20240131

(…)その一方で、御田寺さんは「かわいそうな弱者vs.かわいそうでない弱者」という対立が不可避であるように煽っている。しかし、それは間違いだとぼくは思う。
 たとえば、こんな感じで描かれている。「すべての構造はやがて「強者vs.弱者」や「富裕層vs.貧困層」「マジョリティvs.マイノリティ」といった、勧善懲悪的あるいは階級闘争的な構造を超えて「かわいそうな弱者vs.かわいそうでない弱者」へと変移していく」とか、「「助ける対象を自由に選べる社会」とは「助けない対象を自由に排除できる社会」と同時発生的である」とかだ。
 だが、本当にそうなのか。「かわいそうな弱者」が助かりたければ、「かわいそうでない弱者」を本当に見捨てるしかないのか。ぼくたちの世代は沈みゆく船なのか。数人しか乗れない救命ボートが目の前に浮かんでいる。そんな世界なのか。誰かを排除しなければ誰かが助からないほど、資源が限られているとは決して思えない。たとえ救命ボートのような究極の選択が迫った緊急事態であっても、全員が助かる方法を絶えず考えるべきだろう。
「かわいそうな弱者」と「かわいそうでない弱者」が、社会の少ないリソースを奪い合う。なぜこのような「ゼロサムゲーム」として描かれるのか。その理由の一つは「ゼロサムヒューリスティック」という認知バイアスである。ぼくたちの脳は、誰かが得をすると誰かが損をするとみなす傾向がある。女性の支援を訴えるフェミニズムが、何か損をした気持ちになった男性から反発を受ける理由である。
 もう一つの理由は注意経済が「ゼロサムゲーム」だからだ。注意経済はユーザーの限られた「可処分時間」を奪い合っている。また、人々が同じ時期に重要だと考えるアジェンダ(争点)には限りがある、という説がある。五つから七つの争点まで、という研究者もいれば、四つの争点で限界だという意見もある。つまり、政治的な争点についても、注意を奪い合うゼロサムゲームなのである。たとえば、政権の支持率が危険水域にまで下がると、芸能人が逮捕される、北朝鮮がミサイルを撃つ、という陰謀論が存在する。たしかに別の大事件が起きれば、政権の不祥事から世間の関心がそれてしまう。ゼロサムゲームであることを多くの人が直感しているわけだ。
 たしかに注意経済はゼロサムゲームだ。SNSを利用する政治運動もその競争に巻き込まれている。「かわいそうな弱者」に注目が集まると、「かわいそうでない弱者」には注目が集まらない。ぼくたちの注意にはバイアスがあるし、リソースも限られている。当然ながら、SNSを利用して共感を集めるリベラルな政治運動にはかたよりが生じる。その政治運動によって政策が実現されれば、ぼくたちの注意のバイアスが政策自体にも反映されることになる。
 その意味で「かわいそうランキング」はぼくたちが生きるこの社会の矛盾をうまく指摘している。しかし、「かわいそうな弱者」と「かわいそうでない弱者」が奪い合うほど、社会全体のリソースが少ないわけではない。御田寺さんは注意経済と社会の次元を混同させている。そのため「かわいそうな弱者vs.かわいそうでない弱者」が対立せざるをえないように描いている。その結果、リベラルやフェミニズムに反感を持つ人々の本能に訴えかけて、「アンチ」として「われわれ」を結託させてしまう。リベラル=敵を叩いて、部族主義的な喜びを与えることになる。
(綿野恵太『「逆張り」の研究』)



