20240121

「女同士の義理?」
 美紀はその聞き慣れない言葉の並びに、不思議そうな顔を見せた。
 逸子はすっかり美紀に気を許し、この話がしたかったんだとばかりに身を乗り出して説明をはじめる。
近松門左衛門浄瑠璃に、そういう言葉が出てくるんです。文楽とかで上演される、『心中天網島』っていう有名な話なんですけど。観たことあります?」
 美紀は頭をぶんぶん振って「知らない」と肩をすくめ、「どんな話?」と先を促した。
 逸子は息を吸い、言葉を継いだ。
「あるところにろくでなしの男と、奥さんと、遊女がいて、男は遊女と心中しようとしているんです。道ならぬ恋に落ちた二人は、死んで来世で一緒になるっていう考えに夢中で。心中が、彼らにとっていちばんカッコいい美学なんです。あるとき遊女が、彼と心中の約束をしてるんだけど、本心では死にたくないから、わたしのことを諦めさせたいの、みたいなことをほかの客に言っているところを、たまたま彼に見られちゃうんです。でも実は、わたしのことを諦めさせたいっていうのは、遊女の芝居だったんです。実は彼の奥さんが遊女に手紙を送っていて、そこには、夫に死なれては困ります、どうかあの人と別れてくれませんかって書いてあって、遊女は奥さんの手紙に心を動かされたから、あの男とは本気じゃないなんて嘘を言ったわけなんです」
「ん? つまり、本気で好きになって、心中しようとしていたお客さんの奥さんから手紙を受け取った遊女が、彼女に義理立てして、嘘を言ってたってこと? 男を取り合う立場の二人が?」
 逸子は大きくうなずいてさらに語る。
「そう、遊女は奥さんの気持ちを汲んで、ちゃんと手を切ろうとするんです」
「へぇ、偉い女だね」
「でもそのあと奥さんは、あの遊女がこのままだと自殺しちゃうんじゃないかって逆に心配になって、あの遊女を助けてあげてって、今度は自分の旦那に懇願するんですよ。浮気してた張本人に」
「え!?」
 美紀は展開についていけない様子だ。
「自分の手紙をちゃんとわかってくれた遊女が辛い立場にいるのに、それを見て見ぬフリするなんて、女同士の義理が立たないって。奥さんは自分や子供の着物を売ってまで、遊女を身請けするお金を作ろうとする。そしてそのお金で遊女の身請けをして助けてやってくれって、旦那に懇願するんです。すごくないですか? あたしドイツの大学にいたときこの話を知って、なんだ日本スゴいじゃんって、本気で感動したんです」
 逸子は身ぶり手ぶりをまじえてあらすじを説明しながら、顔いっぱいに感情を溢れさせた。
「でも……」
 美紀が水を差すように質問する。
「心中って題名に入ってるからには、結局心中するんだよね?」
「はい。でも、その男も遊女も、ちゃんと死ぬときは奥さんに義理立てして、二人一緒には死なないように気をつかったりしてて、そこもほかの心中物とは少し違ってるんです。激情型の恋愛ものって、あたし昔からちょっと苦手っていうか、嫌いだったんですよね。だって、本気の恋愛であればあるほど、最後は必ず死ぬことになってるんだもん。とくに古典はそうで、死んだら感動、みたいな話ばっかり。死ぬことが崇高って、なんか話のオチとして怠慢じゃないですか? えーなんだよそれ、つまんないし暗いしやだなーって、昔から思ってたんです」
山内マリコ『あのこは貴族』)



 階下におりるとすでに一家は全員起きていた。(…)は何度もこちらを起こしに上にあがったと(…)ちゃんがいった。でもドアをノックしておはようということがどうしても恥ずかしくできなかった。(…)は恥ずかしいという言葉を何度も使う。
