20240127

 日本人=集団主義アメリカ人=個人主義と言われる。だが、その両者にちがいはないという研究がある。「アッシュの同調実験」という心理学の古典的な実験がある。被験者は二枚のパネルを見せられる。左のパネルには一本の線。右のパネルには長さの異なる三本の線。被験者は左のパネルと同じ長さの線を選ぶように指示される。だが、実験には被験者のふりをした「サクラ」が参加していて、つぎつぎと間違った線を選んでいく。被験者は「サクラ」の答えに惑わされずに、正しい線を選べるのか、という実験である。つまり、どれぐらいの人が集団に同調するのか、がわかるわけだ。
 アメリカと日本の大学生で実験したところ、同じ約二五%の被験者が間違った答えを選んだという。つまり、アメリカ人も、日本人も、同じぐらい「空気」の支配=「同調圧力」を受けるわけだ。ぼくたちの脳は集団に同調するようにプログラムされている。「多数派同調バイアス」と呼ばれる認知バイアスである。狩猟採集時代に人類は小さな群れで暮らしていた。小さな集団で「卑怯者」や「ルールを破った」と悪い評判が立つと、仲間はずれにされてしまう。最悪の場合は殺される。そのため、良い評判を得ようと集団に同調する傾向が生まれた。進化心理学ではこんなふうに説明される。
(綿野恵太『「逆張り」の研究』)



 一年前と十年前の日記。以下は2023年1月27日づけの記事より。

 準備を終えると1時半だった。歯磨きをすませてからベッドに移動し、Everything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続き。“Greenleaf”を読み終わったが、これもオコナーを語るにあたって重要な作品かも。今回メモをとらずに読んだし、しかもかなりぶつぎりの読書になってしまったのでアレなんだが、(持たざるものではない)持つものとして女主人がいつものように登場する。で、彼女が自分の土地で使用人として採用しているGreenleaf一家が、闖入者のポジションに当てはまるのだが、しかしほかの作品とはことなり、この小説は闖入者の到来と同時にはじまるのではなく、その闖入者との暮らしがすでに十五年(だったと思う)継続している時点からはじまる。さらにこれまでなかった要素として、女主人には成年した息子がふたりいるし、Greenleaf一家にもその息子ふたりと対応する息子たちがいる。女主人はGreenleaf一家にいずれじぶんの土地をすべて奪われるのではないかと危惧しているし、彼らのものであるbullがじぶんの土地を荒らしじぶんの家畜を襲うのを常にいまいましく感じており、直接そういう語が使われているわけではないが、じぶんが一家によってparasiteされているという印象をもっている(そしてそれは、Greenleaf一家の息子ふたりが軍に従事したおかけで高額のpensionをもらったり政府からの優遇措置を受けている——社会システムにparasiteしている——という考えや、その息子たちが結婚したフランス人の妻たち——この国この土地にparasiteしている——に対する反感と共鳴して増幅しあう)。もちろん、闖入者をGreenleaf一家ではなくその息子たちのものであるbullと読む筋もあるだろし、むしろそのほうが適切なのかもしれないが、仮にそうであったとしても、女主人と闖入者(bull)が直接的に対峙するのではなくそこに媒介者であるGreenleaf一家がいるという構図がやはりほかのオコナーの作品にないものであるし、そこに息子という、やはりほかのオコナーの作品にはなかなか見られない形象が関与している点も目新しい(bullの飼い主はGreenleafの息子たちなので)。“Greenleaf”はほかのオコナーの短編に比べるとやや長めなのだが、そのボリュームもこれらの追加要素のためだろう。“The Displaced Person”がそうであったように、オコナーはここでも自作を自作たらしめる典型的な構図からの跳躍を試みている。

 ここを読んでいてふと思ったのだが、「闖入者」というモチーフが特権的にあつかわれているオコナーの作品は、移民社会の現代、めちゃくちゃアクチュアルなものとして読むこともできるのだな。
 以下も2023年1月27日づけの記事より。

精神分析にとって女とは何か』(西見奈子・編著/北村婦美、鈴木菜実子、松本卓也)を読みはじめる。「ケアの倫理」という言葉、あちこちでやたらと見聞きするわけだが、具体的にどういうことであるのか、第一章に説明があった。キャロル・ギリガン『もうひとつの声』ではじめて提唱された概念らしい。

