20240128

 ぼくは町内会の人に疑問を感じたからといって、「あんたらは良かれと思っているんでしょうが、保守的やし家父長制やし最悪です」といきなり直球で言うと、関係が壊れてしまう。聞く耳さえ持ってくれないだろう。これからも関係を維持しつつ、変えていこうとすれば、信頼関係を築いたうえで、ゆっくり説得する必要がある。
 しかし、インターネットはちがう。職場や地域の人間には言えないような罵詈雑言が吐けてしまう。簡単に誹謗中傷できるのは、その相手と何のつながりもないからだ。今後も継続的な関係を築く必要がないからだ。ツイッターではさまざまな「類友」が「内輪」をつくって、たがいに「敵」とみなして罵倒しあっている。
(綿野恵太『「逆張り」の研究』)

 (…)でこちらが得た実感とまったくおなじことが書かれている。説得するためにはまず信頼関係(転移)を築く必要がある。(…)だけではない。中国の学生らと政治的に踏みこんだ会話をするときもおなじだ。信頼関係がないうちには「聞く耳さえ持ってくれない」し、下手をすれば修復不可能なレベルで「関係が壊れてしまう」。



 正午起床。母からめだかの鉢をのぞくように言われる。無事越冬しためだかが稚魚含めて七、八匹いることは確認済みであるが、おおきなエビまでいるという。ヘドロみたいな藻みたいなものが根っこにからみついている枯れたホテイアオイをどけるとたしかに数匹エビがいる。ヤマトヌマエビなのかミナミヌマエビなのかはわからない。今年は暖冬であるしもしかしたらこちらが日本に滞在しているあいだに鉢の水換えができるかもしれない。
 冷食のグラタン食す。食卓に居残り、コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿し、一年前と十年前の記事を読み返す。以下、2014年1月28日づけの記事より。このときはじぶんが(…)さんの後釜というかたちで中国に渡ることなど当然考えてもいなかった。

(…)おもての引き戸を叩く音がして、大家さんだったらノックなどせずにいきなりガラガラっとやるのが習いであるし、宅配物の場合は(…)さーんとこちらの名前を呼びながら軽くノックするひとが大半であるしで、それじゃあこの無言のノックはいったいなんだろうと思って引き戸をあけてみると(…)さんがいたものだからうわっと声をあげて驚いてしまった。(…)さんは昨夏ちょうど(…)がうちに滞在している期間中に日本を発って中国に渡ってそんでもってむこうの大学で日本語講師をしているはずで、お茶屋さんでいっぱい千円以上する最高級の抹茶を(…)と飲んでいるときにたしかいまから日本を発つところだと出国前の電話があって、それでそのとき別れの挨拶を交わしたそれきりだったわけだから四五ヶ月ぶりの再会ということになるんだろうけども、帰国したんですかとたずねるとちょうどいま中国は旧正月でその期間を利用して一ヶ月ほどの滞在予定で日本にもどってきたのだという。せっかくの旧正月なのに満喫しないのもしかしもったいない話ではないかと思ったのだけれど、旧正月自体はちょうど一年前に(…)さんの実家を訪問するかたちで体験してあるからいいんだということで、大阪の実家で数日過ごしてきて京都には今日来たばかりだというのだけれど、出国前に世話になっていたデパ地下のバイトのひとたちに連絡をとったら人手が足りてないし来なよと誘われたとかなんとか、ゆえにこれから一ヶ月ほど京都の友人宅に寝泊まりさせてもらってバイトに通う、つまり、京都を拠点として過ごすということだった。仕事のほうはどうですかとたずねてみると、週に三日しか授業はないしその授業にしたところで二時間程度であるし楽といえばむっちゃ楽だという話があって、それにもかかわらず日本円に換算して月給は7万円ほどあるらしい。