20240123

 東京からはるか遠く離れた場所で、小さな田舎町しか知らずに生きている自分の家族は、フランス料理を上手に食べられるわけもなく、初対面の人と当たり障りのない上品な会話ができるわけでもなく、財界人や政治家がガハハと幅を利かせる場に萎縮しきっていたたまれなくなり、いきおい傷ついてしまうだろう。美紀はこれでも幾ばくかは都会のはったりに慣れているつもりだが、それでも最高級ホテルの大宴会場で催される、壮大な茶番のごとき披露宴には圧倒されっぱなしで、新婦友人という〝その他大勢〟であるにもかかわらず、ずっと、かすかに緊張しているのだった。そして周囲を見回して思った。どうやらここにいる全員が、同じ世界の住人らしい。この人たちも何世代も前から東京で足場を築き、成功を収めた人たちの〝末裔〟なのだ。
 美紀は席次表に載っている有名政治家の名前をスマホでこっそりググり、ウィキペディアをななめ読みするなり、あまりの血の濃さに思わず驚嘆する。あの政治家とあの政治家、遠い親戚じゃん。先祖はあの幕末志士じゃん。知ってた!? 美紀は興奮気味相楽さんにスマホを見せる。
「ああ、知ってる知ってる、有名ですよ」
 こちら側の世界の端くれに生まれ育った相楽さんは、そんなの常識じゃないですかという態度である。ここは歴史に裏打ちされたエスタブリッシュメントで構成されているんですよと当たり前のように言う相楽さんを見て、美紀は思った。ああ、日本は格差社会なんかじゃなくて、昔からずっと変わらず、階級社会だったんだ。つまり歴史の教科書に出てくるような日本を動かした人物の子孫は、いまも同じ場所に集積して、この国を我が物顔で牛耳っているのだ。
 こんなことは東京で、その世界の住人たちと接触しなければ実感できなかったものだろう。世の中がこんなにも狭い人間関係で回っていることは、自分のような庶民には実に巧妙に隠されているように美紀には思えた。青木幸一郎も自分の出自を自慢げに話すことはなかったが、そうすることで、外の世界からはその秘密を——自分たちの世界こそが日本の中枢であるとは——知られないように、上手に隠しているみたいだと思った。そして彼らはとてもとても特殊な世界で生きているけれど、そのことを本人たちは、まったく自覚していないのだった。
 中からは、わからないのだ。ずっと中にいるから、彼らは知らないのだ。気づいていないのだ。そこがどれだけ閉ざされた場所なのか。そこがどれほど恐ろしくクローズドなコミュニティであるかは、中にいる人には自覚する術がないのだ。
 なーんか地元に帰ったみたい。
 美紀は思った。
 中学時代からなに一つ変わらない人間関係の、物憂い感じ。そこに安住する人たちの狭すぎる行動範囲と行動様式と、親をトレースしたみたいな再生産ぶり。驚くほど保守的な思考。飛び交う噂話、何十年も時間が止まっている暮らし。同じ土地に人が棲みつくことで生まれる、どうしようもない閉塞感と、まったりした居心地のよさ。ただその場所が、田舎か都会かの違いなだけで、根本的には同じことなのかもしれない。
 いきおい美紀は思った。
 自分は、彼らの世界からあまりにも遠い、辺鄙な場所に生まれ、ただわけもわからず上京してきた、愚かでなにも持たない、まったくの部外者なのだ。
 でもそれって、なんて自由なことなんだろう。
山内マリコ『あのこは貴族』)



 モーメンツの雪景色画像が今日も絶えない。南方人は雪を見る、北方人は雪を見てよろこぶ南方人を見る——そういう言葉があることを何年か前に学生から教えてもらった。
 弟が(…)メガネに注文しためがねを取りにいくのに同行する。去年の夏休みに買っためがねのつるを調整してほしかった。店主の男性に二度ほど調整をお願いする。弟が買っためがねは去年の夏休みにこちらがいま手にしているものとそちらのどちらを買おうかとずっと迷っていた一本だった。弟は当時それとは別の一本を気に入って長いあいだ取り置きしてもらっていた。でも結局それでないものを買った。弟がこちらのファッションを意識しているらしい節はたびたび感じる。弟は今日見たことない黒のロングダウンを着ていた。ひと目見た瞬間、高いものだとわかった。元値が10万円ほどするアウトドアメーカーのものを3万円ほどで買ったという。弟は年に半分ほどしか働いておらず収入もバイト程度しかないのだが、なにか買うとなるとかならず分不相応のものを買う。パソコンもモニターもオーディオもペンタブもいつもやたらと高いものを買っている。使うのであればいい。自転車は買うだけ買ってほとんど乗っていない。最初に買うものはなんにしても安物にしたほうがいいといっても高いのを買う。いまは納屋のこやしになっている。
