20240113

最初に知らせをもたらす者が我らのそばにいるとは限らない
(グエン・ゴック・トゥアン/加藤栄・訳『囚われた天使たちの丘』)


  • 6時にアラームで起床。前日に売店で買ったカステラみたいなパンを食してスタバの缶コーヒーを飲む。パッキングして7時過ぎにチェックアウト。スーツケースをガラガラさせながら空港のTerminal2まで移動する。前回この空港から発ったときは早朝の便だったこともあり、国内線の発着場となっているTerminal1の入り口が閉まっており、Terminal2に行くためにだだっぴろい駐車場を延々と歩き続ける必要があったのだが、今回はTerminal1の入り口がちゃんと開いていた。それでまずはそこから空港内に入り、エスカレーターで二階に移動したのち、長い廊下と動く歩道を利用してTerminal2まで移動。到着したのは7時半ごろで、出発時刻が10時半ごろだったのでさすがにこれははやく着きすぎた。フライトの時刻が一覧表示されているあのモニターにもこちらの搭乗予定のものが表示されていなかったので、ロビーの端っこのほうにあるソファ席に移動し、そこでしばらく『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』(西川アサキ)の続きを読み進めた。となりのとなりのソファには女性二人組がいた。そのうちのひとりがけっこう咳をしていたので、コロナとかインフルとかもらいたくねえなァと思った(こちらはホテルを出たときからずっとマスクを装着していた)。さらに若い男の子がひとりあらわれてとなりのソファに座った。女性ふたりもその男の子も空港内にある(…)でミルクティーを買っていた。
  • そのまま小一時間過ごした。それからふたたびフライトの掲示板を見にいったのだが、10時半以降に出発するフライトはしっかり表示されているのにもかかわらず、こちらの搭乗予定のフライトは表示されていないままだった。あ! と思った。いつもの癖で国際線のほうにやってきたが、そうではないのだ! 乗り継ぎなのだ! まずは国内線に乗る必要があるのだ! つまり、Terminal2ではなくTerminal1に行かなければならないのだ! とんだピエロだぜ! というわけでTerminal1までスーツケースをガラガラさせてもどることに。
  • チェックインカウンターは空いていた。運命の預かり手荷物の重量チェックであるが、ほんの19キロだった! アホか! まだ4キロも余裕あるやんけ! おれはなにをびびっとったんじゃ! マジでジャッジ完全にミスっとるわ! バッゲージスルーかどうかをカウンターでチェックするようにという注意がTrip.comから届いていたので、その点スタッフの女性に英語で確認してみたのだが、荷物は济南のbaggage claimでいったん回収しなければならないという話だった。
  • 便所で小便とうんこだけすませてから保安検査へ。搭乗口で少々書見したのち機内に移動。三列シートの窓側だったのだが、こちらの右手にはおっさん、そのさらに右手(通路側)には若い女性という配置。おっさんが最悪だった。なんだかんだで飛行機にもすっかり慣れたこちらであるが、過去最悪の隣人だったかもしれない。短髪でがっしりした体格のおっさん、というか便宜的におっさんと表現しているがあれで案外二十代だったりするのが中国人男子であるのでよくわからんのだが、とりあえずファーストインプレッションにしたがっておっさんと今後もいいならわすことにするそのおっさんはまず両足をどーんとひらいていた。女の子は通路側にゆとりがあるしこちらは窓側にゆとりがあるし、それぞれがゆとりのあるほうにある程度体を寄せたほうがいいのはまちがいないし真ん中をわりあてられた人間がその分ゆったりスペースを使うのも問題ないと思うのだが、それにしてもおまえそれは調子のりすぎやろという感じで、窓側に身を寄せているこちらの足に相手の足が触れることはしょっちゅうだったしその状態で貧乏ゆすりしようとするし、ことあるごとにのびをするしそのたびにでかい声でため息ならぬため声を堂々と漏らすし、あとはとにかく落ち着きなくしょっちゅう体をもぞもぞとするしこちらの顔の前に両腕を断りもなくぬっとのばして窓外の写真をスマホで撮ろうとするし、なによりもあたまにはきたのはおまえマジでいつまで電話しとんねんというアレで、こちらの観測がたしかであればフライトアテンダントがまもなく離陸であるのでスマホを使用しないようにと乗客らに注意してまわるターンが三回ほどあったのだがその三回すべて「もうすぐ終わるから!」と適当にあしらうようにして通話を続けていたし、フライトアテンダントらが指定の位置について飛行機がエンジンをごおごおいわせはじめて離陸前の助走をいままさにはじめるぞという段階でもまたあらたに電話をかけはじめて、こいつこれで飛行機落ちることでもあったら墜落するまえにおれが首締めて殺したるぞとマジで思った。
