20240201

 よく見ると、「アベガーが安倍暗殺の原因だ」というネトウヨのロジックは、「ネトウヨヘイトクライム憎悪犯罪)の原因だ」というリベラルの批判をパクっている。ネトウヨが排外主義的な言説をくりかえしている→安倍政権は排外主義に断固たる姿勢を見せず、インターネットに排外主義的な言説が蔓延した→その結果、犯人は在日外国人への憎しみを募らせて、ヘイトクライムを起こした……というのがリベラルの批判だ。たいして、ネトウヨは、政権を口汚く批判することとマイノリティへのヘイトスピーチを混同させたうえで、敵=リベラルの主義主張を都合よく横領している。
 しかし、「アベガーが安倍暗殺の原因だ」という論法は、ネトウヨにとって不利な結論に行き着く可能性がある。本当に「アベガーが安倍暗殺の原因だった」とすれば、リベラルの批判やメディアの報道によって犯罪が引き起こされた、と暗に認めることになる。すると、ネトウヨがくりかえすヘイトスピーチによって、犯罪が引き起こされたことも認めなくてはいけないはずだ。リベラルへの攻撃が、ネトウヨにそのまま戻ってくる可能性がある。さっきの言葉で言うと、「ブーメランで草」なのである。とはいえ、そんな矛盾を気にしないところが、主義主張なんかどうでもよくて、その場その場の出まかせ、という印象を与えるのだ。
(綿野恵太『「逆張り」の研究』)



 12時半起床。玄関で(…)が伏せている。顔だけあげて扉のむこうにじっと視線を送りだしている。母が外出中なのだ。こちらの姿に気づいた(…)は(耳が相当悪いのでよほど近くまでいかないとこちらに気づかない)、庭に出たいと訴えた。腰をサポートしてスロープをおりる。庭に出た(…)はガレージのほうに移動し、また視線を遠くに送りだした。室内にもどってきたあとは、かつて元気だったころ早朝の散歩に連れていってもらうために仕事休みの父をそこで待っていたように、階段の上を見あげながらじっとしていた。分離不安だ。母が帰宅すると(…)は尻尾をゆっくりとぱたんぱたんとふって出迎えた。いまの(…)にとっては尻尾をふるのも大仕事だ。母に対する執着がすごい。まるで赤ん坊のようだ。父は節分前の書き入れ時なので帰宅は15時をまわっていた。(…)はまったく出迎えようともしなかった。朝昼兼用のメシはいつも父が職場からもちかえってきたものですませているのだが、今日はその父の帰りが遅かったし、腹もあんまり空いていなかったので、ラスクと白湯だけですませた。そのあとはコーヒーを飲みながら『落としもの』(横田創)を最後まで読みすすめた。おもしろかった。

 わたしは自分の体の中が、特におなかの中が怖かった。いままで病気らしい病気なんてしたことないし、体はいたって健康だけど、いつなにが起きてもおかしくないというより、起きても起きたと気づかない、気づくことができない世界が自分の中に縫い閉じられていることが、ときどき耐え難い不安となってわたしを襲った。
(「落としもの」 p.46)

 パンを焼くのを夏休みの自由研究の課題にしたかったという彼女の話で思い出したのだが、わたしは小学校の五年生のとき、変温動物と恒温動物の違いを研究した。図鑑でひととおり調べ終わるとわたしはむしょうに悲しくなって、研究を放り出してしまった。
 わたしはひとけのない海岸に建つ廃墟の中に閉じこめられた自分を想像していた。ただの板張りで、もちろん断熱材などない壁からはたえず隙間風が入ってきて、戸を閉めても外にいるのと変わらないくらい寒かった。そんな家が、トカゲやカエルや魚の数ほどあるかと思うとやりきれなかった。
(「パンと友だち」 p.144)

