、(…)くんがトゥクトゥクもどきの運転手にあれはなんだとたずねたところ、ショッピングモールみたいなものだという返事があったのだ。大通り沿いを避けて小区の中を通り抜ける。ボロボロの裏路地みたいな一画。イスラムワッチみたいなのをかぶっている老人の姿をちらほら見かける。中国でイスラム教徒といえば新疆人か回族というイメージがあるのだが、前者のような西洋風の顔立ちではなかったので、だったら回族なのかなと思ったが、これを書いているいまググってみたところ、カザフ族、ドンシャン族、キルギス族、サラール族、タジク族、バオアン族、ウズベク族、タタール族にもイスラム教徒がいるとのこと。(…)くんは故郷を思い出すといった。彼の実家がある地域もこうした小区なのだという。近隣住民の全員が顔なじみである、そういう一画だ。そういう地域での暮らしについてどう思いますかとたずねられたので、大都会の高層マンションで暮らすよりもずっといいねと応じると、わたしもそう思いますという返事。
  • 巨大なビルのある付近はさすがに盛えていた。おそらく济南の中心街なのだろう。これほんまにショッピングセンターなんかと思いながらくだんのビルに足を踏み入れる。ほんまにショッピングセンターやった。しかしガラガラだ。全然客がいない。近くには万达がある。そっちに客をもっていかれているのだろうと(…)くんはいった。とりあえずエスカレーターで二階に移動してみたが、一階同様ガラガラで、館内もなんとなく薄暗い。さすがにこんな空間が地上50階まで続いているとは思えない、上のほうはもしかしたら会社のオフィスであったりマンションであったりするのかもしれないが、いずれにせよ散策しても楽しくないことは明白だったので、だったら万达のほうに行こうとなった。一階には吉野家があった。中国で吉野家を見るのははじめてだよというと、(…)くんはびっくりしていた。ぼくの大学があるのはとても田舎だからねと補足。
  • 万达までは徒歩で五分ほどだったと思う。こちらは盛況。しかしふたりともまだ腹が減っていなかった。それでとりあえず一階フロア、二階フロア、三階フロアを順番にめぐってみることに。途中、カフェと本屋が併設されている店があった。最近中国でどんどん増えているタイプの店だ。少しだけのぞいてみる。あいかわらず東野圭吾村上春樹上野千鶴子が人気だ。ちょっとびっくりしたのは『マイ・ブロークン・マリコ』(平庫ワカ)の中国語版が売っていたこと。
  • 三階を散策中、一階のほうから音楽がきこえてきた。仮設ステージでパフォーマンスでもやってんのかなと吹き抜けから見下ろすと、ギャラリーに囲まれてダンスをしている男女の姿があった。スピーカーからfive, four, three…と英語のカウントダウンが流れる。zeroになると同時に音楽が流れはじめる。するとその音楽のふりつけを知っている人物だけが中央のスクエアに駆け寄り、音楽にあわせてダンスをはじめる。音楽はだいたい15秒から30秒で途切れる。途切れたところで全員場外にいったんはける。その後またカウントダウンがはじまり、音楽が流れはじめ、それを知っている人間だけはスクエアに飛び出し……というのを延々とくりかえすもの。(…)くんは同様のイベントを以前ハルビンの万达で見たことがあるといった。そのときは友達といっしょに二時間ほどギャラリーとして楽しんだという。(…)さんは知っていますかというので、以前インターネットでちょっと見たことがある、ぼくが見たのはたぶんコスプレイベントの会場で開催されているものだった、ダンサーは全員コスプレしていたし音楽は全部日本語のアニメソングだったと応じる。(…)くんは一階に移動して間近で見たいといった。それでふたりそろってエレベーターに乗りこみ、ギャラリーにまじった。山東省は中国のなかでもっとも平均身長の高い省であるので、ギャラリーの後方からスクエアを望むのは172センチのこちらにとってなかなかむずかしかった。踊っているのは基本的にセクシーでクールな女子が大半。そろいの衣装があるわけではないが、へそを出していたり体のラインの出るぴたっとした服を着ていたり、あるいはちょっとロリータっぽい子もいたりして、たぶんみんなこのイベントにそなえて気合いを入れてきている模様。男子もいることにはいた。ひとりはあきらかにゲイとわかるタイプ。パーマをあてた茶髪の長髪で、顔には韓国のアイドルみたいにメイクをほどこしており、友達らしい女子のダンサーといっしょに踊っていた。