  • 出発はどういう理由でなのかよくわからんかったが一時間だったか一時間半だったか遅れた。そういうわけで山東省の济南にある済南遥墻国際空港に到着したのも予定よりもずいぶん遅れてしまったわけだが、もともと乗り継ぎのための待機時間が四時間以上あったのでこれは問題なし。おもてはエグいくらい濃い霧がただよっていた。いや、霧ではなく大気汚染のスモッグだったのかもしれないが、これはなかなかすごいなというレベル。Baggage claimではこちらのスーツケースと同色同型、というかあれはもしかしたらまったくおなじ商品なのかもしれないが、それがふたつならんで流れてきて、え? これどっちだ? と思っているうちにふたつとも夫婦らしいのに回収された。こちらのブツは長年の使用によって薄汚れているし、どこでつけられたのかまったくおぼえていない黄色いペンキ汚れみたいなものもあり、それがいちおうの目印にもなっているのだが、もっとどこかに派手なペイントをほどこすかなんかしてわかりやすいようにしようかなとも思った。
  • エスカレーターで二階に移動する。チェックインカウンターが左右にひろがっているがどれもこれも国内線ばかり。標識にしたがって国際線のほうに移動。国際線のチェックインカウンターはとても少なかった。ロビーも国内線にくらべるとずっとせまい。済南遥墻国際空港は名前にこそ国際とついているものの実際は国内線がメインなのだろう。カウンターにはスタッフの姿がなかった。ただ大荷物とともに待機している人影はベンチのあちこちにあった。時刻は14時ごろであったし、本数のそれほど多くない国際線のスタッフはこの時間昼休憩でみんないないのかもしれないと思った。それでガラス窓というかガラス張りの壁際にもうけられている段差に腰かけて『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』(西川アサキ)の続きを読み進めた。
  • やがて昼休憩を終えたとおぼしきスタッフらがちらほらと姿をあらわしはじめた。こちらは15時をいくらかまわったところでカウンターに移動した。カウンターはスカスカだった。荷物の重量を計測してチケットを発行してもらうわけだが、荷物のあずかり自体は30分後から開始するのでその時間帯にまた来てくれと女性スタッフから告げられた。30分後となると15時45分、bording timeがたしか16時15分かそこらだったはずでそんなぎりぎりまで荷物をあずからないなんてきいたことねえぞと思ったが、とりあえずそのとおりにするしかない。それで元の位置にもどって書見の続き。『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』(西川アサキ)は読み終わった。
  • 周囲の人間らがわらわら動きはじめてほどなくこちらもその流れにのった。スーツケースをあらためてあずけたのち、保安検査と出国審査をクリアするわけだが、出国検査はやたらと厳しくなっているようだった。こちらは外国人ということもあってか、ふだん(…)省にいるのか? なんの仕事をしているのか? 程度の質問だけですんだのだが、こちらの前に並んでいた中国人男性は、日本に何日滞在する予定なのか? むこうでは大阪のほかにどこをおとずれるつもりなのか? そもそもなんの目的で来日するのか? みたいなことをけっこう細かく質問されていた。この事実だけみると、出国者ひとりひとりに当局がものすごく神経をとがらせており厳密にチェックをしているというような印象をおぼえるのだが、中国社会の形式主义っぷりというかやってる感だけで内実はわりとすっからかんだったりするという事情をある程度知っているいま、これも結局お上に過剰に忖度していろいろ手厳しい質問を形式上重ねているだけで、たとえばこの質問に対してこれこれこういう返事があった場合はこれこれこういう対応をするみたいなマニュアルというか仕組みみたいなものは実際のところほぼ存在していないのではないか、ただ規則にしたがってひとりにつき三つか四つ規定の質問をするだけというアレだったりするんではないかとうがった見方をした。
  • 搭乗口へ。ひととき休憩するまもなくすぐに搭乗。ここでも三列のシートの窓際(ただし右端)だったのだが、左隣は空席、その左隣に中国人のおばちゃんという並びになって、空席が存在するなんてめずらしいな、やっぱり処理水以降日本行きの飛行機に乗る人民の数は減っていたりするのかなと内心ひそかに思った。窓の外は濃霧だった。これだいじょうぶなんかな? と思っているうちに出発時刻になったが、飛行機はやはり飛ぼうとしなかった。そうこうするうちにまだ離陸もしていないのに機内食が配布されはじめた。配布されはじめるのと同時だったか、そのしばらくあとだったか、機内アナウンスがあり、中国語でのアナウンスが終わると同時に乗客らのざわめきとため息がきこえた。そのあと英語でのアナウンスが続いた。いまひとつ要領を得なかったのだが、どうもいったん飛行機の外にもどって待機すると言っているようにきこえた。
  • 食後のコーヒーを飲んでいるタイミングだったと思うが、空席をはさんで左隣に位置しているおばさんから話しかけられた。おれ外国人なんだと応じると、ああという反応があったので、ついでだし確認しておこうと思い、片言の中国語でさっきのアナウンスはなんて言っていたの? 悪天候だから待機なの? とたずねると、肯定の返事。機内の外にもどることになるという。おばちゃんはその後会話を英語にきりかえた。といってもものすごく片言の、ほとんど単語と単語をでたらめにならべたような英語だったが、じぶんはもともと昆明(?)から出発、乗り継ぎ先で天候不良に遭った、だからこの空港にいったん移動してそこから大阪に行くつもりだった、でもそれもまたキャンセルになったみたいなことをいった。
