20240126

 瀧本さんによれば、資本主義には「自分の少数意見が将来、多数意見になれば報酬を得られる」という仕組みがある。そのために未来の多数派が支持する「逆説的な真実」をいち早く発見すること。これが投資家=逆張り的な生き方には重要となる。そのためには普段の訓練が欠かせない。たとえば、何か意見を聞いたとき、その逆を考える習慣をつける、ニュースの裏を読む、業界の常識とは反対のことをリストアップする、誰もが見放した人を手助けする……などなどだ。そして、みずからが発見した「逆説的な真実」を、いち早く商品やサービスにすることで、市場の支持を集めていくわけである。
(綿野恵太『「逆張り」の研究』)



 以下は一年前の日記、すなわち、2023年1月26日づけの日記より。

調理中は『LOVETHEISM』(春ねむり)をきく。『春と修羅』と『春火燎原』のあいだにあるアルバム。完全に見過ごしとった。アルバムを通してきいて思ったのだが、やっぱりこの声でriot girlであるというのが新しいよなァ。こちらの見立てでは、相対性理論が出てきたあたりを境に、かわいい声+とんがった音楽という組み合わせのアーティストが続々と出てきたというアレがある(おそらくそれまでにもボーカロイド界隈やアニソン界隈や地下アイドル界隈ではそういう伏流があったのだと思うけど、こちらはそれらの界隈を一ミリも知らないのであまり勝手なことはいえない)。かっこいい声+とんがった音楽という組み合わせはそれまでにも存在していたし市民権も得ていたが、とんがった音楽と相反するもの、むしろもっともとんがっていないもの——サブカルの一番なまぬるいところの産物——という認識すらあった(アイドルや声優を思わせる)「かわいい声」が、その対極にあるとんがった音楽と組み合わさることでむしろとんがったボーカルになる、そういう倒錯がもたらす驚き。当人らもその驚きを同様にもちあわせていたのだろう、もともとの「かわいい」声質にとどまるのみならず、いまやあらたな武器として発見されたその声質のポテンシャルを最大限に発揮するかのような歌唱法を用いているケースも多く、たとえばその始祖ともいえるやくしまるえつこのボーカルをはじめてきいたとき、あの声質であのようにぶっきらぼうかつフラットに歌うボーカル——それは歌詞の意味のなさ(非垂直性)と並走している——は実際かなり衝撃的だった(あの声+歌唱法の組み合わせを綾波レイ的なものとしてキャラ消費した層も多そうだ)。春ねむりは、ある意味それとは正反対で、声は「かわいい」のだけれども歌唱は無機質ではなく、むしろめちゃくちゃエモーショナルであるし、歌詞も意味に満ち満ちている(部分的には、歌詞を歌っているというよりは、メッセージを語っているというほうが近い)。それでちょっと思い出すのが、大学生のころに当時の恋人がとっていたジェンダー論の授業のレジュメの内容だ。たしか小宮悦子のエピソードとして紹介されていたものだったと思うが、ニュースキャスターとして原稿を読むために、もともとは高かった声を低くするためのトレーニングをしたという話が記されていて、それはつまり、男性によってその大部分を占められている世界に女性が参入するにあたって、参入者たる女性が望まぬ男性化を強いられるといういまだによくある構図のひとつであると思うのだが、それを踏まえて考えてみたとき、ある種の闘士である春ねむりが、闘士でありながらもその声のかわいさを闘士然としたマッチョなものに変形させることなく、(比喩的にいえば)「地声」のまま闘っている、ゴリッゴリのサウンドの上にあの「地声」をそのままのせている、それがやっぱりすごくあたらしいという印象をもたらすのだと思う(デスボイスみたいなシャウトを用いるパートもあるのだが、それもやっぱり「かわいい」地声からの跳躍として効果的に使われている印象)。凡庸な言い方だが、闘争内容と闘争形式が一致している。その一致がもたらす説得力というものがある。

 続けて、十年前の日記、すなわち、2014年1月26日づけの日記より。

 ところで、貨幣を蓄積すれば、いつでも物を獲得できるのだから、当人が物を蓄積する必要はない。したがって、蓄積は、貨幣の蓄積としてのみはじまるのだ。それは、物を蓄積することには、技術的に限界があるからではない。そもそも、貨幣経済の圏外にあるどんな「共同体」においても、自己目的的な蓄積への衝動などありえないのである。逆に、そこでは、バタイユがいうように、余剰生産物は蕩尽されてしまう。「蓄積」は、必要や欲望にもとづくどころか、それらにまったく反した「倒錯」に根ざしている。逆に、蓄積こそ、われわれに、必要以上の必要、より多様な欲望を与えるのである。
(柄谷行人トランスクリティーク――カントとマルクス――』)