 セブンイレブンでまた15万円おろしてコーヒーを買う。サイフォンでコーヒーをいれるようになった(…)はそれでもセブンのコーヒーは全然飲めるという。母と弟が買い物に出かけているあいだは車内でずっと『ここはとても速い川』(井戸川射子)を読む。表題作、いい。子どもがノートに書いた文章という体裁に多少強引なところはあるが、語彙や言葉遣いはともかくとして、(読者に対する便宜になりうる)説明や分析をはぶいて事実と感情と思考をただ列挙する(よしいちが「聞こえんくらいの声」でいう「シャッタ、ン、ハ」はチックではなく、あくまでも「シャッタ、ン、ハ」だ)、それもぶつぎり(飛躍)の感触がしっかりある、そこにはたしかに子どもがいる。「銀の匙」(中勘助)や「この人の閾」(保坂和志)と並べていいかどうかわからない。読んでいる最中にたびたびじぶんの子ども時代の記憶がひきずりだされる感触があった。リアリズムの小説を書くときにいちばん大切なことは説明をしないことだ。説明は出来事を要約する。教訓化する。方向づける。意味を与える。それに抗うことが大切だという基本中の基本をあらためて意識する。
 「膨張」も帰宅後に読んだ。「ここはとても速い川」のほうが数段上だ。リフォーム前の実家の押入れをがさごそ漁る場面を読んでいる最中、(…)からきいた話を思い出した。日記にも書きそびれている。(…)の両親は去年新築に越した。その際に荷物をたくさん処分した。そのなかには(…)が子どものときに大切にファイリングした大量のキラカードもある。(…)の母親はそのファイルを捨ててしまった。(…)は捨てられたキラカードにどれだけの値段がついているのか気になってネットで調べた。スーパーサイヤ人3の孫悟空キラカードに8万円の価格がついている。(…)はそのキラカードを3枚持っていた。それよりももっと古いキラカードだってたくさんある。そんなファイルが二冊か三冊かあった。下手すれば100万円近い価値があったかもしれない。
 夕飯のときにその話を両親と弟にした。キラカードトレーディングカードもすべて捨ててしまった。高校生になったときかもしれないし、高校を卒業して京都に越したときだったかもしれない。間借りの一室の押し入れにはガチャガチャで手に入れたガンダムポケモンのフィギュアがいくらか残っている。そいつをもちだして弟といっしょに精査した。むかしペットボトルのコーラについていたFFシリーズのフィギュアもたくさんある。でもたいした値段はついていない。ポケモンもしれている。しれているといってもかつて一個100円で買ったものが安くても500円でメルカリに出品されている。ドラクエのガチャガチャとマリオRPG食玩は高い。ドラクエ5の男の子と女の子のセットが5000円で落札されているのを見た。マリオRPG食玩にいたってはどうでもよいザコキャラのものでも1500円以上の値段がついている。リメイク効果かもしれない。ジーノ以外のキャラはだいたい全部そろっている。マロは一部が真っ黒にこげている。なんでこんな色なっとんの? と母が言うので、このキャラが嫌いだったので弟といっしょにライターで炙ったのだと応じる。炙っていなければもっとずっと高い値段がついていただろう。保存状態はまずまずよい。Seriaで小さなビニール袋を買ってきてこれから小分けにして保存しようと計画する。25年以上前に発売されたこの食玩の価値に外国人ファンが気づいたらきっともっと価値が上昇する。