  • ほどなくして飛行機の外に出る流れに。機内先頭にいるフライトアテンダントにじぶんは中国語がわからない、どういう状況であるのか説明してほしいと英語で伝えると、DeepLっぽい翻訳アプリの画面をみせられた。表示された英文によると、搭乗口でひとまず待機、続報についてはスタッフがあらためて連絡するとの旨。国際線の客室乗務員なのに英語ができないのか? それとも事態が事態だけに誤解が生じないよう文章で告知するというルールがあるのか? よくわからんままいったん搭乗口に移動。そこでベンチに腰かけ、(…)にLINEを送った。もしかしたらキャンセルになるかもしれない、そうでなかった場合でも到着が深夜になる可能性がある、その場合はバスも電車もないだろうし空港で一泊することになる、と。(…)は到着しさえすれば車で迎えにいくといった。ありがたい申し出だったが、そもそも本当に飛ぶのかと、窓の外に目をやった。いや、目をやることはできなかった。見えなかったのだ。ガラスのすぐむこうで煙が焚かれでもしているかのように濃い霧がたちこめていたのだ。
  • スマホの充電がちょっと気になりはじめた。残り60%ちょっとだったのだ。キャンセルになった場合どういう展開になるのか、こちらは知識が全然なかった。もしかしたら空港で一泊する可能性もあるのかもしれない。それだったらどこかで充電する必要があるのだが——と思っていると、こちらの斜め前にある円柱の下部にもうけられているコンセントに充電器をぶっさしてスマホを充電しはじめたおっさんがいたので、あ、あんなところにコンセントがあるのかと思った。それでそのおっさんが充電を終えたあとにこちらもそのコンセントを利用してスマホを充電した。それからKindleで『こころ』(夏目漱石)を読みはじめた。周囲には、小さめのスーツケースにまたがって乗り物代わりとし、ひろびろとしたロビーをガラガラいわせながら遊んでいる少年がふたりいた。
  • 19時ごろだったと思う。動きがあった。搭乗口入り口にいる男性スタッフが拡声器を使ってなにやら告知しはじめたのだ。英語はなし。中国語のみ。その男性のあとにつきしたがうかたちで周囲の乗客らがぞろぞろと歩きはじめたので、あ、キャンセルになったんだな、と察した。とりあえずひとの波にしたがって移動。入国審査のゲートでひとりひとりなにやら手続きをしているようだった。西洋人男性の姿を見かけた。ひとりきりの旅行者。かなり困惑しているようすだったので、通訳でもしてやりたいところであるが、そもそもこちらもじぶんの置かれた状況を把握しきれていない。とりあえず目についた女性スタッフに声をかけた。また翻訳アプリでの対応だったが、まずはターミナルにもどる、その後あずけてある荷物を回収する、その後の対応については本社からの連絡を待つとのことだった。それで入国審査のゲートをひきかえすことになったのだが、そこでパスポートを提出する必要があった。どうやら押されたスタンプを無効にする処置がなされたようす。それにくわえてシールを一枚もらった。あずけたスーツケースの引換券みたいなものだ。
  • ロビーにもどった。男性スタッフが声をはりあげて状況説明しており、その周囲を乗客が取り囲んでいたが、マジで中国語オンリーであるのでまったくわからない。国際線なのによォ! と思っていると、さきの西洋人がぶかぶかのコートを着た客室乗務員の女性ふたりとやりとりしているのがみえたので、おれもあっちを頼ろうと思って移動。西洋人が去ったのといれかわりにどういう状況かよくわからないので事情を説明してほしいと英語でお願いすると、まずはチケットの変更手続きをする必要がある、だからticket officeに移動してほしい、ticket officeはスタバのそばにある、荷物を引き取りにくるのはそのあとでもいいとのこと。チケットの交換をはやくすませるようにとうながすその態度から察するに、ticket officeがめちゃくちゃ混雑するとか交換可能なチケットの枚数に限りがあるとかなにかしらそういう事情があるのかもしれない、それで急いでスタバのほうに移動しはじめたところ、別の女性スタッフと彼女のあとに続く乗客らの集団と並走するかたちになったので、たぶんこの集団についていったらいいんだろうと思った。それで集団のほぼ先頭、つまり、女性スタッフのすぐ後ろにつきしたがうかたちで移動したのだが、女性スタッフは国内線のロビーに移動してほどなくターミナルの外に出た。え? なんで? と思いつつ後を追う。外はえげつなかった。視界不良なんてレベルではない。マジで十メートル先もろくに見えないのだ。それに山東省だけあってアホみたいに寒い。おもてにはバスが数台停まっていた。女性スタッフはそのバスに乗客らを乗るよううながしているようにみえた。ticket officeはバスで移動するほど遠くにあるのか? いや、さすがにそれはちゃうやろ! そういうわけでロビーに引き返した。すぐそばに男性スタッフがいたので英語で話しかけたところやはり通じず、翻訳アプリを表示したスマホを差し出されたのだが、その手つきがのろのろしておそろしく不器用で、かつ、そもそものアプリの使い方すらろくに理解していないようだった。で、途中で気づいたのだが、男性はただの警備スタッフだった。これじゃあ話にならんわと思っていると、あそこで話を聞いてみてくれみたいなことをいって遠くを指さしてみせた。総合インフォメーションセンターだ。