書くための時間を確保することにたいしてじぶんはおそらくそれ相応の労力を払って一途に懸命にやっているつもりであるのだけれど、その結果としてあらわれる週休五日制という世間ずれしたこの時間割だけをとりあげて怠け者の烙印を頭ごなしに押しつけてくる連中はあとをたたない。じぶんの欲望に忠実に行動し理想を実現せんとするその労を避けてばかりいるみずからの生にたいして不誠実きわまりないひとびとの口より怠惰のそしりを受けるいわれはないのではと端的に思いもするのだが、この論法がさらなる非難以外の生産的な何かを呼び起こすにいたったためしはない。ゆえにただ口をつぐむほかない。サイの角のようにただ独り歩め。
職場でとっている京都新聞の書評欄をながめていたら、小笠原豊樹岩田宏の新刊がとりあげられていた。『マヤコフスキー事件』。現代詩文庫の『岩田宏詩集』は古本屋で見かけるたびに購入していて、収録されている作品のなかではとくに「神田神保町」が好きで、大好きで、だからよく音読したものだった。閉店間際のアダルトショップでラジオの音声を消しておもての戸を閉めて、あとはただ時計が2時を指すのを待つだけのひととき、何千本だか何万本だかしらないアダルトビデオに四方を囲まれながら勝手な節をつけてひとりで朗唱したあの夜のことをきっと忘れない。あんな夜が、分かちあう友も仲間ももたない感動をせめてじぶん自身にむけて何度もくりかえすしかなかったあんな夜の営みだけが、じぶんをここまで強靭なエゴイストに鍛えぬいてくれたのだ。感謝したい、かつてこの身を取りかこんだすべての孤独な夜に。わかちあうあてのない芸術の豊穣をひたすらにもてあましていた月日に。叩いても響かぬ対話の数々にひそかにいらだちひそかに歯噛みした幾千の疎外の瞬間に。そのようにしてこの身をながらえさせてくれたすべての事の運びに。

