20240203

 厨二病シニシズムは、子供っぽい純粋さを持っている。たとえば、高校生のぼくはボランティアなどすべて偽善だと思っていた。社会のためではなく、単なる自己満足。「他人からええように思われたいだけや」と。まさに「シニシズム」である。しかし、逆に言うと、シニカルな人間にとって、自分のすべてを費やすほど自己犠牲をしないかぎり、ボランティアを含めてあらゆる社会運動は「偽善」となってしまう。それではあまりにも理想が高すぎる。
 シニカルな人間はきれいごとをバカにするくせに、きれいごとを人一倍に信じているところがある。だからこそ、きたない私欲を持つことが「偽善」として許せなくなる。普通に考えて、人間は複数の動機を同時に持つものだ。きれいな願いも、きたない私欲も。人助けをしたい。自分がただやりたい。他人からええように思われたい。これらの動機は矛盾なく両立する。私欲だけがすべての動機ではない。清濁をあわせて呑めるようになってこそ、大人というべきではないか。
(綿野恵太『「逆張り」の研究』)



 12時半起床。白湯を飲みながら『シンセミア』(阿部和重)の第1巻を最後まで読む。父が大量の恵方巻きを手土産に帰宅する。即席味噌汁といっしょに食す。母と弟が近所に配るための恵方巻きをもってうちを出る。父は父でやはり恵方巻きを自身の兄——すなわち、こちらの伯父——のところにもっていくためにうちを出る。こちらは食卓できのうづけの記事の続きを書く。
 父が帰宅し、母と弟が帰宅する。母と弟はニトリで買ったという折りたたみテーブルをもっている。明日兄一家がうちにやってくる、そのときに全員そろって手巻き寿司を食う予定であるのだが、折りたたみテーブルがふたつではいつもスペースが足りないのでみっつめを買ったかたち。母の、たしかいとこだったと思うが、(…)(本名は知らない)が恵方巻きを回収しにやってくる。玄関で母と話す(…)の声がきこえたのか、居眠りしていた(…)が体を起こしてのっしのっしと玄関まで歩いていく。いつもそうらしい。(…)は(…)のことが大好きなのだという。今日は尻尾までふっていた。(…)にとってはいまや尻尾をふるのも大仕事だというのに。
 ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の日記を読みかえす。(…)さんの『手のひらたちの蜂起/法規』(笹野真)評、おもしろい。特に以下の部分。

引きつづきタイトルについて、もう一度、公式の言葉を忠実に読み返してみる。「収録されている詩には一切タイトルがない」とある。それを私は「詩たち」などとまるで収録されている詩が複数あるかのように決め打ちしてしまっていた。『手のひらたちの蜂起/法規』が1篇の長編詩である可能性は拭いきれないが、その場合、詩集のタイトルと詩のタイトルについてはどう捉えたらいいのだろうか。(詩集という語自体の複数性、集の字に含意される複数性は今回は無視して、詩の本=詩集という呼称で統一しとく。あとタイトルの複数の意味をつついた寄り道も控えておく。この詩集の詩人は「まったく無名の新人」、新人が名誉あるタイトルを獲得していくのはこれからのことだから)
収録されている詩が複数ないとも書かれてはいない。むしろ「一切」を複数あるそのすべてと捉えて読むのが本筋だろう。誰だってそうする、俺もそうする(虹村形兆)。しかしそうするとまた別の問題が現れる。詩と詩の区切り、タイトルが一切ない詩たちをどこで切り分けるべきだろうか。この詩集に収録されている詩は何篇あるのだろうか。白ページを切れ目とできるだろうか、ページをめくる手の回数を詩たちの数と数えられるだろうか、レイアウトの違いを区切りにできるだろうか、句読点で句切りをつけることができるだろうか。

 あと、以下のくだりで笑ってしまった。

(…)さんのブログにアマゾン利用に関して書かれてあったが、私の場合は完全に私怨一択でです。かなり昔に注文した商品が数か月モノが確保できないと言い訳を繰り返したあげく最終的にあちらから注文キャンセルされたという事あって、今は知らないが当時はアマゾンに電話する番号もメールするアドレスも載っていなくて、それ以降アマゾン利用はぎりぎりまでしないと恨み骨髄に決めたのでした。あと一回アマゾンプライムにステルス入会させられて、すこしだけ会員費を盗られたのはぜったい忘れんからな糞アマゾン!だからアマゾンは利用しないようにしていますが、楽天なんかはバンバン使っていたりします。リアル書店紀伊国屋はあきらかにお前これ一回落としただろみたいなぼろぼろの新刊を平気を並べてたり、そもそも狭いスペースに詰め詰めで並べまくってるから本のカバーがぼろぼろになってるのに未だに平気でいるその精神性が信じられない、いつまで紀伊国屋の看板にあぐらかいてんだつぶれてしまえ、と思うことも多々あります。

