20240207

 読者を納得させる理屈が思いつかないので、わからなければ感性が違うんだと聞き流してほしいのだが、「盗人にも三分の理」と言うときの三分の理みたいなものにどうしてもひかれてしまう。遊び人、怠け者、ならず者、不届きもの、タダノリする奴、フリーライダー、ごまかすひと、一貫性がないひと、恩知らず、だらしないやつ、起きられないやつ、座ってられないやつ、働かないやつ、すぐ怒るやつ、すねるやつ、勉強できないひと、粗暴なやつ、モラルがないやつ、努力しないひと、反省しないひと、損得勘定のないやつ、借金を踏み倒すやつ、他人の話をまったく聞かないやつ、逃げるやつ、誠実さがないひと、でたらめをいうひと、不審者……みたいな社会から安心、尊敬、信頼されないひとにどうしてもひかれてしまう。資本主義の恩恵を受けているにもかかわらず資本主義は耐えがたいといい出すクズも好きだし、自分の意見が通らないとなると議論のアリーナ自体をぶっ壊そうとするやつも、まあダメだとは思うけどちょっとひかれる。
 誤解しないでほしいのは、いわゆるヤクザといった「アウトロー」にはあまり興味がないのだ。日本で一番大きなヤクザの山口組トップが、実際に暴力を使うこともあるから「暴力団」という名称は認めたものの、「反社」(反社会的集団)と呼ばれることをすごく嫌がったという話がある。裏社会を仕切っている点で、あくまでも社会の一員として貢献しているわけである。しかも、そういう集団は表の社会に対抗しようとして、社会の悪いところだけを煮詰めたような、もう一つの社会を作ってしまう。オレオレ詐欺の集団にはノルマやタイムカードがあったり、「ブラック企業」顔負けの会社組織となる。
 表と裏のどちらの社会からも安心、尊敬、信頼されない人々、本当の意味で反社的なひとに興味があるわけだ。
(綿野恵太『「逆張り」の研究』)



 朝方、(…)が庭でワンワンやかましく吠える声で目が覚めた。父が草むしりでもしているのだろう。耳栓をしていてもうるさい。イライラしているところにちょうど母が入ってきたので、あいつを部屋に入れてやってくれ、うるさくて眠れないと文句を言った。
 騒音関係でイライラして二度寝したときはきまってそうなるのだが(つまり、これも一種の不貞寝みたいなものだと思うのだが)、がっつり寝坊した。起床したのは13時だった。早起きを要する出国当日まで二週間を切っているのにこれはまずい。階下におりると、今朝(…)が死んだのかと思ってあせったと母が言った。8時になっても布団の上で横たわったまま起きてこない、呼びかけても目をつむったままであるし腹も動かない(呼吸をしているようにみえない)、それであせってこちらを呼びにいこうかと思ったのだが、その前に耳元で「ごはん!」と呼びかけてみたところ、ぱちりと目をひらいてのそのそと起きだしたということだった。母はその話を深刻な顔つきでした。いや、笑い話やろ。
 ここ一週間ほど連絡のなかった(…)さんからひさしぶりに(…)の写真がとどいた。ちょっと安心。冬休みに入ってからというもの、ほとんど毎日のように送られてきていた愛犬の写真がぴたりと停止、ということは(…)の体調がまた悪くなったのではないか、あるいは彼女自身のメンタルがまたまずいことになったのではないかとちょっと気になっていたのだが、そういうわけではなさそうだ。春節前でいろいろバタバタしているのかもしれない。あるいは元カレと二度目の復縁を果たしてデートでもしていたのかもしれない。
 メシはラスクと白湯で簡単にすませる。コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の日記を読み返す。以下、2023年2月7日づけの記事より。初出は2021年2月7日づけの記事。

 〈認識する〉と〈感じる〉のミスマッチは、ミスマッチという段階で完了するのではなく、両者の間にずれ=スキマ=ギャップをもたらし、そこに外部を召喚する。(…)私たちが日常的に感じるリアリティもまた、それと同じ仕組みで外部からやってきたと考えられます。(…)
(…)
 私は、パジャマのような服を着せられた「ねこ」を見たことがあります。それは年老いて毛艶も衰えたねこで、一見すると猫か猫でないか判然としないほどでした。ここでは、現実に存在する目の前のネコを平仮名で「ねこ」と、抽象的な概念としてのネコを漢字で「猫」と表しています。つまり〈感じられる〉ねこと、〈認識される〉猫、です。
 さてここで、「ねこ」がどのように「猫」と判定されたか、思い出してみます。
 まず、縞模様なので「猫である」と判定されました。まれに鳴く声もやはりニャアと聞こえ、「猫である」と判定できる。しかしそのパジャマの着方は堂に入ったもので、まるで人間が着ぐるみを着ているようにも見える。この限りで「猫ではない」と判定できる。また力のない体毛はいたるところで渦を巻き、まるで乾燥した苔のようです。そうするとやはり「猫ではない」と判定できるのです。
(…)
 この多様な属性に関する判断はいずれ打ち止めとなり、そこで「猫である」か「猫でない」かの最終的判断が下されることになります。たとえば、「猫である」とする判定が多数を占めたからとか、猫にとって本質的と思われる属性に関して「猫である」と判定されたからとか、そのような理由で最終的に「猫である」と判断された、ということになりそうです。
 しかし判断すべき属性の数は無限にあります。そのちょうど都合のいいところで判断をやめ、多数決で決めたとも言えます。ならば属性の数を増やせば結果は変わるかもしれません。判断をもう少し繰り返せば、猫にとってもっと本質的である属性が見つかったかもしれません。そうなるとやはり、最終判断は変わったかもしれない。
 つまり、判断すべき属性の数を有限で打ち切ることでなされる「猫である」という最終判断は、「猫である」と判断したいがために属性の列挙を止めた判断、とも言えてしまう。最終判断は、きわめて恣意的で無根拠なものとなってしまう。するとこう言えるでしょう。
 「猫である」と「猫でない」の両者をともに対等に満たしながら、ただ、
 