  • それでとんでもなく混雑するロビーの人波をかきわけながらインフォメーションセンターに移動した。扇形のカウンターはほぼ埋まっていた。順番待ちの行列はない、例によってただダマになっている人民らがひっきりなしに押しかけているのだ。空いたカウンターに体をねじこんで英語で話しかけたが、カウンターの女性スタッフは苦笑いを浮かべてほかのスタッフのほうに視線を送りだした。英語ができないのだ。くそったれ! さすがにあせった。どうすりゃええねんと思いながら周囲を見渡すと、スタバの看板が見えた。あそこだ! カウンターをはなれてそちらのほうに移動した。するとたしかにスタバの手前に、各航空会社の看板の出ている受付らしいものがあった。なかには山東航空の看板もあった。たぶんここなのだろうと思い、山東航空のカウンター前にならんでいる列を先頭からたどっていくことにしたのだが、ロビーの端から端まででは足りなかった、端から折れてさらにその先にまでのびていた。嘘やろ? マジでこの行列並ぶんけ?
  • 並ぶしかないのだ。しかし並びはじめてほどなく絶望感がますます度合いを増すはめになった。マジで! 全然! 列が動かないのだ! たぶん一時間か一時間半ほど並んだと思うのだが、距離にしてほんの二、三メートル移動しただけ。カウンターまではまだ十メートル以上ある。そもそも列の先頭がどうなっているのかわからない。とんでもない寮の人民がカウンターに押しかけているので、カウンターの先にいるのがスタッフでありそこでチケットの交換をもとめる仕組みになっているのか、それとも機械を使ってセルフでやる仕組みになっているのか、仮に後者であった場合パスポートしかない(中国の身分証明書がない)外国人であるこちらでも操作可能なものであるのか、なにもかもが全然わからない。途中、近くを男性スタッフが通りがかったので、英語で事情をたずねたのだが、あのクソ野郎! 翻訳アプリをたちあげるふりをしながらふらっとこちらから離れていった! つまり、職務を放棄して逃亡したのだ! 警備員ではない、れっきとした空港スタッフだったのに!
  • 仮にこのまま列に並びつづけたところで、先頭に達するまでこのペースだとふつうに五時間か六時間はかかる計算になる。マジでどうすりゃいいのだ? そもそもスーツケースをいつまであずかってくれるというのか? そういうふうにジリジリしているうちに、キャンセルされた機内で見かけた乗客らの姿が目につきはじめた。日本行きのフライトだけあって、髪の毛を赤く染めてちょっとロリータっぽい私服を着用した若い女の子であったり(十中八九、精日分子だろう)、ファッションの雰囲気が中国人男性というよりは日本人男性に近い若い男の子がいたりして、それでちょっとめだっていたのだが、その集団がスーツケースをガラガラさせながらわれわれの並んでいる列とは別にカウンター前に押しかけているようすがみえたのだ。それでこちらもいったん列をはなれてそちらのようすをうかがいにいったのだが、なにがおきているのかよくわからない、おなじフライトだった客たちはただゲートを通って空港の外に出ようとしているようにもみえたし、カウンターに正規の列の順番を抜かして押しかけているようにもみえた——と書いていて思い出した、そもそもこちらが列をいったん抜ける決心をした理由のひとつに、こちらの前にならんでいた若い女子ふたりがそろって列を抜けたというできごとがあったのだ、彼女らもおそらくおなじフライトの客だったと思うのだが、いっぽうがいったん列から離れて数十分、列にもどってきたと思いきやもういっぽうの女子にわれわれは列に並ぶ必要がないのだみたいなことをいうのがききとれたので、あれ? じゃあおれも必要ないのか? となったのだった。で、それにくわえて先のキャンセル組の集団来訪となったわけで、こちらもなんとなく列の先頭のようすをのぞきにいったのだった。そこで暴動の気配が生じた。
  • いや、それはスーツケースを回収したあとのできごとだったかもしれない。出来事の時系列がちょっと前後してしまったかもしれない。しかしこのときはさすがにメモをとる余裕もなかったので、とりあえずこのタイミングで起こったこととして記録しておくことにするが、カウンターに押しかけている男が怒鳴り声で抗議しはじめたのだった。それに同調する声もいくつも続いた。そのようすを撮影するつもりでか、列にならんでいるほかの客らがスマホをもった手を高々と頭上に突き出すのもみえた。翻墙している人民らがたびたびTwitterに投稿している暴動やデモの現場みたいだと思った。そういう気配が漂いはじめると、ひとなみの中からスマホを握った手を高々とまるで賛同の意思を表示するかのようにかかげる人間があらわれはじめるのだ。いや、実際はそうやって混乱の現場を俯瞰気味に録画し、のちほどモーメンツだの微博だの抖音だのに投稿する目的なんだろうが!