それに物価が安いのと家賃の支払いが不要というのがあるそのおかげで月に5万円は貯まるとか、なんかそんな話を聞いているとほとんど天国みたいな環境ではないかとさえ思われてきて、こちらが無職であると知るなり日本語教師にならないかと誘ってくれたメーホーンソーンのタイ人女性からいただいた名刺はたしかまだあったはずではなかったかなどと考えてしまうのだけれど、当初は二年かそこらの滞在予定だったのだけれどやはり異国は見るものすべて新鮮でおもしろいし生活も充実しているしでこのままずっといてもいいかなと最近は思いもすると(…)さんはいった。いちど屋台街みたいなところを大学の生徒といっしょに歩いていると、前方からものすごい勢いで駆けてきて(…)さん一行の脇ぎりぎりを過ぎていった男がいたらしくて、なんなんだろと思ってその男の来たほうを見やると、豚とか牛とかを解体するのに使うような巨大な包丁を手にした男がものすごい形相を浮かべて走ってきてやはり(…)さんの脇を通りすぎていき先ほどの男のあとを追いかけていって、なんなんだいったいこれは!!と思って生徒にたずねてみると、たぶん喧嘩にでもなったんでしょうみたいなことをさらっと言ってみせ、そしてそれだけで、周囲を見渡してみても道ゆくひとびとみんな平静で、要するにそんなの日常茶飯事ありふれた光景にすぎません的なスルーっぷりで、前から出刃包丁持って男が走ってきたときはほんとビビったけどそのあとのみんなの平然としたリアクションにも同じくらいビビったよねーと、そんなふうに語る(…)さんを前にしているとどうしてじぶんはべつだん思い入れのあるわけでもないこの街にこんなにも長い期間居着いてしまっているのか、いますぐどこかワケのわからない土地、たとえばもう何年も前から計画している西成への移住を今年こそ開始すべきなんでないかと、たびたび鎌首をもたげる欲望と焦慮のほどよくブレンドされた熱にまた浮かされてしまう。

 刃物をもった男の逃走劇を目撃した「屋台街みたいなところ」とは后街のことだろう。そこを学生と歩く(…)さんの姿をいまのじぶんはまざまざと思い浮かべることができる。かたわらには(…)くんや(…)さんや(…)さんがいたのかもしれない。「べつだん思い入れのあるわけでもないこの街」と評されている京都もいまとなっては強い思い入れのある街となっている。「もう何年も前から計画している西成への移住」というくだりには、そういえばそんなことを計画していた時期もあったなと思う。帰国後に西成に移住するのも悪くない。いまはゲストハウス街になっているというし、片言の英語と中国語ならいけますというていで週に二日ほどバイトさせてもらって小銭を稼ぐのもいい。

 食卓にて授業準備。日語文章選読にそなえて「(…)」の教案を改稿する。前回この教案を使ったのは2022年の前期。およそ二年ぶりということになる。資料はほぼ問題なし。ただ、前回やったときはこちらの興味にひきつけた脱線をはさみこみすぎており、そのせいで学生たちがついてこれずポカーンとしてしまったらしいので(授業後に残したメモにそう記してある)、その反省を踏まえて、抽象的な話、哲学的な話は大幅にカットすることに。あと、スライドの文章を延々と読みあげるだけになってしまうのもまずいので、まずは口頭と板書で説明→その後先の説明とほぼ同じ内容をスライドに映すという二段構えでやる。こうすればリスニングの練習も兼ねることができる。「(…)」は2コマか3コマ。3コマ目は簡単な課題を出すかもしれない。日語文章選読は考査なので課題で成績をつける必要があるし、学期中に三回か四回、ちょっとした作文を書かせるのもいい。あるいはまたプレゼンテーションでもしてもらうか。