 それでちょっと思ったのだけれども、なにかをけちょんけちょんに腐すときの文章、(…)さんも毎回だいたいおもしろい(ずっとむかし、田中康夫のことをそれこそ「私怨一択」でけなしていた文章にめっちゃ笑った記憶がある!)。で、なにがどういうふうにおもしろいのだろうと考えたとき、やっぱり一人称「私」が肝になっているのかもしれないと思った。一人称「私」の一見丁寧な語り口にひそむ慇懃無礼っぷりというか、基本的に丁寧な文章のなかでときおりぬっとその文章のコードを逸脱する表現があらわれるみたいな、そういう意味でいえばそれこそいま再読している『シンセミア』も、文章そのものは平易であるけれどもところどころにやたらと硬い単語がおりまぜられているために登場人物らの内側からではなく外側から語っているように印象づけられるその語りが、ときおりその距離感に狂いをきたしたかのように、登場人物らを模倣するような汚い言葉遣いをすることがあり、その落差がかなり笑えるのだけれども、その印象とちょっと似ている。ずっとむかしに翻訳で読んだブコウスキーも一人称が「私」になっているもの、丁寧な言葉遣いで訳されているものがいちばんしっくりきた記憶がある(中川五郎の訳している『詩人と女たち』がたしかそういうトーンだったはず)。
 罵倒芸というと、たとえばTwitterなんかで鼻息荒くなっている一人称「俺」がイキりにイキったかのようにただ強いワードを並べているだけのを見ると本当に品がないしおもしろくもないなと思うし、その逆に、過度に堅苦しい文体でいわば「お上品」に罵詈雑言をくりだしているつもりの人間も(そういう人間はだいたい批判相手のことを「貴殿」と呼ぶ、そのせいでこちらは「貴殿」という言葉が嫌いになってしまった、もともと「貴殿」という言葉は小学生のときに『タクティクス・オウガ』経由で知って、なんやこれ! クッソかっこええ言葉やん! と思っていたのに)、使い慣れない言葉が浮いて浮いて死ぬほどダサくみえる。やっぱ緩急織り交ぜての度合いが大事。
 以下、2023年2月3日づけの記事より。初出は2021年2月3日づけの記事。内海健と綾屋紗月と熊谷晋一郎の鼎談(http://igs-kankan.com/article/2011/08/000460/)より。