  • いずれにせよ、これ以上この列にならんでいてもらちがあかないというのがこちらの考えだった。ほかの乗客らがスーツケースをもってあらわれたのであるから、こちらもまずはスーツケースを確保すべきだと考えた。それでおなじ列にならんでいた小汚い老婆と小型スーツケースを椅子代わりにしてスマホをいじっていた若い男の子に、客室添乗員スタイルで表示したDeeplで、荷物の回収に行きたいのでここを見ておいてほしいみたいなメッセージを中国語翻訳、ふたりから了承の返事を得たところで国際線ターミナルのほうに向かった。ひとつ書き忘れていたが、空港内ではVPNがどうも安定しないというトラブルもあった。完全に弱り目に祟り目だった。だからネットで、フライトがキャンセルされた場合の流れみたいなものを検索することも全然できなかったのだ。
  • 国際線のチェックインカウンターは無人だった。スーツケースも見当たらない。最悪だ! と思いながらチェックインカウンターとは別にある受付にいき、たのむ英語よ通じてくれ! と祈りながら、フライトがキャンセルされた、荷物の回収の前にチケットの交換にいけといわれた、いまその荷物を回収するためにもどってきたのだがカウンターにひとがいないと告げるやいなや、山東航空か? だったらあっちだ! というすばやい返答があった。受付スタッフが指さしたのは国際線ロビーの片隅だった。ロープの張られた片隅にコートをきたフライトアテンダントの女性三人が番人のように突っ立っている。そして未回収のスーツケースがそのロープの内側に集められていたのだ。おなじフライトの乗客らしい人物の姿も三人か四人あった。そのなかにひとり、長髪を後ろでたばねている若い男の姿もあり、もしかして日本人か? と思ったが、肌はけっこう浅黒いし背も低いし、いや中国の南方人か? でもこの髪型は……とふしぎに思った。とりあえずフライトアテンダントのところに近づいていき、パスポートに貼られたステッカーをみせた。スーツケースの引換券だ。それでスーツケースを引き換えてもらうついでに英語で話しかけたのだが、ダメだった、すぐに苦笑いで目を逸らされた。別のフライトアテンダントは違った。同僚からの助けをもとめるアイコンタクトを受けた彼女はすぐにこちらに対応してくれた。卒業生の王晓菲さんに似ている長身の美人だった。英語も申し分ない。さっきスタッフからチケットの交換にいくようにいわれた、しかしずっと列に並んでいるのにいっこうに交換できそうにない、そもそもフライトがキャンセルされるという経験がはじめてなのだ、中国語もわからないしなにをどうすればいいか見当もつかない、じぶんはまずなにをすべきなのか——と、だいたいにしてそのように告げると、まずはやはりチケットを交換する必要があるといった。そういいながらスマホを操作した彼女は、しかし明日のチケットはすでに売り切れてしまった、明後日のものも残り6枚しかないと続けた。は? と思った。じゃあ明後日まで空港で寝泊まりなのか? いや、さすがにそれはアレなわけだが、ホテルをいまこの時間から予約して現場に向かう必要があるのか? それもあの行列の順番がようやくまわってきたあとに? 女性はほかにこのルートもあるといって別の便をみせた。ソウルを経由して大阪にむかうものだった。でもおすすめはしないというので、海外を経由するからだなと受けると、肯定の返事。日本と韓国はおたがいノービザで入国できるはずだから、別にこれでも問題ないはずだが、しかしコロナ以降のあれこれで事情がもしかしたら微妙に変わっているかもしれないし、なによりこのルートを利用する場合金がずいぶん高くつくのだった。山東航空は当然金は払えないという。キャンセルのrefundは可能、日にちをずらしてのチケット交換も可能、ただそれのみ——というやりとりを交わしているときだったと思う、長髪を後ろでたばねている彼が日本語で話しかけてきたのは!