 (…)を連れて(…)川へ。今日はわんこ大集合となった。まずいつものようにフレンチブルの(…)ちゃんと雑種の(…)がいた。それからとうとうトイプードルの(…)とも再会した。(…)は堤防の上を散歩していたが、ものすごい遠目から(…)の存在に気づき、主人のリードをふりきるいきおいで河川敷におりるぞおりるぞと急かしたという。あいかわらず規格外のデカさで体重はすでに10キロの大台にのった。以前会ったときは毛を短くカットしていたのだが、いまはふわふわで、そのために顔がめちゃくちゃデカくて足が大根みたいに太くみえる。病気とはいまのところうまく付き合っているようだが、最近また血便が出たらしく、それでちかぢか病院に連れていくつもりだという。ご主人はわざわざ車にいったんもどって、(…)のための誕生日プレゼントをもってきてくれた。帰宅後に中身をみると、無添加高級ジャーキーが二袋に鹿の燻製肉と鶏の燻製肉それぞれ一袋で、母がいうには五千円ではとてもきかないらしい。うちもまあまあ犬馬鹿なほうであるとは思うが、(…)のところのご夫妻——名前は(…)というらしい——は底が抜けている。今日は旦那さんのソロプレイだったが、夏に会ったときよりもずいぶん痩せていて、というか激痩せという表現がしっくりくるほどスマートになっていて、だいじょうぶなんだろうかとちょっと心配になった。初対面の犬もいた。ポメラニアンの(…)ちゃん。おばさんが連れていた。名前をたずねると、全然優しくないけど(…)といいますという返事があった。よその犬との相性があまりよくなく、また人間相手にも軽くがぶりとすることがたびたびある。ということはまだしつけの終わっていない若い犬なのかなと思ったが、たしか4歳だか7歳だかで、どうも元々そういう性格の子らしい。しかし最近はようやくよそとの交流をおぼえはじめた。(…)との相性はいいらしい。それから柴犬の(…)。以前もいちど見かけたことがある。歩き方がおかしいので、後ろ脚に障害があるのかなと思ったが、脚ではなく脳のほうの問題らしい。しかし元気で、かつ、ひとなつっこい。顔は一目見ただけで女の子とわかるほど優しい。何歳か忘れたが、まだ若い。(…)は柴犬との相性が基本的によくないのだが、(…)とは問題なく接することができていた。しかし別れ際にはちょっと威嚇した。(…)川の最長老として、ほかの犬らがはしゃいでいるあいだもその場にじっとしており、途中からは疲れてその場に伏せてしまう(…)であるが、変なところだけまだイキろうとする、相手が柴犬であると全然力の入らない後ろ脚をそれでも踏ん張ってガウッとやろうとする。はずかしいやつだ。(…)はお母さんと中学生くらいの娘さんのふたりが連れていた。母が(…)&(…)の話をすると、(…)さんのところやねという反応とともに、じぶんの隣人であるのだという言葉が続いた。(…)&(…)も保護犬であるし、(…)ももしかしたらそうなのかもしれない。隣人同士でそういうボランティアにとりくんでいるのかもしれない。
 帰宅後、夕飯。ステーキだった。(…)は足の悪さを感じさせないほど食卓の下をうろうろうろうろした。ステーキのおこぼれがほしくてたまらないのだ。しかし中性脂肪の数値が高いので人間の食いものはやらない方針である。(…)のところにいただいた鹿の燻製はうまそうに食っていた。せっかくなのでこちらも食ってみたが、ほのかにハーブの香りがした。
 入浴後、間借りの一室でふたたび授業準備。日中に少しだけ進めておいた「(…)」の続きを詰める。2022年の後期でやった教案をほぼそのまま使いまわしして問題なし。当時の教案にも日記にもうまくいったと書かれている。

 笹野真『手のひらたちの蜂起/法規』について。きのう二度続けて読んだわけだが、タイトルが「蜂起」と「法規」の同音異義語であるのは非常に示唆的だと思った。このタイトルに即して、「法規」(同一性/カテゴリー/重力/論理/文法)とそれに対する「蜂起」(解体/抵抗/裏切り)という観点から読むことができる。タイトルに過度に意味を読みこむ愚かさをあえて踏んでみたというわけではない。読みながら軽くとったメモにまさにぴったりとくるのがこの二語だったのだ。
