20240206

 政治的に無知な人は、富裕層よりも貧困層に多い。もちろん、彼らが政治的な知識を持てないのは、社会的に不利な条件に置かれているからだ。生活に余裕がない。コミュニティから独立している。十分な教育を受けられない……階級の問題である。「こんな社会はおかしい」と声を上げることは正しい、とぼくは思う。しかし、彼らの主義主張が正しいとは限らない。もしかしたら、もっと悪い社会を求める可能性もある。
 政治的無知に関する研究を踏まえると、「弱者」の主義主張はメチャクチャになる可能性が高い。だからといって、彼らへの加担を止めるべきではない、とぼくは思う。第3章で「最低の鞍部で越えるな」という言葉を引用して、理想的な「批判」を語ったが、それになぞらえるとこうなる。つまり、言論において味方として加担するならば、もっとも低い「鞍部」ではなく、もっとも高いところで加担せよ。加担する味方の主義主張を、味方が気づいていない部分まで、最大限にその射程を伸ばしたうえで加担する。逆にメチャクチャだからこそ、優等生の「常識」を突き破った主義主張に化けることもある。
(綿野恵太『「逆張り」の研究』)



 12時半起床。起床時刻が徐々に、徐々に徐々に、遅くなりつつある。やばい。寝不足状態で丸一日かけて長距離移動するあのしんどさをもう味わいたくない。いや、別に移動時間の大半は寝て過ごすのだから、別にそれはそれで問題ないのだが(特に次回のフライトは空港での乗り継ぎ待機時間が四時間ほどあったはず)、でもやっぱり快適ではないのだ。
 ここ数日、なんでかわからんのだが、『聖剣伝説2』のBGMであるところの“Prophecy”があたまのなかを流れることがある。子どものとき、たしかにこの曲はかっこいいと思ったし、というかYouTubeにあがっているものをいまきいてもやっぱりかっこいいと思うのだが、なぜ突然あたまのなかで無限リピートがはじまったのかは不明。しかしゲーム音楽のタイトルに“Prophecy”はかっこいいな。日本語タイトルは「予感」となっているけれども、原義に近いのはむしろ「預言」とか「天啓」とかそういうニュアンスであるはず。『聖剣伝説2』の楽曲タイトルにはほかにもかっこいいものがあって、たとえば、「天使のおそれ」(これはもちろんグレゴリー・ベイトソンが元ネタだろう)とか「子午線の祀り」(これは木下順二の戯曲だろう)とか、そういうのが一種の小ネタとして、目配せとして、ゲームなんてものは子どものするものでしかないと言われていた時代のコンテンツにひっそりと挿入されている、そういうところにぐっとくる。投げ便通信だよなと思う。『ブレスオブファイア2』のラスボスであるデスエバンは最終決戦前、主人公たちのことを突然「ニカノル」と呼びはじめる。そして「ニカノル」とは死者の名前であると告げるのだが、この唐突な命名がゲームをプレイしていた小学生当時、まったく理解できなかった。理解できたのはそれから二十年近く経ったころだ。(…)くんの猛プッシュしていた『族長たちの秋』(ガルシア=マルケス)を読んでいると、不意に、「ニカノル」という一語に出会ったのだ。そのことを当時公開していたブログに書くと、通りすがりの方からコメント欄に、『ブレスオブファイア2』のエンディングロールに、スペシャルサンクスという扱いだったと思うが、マルケスの名前があげられていたという報告があった。
 朝食兼昼食はラスクとコーヒーですませる。食卓にてきのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読みかえす。以下、1年前の記事より『やってくる』(郡司ペギオ幸夫)の一節。初出は2021年2月6日づけの記事。

