20240117

 嘘をついてまで東京に居残って一人で迎えた正月は、ひどく侘しかった。二回もピザを取ってHuluでたいして面白くない海外ドラマを一気に見て、ネットで靴を二足買った。こんなことなら帰ってもよかったなとかすかに思いつつ、それでも地元の悲しくなるほど活気のない街や、完全に時間が止まった実家の居間で、なにをするでもなく箱根駅伝を見ているときのどうしようもなく倦んだ気分を思い出すだけで、いやいや自分の判断は間違ってなかったと美紀は思い直した。
山内マリコ『あのこは貴族』)



 10時ごろ起床した。階下に移動後、歯磨きをすませてから『一心同体だった』(山内マリコ)の続きを少し読む。朝昼兼用で弟のこしらえた味噌煮込みうどん。味噌煮込みうどんを食うたびに有吉が狩野英孝につけたあだ名「クソ煮込みうどん」を思い出す。
 去年のいつごろからだったか忘れたが、ずっと狙っていたGARNIの指輪があって、それを今回の一時帰国中に買うつもりだった。ただ、こちらの指は異様に細い。そんなじぶんにはたしてサイズが合うのかというアレがあったので、ひとまずリングゲージだけポチった。
 両親から墓参りに誘われた。明日からまた雨降りで寒くなるので、あたたかいうちに行っておこうというのだった。実際、今日の昼間はあたたかかった。庭に面した窓を背にしてキッチンテーブルでカタカタやっているあいだ、ヒートテック一枚でも平気の平左だったのだ。
 弟は留守番。父の運転する車の助手席に乗る。まずは(…)に立ち寄って、そこで母がしきびだのそなえものだのを買う。その後(…)へ。そなえもののコーヒーと甘いものは墓石にぽつんとのせるだけのせてすぐに回収。何年前からそういうルールになったのか知らないが、カラスがそなえものを全部食い散らかすというアレで、霊園側からそなえものは持ち帰るようにという通達が出ているのだ。合掌し、(…)の健康を祈る。
 セブンイレブンに寄ってもらう。ATMで金をおろす。以前と同様七万円×二度でも問題なし。どういうことだ? 日本国内のATMからの引き出し限度額がまた渋くなったという情報をたしかにTwitterで目にしていたのだが? 引き出しできるのであればそれに越したことはない。日本滞在中になるべく頻繁にセブンに通って引き出すべきものを引き出すのみ。ついでにホットコーヒーを買う。
 帰宅。階下のテーブルでカタカタやる。帰路の車内で流れていたラジオでRadioheadの“No Surprises”がかかっていたのでなつかしくなり、『OK Computer』を下手すれば15年ぶりくらいにきいた。13日づけの記事を投稿し、2023年1月14日づけの記事と2014年1月14日づけの記事を読み返す。
 ふたたび外出。(…)を車にのせて、(…)へ。(…)は以前と同様、後部座席にのっているあいだは窓の外を見たがるのだが、足腰が弱くなっているために、運転中の車内で自立することができない。それでその腹を両手で抱えるようにして補助してやる必要があるのだが、痩せたとはいえ25キロ近い体重がある。その結果、毎日その補助役を務めていた母が腕を痛めてしまい、整形外科の処置を受けるはめになってしまったという。そういうわけで後部座席にはこちらが乗りこんだ。補助役、思ったよりも大変。はじめのうちはそうでもないのだが、ドライブが長引くと(…)はほぼ全身の体重を介助者にあずけるようになる、それを支えていると腕がまあまあパンパンになるのだ。(…)に到着後、シートの上にうんこがひとつ転がっているのを発見した。こちらのコートの胸のあたりもちょっとだけ茶色くなっている。乗車中はおむつをはかせているのだが、筋肉の衰えによって日に日に痩せていくためにか、そのおむつもけっこうブカブカになっており、どうやら隙間からうんこが転げ落ちたようだった。いちばん重い時期でたしか27キロほどあった(…)であるが、今日体重計を兼ねた診察台にのせてみたところ23キロほどになっていた。
 病院では足腰を丈夫にするための注射を接種。これは月に一度で一万円ちょっと。それにサプリが月に一万円。ほか肝臓の薬と目薬、それにもちろん食費も相応にかかるわけで、どう考えても京都時代のワシより生活費かかっとるやんけ! 先生から後ろ足に注射をぶっさされているあいだも(…)はまったく抵抗しなかった。若いころであれば牙をむいて抵抗したもんやが!