  • 日本人ではなかった。留学生だといった。日本語はかなりできるようすだった。それで事情を話し、通訳をしてもらったが、先ほど英語でやりとりした内容がくりかえされたにすぎなかった。しかしあらたな情報もあった。ホテルまでわれわれを送りとどけるバスが出るというのだった。ホテル代がどうなるのかはわからないが、とりあえずそのバスがいつ出るのか運転手にきいてみたほうがいいと女性はいった。それで長髪の彼とそろってバスのもとにむかうことにした。こちらが数時間前、ほかの客らとそろっていったん外に出たのとおなじゲートからまた視界絶不良のクソ寒い外の世界にくりだした。バスはかわらず複数台停車したままだった。手前のバスの周辺にいるスタッフに長髪の彼が話しかけた。そのバスではなかった。奥のバスだった。奥のバスの荷物収納スペースの前に立っている男性に話しかけると、出発時刻は未定との返事。乗客全員をのせるまでは出発しないという。ということは点呼でもとるつもりなのだろうか? いずれにせよ、こちらのなすことは列にならびなおすことだけだった。
  • 老婆と若者のあいだにふたたび並んだ。長髪の彼はいったん去った。彼はスーツケースをまだ回収していなかったのだ。列にならびながら『こころ』(夏目漱石)の続きを読んだ。当然集中などできるはずもない。長髪の彼がスーツケースとともにもどってきたのが視界に端にみえた。列にならぶようすはなかった。ただこちらから少し距離をとった位置にいるのだった。どういう了見なのかわからなかった。
  • 突然、女性から英語で話しかけられた。マスクを装着した二十代後半か三十代前半の美人だった。あなたはフライトをキャンセルされたんでしょう? だったら、そこの列に並ぶ必要はない、あのスタッフに直接話をすればいいといって、小さな円陣を指さした。それでそちらに移動した。長髪の彼もついてきた。ここではじめて彼の存在に気づいたふりをして、さっきおなじ飛行機だった女性にここに来るようにと言われたんですと告げた。円陣のなかには首から航空スタッフのカードをさげた女性がいた。同様のスタッフはほかに二人か三人いた。どうやら彼女らが手分けしてチケットの交換を担当しているらしかった。名前とチケットナンバーを告げた。パスポートを見せた。フライトの希望をたずねられたので、明日のチケットはすでにないという話であったし明後日はあるかとたずねた。女性はそれらの情報をチャットに送信。すると、チャットの相手はたぶん本社の人間だと思うのだが、チケットの変更手続きをその場でちゃちゃっとしてうまくいったものから順番に返信をよこすみたいな仕組みになっているらしかった。で、結果、こちらのフライトは明後日17時のものになんなく決まった。これだったら列に並ぶ必要などなかったのではないか? というかこういう展開を理解していたからこそ長髪の彼やほか一部の乗客は列にならばず、航空会社の次の手をおとなしく待っていたのかもしれない。長髪の彼はその後こちらに遅れて手続きを開始したが(チケットナンバーを見つけるのに手こずったのだ!)、なぜか明日17時のフライトに乗ることができることになったので、内心めちゃくちゃうらやましく思った、というか明日のチケットはすでにないというフライトアテンダントの話はなんだったんだよと思った。機内で隣の隣の席に座っていたおばちゃんともここで再会した。むこうから肩をとんとんしてきたので、ああ! となったのだった。
  • ひとまずフライトの目処のたったわれわれとは別に、まだまだ揉めている乗客らが数多くいた。スマホ片手にチケット交換手続きにはげんでいる女性スタッフらとは別に西川きよしの生き別れの兄弟みたいな男性スタッフがいたのだが、彼はどうも逆ギレしているようだった。長髪の彼曰く、われわれとは違って大半の乗客は観光客である、ビザの関係もあるし予約先のホテルの関係もある、それに復路の便の問題もある、そのあたりのことでなかなか本社の提案と話があわずあれこれ揉めているらしかった。で、きよしはそんな乗客らの対応に、どうも業を煮やしているようだった。きよしはほとんど強引に、おまえらはいったん北京にいけ! それから乗り継いで大阪にいけばいい! それでいいだろ! 問題はないだろ! みたいなことを叫んだ。
  • とりあえず全員の手続きが終わった。その場にいた十数人のなかに日本人がふたりいた。ひとりはハゲちらかしたスーツのおっさんで、もうひとりはその息子くらいの年齢の若い男だった。上司と部下というよりもなんとなく父と息子なんではないかという気がした。若い男のほうが日本語で電話しているのがきこえた。これこれこういう事情で今日は航空会社の手配してくれるホテルに泊まることになって——と説明していた。