内海 綾屋さんの体験の解像度は言語よりもきめが細かいですからね。言語はすごく暴力的じゃないですか。それについてぼくは、言語の入り方がちょっと違うのではという仮説を持っています。
 コンピュータの比喩を用いると、いわゆる定型発達と言われてる人種は、体験自体が、言語によって「フォーマット化」されているのですね。徹底的に言語によって構造化されていて、その外側に出るのは困難です。しかし発達障害の人の話を聞くと、どうも言語が一つのアプリとして「インストール」されているというか、道具のようなものとして装備されているんじゃないかと感じます。
 定型発達の人も、「言語って何?」と聞かれたら、ほとんどの場合「伝達のための道具」などと答えるでしょう。しかしすでに言語が経験に深く浸透しているというか、言語によって住まわれているといってもよいかもしれない。たとえば信号機の色だって“青”は「進め」ということになっていて、「あれは青じゃない、緑だ」といっても耳を貸さないですよね。すごく暴力的に経験を構造化しているわけです。これは発達障害の人とのすれ違いの大きなリソースになっているんじゃないかな。
熊谷 ロボット研究の浅田稔先生と綾屋さんが対談をしたときに、浅田先生はパースという人を引用して、記号を「アイコン」「インデックス」「シンボル」に分け、それぞれ記号とその指示対象との参照関係が違うのだと整理されました。
 アイコンはその指示対象と相似性で結ばれている。インデックスは時空間的なので相関性で結ばれている。例えばベルが鳴ればご飯が出てくるというように、学習によって結びつけられる記号とその対象物のつながりです。シンボルは恣意的というか、記号とその対象物の関係は、人と人との約束事できまっている。そして言語はシンボルに相当するものだとおっしゃっていました。ロボットを作っていると、インデックスまではいけるがシンボルまではなかなか到達できないという話をされたんですね。
 浅田先生は一貫して、発達障害とロボットがすごく近いところにいるんじゃないかという前提を置きながら話されていたのですが、そのときに綾屋さんがおっしゃったのは、シンボルとインデックスの間に大きな壁があるとしても、その壁は実はそんなに自明な壁ではないのではないか、ということでした。たとえばパブロフの犬の条件づけの実験で、犬にとって「ベル」と「えさ」は、自分のあずかり知らぬところで決まる相関関係なのでインデックスですが、実験計画者からすると、それはベルでなくてもよかったわけですから自分で恣意的に決められたシンボルだというわけです。そうすると同じ「ベル」という記号が、人から見るとシンボルで、犬の立場からするとインデックスになる。結局、シンボルとインデックスの境目を決めるのは、「参照関係を改変する権利」みないなものではないかという話でした。
 その関連で綾屋さんは、自分が言葉を使うときに、言葉とその意味が固定的につながっていないとすごく不安になって焦ってしまうという話をされました。言葉に限らず、部屋のレイアウトにしても、綾屋さんはそのレイアウトでなくてはならない必然性を感じるのに、他の人は何気なくレイアウトを変えてしまうのでパニックになってしまう。多くの人がシンボルのレベルで捉えていることを、自分はインデックスに近いレベルで捉えがちなのではないかというふうに綾屋さんが応答したのです。そのときに対談相手の浅田先生がすごく面白がっておられた。これもさっきおっしゃられた、言語のインストールとフォーマットの違いとどこかで関係しているのかなと思うのです。

熊谷 健常な人たちは、世界はだいたいこういうものだろうと根拠なく地平を切っているということですね。
 一方で、これは村上先生が書いておられてなるほどと思ったところなんですが、パースペクティブに現れ出ていない隠れた部分に対して、それをどのようにとらえるかという問題もありますね。その例として村上先生が挙げられているのが、綾屋さんも先ほど述べられた「奥行き知覚」の話です。「奥行き知覚」と「未来」と「他者の心」の3つで共通しているのは、パースペクティブに現れていない隠れた部分に対してその存在を信じて名付けたものだという点です。
 たとえば奥行き知覚に関していうと、手前にコップがあって、向こうにおしぼりがあるというときに、コップはおしぼりの一部を遮閉しているけれども、コップの裏にはきっとおしぼりがあるはずだと信頼している限りにおいて、奥行き知覚が可能になる。その信頼がなくなると、単なるフラットな奥行きのない世界になる。手前のものが奥のものを遮断しているからパースペクティブに現れていないだけであって、その遮断がなくなれば奥のものは現れるはずだという信頼、見えないけれどもそこにあるという信頼がないと奥行きは成り立たないんじゃないかという話です。
 同様に未来も、必ずやって来るものとして信頼しているから、それを想定できる。他者の心についても、現実には行為しかパースペクティブに現れないんだけれども、きっとその背後にそれを突き動かしているものがあるに違いないと信じている。いずれもパースペクティブの中に入らない何かを無根拠に信頼していることによって、可能になる世界観のようなものですね。
 この3つは、自閉症スペクトラムのなかで不得意とされがちなことです。もしかしたら根本にあるのは、「見えない領域への信頼」であるとか、あるいは「自分が見ている世界は世界のすべてではないのだ」という無知の知みたいなものへの実感の希薄さなのかもしれない。このような仮説については、本当なのかどうかわからないので綾屋さんと私はいまのところ保留しています。
 立教大学河野哲也先生が「全体と部分」という分け方をもとに、定型発達者がその存在を信じて「心」と呼んでいるものが何なのかについて、解説してくださったことがあります。河野先生は、実在するのは行為だけで、多くの人が心だと思っているものは綾屋さんの言う全体パターン、つまり諸々の行為が織りなす全体像のほうに対応しますと述べられました。だから、先ほどのPTAの例が示唆するように、引きで見ないと「心」は見えないとおっしゃるんです。
 河野先生は、さっき述べた3つの中で「他者の心」に関しては、それが他者の「中」に実在するという考えを批判されたのですけども、綾屋さんの仮説である「全体が見えにくい」という特徴記述には同意され、さらにその「全体」とは、実際にはパースペクティブに入ってこない、不可知のものまで含んでの全体であるという立場だったんです。そうすると実際に見えているパースペクティブが全体なのではなく、無根拠な信頼を元手に、裏とか未来とか心とかいった隠された部分も含めてパースペクティブとしてみているのが、もしかしたら定型発達なのかもしれません。