 まず、同一性を解体するかのような記述群。18-19にあるリンゴの詩がもっとも典型的。たとえば、「そしてリンゴを食べるとリンゴの味がする」(19)という一行。あるいは、「雨のように雨が降る」(6)。「雨が降る」ではなく「雨のように雨が降る」と書かれることにより、雨が雨としての同一性を奪われているそのような地平にこの詩が成立していると考えられる。リンゴも同様。「リンゴを食べるとリンゴの味がする」と書かれることによって、「リンゴを食べてもリンゴの味がしない」という言葉/論理/現象の成立する(すなわちリンゴの同一性が解体されている)地平にこの詩があることが印象づけられる。「それは白髪を白髪たらしめるものでは」(51)にならっていえば、雨を雨たらしめるもの、リンゴをリンゴたらしめるものが、欠如しうる地平がここにあるということだ(「欠如している」ではない、雨は雨のように降ることもあればそうでないこともあるし、リンゴはリンゴの味がすることもあればそうでないこともある、同一性は完全に解体されているのではなく、いわばあそびたっぷりでぐらぐらになっているのだ)。「水滴が水滴をたどるのではないように」(15)や「壁に焼きついた影は影ではないようでいてやはり影とよばれる」(57)も同様。また、これらの異質なバリエーションとして、「カラスが鳴くようにカラスが飛ぶと思っていた」(23)も挙げることができる。「カラスが鳴くように鳴く」でもなく「カラスが飛ぶように飛ぶ」でもなく、「カラスが鳴くようにカラスが飛ぶ」という点で、この一行はほかにくらべてさらに一歩踏みこんでいるといえる。
 さらに、「星座座」(10)や「埋葬の埋葬」(59)といった上位カテゴリーと下位カテゴリーの境界を侵犯するトートロジー(?)も存在する。つまり、同一性のみならずカテゴリーもここでは解体されている。これらは単なる言葉遊びでしかないのだろうか? しかし言葉遊びもまたこの詩集における重要な要素なのだ。たとえば、「動揺と童謡を縦に積んで」(8)や「ころりころげた ころころ コロンボ」(20)という駄洒落みたいな表現。あるいは、「蜂たちの蜂起、蜂のピュレを添えて」(8)という「蜂」の字からの連想的な動き。さらに、「ほおばって」から「欲張って」の移行もあるし(20)、「ぞうさん」から「ぞうきん」への移行もある(44)。これらの言葉遊びがもたらす感触は、言葉遊びというよりもむしろ誤変換、予測変換、タイポに近いかもしれない。そしてその感触をあとづけるように、この詩集のなかにたびたび登場する造語のなかには、もはや造語の域を超えて(というのはここではそれがどのような品詞であるのかすら区別がつかないという意味だが)タイポのようにみえる意味不明の文字列も混じっている。言葉遊びは意味の機構を言葉の即物的な面(字面、音声)で撹乱するものであるし、誤変換、予測変換、タイポは端的にエラーでありバグである。それを踏まえて、「通せんぼを通したくせに」(48)というこれ自体言葉遊びであるところのフレーズを読むと、意味を撹乱する言葉の即物性やエラーおよびバグをこの詩にもちこんだふるまいに対する非難(?)の響きを認めることができる。それはつまり、禁じられたもの(通せんぼ)を禁じなかった(通した)ということであり、「法規」に対する「蜂起」ということである。
 法規に対する蜂起の例をほかにも挙げてみる。たとえば、「ドアをノックするんじゃなくてノックしたところがドアなんです」(20)。普通はドアがあり、それをノックする。けれどもここでは、まずノックがあり、そこが事後的にドアである/ドアになるという逆立ちした論理が採用されている。まず作用があり、対象が事後的に生じる——あるいは、主体が客体に働きかけるのではなく、出来事から事後的に主体と客体が生じる——というおなじみの逆転。あるいは「掘られた穴が歩行をうながさないように」(58)。掘られた穴に落ちてしまわないように気をつける歩みとは、むしろ掘られた穴にこそうながされた歩みである。そのとき「歩行」の主体性は、歩みそのものにではなく、掘られた穴のほうにある。