  • あらためてバスに乗ることになった。こちらと長髪の彼のスーツケースはすでに収納スペースにおさまらないので車内に直接もちこむことになった。バスは八割方埋まっていた。われわれはいちばん後ろの席に座ることにした。そしてその前の席のシートの上にスーツケースをふたつ直接寝かせてのせた。
  • ホテルまでは一時間ほどかかった。長髪の彼とあらためて自己紹介して微信の連絡先を交換した。(…)くん。貴州省出身。年齢はきいていない。いまは大阪にある(…)のゲーム制作学科に所属しているという。中国の大学を卒業後日本の専門に入りなおしたのか、あるいは高卒でそのまま日本に渡ったのかはわからないが、いずれにせよ専門学校のほうは今年卒業とのこと。卒業後は中国にもどり、仲間たちといっしょにゲーム制作のための会社をたちあげる予定とのこと。スマホゲームですか? パソコンのほうですか? とたずねると、できればスマホゲームはしたくないという。はっきりと理由は口にしなかったが、たぶんガチャだの課金だのああいう手合いのものにうんざりしているようす。実際、(…)くんの一番好きなゲームはフロムソフトウェアのもので、『SEKIRO』も『エルデンリング』も『アーマードコア』も全部プレイしているし『エルデンリング』にいたっては全トロフィーも獲得しているとのことだった。
  • (…)は今年卒業なのでこれから卒業制作にとりかかる必要があるという。(…)くんが担当しているのはエフェクト。おなじ学校の他の学科に所属する学生とチームを組んで制作する予定。それとは別に、これは世界規模のコンテストという話だったと思うが、48時間以内でゲームを制作するという趣旨のものがあるらしく、それにも参加するつもりだという話だった。コンテストは毎年開催されているらしく、(…)くんは去年仲間といっしょにコンテストに参加、そのときのテーマというかキーワードは反転とかなんとかそういうもので、彼のチームは2D横スクロールのアクションゲームを開発。実際にプレイ画面を見せてもらったのだが、プレイヤーの操作する女性キャラが停止しているあいだはステージのギミックが常時動き、反対にキャラが動いているあいだはすべてのギミックが停止する、そういう仕組みでもってテーマにあわせたということだったが、できばえには全然満足できていないようすだった——と、ここまで書いてググってみたところ、Global Game Jamというのがヒットした。どうもこれが48時間以内にゲームを制作するというくだんのコンテストの正式名称っぽい。2023年のテーマはRootsで2022年のテーマがDualityとあるので、たぶん(…)くんのチームが参加したのは2022年なのだろう。(…)くんはいま家賃五万円のアパートに暮らしている。最寄りの地下鉄まで徒歩五分、そこから梅田に出るまでおよそ二十分とのことで、便利な立地のわりにけっこう家賃が安いのではないかと思った。
  • ホテルに到着。カウンターにみんなで押しかける。バスには山東航空の男性スタッフもひとり同行していた。ホテルにもついてきたのだが、彼の説明によるとホテル代はすべて航空会社が出すとのことだった。よしよし。ホテルには先の西洋人男性もいた。また(…)くんとは別にもうひとり大阪に留学中だという若い男の子もいた。長身の、ファッションがあんまり中国っぽくない、どちらかというと日本人っぽいテイストを感じる子で、だから空港にいたときからちょっと印象に残っていた子のひとりであるのだが、ホテルのカウンター前の列にならんでいるあいだ、その子とはじめて言葉を交わした。(…)くんがトイレに行ったのか煙草休憩をしていたのか、いつのまにか姿を消したそのタイミングで航空会社のスタッフが明日および明後日の送迎バスの予定時刻について口頭で説明しはじめたのだが、そのときに彼が率先してこちらのために通訳してくれたのだった(スタッフの説明は全部ききとれていたが!)。スタッフはわれわれ乗客ひとりひとりの微信の連絡先を確保した。長身の彼はこちらとおなじ明後日出国組らしかった。
  • (…)くんがいつのまにかもどってきた。われわれ三人ともうひとり見知らぬおっさんの四人が最後のチェックイン組だった。ホテルには部屋が余っていないとのことだった。そこで明日出国組と明後日出国組でそれぞれ相部屋ということになった。うわ長身の彼に申し訳ないな、知らない外国人と相部屋なんて緊張するだろうなと同情した。四人そろってエレベーターで五階に移動した。(…)くんとおっさんと廊下で別れた。こちらは長身の彼といっしょに指定された部屋に入室した。部屋は月並みなものだった。