 昼飯はバーガーキングを持ち帰りすることになった。きのうハンバーガーチェーンの話になったのだった。こちらは生まれてから一度もモスバーガーを食べたことがない。夫妻がびっくりした。丸亀製麺も食べたことがないし、バーミヤンも食べたことがない。スキーをしたこともないし、スケートをしたこともないし、ビリヤードやダーツもしたことがない。ウェンディーズというハンバーガー店にむかし(…)とよく通った。あんたフレッシュネスが好きやったやろと(…)に言われたが、フレッシュネスが思い出せない。北大路ビブレにあったやん。その言葉で思い出した。たしかにじぶんはフレッシュネスハンバーガーが大好きだった。あんなにうまいハンバーガーはよそで食ったことがない。こちらのその言葉をきいた(…)さんはわざわざ自転車で一時間ほどかけて北大路ビブレまで足を運んだ。(…)さんはバーガーキングが大好きだった。大麻でマンチーになった状態で食うバーガーキングほどうまいものはないとよく言っていた。
 ワッパーというのはおおきなハンバーガーのことらしい。ワッパーひとつ注文した。チーズのたくさん入ったやつだ。(…)がアプリで注文してしばらく経ったところで店舗に回収にむかった。店舗は混雑していた。若いひとが多い。ワッパーはうまかった。(…)はハンバーガーが好きではない。マクドナルドのハンバーガーを口元に持っていっても拒絶する。でもバーガーキングハンバーガーはおいしそうに食べた。だからバーガーキングはうまい。
 新祝園駅まで送ってもらった。改札の手前まで一家が総出でやってくる。(…)はやっぱり泣かない。どれだけ楽しい思いをしてもお別れのさいに泣いたり駄々をこねたりすることがない。日差しの当たるホームでさっそく本を読む。大和西大寺で特急に乗り換える。券売機を操作していた、老人というほど老いているわけでもないスーツの男性の手元があやしかった。このままでは乗り換えにまにあわないかもしれないとイライラしてしまう。『ゼロから始めるジャック・ラカン』(片岡一竹)は文庫化前にくらべると後半かなり加筆修正しているらしい。まだ前半しか読んでいない。
 (…)駅の裏手に父が車で迎えにやってくる。セブンイレブンでまた15万円おろす。京都土産がないのでどらやきを四つ買う。帰宅してすぐに(…)を(…)川に連れていく。注射が効いてきたのか、(…)は数日ぶりに帰宅したこちらのほうに尻尾をふりふりやってきた。今日はひどく寒い。きのうは雨が降った。(…)川にはほとんどひとがいなかった。犬ともまったく会わない。枯れた草原と枯れた河原に老いた両親と老犬とじぶんがいる。
 (…)さんから『手のひらたちの蜂起/法規』(笹野真)の献本がとどいていた。本名さえ伏せ字にしてあれば公開用日記で言及してもらってもかまわないという。ペラ見してみたが、まず装丁がすごい。詩は意味から距離をとっているタイプのものであるのにその意味のとりかたがふつうじゃない。豊穣な言葉を爆発させることで意味を飽和させるのではなく、むしろまずしい語彙とむきだしの論理で距離をとっている。現代詩文庫に収録されている詩人の作品にかぎっていうなら、意味から距離をとる詩はふつう範列(パラディグム)を戦場とする。統辞(シンタックス)を戦場としているのは藤富保男くらいしか思い浮かばない。意味と非意味の境界線、範列的非意味と統辞的非意味の境界線、その二重の境界線をひとまず前提としたところからはじめられた詩。のちほど精読する。
 GARNIから指輪もとどいている。右手の人差し指であればそれほどブカブカでもない。夕飯になにを食べたのだったかもう忘れてしまった。Buriedbornes2がいつのまにかリリースされていたので少しだけプレイする。ソファで一時間以上寝た。
 風呂に入ったあと、部屋で日記を書いた。イトメンのチャンポンめんを食うと日本だと思う。すがきやも食べたい。