 脳科学におけるミスマッチという説明は、次のようなものです。
 意識的な論理的判断の情報処理は正常で、無意識的な感覚に関する情報処理のほうが損傷を受けている。つまり、顔は正しく認識できるが、親しみの感覚などが失われる——これが、脳科学によるカプグラ症候群の説明です。逆にフレゴリー錯覚は、意識的な論理的判断のほうの情報処理が損傷を受けており、感覚に関する情報処理のみ正常に機能する、と説明されます。
 このように脳科学では、カプグラ症候群とフレゴリー錯覚は対称的に考えられていますが、両者ともに「認識と感覚のミスマッチ」として理解されていることがわかります。
 しかし前述のように、ミスマッチは、正常と思われる日常生活でもつねに起こっている。それは無視され、隠蔽されるだけで、つねにあるのです。私は、カプグラ症候群やフレゴリー錯覚をミスマッチで理解しようとする説明は、大事な問題を取り逃がしていると思います。その大事な問題とは現実感=リアリティです。
 正常と思われる判断では〈認識する〉と〈感じる〉がマッチし、ここにミスマッチが起こったときだけ異常な認知現象が起こる——こう考えるとき、一つひとつの判断は「認識する=感じる」であり、ここにはいかなる剰余、いかなる遊びもありません。人工知能における判断と同じで、その判断以上のものが付与される余地など一切ないのです。
 しかし私はこう考えます。〈認識する〉と〈感じる〉の間に、ミスマッチがあるからこそ、そのミスマッチを伴う判断固有の現実感がもたらされるのだと。現実感は、〈認識する〉と〈感じる〉のずれ=スキマ=ギャップにやってくる外部を想定しない限り、理解できないものなのだと。
(…)
 〈認識する〉と〈感じる〉のミスマッチという理解は、マッチすることが正常であることを前提として両者のずれを理解するだけです。ずれがあって一致しない場合も、両者の重なった全体を考えるだけで、それ以上のものは考えていない。
 そうではなく、〈認識する〉と〈感じる〉の間に、想定もしていなかった外部が介入してきて、両者をなんとかつなごうとしている。かといって、つながりが完成することは決してない。そこに生じるダイナミックな関係こそが、実は私たちがリアリティと呼んでいるものを作り出しています。
 外部とは、認識や感覚を通常司る脳の領域以外の部分や、身体外部のものでさえある「さまざまな何か」を意味するでしょう。それらがそのつど動員され、リアリティをもたらしているのです。
(郡司ペギオ幸夫『やってくる』 p.71-74)

 授業準備。日語会話(四)で行う予定のディスカッションのテーマやルールについて少しだけ考える。じきに(…)を(…)川に連れていく時間になる。(…)はろくに歩けもしないのに、われわれがいそいそと外出準備をしはじめるとじぶんも立ちあがり、部屋をうろうろとしはじめる。こんなによぼよぼになってもやはりドライブは好きなのだ。今日はフレンチブルの(…)ちゃんと保護犬の(…)&(…)と会った。それにくわえて、両親はすでに何度か会ったことがあるという話だったが、こちらは初顔合わせとなる柴犬とポメラニアンのミックスである(…)にも会った。孫がふざけた名前をつけたので最初は戸惑ったが、いまはもうすっかり慣れたと語る飼い主の男性は以前(…)小学校の教員だったという。(…)&(…)の飼い主である(…)さんに(…)の話をすると、お隣さんであるという返事があったので、(…)もやっぱり保護犬だったのかとたずねたところ、肯定の返事。
 夕食後はひさしぶりにソファで仮眠。入浴後、ストレッチをしながらTEDの動画を二つほど観る。これ、たしかにリスニングの素材としてはちょうどいいかもしれない。
 予定よりすこしはやくなったが、いい加減ムラムラしてきたので、「実弾(仮)」第五稿執筆再開。中国を発つ前に片付けておいたシーン17を読み通す。苦手意識のあるシーンであるが、まずまずよく書けているのではないかと判断。軽い修正にとどめる。そのままシーン18も通す。大きく修正する点はない。ただ、このままであるとちょっと物足りない感じがしないでもないので、垂直に立つするどい記述をふたつほど加えたい。
 夜食はカップそば。朝方まで『シンセミア』(阿部和重)の続きを読み進めて就寝。