 夜は間借りの一室でまた日記にとりくむ。『Come Go With Us』(Pockets)と『Palo Congo(Remastered 2014)』(Sabu Martinez/サブー・マルティネス)を流しながら22日づけの記事を投稿し、一年前と十年前の記事を読み返す。以下は2023年1月23日づけの記事より。『わたしは真悟』(楳図かずお)について。美紀に関する分析はちょっとおもしろいと思う。

 その美紀が再登場する。ここでの美紀がまたどう理解すればよいのかよくわからん存在になっている。美紀は最初、(1)(おそらくは真悟と裏返しのペアをなす、人間でありながらかぎりなく人間から遠い存在として)第5巻の84ページおよび85ページの見開きにシルエットとしてあらわれているようなスライム状の身体に点滴やチューブが複数装着されている異形の持ち主として婉曲的に描かれているが、(2)死んだ娘がいまでも生きているかのようにとりあつかっている両親の妄想の産物でしかないことがその後あきらかにされる(ここでの話の運び方、コマ割や台詞回しなどの演出は、「明らかにされる真実」の文法——ひらたくいえば、どんでん返しの作法——に忠実といってもいい)。しかし(1)が虚構であり(2)が真実であるという単純な話にはなっておらず、たとえば隣人の子であるしずかは(1)の姿の目撃談を自分の親に話す。
 その美紀が第9巻で再登場するわけだが、今度はベッドにおらず、両親によってたんすの中に幽閉されている(ここで地下シェルターに幽閉されているまりんとたんすの中に幽閉されている美紀のペアを考えることもできるかもしれない)。つまり、ここでの美紀は(2)ではない。一家が住むのはかつてさとるが住んでいた部屋である。その部屋がなつかしくなったさとるの突然の訪問に対し、夫は「中をのぞかせるなっ、追い返せっ!!」と妻に言い、「見られなかったか?」「ま、まさかここをさぐりに……」と口にする。それに対して妻は、「そんなはずはないわ…だって……」「あの子は…死んでしまっていないんだから……」「わたち達[原文ママ]でさえ、そう思い込んでいるくらいだから………」というのだが、ここは普通に読むと、わたしたち両親ですら美紀はもう死んだものとして思い込もうとしている(のだから、彼女の様子を探りにきた人間がいるはずはない)になる。すると、ここでの美紀、仮に(3)とするが、この(3)の美紀は(2)の正反対であるといえる。その死を認められない(認めたくない)がゆえにまだ生きているものと両親が思い込んでいたのが(2)の美紀であるが、(3)はむしろ、両親ですらすでに死んだものと思い込こもうとしている(が、現実には生きている)存在としてあらわれている。その後、真悟の再訪を受けた美紀は、みずからの力でたんすを破り、黒くひらべったいどことなく幼女の面影をのこすシルエットを「ズルッ」とはわせながら真悟の待つ玄関に進むのだが、アップで描かれた目や耳がひらべったい表面にくっついている描写などみるに(ちょっと『ベルセルク』のベヘリットのようだ)、これはやはり(1)の美紀と類似した存在なのだろう。ただ、両親の取り扱いは異なる。(1)も(3)も異形である。しかし(1)がベッドで手厚い看護を受けているのに対して、(3)はたんすの中に幽閉されている。また、(1)が(2)として、つまり、両親の妄想——ここにもフックがある!——として回収されるのに対して、(3)は真悟の力(奇跡)によって五体満足な女子の姿を得ることになる(妄想に回収されるのではなく、むしろその逆に、一般的な肉体を得る)。
 こうして書いていて気づいたのだが、美紀が真悟とペアをなすかたちで「かぎりなく人間に近いもの」というポジションを与えられているのだとした場合、(1)から(2)へという流れでいったんエピソードが閉じられた第五巻の時点では、この世界は、そのような存在を人間として承認していなかった(上述した「どんでん返しの作法」とは、この漫画=世界そのものが演じた美紀に対する拒絶である)。それが第9巻にいたり、世界に承認されない(1)としての(3)が、(両親にではなく、神の子である?)真悟によってあらためて承認され世界に登記されることになった——そういうきれいな構図がここに成り立っているといえるのではないか?