そしてまた、「穴を穿てば穴が開くと思ったか お前は元から穴だというのに」(4)や「風を穴に通すのではなく風にこそ通したのではなかったか」(28)や「「ほら僕の言った通りでしょ、ピアノを弾くとボートが空気の中へ沈んでいく」空気の中に沈んだピアノがボートをほおばってふくらむ」(20)など、後出しのかたちでなされるどんでん返し。そしてそのような「逆転」の局地にあるのが、赤瀬川原平の「宇宙の缶詰」をおもわせる「ゾウの皮を裏返して縫い/ゾウの外側に立ちゾウになった世界を踏みつける」(44)という二行だろう(赤瀬川原平ではなく、なんという名前か忘れてしまったが、たしかヨーロッパの彫刻家だったと思う、動物の皮や皮膚あるいはそれを模した紙をまさに裏返しにして塗った彫刻作品を制作している人物がいなかったか?)。こうした逆転の力学は、法そのものにも及ぶ——すなわち、「振り返ると法が現れる」(35)というかたちで。行為はつねに蜂起であり、蜂起はつねに法規を改変せしめる。法は遅れてやってくるのだ。
 蜂起すべき法規の最たるものは重力のようにみえる。それは落下という言葉やイメージとしてこの詩集に頻出する。「第二宇宙速度で落下せよ」(4)や「雑踏の底が抜け音達が落下していく(着地しない)」(23)や「地面の否定ではなく落下の記憶によって堅さを得たのなら」(28)や「犬の落下が与えられたとせよ」(49)や「うすくはがれて落ちてくる泡」(52&60)や「着地しない足」(53&61)や「額の重力」(59)や「落下の味」(59)や「先の先を折りたたんでも風の落下にはなりません」(61)などだ。しかしそのような「落下」およびそれを強いる「重力」は当然蜂起の対象となる。しかるがゆえに「地面に広がって町の明かりを映したりなどしたくない雨(落下を拒絶せよ)」(24)というオーダーが下されるし、「地面を放り投げ」(50)ることにもなる(さらにいえば、後者は「地面を放り投げた二年前/裏切るのが当たり前だろう」と、重力に対する蜂起=裏切りの筋も確保している)。あるいは「どんな落下も重力を保証しない」(53&61)という言明。蜂起の結果、「重力がすり切れ」(49)ることもあるだろう。そしてそのような蜂起は「者とともに舞い落ちるすべての物たちが歩き方を忘れるために」(61)なされるものだ。歩き方を決定する重力に逆らい、ほかでもないその重力に強いられた歩き方を忘れる。重力=法規とは、同一性であり、カテゴリーであり、意味であり、造語やタイポなどのエラーが介在することを許さない清潔さであり、主部が述部にしっかりと着地(!)することを要請する文法である。そしてその法規が蜂起によって危ぶまれた結果、既存の歩き方を忘れた日本語があたらしい歩き方を探しはじめる。あたらしい重力との関係を模索しはじめる。
(蜂起とは法に対する裏切りでもある。「跳ね橋は意外と裏切らない(しかし君の足は跳ね橋を裏切ったではないか)」(25)。あるいは「裏切るのが当たり前だろう」「裏切られた報復ではあり得ない」「すべての窓は裏切り者」——これらはすべて51ページの詩に登場する。この詩は横書きにレイアウトされている。横書きにレイアウトされている詩には重力および落下のモチーフが登場しないという見立てを得たが、二度目に読んだ際に「地面を放り投げた二年前」(50)があることに気づいてしまった。)
 そしてしかし、この見立て自体が法規でしかないのだ。だから批評を書くのだとすれば、この見立て=法規に対して蜂起している細部を手がかりにするところからはじめるべきだろう。たとえば、なぜおなじ言葉やフレーズが使いまわされているのか? なぜ異稿が(ある距離を置いて)収録されているのか? それら語およびフレーズの組み替えと使いまわしに由来するミニマルな質感と語彙の貧しさになにを見るべきか? 限られた語彙として、なぜ風、影、帆、背中が選ばれたのか? なぜほかの語らであってはいけなかったのか? なぜその形象であり、なぜその意味であるのか? そしてとりわけこれらの詩の行の並びを成立させている法はなにか?