 (…)へ。保護犬の(…)と(…)を連れたおばちゃんとほぼ同時に駐車場に到着。(…)と(…)には去年の夏休みに会いそびれている。だからおよそ一年ぶりの再会ということになる。おばちゃんはこちらの姿を認めるなり、おかえりなさいと声をかけてくれた。(…)と(…)にはいつのまにかけっこうな体格差が生じていた。(…)のほうがひとまわりかふたまわり大きい。そしてひとなつっこい。(…)のほうはやや遠慮がち。(…)のほうは保護されるまえにけっこうひどい虐待を受けていたらしいから、おそらくそのせいだろう。二匹そろって撫でまくる。柴犬に近い雑種なので脱毛がすさまじい。ちょっとひっぱってやるだけでごっそり抜ける。年中換毛期みたいなものらしい。
 (…)は当然それほど歩かない。しかし補助用のリードなしでもどうにかうろちょろはする(かなりおぼつかない足取りではあるが!)。ゆっくりと駐車場の周辺をうろうろしたのち、車にもどるかというタイミングで、白いベンツがやってくる。小型犬を多頭飼いしているうちだ。おばあちゃんとおばちゃんのふたりがそれぞれ白い小型犬を抱っこしておりてくる。どいつもこいつもアホみたいにキャンキャン吠える。それでいてこちらをおそれるふうでもなく、手をのばしてやると尻尾をふりながら近づいてくるのだ。おばちゃんと多少言葉を交わす。もともとは四頭いたのだが、一頭は最近死んでしまったという。残る四頭の犬種はバラバラ。一匹がチワワとマルチーズのミックスだったのはおぼえている。おばちゃんは(…)の顔を見て、かわいいかわいいと口にした。明後日で14歳なんですと母がいうと、全然そんなふうに見えないという反応。
 車にのりこむ。帰路をひきかえしはじめたところで、白い柴犬を前方に認めた。(…)ちゃんだ。そしてその近くにはフレンチブルの(…)ちゃんがいた。母曰く、(…)のところと(…)ちゃんのところと(…)のところは散歩で顔を合わせるたびに息子さんそろそろ帰国ですねと声をかけてくれたとのこと。車をとめておりる。まず(…)ちゃんをワシワシする。続いて(…)ちゃんをワシワシする。(…)ちゃんはひさしぶりの再会に興奮しまくっており、喉をヴーヴーヴーヴー鳴らしながらこちらに飛びかかって何度も何度もあごひげを舐めようとした。おかえりなさいと飼い主のおじいちゃん。中国はどうですか、日本よりいいですかというので、まあ一長一短ですねと受けると、一長一短ですかという返事。(…)も車からおりてきた。(…)と(…)ちゃんの相性はいいらしい(反対に(…)と(…)の相性はまずい)。(…)ちゃんは相手が犬だろうと人間だろうとまったく物怖じせず尻尾をふって寄っていくとのこと。今日もすごい甘えっぷりだった。こちらと母のもとに交互に飛びかかっては顔をなめ、その場に寝転んで腹をさらしてはなでろなでろと催促するのだった。
 帰宅。メシ食って風呂に入る。上階にあがり、14日づけの記事を投稿する。2023年1月15日づけの記事と2014年1月15日づけの記事を読み返す。以下は2023年1月15日づけの記事より。