  • それでまた自己紹介からはじめた。長身の彼は(…)くんといった。高身長であるし彼のあやつる中国語は巻き舌が目立っていたし、まずまちがいなく東北人だろうと思っていたのだが、然り、故郷はハルビンであるとのこと。年齢は19歳。想像以上に若かった。もともとは大連にある(…)という大学に進学したのだが、大学生活がつまらなかったので一年もたたないうちに退学、日本の大学に進学することを目標としてまずは大阪の日本語学校に入学したのが去年の7月だったか、いちおう来日前に一ヶ月だったか二ヶ月だったか日本語を勉強したというのだが、それを含めても日本語学習歴は半年とちょっと、そのわりにはめちゃくちゃ達者だったというか、うちの四年生よりも全然できるわとびっくりしたので、その点しっかり絶賛しておいた。日本の大学に進学しようと思った理由はやはり中国国内の内卷っぷりに嫌気がさしていたというのがおおきいらしい。それに大学を卒業したところで就職ができるかどうかもわからない。さらに父方であったか母方であったか忘れたが、祖父が日本人という事情もあるようだった(妻は中国人)。で、最初はその祖父母をたよって、ふたりが住んでいる尼崎で生活、いまは大阪市内に引っ越してひとり暮らしをしているといういきさつ。目標としている大学は近畿大学。卒業後はそのまま日本で就職して永住するつもりでいるという——というような話はこの夜交わしたのだったかもしれないし、翌日の夜交わしたのだったかもしれないし、あるいはさらにその次の日に空港内などで話したのだったかもしれないが、とにかく、われわれはすぐに打ち解けたのだった、そしてなんの因果か同室で二日過ごすことがきまったこの夜、さっそく夜中の3時ごろまでおたがいのベッドで寝転がったまま、雑談をし続けたのだった。
  • 政治的な話はもちろんしなかったが、永住というキーワードも出たことであるし、iPhoneTwitterを使っているようすもちらりとみえたし(iPhoneを日本で買った理由は中国でスマホを買うと不便だから——インストールできないアプリがあるからとはっきり言っていた)、愛国教育ど真ん中世代でこそあるもののおそらく内心では党に思うところありという層なのだろうと察せられた。本人曰く、最悪のケースとしては、中国国内で日本語教師をすることも考えているとのことだったが、それについては、大学教員になるつもりであれば博士号が必要であるし、中国国内での日本語教師の需要は今後どんどん減っていくだろうと思われるし、あまりおすすめはしないと正直に伝えた。本人もそれはあくまでも最悪のケースだといった。
  • (…)くんはファッションが全然芋っぽくなかった。さらに髪の毛も長くパーマをあてており、スマホでしょっちゅうじぶんの髪型をチェックしていて、だから、たぶんゲイなのかもしれないなと思った。連絡先も当然交換したのだが、モーメンツには自撮りもたくさんある。これまでにこちらが中国で出会ったことがある若いゲイらと共通する要素がひととおりそろっていた。先取りして書いてしまうが、この翌々日、空港で飛行機が来るのを待っているあいだ、日本の古着屋でZARAのコートを2000円くらいで買ったとも言っていたが、ZARAといえば以前卒業生でありゲイである(…)くんが、中国でZARAを着るのは全員ゲイですと断言していた。ほか、こちらがシャワーを浴びているあいだ、(…)くんは友人と電話していたのだが、その友人というのが女の子で、おなじ日本語学校に通っている子らしいのだが、その子が話す中国語のなかにしょっちゅうgayという言葉がまじっているのもききとれた。身長は185センチもあり、顔だちもかなりととのっていて、ちょっと(…)をおもわせる塩顔系のイケメンであり、輪郭は一年生1班のやはりゲイである(…)くんに通じるところもあった。
  • (…)くんは今日、朝ごはんしか食べていないという話だった。航空会社はホテルこそ手配してくれたものの夕飯は各自にまかせるというアレだった。こちらはこちらでやはり腹がたいそう減っていた。それで(…)くんが李先生というチェーン店(広州旅行の帰りに学生らといっしょに食ったことがある)で牛肉面を外卖してくれた。で、食後にこちらはシャワーを浴び((…)くんは明日の朝浴びるといって入らなかった、ただパンツ一丁になってベッドにもぐりこんだ)、歯磨きをすませてベッドにもぐりこんだあとは、先にも記したように、夜遅くまでたっぷりとハルビンや(…)や大阪や京都や日本や中国の話をしたのだった。当然意気投合したわれわれは翌日のオフをまるごと济南観光にあてることになった。フライトがキャンセルされたときはどうしたもんかと思ったが、こうなってみるとこれはなかなかおもしろいイベントになってきたぞという感があったし、(…)くんは(…)くんで日本語教師であるこちらとこうして知り合い共に行動する流れになったことをラッキーと思ったらしく、父親との電話でもそのように伝えていた。災い転じて福となす!