 ひとが並んで肩の位置をキープしながら、すっ、すっ、すっと歩いているのを見るだけで幸福[しあわせ]だった大ちゃんが、京都の嵐山に修学旅行で行ったときのエピソードを聞いて、一同は驚愕した。「もうなんの話だかわかるよね?」と言われても「ぜーんぜん」て首を振る声がそろうくらいわからなかったみんなの声がそろっているのがうれしくて、でも相変わらず、たんたんとした話の運び方で、なにを言うかと思えば、その日泊まった老舗旅館の裏にある孟宗竹の林の中に入ったときの体験だった。
 まず自分の目線の高さの節の位置を、一本一本、竹に鼻がくっつくほどの至近距離から見くらべてみることから大ちゃんは始めた。阿弥陀籤のように横線をたどるその旅は、やがて壮大な、前も後ろも、色も形も、あの竹もこの竹もない、ただの一枚の絵となり、音となって頭上にひろがり、本気で吐きそうになるまで上を見ながら、くるくるくるくる、大ちゃんはまわった。そしてその絵の全体が、風でぐにゃりとしなるように、先端の位置をキープしながら腰のあたりが揺れたとき、竹が竹としてなにがしたいのか、したかったのか、ほんの少しだけ大ちゃんはわかった気がした。そして知識ではなく直観的に、竹は何本あっても一本なのだと、大ちゃんは思った。けど一本であっても何本もあるのだと、大ちゃんは思った。
(「ちいさいビル」 p.194-195)

 思えば自分も、一日の大半を労働者としてお金に奪われているのに、給料明細を受け取るときに「ありがとうございます」と、なぜかお金に感謝している。させられている? お金持ちという主人になるために一度は奴隷にならなければならないことが無性にくやしく、みじめな気持ちになることもあるけど、そんなとき大ちゃんはお金がないときの寂しさや苦労を思うようにしていた。
 苦労、といっても、それは、あれが買えない、これが足りない、欲求を満足できない? そういう苦労ではなくて、お金に換えて銀行に預けておいた悩みが一気に表面化して、取り付け騒ぎを起こしたみたいに、馬鹿みたいに心が乱れる、それが嫌で嫌で、とにかくそれだけは避けたくて、お金で何でも解決できると、解決できないものはないと嘘でも大ちゃんは思うようにしていた。その嘘が、大ちゃんの本心だった。
(「ちいさいビル」 p.231-232)

 食卓にてきのうづけの記事の続きを書いて投稿。1年前と10年前の記事を読みかえす。それから今日づけの記事も一気にここまで書いた。
 ところで、朝、歯磨きしているあいだにスマホでざっとニュースをチェックするのが習慣なのだが(見出しだけでも斜め読みしておく)、週刊文春の報じる松本人志まわりのニュースで毎回使われている写真で松本人志が装着しているフレームがブラックでレンズが紫のサングラスが、こちらのもっているサングラスとうりふたつなので、その写真をみるたびに、おれ松本人志とおんなじセンスなんか……と微妙な気持ちになる。

 今日も(…)川には行かない。夕食後、ソファでBuriedborne2を1プレイ。それから『シンセミア』(阿部和重)を読みはじめる。
 入浴後は間借りの一室で授業準備。「(…)」の脚本作成を進める。もともとが学生向けに書いた文章であるので、それほどむずかしい単語はない。だから思っていたよりもずっと説明や解説の必要な箇所は少ない。単語や文法の説明ばかり続くと学生らも退屈するのでむしろそのほうがいい。授業ではたくさん脱線したい。
「身振り手振り」という単語を説明するにあたって、「ジェスチャー」および「手話」についてもついでに説明——という脚本を書いたところで、『コーダの世界』(澁谷智子)を買いそびれていることに気づき、ポチった。(…)さんがこのあいだブログでAmazonではなるべく本を買わないという意味の文章を書いているのを読んで、そうだよな、やっぱりそうすべきだよなと思ったけれども、(…)にはそもそも書店がない。たぶん(…)(イオン系列のモール)にある書店がいちばんおおきなものだと思うのだが、岩波は扱っていないし、そもそも人文学のコーナーがまったく存在しない(「哲学・思想」のコーナーはなく、「宗教」のコーナーはあるのだが、スピリチュアル本しか売っていない)。そういうレベルのクソ田舎であるので、ヴィレッジヴァンガードがまともな文化に触れうる唯一の聖域としてあったはずなのだが、そのヴィレッジヴァンガードも去年の夏休みにのぞいてみたところ、書籍のとりあつかいが激減しており、ものすごくくだらない雑貨屋になりさがっていた(それとこれとが関係あるのかはわからんが、たしか先月だったと思う、ヴィレッジヴァンガードの経営状態が非常にまずいというニュースを目にした)。ヴィレッジヴァンガードはいまほどネットが一般的でなかった時代、田舎の若者が文化の洗礼を浴びることのできる唯一の前線だった。しかしそれでいえば、こちらが京都に出る前、つまり、まだ地元にいた時分、(…)にはそのヴィレッジヴァンガードすらなかったのだった。ということを考えていると、おれはよくやったよ、あの環境からよくこんなふうな人間になったもんだよ、本当にたいしたもんだ、と自画自賛したくなる。