 その後は終日書見。『シンセミア(1)』の続きを読み、『シンセミア(2)』(阿部和重)もぶっ通して最後まで読む。徹底的に貧しい内面。クリシェですらなく紋切り型ですらなくほとんど記号的とすらいっていい原理で動く機械仕掛けの人物らが、ラプラスの悪魔のように出来事を連鎖させていく。内面だけではなく描写もほぼ存在しない。叙述だけがある。この「貧しさ」はやっぱり発明だったのだろう(そしてその貧しさの極点にあるのが『クエーサーと13番目の柱』なのだろう)。阿部和重の作品は取り扱う風俗であったり筋書きであったりがエンタメ的であるため、ふだん純文学を読まない層にもおそらくリーチしうるのだろうけれども、逆にいえば、エンタメばかり読んでいる層には、たとえばこの内面および描写の不在がどれだけラディカルな試みであるかということは伝わらず、そういう意味で表面的な——断じて「表層的な」ではない!——評価を下されがちになってしまうというアレがあると思う。保坂和志阿部和重もそういう意味でよく似ている。その発明が発明として見えにくい。でもやっぱり発明なのだ。それもかなりデカい発明だ。
 あと、大麻でキマッた状態を表現するのにタイポグラフィを利用している箇所があり、というのはつまり、会話相手のセリフのフォントサイズが一部馬鹿みたいにデカくなったりしているということなのだが、ざっと読んでみた感じ、フォントサイズが変更されている箇所とそうでない箇所とのあいだになんらかの選別基準が働いているようにはみえなかった(つまり、ランダムだった)。それでちょっと思ったのだが、この手法を踏まえて、ガンギマリの勘繰りモードにおちいった状態を、勘繰り対象のキーワードのみフォントサイズをデカくするという方法であらわすこともできるのではないか。「実弾(仮)」でちょっと試してみようかなと思ったが、いやあの作品の語りではちょっと変になってしまうか。
 夜、母が団地の会議に行った。自治会の会長を決めるためのくじ引きが行われたらしい。会場職は忙しい。いちおう手当も出るには出るのだが、年間で数万円、全然割に合わない額だという。それでみんなやりたくないその会長職をくじ引きとはいえ一年やってくれる人間にはやはりそれ相応の報酬を出すべきではないか、自治会費から出してもいいんではないかという話になり、というか厳密にいえば前回の会議でそういう話になりかけたのが流れた、そこで今日その会長職を引き受けている人物の息子さんからあらためて母のところに、自分の立場からそういう提案をするのはいろいろ体裁が悪いので話をそういう方向に持っていってくれないかとたのまれた(母は会長職のしんどさをしっているために絶対にやりたくない、しかるがゆえにくじ引きが行われる前にみずから立候補して副会長になることにした、副会長の仕事はそうしんどくはないししかもふたりいる)。母は会議の場でくだんの案をあらためて出した。案は通った。ずっとむかしおなじような提案があったことがあると年長者がいった。しかしそのときは長老のような人物らがじぶんたちが役員だったころには手当などなかったといって突っぱねたのだという。そんな長老らなんて放っておけばいい、じきにいなくなるのだから、と会に参加していただれかが口にし、みんな笑った。本当にそのとおりだと思う。
 でも本当は、なんらかの悪習が目の前にあるとき、その悪習を支持する人間たちが死んでしまう前にはっきりとおかしいことはおかしいと言うべきなのだろう。というか、そういうことを言える社会のほうが健全なのだ。別の言い方をすれば、なぜそんな連中が死ぬまでのあいだじっと我慢していなければならないのかということだ。こういう構図はいたるところにある。もう一年以上前になるが、(…)さんとふたりでカフェでメシを食っている最中にフェミニズムの話になり、中国の男性はこれこれこんなふうに終わっていると語る彼女に対して、でも若い世代はずっと良くなっているでしょ、意識が変わってきているでしょ、鬱陶しい連中は放っておいてももうすぐ死ぬよと応じたところ、でもわたしはそれまで待ちたくない! とはっきり言われ、あのときはじぶんの放言をちょっと恥じたのだった。弱者に我慢を強いる側の論理に立ってしまったな、と。