その子とは別に、こういう言い方をするのもアレだが、どこからどう見ても、つまり、服装にしても髪型にしても顔つきにしてもガチガチのオタクにしか思えない男の子もいたのだが、彼はこのイベントに参加していたダンサーのなかではトップレベルのふりつけマスターらしく、ほかの参加者らの大半がスクエアの外にとどまらざるをえないニッチな楽曲であっても彼ひとりだけはすました顔で踊るという場面が何度もあった。イベントのようすは抖音で中継されている。高い位置に固定されたスマホがあるのだが、オタクの彼はダンスしているあいだはずっとそのスマホのほうに視線を送っていた。ほかのダンサーたちがときおり笑みをこぼしたり、仲間内できゃっきゃっしたり、いってみれば「隙」をみせるのに対して、彼の表情はずっと変わらずクールなままで、いやダンスって表情込みでアレするもんじゃないのと思うというか、せっかくふりつけも大量におぼえているし動きもキレがあるのに、マジで過度にイキりまくった表情をキープし続けてゆらぐことがないその感じに、ああなんかオタクの悪いところを見せつけられている気分だと共感性羞恥をおぼえてしまった。その彼とは別にもうひとり、背の低い女の子がいて、彼女はほかの女性ダンサーとは異なって服装もわりとダボダボでいわゆるセクシー系ではなかったのだが、ダンスにはものすごくキレがあったしふりつけの習得率も非常に高く、彼女ひとりだけがスクエアに出て踊るという場面も少なくなかった。(…)さんはどんな女の子が好きですかと(…)くんからたずねられたので、あの小さな女の子はかわいいねと応じると、背が低い子のほうがいいですかというので、高くても低くてもどっちでもいいと応じた。(…)くんは? とたずねかえすと、わたしは背の高いひとがいいですというので、だったらこのチャンスをいかして山東人と仲良くなっておきなさいとけしかけた。
  • イベントが終わったところでメシを食うことに。ふたりともそれほど腹が減っていなかったので、チェーン店の餃子を食うことにした。なんという店か忘れたが、(…)くん曰く、中国であればどこにでもあるというチェーン店で、看板メニューは海老と豚肉の餃子だった。味はなかなかよかった。食後は一階にあるパン屋で红枣の菓子パンを買った。南方ではどうかわからないが、東北であればだれもが知っているパンだ、特に健康に気をつけているおじさんやおばさんたちがよく食べるものだ、と(…)くんはいった。
  • タクシーに乗ってホテルにもどった。シャワーを浴びて寝室にもどると、(…)くんが航空会社に電話をかけている最中だった。(…)くんのもとには明日搭乗予定の便に関する通知がSMSで届いていたのだが、こちらのもとには同様のメッセージが届いていない、届いていないのはたぶんTrip.comに登録してある携帯番号が日本のものだからだろう、手続き自体は問題なくすんでいるはずだとこちらは考えていたのだが、もしものことがあったらまずいというわけでわざわざこちらのために確認の電話をしてくれているのだった。なんて優しい子だろう! 結果は問題なしだった。
  • 日記をためすぎるのはよくないと思ったので、リュックサックからパソコンを取り出してしばらくベッドでカタカタやった。(…)くんはその間、スマホで抖音を視聴してクスクスやっていた。そしてそのあいまにときどき言葉を交わした。きのうの空港での騒ぎが抖音でバズっていると(…)くんがいった。動画を見せてもらったが、ticket officeの行列のなかから怒鳴り声をあげている男性の姿が映し出されており、この瞬間ぼくこの列の後ろのほうにいたよといった。動画の投稿者はわれわれとおなじ便をキャンセルされた人物らしい。
  • きのうづけの記事をある程度書き進めたところで作業を中断し、ベッドに寝そべってKindleで『こころ』(夏目漱石)の続き。書見の最中もちょくちょく(…)くんとやりとり。(…)くんはおなじ日本語学校に通っている韓国人と仲良しだといった。東京の日本語学校ベトナム人と中国人ばかりだが、大阪のほうはもっとずっと多国籍なのでおもしろいとのこと。あと、それまであんまりそういうそぶりをみせなかったが、(…)くんもやっぱり日本のアニメが好きらしい。とくに好きなアニメは『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』というもの。だれであったかもう忘れたが、うちの学生のなかにもこのアニメが好きだといっていた男の子がいたように記憶している。