20240124

「うん。銀座のクラブで働いてたことあるから、その手の話にはね。うちの地元なんかも、一帯で応援してる政治家がいたりするし。その先生が引退したあと、誰に継いでもらうかで揉めてるなんて話も、聞いたことある。ずっと秘書やってた人が自分が後継者になりたいって名乗りでたんだけど、ほら、田舎のじーさんばーさんは血縁が大好きだから。結局、東京にいる先生の息子が、サラリーマン辞めて立候補してた。そんで、見事当選!」
「経験ゼロなのにですか?」
「そう。田舎の人って、経験とか実績とか政策とかまるっきり無視して、個人的に知ってるかどうかとか、情とか習慣で投票するから。だからニコニコ手振ったり握手したりすれば、投票用紙を前にしたとき、従順におなじみの苗字を書いてくれちゃうのよ」
「へぇー」
「だから将来、国会議員にならなきゃいけない家に生まれた男の子には、思いっきりわかりやすい名前つけるんだって。太郎とか一郎とか。そうすればどんな学のない人にもすぐ憶えてもらえるし、刷り込みで投票用紙に書いてもらえるから」
山内マリコ『あのこは貴族』)



 以下、2014年1月23日づけの記事より。『トランスクリティーク カントとマルクス』(柄谷行人)に引用されていたマルクスの一節。

 ……デモクリトスの自然哲学とエピクロスのそれを同一視するのは、古くから確立された偏見である。だから、エピクロスによるデモクリトスの自然哲学の変更は、たんに恣意的な気まぐれにすぎないと考えられている。一方、私はディテールに関して顕微鏡的な探求のようにみえるものに入りこんでいかざるをえない。しかし、まさにこの偏見が哲学のなかに隠蔽されているがゆえに、デモクリトスエピクロスの自然哲学のなかに、その相互依存性にもかかわらず、微細なディテールに及ぶような本質的差異を明証することは、いっそう重要となるだろう。非常に一般的な考察はその結果がディテールに適用されるとき妥当するかどうか疑わしいけれども、微細なものにおいて明証される差異は、関係がより大きな次元で考察されるとき、よりたやすく示されるのである。
マルクスエピクロスデモクリトスの自然哲学における差異』)

 「非常に一般的な考察はその結果がディテールに適用されるとき妥当するかどうか疑わしいけれども、微細なものにおいて明証される差異は、関係がより大きな次元で考察されるとき、よりたやすく示されるのである」というくだりがいい。
 昨日、夜食に冷食のドライカレーを食べたのだが、今日の昼飯もおなじものを食べた。とろけるチーズをのせた。起きたのは正午過ぎだった。母が眼科に出かけた。(…)は母が出かけると玄関のほうにようすを見に行く。そこでずっと帰りを待つというわけではない。足腰が弱くなったいまでも玄関のほうにふらふらと千鳥足で歩いていく。軽度の分離不安症なのだ。その母のiPadがとどく。弟が設定をする。弟には昨日車内で三万円渡した。折半ではなくやや多めにこちらがもったかたち。父はmont-bellのジャケットを着て午前中さっそく山登りに出かけた。父は仕事のない日たびたびひとりで山登りに出かけるらしい。以前は(…)もいっしょだった。(…)はいまほとんど歩くことができない。今日は山登りではなく(…)温泉に行ったのだったかもしれない。夜遅く、歯磨きをするために下におりる。(…)は母の布団で居眠りしている。近づいても目を覚まさない。耳がほとんどきこえていない。なでてやると、少しだけびっくりしたようすで目をひらき、そのまま体を起こそうとする。その拍子に尻尾がもちあがった。母といっしょにおむつの中身を確認する。やはりうんこを漏らしている。おむつを交換する。(…)はふたたび布団のうえに寝そべった。寝そべった体をすぐにまた起こし、よぼよぼの前足をどうにかもちあげて、布団のそばにひざをついているこちらの腕や膝にひっかけようとする。撫でろ撫でろという催促だ。犬の寿命はいっそのこと二年や三年であったほうが幸せだったかもしれない。平均寿命が二年や三年の生き物であったら、カブトムシやメダカなんかとひとしくながめることができたとまではいわないが、遠くないその死を思って心が引き裂かれるようなことはなかったかもしれない。
 授業準備に励んだ一日だった。新学期まで残り一ヶ月ほどとなると急くものがある。日語会話(四)にいたってはゼロから用意しなければならないし、日語文章選読も数年ぶりに担当する授業なので読解用の文章を用意するところから始める必要がある。やりやすいものから順に着手したほうがいい。日中は食卓で日語会話(二)の第12課と第13課の教案を改稿した。夜は間借りの一室で第14課&第15課(以前は別々であつかっていたが、今回は合体させることにした)と第17課と第18課の教案を改稿した。ひどく寒い一日であり風も相当強かったので、今日は(…)を(…)川まで連れていくことはなかった。
 奈良のジュンク堂で買えなかった『存在論的中絶』(石川義正)をポチった。ついでに『落としもの』(横田創)と『現実的なものの歓待 分析的経験のためのパッサージュ』(春木奈美子)もポチった。これで一時帰国中に購入しておきたい本はいちおうすべて買った。すべてではない。ほしい本や読みたい本はほかにもたくさんあるが、スーツケースには容量というものがある。Kindleに対応しているものはそちらで買う。押し入れの積読から持っていく予定の本もハードカバーで10冊以上ある。そんなにたくさん持っていっても半年で読めるわけがない。
 授業準備しているあいだにいろいろ音源をきく。(…)からZAZEN BOYSの新譜がリリースされると教えてもらった。(…)は職場の(…)くんから教えてもらった。その新譜『らんど』をきいた。シンセが鳴っていなかった。一曲目の最初の歌詞が「繰り返される諸行は無常/それでも蘇る性的衝動」だったので、まだ言うとんかんと思った。ZAZEN BOYSの新譜は12年ぶりのリリースらしい。音楽ナタリーのインタビューも読んだが(https://natalie.mu/music/pp/zazenboys)、「皆さんも恐らくそうだと思いますけど、「20年間でこういうふうに変わったな」と、自分ではっきりと認識することはないですよね。そりゃもちろん、私にも変化がいっぱいあったと思います。でも1つ言えるのは、「私の歌いたいことや鳴らしたい音の周波数は、ここにしかたどり着かないんだな」ということ。長くやっていれば「結局こうなる」っていうのはわかる。それをよしとするか、「これじゃいかん」と変えていこうとするか。私はもう、変えようとは思わない。ずっと「諸行は無常である」としか言ってないからね。私の自我はここにあって、もうこういう形にしかならないから、勘弁してくれやと。……勘弁って、誰にお伺いを立てているのか、自分でもちょっとよくわからないけど(笑)。ただ「もうこれしかない」ということはわかります」というくだりなど、ちょっとラカン派のみずからの症状とうまくやっていくことというコンセプトをおもわせるフレーズであるし、個人的にも腑に落ちるものであるけれども、それ以外の内容がけっこうすべっているというか、読んでいてちょっといたたまれない気持ちになった。(…)から教えてもらった『Jesus Loves You』(Kvi Baba)もきいた。『いつでも』(シバノソウ)と『Contact』(角銅真実)もきいた。後者は今年に入ってからきいた音源でいちばんいい。2024年の10枚に入るかもしれない。Qeticのインタビューも読んだ(https://qetic.jp/interview/kakudo-manami-240124/458345/)。東京芸大在学時に高田みどりに師事していたというプロフィールに目をひかれた。ceroのサポートにも入っている。前作『oar』もきいてみたい。