 現実には、このように不連続的かつ多重な樹々は存在しえない。複数の時間にまたがる枝の「運動」が不連続的かつ多重に記録されていると考えることもできない(そのような説明は、画面全体を拘束する周期構造を捉えることができない)。後期セザンヌの風景画は、世界の記録ではない。絵画は世界に対して閉鎖されている。にもかかわらずセザンヌが、これこそが「感覚」なのだ、ここに「感覚」が「実現」されているのだと言うとき、そこでは次のことが意味されていると考えることができる。デコードされるべきは描かれた諸々の対象の形姿や運動ではない。デコードされなければならないのは、むしろ私たちのこの身体である。
 感覚し行為する私たちの身体は、進化と個体の歴史において、世界を特定の仕方でエンコードするよう形成されている。ガヴィングが論じたのは、絵画が、世界を別の仕方で(奥行きをスペクトルの秩序で)エンコードする可能性を開くということだった。そこでは暗号的画面から、描かれた世界を複号することがいまだ問題となっていた。だが真に問題なのは、画面をデコードできるか否かにかかわらず、絵画が、それを経験しうる新たな身体を発生させるということだ。描かれた元の光景がどうであったかはわからず、しかしこの多重化した光景を十全たる世界として経験する新たな身体が発生する。つまりこの身体にはアナグラムのように、他なる身体が潜在しており、絵画がそれを実現する。私たちの身体こそが暗号なのだ。その身体はバラバラに砕かれ、デコードされ、新たな形式へと変換されなければならない。絵画の多重周期構造は、私たちの身体を破砕的デコードのプロセスへと巻き込んでいる。
 後期セザンヌの風景画を「見る」とは、見ることのただ中で視覚が砕かれていく経験である。私の視覚は、気がついたときにはすでに激しく震動するリズムに巻き込まれている。後期セザンヌの絵画は、強力な巻き込みの力を持つ。その力は、絵具の物質的な官能と、画面の多重周期構造に由来している。私は、その多重周期構造から、距離を取ることができない。そこではいわば、定位の任意性が欠けているからだ。単一の周期構造(縞)は定位も脱定位も容易である。だが複数の周期構造の重ねあわせ(モワレ)はそうではない。一つのリズムに乗ろうとした途端に、別の周期構造が現れる。あるリズムから足を洗おうとした途端に、別のリズムに呑み込まれる。定位の不確定性が画面を震動させる。震動は、それを意識したときにはすでに私を呑み込んでおり、絵具の物質的官能に吸い寄せられる私の身体を内側から激しく揺さぶっている。デコードが進行する。
 それは、絵画に目を向けるたびつねにすでに始まっているために「始まり」がなく、絵画から身を引き剥がすことによってしか中断されえないために「終わり」がない震動である。その震動は、行為から行為へ、「始まり」から「終わり」へと流れていく有機的な生の時間を吸収し、消滅させる。セザンヌの絵画を見るとき、そこでは過ぎ去るものとしての時間の感覚が消滅する。始まりも終わりもないその震動の場を、私たちは、絵画的「永遠」と呼ぶことができるだろう。「われわれの芸術は、自然が持続しているということの戦慄を人に与えるべきなのだが、それは自然のあらゆる変化の要素や外見を駆使してなのだ。永遠なものとして味わわせてくれなければならない」。世界から閉鎖されたはずの絵画が、その始まりも終わりもない震動の永続性において、世界の永続性に並行する。画面に目を走らせるたびに組み替えられ、更新される永遠が、私の他なる身体を貫いて震動する。絵画の中で左を向く。すなわち新しき永遠だ……! 絵画の中で右を向く。すなわち新しき永遠だ……!