 正午起床。冷食のグラタン食す。母の運転で出かける。母はJAに用事がある。その用事がすむあいだ車内で『落としもの』(横田創)の続きを読む。表題作は昨夜読み終わった。車内では「いまは夜である」と「残念な乳首」を読んだ。前者がとてもよかった。もっとも奇妙なのはいまのところ表題作。道路をはさんだJAのむかいにはガソリンスタンドがある。そこでは(…)のところのご主人である(…)さんが働いているらしい。(…)さんという名前を目に耳にするたびに、(…)でもなく(…)くんでもなく(…)ちゃんでもなくそれはあくまでも(…)さんでなければならないのだが、平屋の県営住宅に住んでいた保育園時代をおもいだす。県営住宅がたちならぶ敷地の入り口に豪華な一戸建てがあり、そこに(…)さんという女性が住んでいたのだ。家には猫がいたので幼少期のこちらはいつも彼女のことを「猫のおばちゃん」と呼んでいた。いちど庭に蜂の巣ができたから見においでと誘われた記憶もある(当時の自分は「虫博士」とあだ名がつくほど昆虫が大好きだったのだ)。当時は知らなかったが、(…)さんの旦那さんは非常に稼ぎのある人物であり、しかるがゆえに(…)さんは働かずうちでずっとのんびりとほとんど箱入り娘のようにして過ごしていたらしいのだが(子どもはたしかいなかったのではなかったか?)、旦那さんにはじつは長年にわたって愛人関係にある人物がおり、それが判明したとき、(…)さんは(…)橋の上から飛び降り自殺しようとした——そしてその一件以降、精神の健康を損ねてしまったという。こちらが「猫のおばちゃん」宅をおとずれていたあの時分、すでに病んでいたのかどうかは知らない。その(…)さんももう死んだ。人の数だけ人生があるということを本気で想像してみるたびに、ほとんど信じられない気持ちになる、愕然とするといっても言いすぎではない。こんなにたくさんのイベントと遭遇しこんなにたくさんの分岐点に立たされるプレイヤーが、いまログイン中だけにかぎっても80億人以上もいるのか、と。
 セブンイレブンのATMでまた金をおろす。コーヒーとカフェラテを買う。郵便局のATMで口座に90万円あずけ、あたらしい通帳を発行してもらう。ZOZOTOWNでポチったコートを返品する。ZOZOTOWNからは今日キャスケットがとどいた。そいつは問題なかったので返品しない。逆さにかぶるためのキャスケット
 帰宅。(…)を庭に出してやると、とんでもなく長い小便をする。おむつなりマナーベルトなりを常時着用しているわけだが、それでもまだ室内にいるかぎりは我慢しようとするのだ。節分前で父の仕事がたいそう忙しいし、(…)もきのう後ろ足から血を流していたので、(…)川には行かないことに。食卓でコーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読みかえす。以下、2023年1月31日づけの記事より。

 岡田利規「三月の5日間」を少し読む。少し読んだだけで、あ、これはすごいわ、十年以上前に読んだときは全然このすごさがわかっていなかったわ、とうなった。男優1がまず観客に向けて「それじゃ『三月の5日間』ってのをはじめようって思うんですけど」と告げて第四の壁を壊すところからはじまり、男優2といっしょに、ラブホテルに連泊した男女のその男のほうがそもそもその女と出会うきっかけとなったライブに男同士でおとずれたという事情を事後的に説明する語り口で語るなかで、そのときの男女の出会いを男優1と男優2で部分的に再現してみせるその再現がそのまま「事後的な説明」というレイヤーを置き去りにして進行していく。だからといってそのまま男優1(男)と男優2(女)による再現が続くというわけでもなく、ところどころで「事後的な説明」のレイヤーにもどってくることもあるし、その「事後的な説明」のレイヤーも男優が観客に向けて語りかけているメタなレイヤーだけではなく、ラブホテルを出たあとの男が友人の男とファミレスで再会してことの次第を報告しているレイヤーも途中から登場し、それら二種類のレイヤーが分離したり重ね合わせられたりする。さらにその後、女優1と女優2も加わり、別の男優も加わり、ラブホテルに宿泊した男女とその男といっしょにライブにおとずれた友人の男以外の登場人物も増えていく。そしてそれらの役柄を舞台にいる役者らがレイヤーの切り替わるタイミングごとに巧みに交換しあう。ポイントはただの入れ子構造ではないということ。つまり、レイヤーの上位と下位がはっきりしていて、舞台で演じられている出来事がいま何層目のレイヤーであるのか、はじまりのレイヤーにもどるためにあと何層のレイヤーを閉じなければならないのかというようなヒエラルキカルな辻褄あわせはここにはない。だから印象としては、クロード・シモンの小説をさらにラディカルにした感じ。シモンもダッシュや括弧を多用しながらもわざとそれを閉じずに永久脱線させてしまうという技法を用いるわけであるけれども、それをさらにポップかつリズミカルにガシガシやっている。で、ふつう、こういう技法を使うとなると、第四の壁を壊す、つまり、メタフィクション的なレイヤーを導入するのに抵抗があると思う。というのも、メタフィクション的なレイヤーはどうしてもそれがヒエラルキーの最上位にあるものとして受け取られてしまいがちであるし、もっといえば作者自身もその特権的な引力に逆らえずひきずりこまれてしまいがちであるから、そうしたレイヤーの導入には慎重になるものだと思うのだが(事実、こちらがこれまで読んだことのあるクロード・シモンの長編には、「いまこの小説を書いているわたし」というレイヤーは導入されていなかったと思う)、『三月の5日間』はそのメタフィクショナルなレイヤー、第四の壁を突破しているレイヤーの使い方がすごく効果的で、というのは、レイヤーの横滑りによって複雑化を遂げた構造を、役者が突然観客のほうを向いて「〜ということがあって」とか「〜という場面をやろうとして」みたいなかたちでいったん仕切り直す、キャンセルする、接続しまくってしまったものをいったんそこで切断する、そういう役割が果たされているからで、これがあるのとないのとでは全然違うよなと思う。横滑りしつづけるだけであれば、ある意味とてもわかりやすい、すごく雑な言い方をすればポストモダン的な作品になっていたと思うのだけれども、その横滑りをいったんキャンセルする、接続の連鎖を切断する、そういう役目がこのメタフィクショナルなレイヤーには課されている。だからといってそのレイヤーがヒエラルキーの最上位にあるものとして感じられないのは、ヒエラルキーそのものの辻褄が合うようにこの戯曲が構成されていないからで、これはすさまじい発明であるなとつくづく思う。
 とはいえ、ここまでは十年以上前に読んだときにもすごいすごいと感動していたポイントであるのだけれど、今回あらためてこれはやばくないかと思ったのは、語りなおし——というよりこの場合は演じなおしというべきか、そういう部分もいくつかある点で、つまり、そのエピソードはさっきAとBが演じたよねというところをほんのちょっとだけ巻きもどしてもう一度、たとえばCとDが演じなおすみたいなポイントがいくつかあったんだが、レイヤーの切り替えに応じて役者と役柄がその都度シームレスにとっかえひっかえされる、そしてそのような流れをいったんキャンセルするものとしてメタフィクショナルなレイヤーがリズミカルに挿入される、それだけでもう十分な発明だと思うのだが、それにくわえて部分的に重複するエピソードの語りなおし(演じなおし)が加わることで、「役者と役柄がその都度シームレスにとっかえひっかえされる」そのとっかえひっかえの組み合わせにも無数のバリエーションが存在することが強調される(ここでこの役者がこの役柄を演じることの必然性および特権性——ヒエラルキー——を順列組み合わせがキャンセルする)。だから、冒頭でいきなり第四の壁をぶちこわしてみせたところもふくめて、実は、「三月の5日間」というこの戯曲はベケットをめちゃくちゃしっかり継承していることになる。そのことに以前は気づかなかった。
 ちなみに、クロード・シモンがあの作風を発明するにいたったのは、たしかベケットの助言があったからではなかったか? そういうエピソードをどこかで見聞きしたおぼえがある。複数の時空間に対応した複数のカラーペンだか色鉛筆だかを使って小説を書けばいいとベケットがシモンに助言したみたいな話だったと思うが。