 そういう読みとはまた別に、フレーズ単位で印象に残ったもの。まず「がれきの使徒」(11)。これについては一瞬「実弾(仮)」のタイトルとして貸してくださいとお願いしそうになったが、「実弾(仮)」のタイトルに「がれき」を入れるのはなしにすると以前決めたのだった。次いで「ピレネー山脈アルプス山脈を下山した」(27)。フレーズとしてもいいが、この空間(論理)の狂い方もフックになりそうだなという意味で印象に残った。それから「賢い血」(31)。これはやっぱりオコナーが元ネタなのかな。そして最後に「貨幣となるには裏表が足りない」(57)。これは痺れる。これは純粋にかっこいい。
 純粋にかっこいいといったら37ページの詩はこれひとつ独立したものとしても完成されていると思う。重要なワードやフレーズもここに出揃っているし、少なくとも先の見立てに即してみるかぎり、この詩集の中核となる詩といえるだろう。なにより「影あのように立ちあがって」という一行のすばらしさ!

きっとしかしその通りなのだろう
歩んだ先から足跡を否定する音
手のひらたちの蜂起/法規
当然の帰結としてではなく
影あのように立ちあがって
空を削って燃やす
底を打って浮かび上がってくるの波浪
振り返ると法が現れる

 ところで、詩集というものは一冊読むとかならず笑ってしまう箇所がひとつふたつはあるものだが、この詩集も例外ではない。それも書いておきたい。まず「蜂たちの蜂起、蜂のピュレを添えて」(8)。これはやっぱり笑う。しかし読解上重要な箇所でもあるので、その笑いは長続きしない(あれ? ここ大事じゃない? とすぐに真顔になってしまった)。次に「さっき波のしぶきを数えおわりました」(57)。これもなかなかおもしろいのだが、しかしそれ以上に叙情がしみてくる(というか初読時こちらはむしろこの一行にポエジーを感じた、そして再読時に冷静に考えたらけっこうおもしろフレーズやなと思ったのだった)。そういうわけで、なんの留保もなく爆笑したのは、以下の一行のみとなる——「ガラス割れたのぜんぶあそこのバッタのせいにしよう」。ここはクッソ笑った! (…)さんなに書いとんねんとマジで爆笑した。本当にすばらしい。ものっっっっっすごく高度な一言ネタみたいだ。
 ちなみにこの「ガラス割れたのぜんぶあそこのバッタのせいにしよう」の前の行は「北半球でリンゴの皮をむくと必ず反時計回りになります」で、後ろの行は「それは僕のつむじではありません君のです」になっていて、ここでは「反時計回り」→「つむじ」というイメージの連鎖が行をまたいで認められる。もしかしたらこういう連鎖はほかの部分にもあるのかもしれない。

 夜食は冷食のパスタ。生成AIをゴミ化させるべくそれ自体ゴミとしかいいようのないクソテキストやクソ画像を大量にネットに流し続けるテロというのは成立するのかなとふと思った。物量の問題があるかもしれないが、物量なんてそれこそAIを使えばどうにでもなりそうだ。
 寝床に移動後、『盗まれた遺書』(仙田学)を読む。表題作を半分ほど読んだだけでしかないけど、なんとなく、これは(…)さんが好むタイプの小説なんではないかと思った。仕掛けがたくさんあるのだ。