(…)ギリガンは(…)道徳の諸問題を巡る語りの声には、二つの種類があることに思い至る。(…)
 その二つの声とは、「正義の倫理(ethics of justice)」と「ケアの倫理(ethics of care)」である。正義の倫理においては、〈それぞれ他人からは切り離された自律的な個人どうしが競合し合う世界で、お互いの権利の優先順位が、抽象的原理によって定められる〉というモデルが想定されている。しかしケアの倫理は、〈お互いがお互いに対して応答し合う責任をもち、誰も取り残されたり傷つけられてはならない〉といった考え方に基づく倫理原則である。したがってケアの倫理では、複数の人たちへの責任がぶつかり合う状況でジレンマが生じるわけだが、そこで取るべき行動が判断される際には、「正義の倫理」の場合のように普遍的抽象的な原理による裁断というよりも、その都度の文脈や状況に即した、総合的な判断が目指されることになる。このように、自己を他者から切り離された存在というより、むしろ他者とのつながりの中に生きる存在としてとらえるのが、ケアの倫理の背後にある人間観、世界観なのである。
(北村婦美「精神分析フェミニズム——その対立と融合の歴史」 p.22-23)

 めちゃくちゃ大雑把にいうと、状況を一般性に還元してマニュアルにしたがった判断を下すのではなく、特異性の相のもとにとらえてその都度判断を下すということで、これって、精神分析の側からDSMに対してなされる批判と共鳴するところもあるわけだ。あと、「正義の倫理」を「批判」、「ケアの倫理」を「説得」に結びつけて考えることもできるな。「ケア」という単語と「分断」という単語を見聞きする頻度が、ここ十年、こちらの印象ではほぼ完全に比例していたというアレがあるのだが、この印象、あながちすっとんきょうではなかったかも。

 昼飯は父が職場からもちかえってきた唐揚げ。父は酸笋肥牛面にハマったらしく今日もまた食っていた。夕飯もおなじ唐揚げだったが、弟に大根おろしを作ってもらってポン酢で食った。夜、下痢になった。
 ZOZOTOWNのログイン制限が解除されないので母親のアカウントで昨日見つけたコートをポチる。そのZOZOTOWNから指輪がとどく。以前買ったGARNIのものは17号でやや大きい。ストッパーを兼ねてその指輪に重ねてつける15号のもの。金ピカの安物。15号でも右手の中指にすんなりと入る。じぶんより指のほそい男を見たことがない。母は(…)が帰ってくるととにかく荷物がたくさんとどくという。今日はほかに『現実的なものの歓待 分析的経験のためのパッサージュ』(春木奈美子)もとどいた。ポチったコートは48000円ほど。母に5万円渡した。弟に(…)やんのところでいくらもらっているのかとたずねると、時期によって変動するので6万円から10万円という返事。時給に換算すると1000円以下だというので、それでものんびりやらせてもらっているのだから悪くないと応じると、仕事中はずっとアニメを流しているという。(…)やんの趣味らしい。(…)やんは元々アニメになんてまったく興味がなかった。典型的な田舎のヤンキーあがりだ。しかし弟の(…)やんからアニメをすすめられた結果どハマりし、今期のアニメを全作追っている。のみならずゲーム実況にもハマり、おなじ動画を何周もみている。
 食後そのまま食卓に居座る。記事を投稿し、読み返し、授業準備にそのまま移行する。第24課のアクティビティを詰める。(…)を(…)川に連れていったあと、第19課も詰める。これで日語会話(二)はひとまず片付いた。日語文章選読でとりあつかうテキストに悩む。既存の教案をそのまま使いまわしてもいい。でも弱い教案はやっぱり入れ替えたい。毎年卒業生に書いて送っている手紙を授業でとりあげることに決める。(…)川ではだれにも出会わなかった。(…)はいつにも増してよく歩いた。母が帰路スーパーに寄りたいといった。駐車場に停めた車内で母を待つあいだ、ナビでドラえもんのアニメを見た。二十年ぶりではすまない。のび太ジャイアン相手に復讐をくわだてるも調子をこきすぎてバチが当たるというお決まりの筋だった。
 夕食後ソファで三十分ほど寝る。『世界泥棒』(桜井晴也)を読み終わる。

彼が死んでいるのは夕日に焼けた教室のなかだった。床の木目と木目のあいだに、血は流れこみ、あわだち、そしてあふれだすようにたぷたぷとひろがりつづけていく。黒い影は足もとに倒れた真山くんの頭を、血が流れだすその源泉を、にたにた笑いをはりつけたまま見おろしている。その頼りない想像のなかでわたしがいちばんいやだったのは、その殺人のあいだ黒い影にも真山くんにもたったひとかけらですら気持ちのたかぶりがなかったことだった。殺人をしたり、されたりする過程において、黒い影と真山くんがそれまで思っていたこととなにかちがうことを思えたり、それまで感じていたこととなにかちがうことを感じられたり、それまで存在していた気持ちとはなにかちがう気持ちを抱けたりすることは、ほんとうにいっさいなかった。だからわたしの頭のなかのその殺人はほんとうは殺人ですらなかったのかもしれない。真山くんはただ死んだだけだったし、黒い影はただ殺しただけだったのかもしれない。真山くんの死と黒い影の殺しは別個のものとしてあって、それらは無関係のままでありつづけたのかもしれない。それなら黒い影も真山くんもほとんど生きていなかったということだと思う。もしも生から死へとなんらかの気持ちを抱くことなくなめらかに移行し、させていくことができるとしたら、生も死もなにも変わりがないじゃないかと思った。
(p.75)