 以下は2014年1月31日づけの記事より。

 厠の窓から覗くと、鶏小屋の脇の壁のところに陣どって、せっせと藁をしごいている男がいた。雨の日でも同じ場所で同じ手仕事をつづけていたが、その俯き加減の面長な顔には、黒い立派な口鬚もあり、ちょっと、トーマスマンに似ていた。概して、この村の男たちの顔は悧巧そうであった。それは労働によって引緊まり、己れの狭い領域を護りとおしてゆく顔だった。若い女たちのなかには、ちょっと、人を恍惚とさすような顔があった。その澄んだ瞳やふっくらした頬ぺたは、殆どこの世の汚れを知らぬもののようにおもわれた。よく発育した腕で、彼女たちはらくらくと猫車を押して行くのであった。だが、年寄った女は、唇が出張って、ズキズキした顔が多かった。
(原民喜「小さな村」)

 上の引用について「このゴツゴツした描写、ちょっとムージルっぽい。「だが」で接続される最後の一行のリズムなんかもいかにもそれっぽい」と当時の日記に書きつけてある。最後の一行よりもむしろ「概して、この村の男たちの顔は悧巧そうであった。それは労働によって引緊まり、己れの狭い領域を護りとおしてゆく顔だった。若い女たちのなかには、ちょっと、人を恍惚とさすような顔があった。」というあたりのほうがむしろムージルだろう。ただし、ムージルが自作の人物描写でライバルであるトーマス・マンの名前を出すことだけは絶対にない。

 授業準備。日語基礎写作(二)の「(…)」と「(…)」を詰める。とりあえずかたちになった。あとは授業直前に見直すだけで十分。日語基礎写作(二)の教案はこれでいったん片付いた。
 夕食後はソファに寝転がってBuriedborne2を一度だけプレイするのがここ数日のならいとなっている。敗北したところで入浴。間借りの一室にてふたたび授業準備。今度は日語文章選読。「(…)」を詰める。「(…)」も途中まで。ちょっと前まではスケジュールにあまりゆとりがないぞとあせっていたが、このペースだったら冬休み中にもろもろ片付くだろう。新学期がはじまったらきっとまたバタバタすることになるので、授業準備は冬休み中に全部すませておきたい。
 夜は『落としもの』(横田創)の続き。『落としもの』のあとは『シンセミア』(阿部和重)を手持ちの文庫で再読、それと並行して日語会話(四)の授業準備を進め、それらが片付いたところで「実弾(仮)」執筆再開という流れをいまのところイメージしている。