 真悟は美紀の部屋の玄関の扉にキカイ語でメッセージを書き残す(まるで遺書のようだ)。受肉の瞬間について、「やがて、わたしは遺伝子につながり……何になったのだろう?」「?」「思い出せない!!」「思い出せないが、何かすばらしいものになったような気がする!! それは、一瞬のでき事だったが、わたしは、わたしの一生分の体験をしたような気がする。そこで、わたしは、何かすばらしいものに出会ったような気もする。地球よりも、宇宙よりも、もっと大きい何か………何かが生まれるのを、わたしは見たような気がする……」と真悟は書く。それに続けて、「その時、わたしは全てを知り、すべての力を持ったような気がする。でも、わたしはすぐに壊れてしまい、その一瞬にわたしは母を救い……」「世界を変えた」とあるのだが、この「世界を変えた」がむずかしい。まりんの妄想を終わらせたことにより、その妄想に対する真悟自身の「信」にもとづき形成された終末論的世界を回避し、元の世界を復元したという意味なのかもしれないが、しかしみずからの力能により変化をうながし、みずからの力能によりその変化をキャンセルした、そうした独り相撲をして「世界を変えた」と表現するだろうか。
 と、書いていて気づいたのだが、この世界の変化とは、上に記した、世界における「かぎりなく人間に近いもの」の承認および登記であるとする筋もあるわけだ。真悟の受肉とは、まさに真悟が人間としてこの世界(漫画)に登記された瞬間である。それは奇跡かもしれないが、しかし奇跡とはそれまでこの世界に登記されていなかった出来事をあらたに登記することであり(まるでゲームのオプション画面であらたなステージやあらたなキャラクターやあらたな武器防具をアンロックするように)、結果として、その出来事がふたたび生じることを可能にする(こちらはかつて『双生』に、「通常は起こりえないできごとの出現が奇跡であれば、くりかえしによるできごとの世俗化もまた奇跡であるのでは?」と書いた!)。だから、真悟の受肉という奇跡により、「かぎりなく人間に近いもの」が「人間」として生まれなおすという出来事が起こりうるものとしてこの世界に登記されるにいたった。それが「世界を変えた」の意味であり、しかるがゆえに、美紀もまた(真悟の力を借りるかたちで)「かぎりなく人間に近いもの」であるそのシルエットを脱ぎ捨てて「普通の娘」に変身したともいえるわけだ。「妄想」としてこの世界(漫画)からかつて排除されたものが、世俗化した奇跡として回帰する。

その後、美紀は真悟から「破壊」であり「この世にないもの」であり「日本人の意識」であるものがやってくるというメッセージを受けとる。黒ずくめの男三人組がその正体であるのだが、彼らに対してしずかは「あいつらは、ほんとうに何者!?」「人間…なの!?」「それとも……!?」と口にする。黒ずくめの男たちについては、第8巻を読んだ時点で「最初はモンローにブラックボックスを仕掛けて毒のキカイを作らせた組織の人間として登場するのだが、まりんのいるイギリスに舞台が移ると同時に(加害者である)日本人という属性が前景化し、さらに人間を超越したなにかシンボリックな存在へと変貌を遂げる」と書いたが、そうした理解がそれほど間違いではなかったことがここでいちおう確認できたことになる。ただ、これまでひきつっている目以外は黒塗りされていたその顔が、ここでははっきりと描かれるようになっているし、第10巻を少し先取りすることになるが、彼らは作中はじめて言葉を発しもする。さらに「放射能を避けるための」「作業服」だという帽子を脱ぎ去り、顔をはっきりとあらわにし、あげくのはてには、イギリスでの爆発に巻き込まれてなんともなかったはずが、ここでは家屋の崩壊に巻き込まれただけで退場することになる(死んだかどうかは不明)。つまり、ここで黒ずくめの男たちは、その造形もその(身体)能力も、ごくごくふつうの人間として描かれているわけで、ここにも真悟の受肉によって変化した世界の影響を見ることができるかもしれない。黒ずくめの男たちもまた、登場した当初は、「かぎりなく人間に近いもの」として表象されていた。それが真悟の受肉以後は、真悟や美紀と同様、(有限な)人間としてこの世界(漫画)により登記され、明確な輪郭を与えられるようになったのだ、と。しかしこうして書いてみると、真悟の受肉は、『ベルセルク』における大幽界嘯みたいだな。

 朝方まで『世界泥棒』(桜井晴也)を読む。去年の夏休みに見つけて気になっていたBEAMS×ARC’TERYXのMANTIS26が売り切れであることに気づく。去年の秋口に発売予定だったものなので次の一時帰国中に買えばいいかと考えていたけれどもあっというまに売れ切れてしまったらしい。次回の入荷は4月とあるのでその時期がきたらポチって実家で引き受けてもらう。メルカリにはパチモンらしいものがたくさん出品されている。