(…) ねえ、あやちゃん、目のまえでだれかが死んでいるときにそのものたりなさをほかのだれかの過去の死で補おうとするなんて、とてもひどいことだよ、そういうのはむりだよ、それはほとんどわたしたちが生まれたときからそんなふうに設定されているみたいなものだから、ぜったいにむりなんだよ、だれかとだれかがとなりあって死ぬとき、そのだれかの想像力はとなりで死んでいくひとの死にたいしてぜんぜんなにも関係しないよ、それはもう、そういうものなんだよ、となりあって死んでいっても、わたしたちはばらばらの場所で、べつべつの時間のうちに死んでいくんだよ、それはもうそういうものだから、それをなにかべつのもので補う必要なんてぜんぜんないんだ。
(p.78)

それはけれどわたしたちの国のなかのできごとだった。わたしたちの国のなかではものごとはもうすでにおこってしまっていて、ほとんどとりかえしのつかないことになってしまっていた。そしてわたしをもふくんだわたしたちはそれらがとりかえしがつかないことであることにすら気づいていなかった。それらはもうおこってしまったことなのにこれからおこることだと錯覚してなにかがおこるのを待っていた。待ちつづけることがきらいなひとはこの国にはだれもいなかった。そうやってそのうちに自分がそれを待ちつづけることすらもわすれて、ただそれにべつの名前をつけた。
(p.82)

(…)それより、いまは百瀬のことだ、あいつ、俺たちに決闘をさせたくてさせたくてしかたがないんだよ、あいつはもともとこの世界のいきものじゃなくて、俺たちとはちがう概念やちがう時空間を持っているから、俺たちがなにを言ってもほんとうにはあいつはなにひとつわからないんだ、百瀬は世界泥棒なんだよ、あいつはこの世界を盗みにきただけなんだ、ほんとうはあいつがこの世界にやってきたときにだれかがあいつを殺さなくちゃいけなかったんだよ、でも、だれもそうしなかった、そうしようと意志することすらろくにできなかった、あいつにとって、俺たちが決闘をすることは世界を限定することなんだよ、あいつはにんげんじゃなくてなにかの概念の総体みたいな存在だから、俺たちがひとりひとりちがう価値観を持っていても、あいつはそういうひとりひとりの価値観っていうものを根本的にわかっていないんだ、ひととひとがいて、そのひととひとがおたがいを理解しあえないままそれでも平然といっしょにいるっていう様相をあいつは本質的に許していないんだよ、ひとつ決闘をするごとに世界は鋭角にきりとられるんだってあいつは言っていた、そのたびごとに世界の範囲がせばまるんだよって、決闘は負けたほうの価値観のすべてをきりとるっていうことなんだ、俺たちが決闘をやって、それが目撃されればそのぶんだけ世界の現象範囲がちいさくなるんだってそう言うんだ、そうやって決闘をくりかえしていければ世界とにんげんはひとつの凝縮点まで圧縮されて、あいつの考えだと、そこに永遠の調和がおとずれるんだよ、複数のにんげんがひとつの凝縮点でひとつにかさなりあい、ひとつに溶けこむんだ、あいつはそうやって削ぎおとされていった価値観を盗みつづけているんだよ、あいつは世界の敵なんだ、もう世界は狂っているだろう、あいつが世界を盗みつづけた結果もうほとんど夕暮れしかのこっていないんだよ(…)
(p.204-205)

 入浴後、『手のひらたちの蜂起/法規』(笹野真)を、メモをとりながら二周読んだ。一篇単位で読んでもなかなかとっかかりが見つからずむずかしいのだが、通してゆっくり読むと、なるほどそういうことか、と得心のいくところが多々あった。キーワードは「重力(落下)」「同一性」「法」そしてそれらすべての「解体/逆転/裏切り」あたりになるか。明日もう一度読んで感想を書いてみたい。
 切れた灯油を補充し、母と協力して(…)におむつを穿かせ、冷食のパスタを食し、歯磨きをすませたのち、朝方まで『盗まれた遺書』(仙田学)を読んだ。