 今日、置き配をはじめて体験した。『盗まれた遺書』(仙田学)と『再構築した日本語文法』(小島剛一)と『落としもの』(横田創)の三冊が今日とどいたのだが、そのなかに玄関にぽんと置かれていたものがあったのだ。注文時に置き配を指定できる項目があることには気づいていた。でもなんとなく、それができるのは玄関に置き配ボックスを置いている家であったり、そういう設備がデフォルトで備えられているマンションだけであったりするものだと思っていた。置き配は配達業者側にとっても受け取り側にとっても便利だ。この便利さはしかし進歩からうまれたものではなく退歩からうまれたものだ。もともとは配達人と受け取り側が顔を合わせるのみならず、受け取り側がなんらかのかたちで本人であることを証明したりサインをしたりするそういう手続きが設けられていた、そしてその手続きに要請されるかたちで配達時間指定や再配達制度もなりたっていた、その手続きとは誤配をかぎりなくゼロに近づけるための仕組みであった、けれどもほかでもないその誤配をかぎりなくゼロに近づけるための仕組み自体が問いの俎上にあげられた、その仕組みはそもそも必要か? 効果があるのか? それによってもたらされる不都合や不便さのほうがはるかに大きいのではないか? そうした検討の結果、長い年月をかけて練りあげられてきたシステムが放棄された、そしてその代案として出されたものが荷物をただ玄関前に放置しておくというきわめて原始的で工夫もなにもない方法だった。だからこれは(中国風にいえば)「文明的」な発明を放棄した、つまり、退歩であるということになる。少なくとも、そう言ってみることはできる。こちらはこの退歩を歓迎する。今後こういう発明としての退歩がほかの業界や現場でも生じるかもしれない。置き配はもちろん窃盗に遭うリスクをもたらす。置き配をよしとするということはそういう意味で性善説的なふるまいだ。反対に、先に書いた「文明的」な手続きは性悪説に基づいているといえる。文明は性悪説からのみ生じるのかもしれない。現今の文明とはすべてそういうものなのかもしれない。仮にそうだと決めつけてみる。すると、性善説を基盤とする文明とはどのようなものであったのだろうという想像がふくらむ。これはSFの話かもしれないし、文化人類学の話かもしれない。
 中国土産の袋麺を父のリクエストでこしらえる。酸笋肥牛面。こちらがむこうで唯一気に入って常食しているもの。味としては酸辣に分類される。父は辛いものが好きではない。しかしこいつはかなり気に入ったようす。酸笋肥牛面を食ったのは昼だ。夕飯はおかゆだった。おかゆを食うたびに『もののけ姫』のジコ坊を思いだす。「ほう、雅な椀だな」と言いたくなる。
 昼間は母にたのまれて買い物についていった。バローで(…)のパンツを買う。いちばんおおきな3Lサイズ。ペット売り場では生後三ヶ月のボーダーコリーが牛の蹄を噛んで遊んでいる。(…)とおなじく白黒模様だが、顔に茶色い斑点がある。ドッグフードやほねっこなどのお菓子も買う。それからドラッグストアにはしごして、牛乳や冷食や歯磨き粉なども買う。支払いをすべてこちらがもった。ドラッグストアの駐車場で弟の話を少しする。兄は弟について、ゆくゆくは(…)やんから下請けで仕事を請け負う立場になればいいと考えている。(…)やんのところの(…)はたいそう人気があり、予約注文が毎回すぐに売り切れる。だからまずは(…)やんのところの事業を拡大させる。そのうえで弟がいわば(…)やんの右腕として下請けになる。そういう段取りで考えている。実家の固定資産税についてたずねると1万円ほどだという返事。車の維持と合わせてもたいした額ではない。実家は弟のものだとこちらはずっと以前から考えている。兄も異存はないだろう。
 団地の入り口で隣人の(…)さんが運転する車とすれちがう。(…)さんは80代後半であるが、平気で車を運転している。夏も冬もほとんど毎日のように畑に出かける。外見は70代にしかみえない。髪もふさふさだ。しかしあれはかつららしい。他人のかつらを見分けるのが上手な母ですら本人に教えてもらうまで気づかなかった。以前顔に絆創膏を貼っていたことがある。どうしたのかと母がたずねると、皺ができたので絆創膏でも貼っておけばのびるのではないかと思ったのだと(…)さんは言った。笑い話でもあるし、そういう意識がその年まであるからこそいつまでも若いのだろうという納得のいく話でもある。母は以前(…)さんからパンツをもらった。買ってみたもののサイズが合わなかったのでやると言われた。受けとったものをみると老人が穿くようなものではなくレースのついたデザインのものだった。
 夕方、二日ぶりに(…)を(…)川に連れていった。車内では買ってきたばかりのパンツを穿かせていた。パンツは尻もちんこもすっぽりと覆ってくれる。だから窓の外に顔を出したがる(…)の体を支えるためにその胴体を抱きしめるのに遠慮もいらない。以前は強く抱きしめるとその拍子にうんこがまろび出てくるのではないかというおそれがあったし、ちんこの先っちょについた小便で手やコートの袖が汚れるのではないかという懸念もあった。車からおろす拍子に力が入ったのか、うんこがふたつみっつパンツの隙間からまろび出たが、道路の上に落ちたので問題なかった。風が強くて寒い。あたらしい犬と知り合った。柴犬の(…)ちゃん。一歳。団地にもやはり柴犬の(…)ちゃんがいるが、そちらはたしか四歳ほどだ。今日知り合った(…)ちゃんはひとなつっこかった。手を甘噛みする癖があるので飼い主の女性が気にしていたが、こちらはそんなの慣れっこだ。(…)ちゃんは体をぶるぶるぶるぶると震わせた。そのぶるぶるぶるぶるが異常に長かった。ぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるくらい続いた。一瞬、世界がバグったのかと思った。たぶん両親も同じ気持ちだったと思う。あとでその話をしたら、母はこちらが(…)ちゃんを猫可愛がりするせいで、(…)ちゃんの気が触れてしまったのかと思ったと言った。よくあることなんですと飼い主の女性は言った。柴ドリルですと続けた。興奮するとよくするらしい。(…)ちゃんは別れぎわにもまたぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶると体を震わせた。柴ドリルで画像検索するとおもしろいものがたくさんみえる。
 夜は授業準備。第19課のアクティビティがひらめかないので先に第22課と第23課を片付ける。第24課もアクティビティに改良の余地ありとメモ書きが残されている。しかしこれはすぐにひらめいた。さらにそのひらめきに呼応するかたちで第19課のアクティビティもひらめいた。それで油断した。ZOZOTOWNで冬物のコートを探しはじめてしまった。いまの時期だったらセールだ。冬物はセールで買うにかぎる。モッズコートがなんとなくほしかったので50000円以下で検索して出てきたものすべてをチェックした。CAMBIOでもチェックした。チェックして、チェックして、チェックしまくった結果、emulationのComponentize Military Coatというのが気になった。定価86900円が45%オフ。服は好きだが、それほど高いものを買ったことはない。だいたい安物だの古着だのをたくさん買ってその組み合わせで遊んでいる。これまでにいちばん高い買い物はめがねやサングラスをのぞけば2万円程度かもしれない。5万円近く出すのはおそろしい。でも一晩さんざん悩んだ。返品もできる。物持ちもいい。大学を卒業してほどない時期に買ったピーコートだってまだ現役だ。一生着るつもりでポチった。パスワードをまちがえた。何度もまちがえた。ログイン制限がかかった。三年生の(…)さんからまた(…)の写真がとどいた。(…)は毎晩11時に寝るらしい。(…)は7時には眠りにつく。