平倉圭『かたちは思考する 芸術制作の分析』より「第1章 多重周期構造」 p.49-51)

 以下も2023年1月15日づけの記事より(初出は2020年1月15日づけの記事)。

 いまさらあらためて引くまでもない、いたるところで目にしてきたためにすっかりあたまに入っている内容であるのだが、しかし「シニフィアンのネットワークにはひとつの中心となるシニフィアンがあり、それが他のすべてのシニフィアンのネットワークの総体を固定している」とは、より具体性の水準にひきさげていえば、どういうことになるのだろうとあらためて疑問に思った。これについてはのちほどコンタルドカリガリス/小出浩之+西尾彰秦訳『妄想はなぜ必要か ラカン派の精神病臨床』を読んでいるときにもいろいろ考えてみたので、ちょっと書き出してみることにする。以下の内容はラカン派の考えをいちおうベースにしつつも極度に魔改造したもの。
 〈父の名〉という特権的なシニフィアンについてよくいわれる喩えがパズルにおける空白のマス目。つまり、それがあることによってほかの項を移動させたり並べ替えたりすることのできる、不在の中心みたいなもの。これは指し示すものと指し示されるものとが一対一対応する「記号」(これをASD的な言語と言い換えることもできる)に対して、そうではない「(一般的な)言語(使用法)」を可能にするものだといえる。つまり、特異性から一般性への飛躍を可能にする機能が〈父の名〉である、と。これは言語の水準の話。
 同じことを別の水準で考えると、〈父の名〉というものを役割のモデルのようなものとして理解することができる。役割というのは当然、特異的な実存を一般性にたばねたものだ。ゆえに〈父の名〉が排除されているということは、役割のモデルを持たないということであり(一般的な「父親像」「先輩像」「上司像」をもたない)、実人生でそのような役割を課せられる場面(ライフイベント)に接したとき、役割の引き受けが不可能であることが判明し、それを契機に発病することになる。
 精神病者は〈父の名〉の欠如を、周囲の人物を模倣することで誤魔化す(いわゆる「かのようなパーソナリティ」)。「(一般的な)言語(使用法)」にしても「役割」にしても、そのようなその場しのぎの模倣によって取り繕われているために、周囲の目には法の(欠如というよりは)欠損のように映じる可能性がある(精神病の鑑別診断でたしか、具体的にどこがおかしいかいうのはむずかしいがやりとりにずれを感じるみたいな、診察時に医師がおぼえる違和感を重視するというものがあったはず)。発症後はそのようなごまかしが不可能になる。法(文法/役割/論理学的基礎)が狂いをきたして支離滅裂になるが、支離滅裂になったそれを自力で(〈父の名〉にたよらず)まとめあげるのが、〈父の名〉の代替物であり埋め合わせであるものとしての妄想。
 これに対して自閉症者は妄想をすることがない。自閉症は〈父の名〉が欠如したその位置にとどまっている。周囲の人物を模倣することもなければ、〈父の名〉の欠如を代理物で埋め合わせしようともしない。
 理解を容易にするため、あえて時系列っぽく書くと、まずデフォルトとして自閉症的主体がある。主体は特異的な出来事(傷)の到来を受けながらそれらをパターン化しカテゴライズしていく。そのパターン化とカテゴライズを一挙におしすすめるのが「他者」「歴史」「言語」「法」の別名である〈父の名〉。そしてそのような〈父の名〉のインストールに成功した主体が神経症者。神経症者の症状とは、そのインストールによって必然的にもたらされる種々の不具合のこと。一方、インストールに失敗したのが精神病者精神病者は、そもそものパターン化とカテゴライズを放棄した自閉症者とはことなり、神経症者の身振りや思考を模倣したり、〈父の名〉のオルタナティヴとしての妄想を構成したりする。精神病者の症状とは、コンタルドカリガリスによれば、〈父の名〉のインストールに成功していた場合に生じていた神経症の症状が現実界に回帰したものとして理解できる。

 夜食は冷食のチャーハン。生協のものだったが、(…)時代に客室に出していたUCCのチャーハンとよく似た味だった。食後、『Message For Parlienna』(南博)を流しながら15日づけの記事に着手。2時過ぎに中断。作業の途中、三年生の(…)さんと微信と少々交わした。というか济南に滞在しているときからちょこちょこ連絡があったのだが、日記に書き忘れていた。やりとりは主に(…)と(…)のこと。その(…)の散歩中、これはたしかきのうのことだと言っていたが、「変態のおじさんに出会った」という報告もあった。45歳くらいの男性6人組に声をかけられた、男たちは(…)が何歳であるかとたずねた、ついで(…)さんが何歳であるかたずねた、そのあとグループの一人が(…)さんの彼氏になりたいといった、だから(…)さんは彼氏がいると答えた。気色の悪い話だ。ほか、沈従文という作家の『边城』という小説がおすすめだという話もあった。
 もうひとつ書き忘れていたこと。これはおとついの報告だったと記憶しているが、(…)さんから9月に重慶に渡るという話があった。赴任先は(…)大学だという。軽くググってみた感じ、以前聞いたとおり相当レベルの高い大学のようだ。