「猫ではない」というよりはむしろ「猫である」
 
という程度に「猫である」と判断されたにすぎない、と。
(…)
 この議論が年老いた猫にのみ起因する特殊なものではなく、決して一般性を失わないことは明らかでしょう。どんなものであっても、「Aである」と判断しようとすると、「Aである」と「Aでない」の両方が成立してしまう。普通に考えたら決定不能に陥ります。にもかかわらず、《「Aでない」というよりはむしろ「Aである」》という程度に、「Aである」と決定されるのです。
 ではどのように、この「〜というよりはむしろ」を考えればいいのでしょうか。「Aである」と「Aでない」が両義的であるにもかかわらず、決定不能に陥らず、いずれかに最終決定されることをどう理解すればいいのでしょうか。
(…)
 私たちが判断を迫られるとき、注目される文脈が用意されている。たとえばここでは、目の前にいる「ねこ」が猫か犬かの判断を迫られているわけです。この注目されている文脈、つまり「猫か犬」文脈においては、ねこは猫であると判断される。縞模様やニャアという鳴き声は、犬ではないという意味において、猫でない可能性がないのです。「猫か犬」文脈において、「猫でない」は犬を意味してしまいますから、犬でない以上、猫でない可能性は排除される。
 しかし、苔かもしれない、人かもしれない、という意味での「猫でない」可能性も本来はあるはずです。それらがどこへ行くのかというと、「猫か犬」文脈の外部に位置付けられ、無視されるのです。文脈外部に追いやられ無視されるというのは、完全に排除され、消え去ってしまったわけではありません。存在するのにただ無視されるだけなのです。これが、「〜というよりはむしろ」の意味ということになります。
(…)この文脈だけが世界に存在し、それ以外は何もないのなら、この文脈に対する疑いや懸念は一切伴わないでしょう。文脈の外部は存在しないことになります。しかし「猫か犬」文脈が孤立していないことに対する無意識の受動的知覚が、「何か足りない」という無意識の能動的叫びを喚起し、外部に追いやられたはずの「猫でない」可能性をぼんやりと伴わせてしまうのです。
 この潜在する「猫でない」可能性こそが、「猫である」という一つの判断にリアリティを与えるものになる。それは「猫である」と確定しながら、その判断に自身を持てない不安感であり、「猫である」と断定しながら、同時にそのあまりに猫らしくない部分に感じられるおかしみであるのです。潜在する「Aでない」の有する力こそが、「Aでないというよりはむしろ」を表現し、「A」のリアリティを立ち上げているのです。
(…)
 哲学者ライプニッツは、「物事にはすべてそれが存在しない、というよりはむしろ、存在する理由がある」という根拠の与え方として、充足理由律を提唱しました。
 何か論理的な展開、哲学的思惟を進めるときの前提Xは、「XでないというよりはむしろXである」という程度に保証される。だとするとそれは、いつ転倒するかわからない。その転倒の可能性を指摘したのが、近年哲学の新しい潮流として捉えられている思弁的実在論や、新しい実在論です。
 しかし転倒の可能性は、数学や哲学の根本的な部分にだけあるのではなく、日々の私たちの知覚、認知のすべてにあるのです。私が言いたいのは、決定不能性をギリギリ回避しながらも担保される「AでないというよりはむしろAである」の持つ危うさ、ではありません。転倒する可能性だけを危惧していては、まるで空が落ちてくることを心配する者のようです。そんなことはどうでもいい。
 私が強調したいのは、「AでないというよりはむしろAである」は、「AでありながらもAでないを潜ませている」ことであり、その潜んでいるものこそが、リアリティと考えることができるという点です。心配ではなく、リアリティを立ち上げるための肯定的表現として、議論を押し広げることができる。外部を考えるとき、リアリティを積極的に取り込んだ形で、知覚や認知、意識や心を構想できるのです。
(郡司ペギオ幸夫『やってくる』 p.77-83)

 それから、以下は2014年2月7日づけの記事より。

いつからかブログをじぶんのドキュメントという意識で書いているところがあって、というのはどういうきっかけからかあるいはこれといったきっかけなどなかったのかもしれないけれどもとにかく、その日その日の気分を書くのと同じくらいのたやすさでその日その日の考えも書いてしまっていいんでないか、感情の変転は当然と見なされてあるのに思考の変転は許されないみたいな圧力があるのはどうしてだろうかと疑問に思ったことがあり、思考というのは書きつけられたとたんに「思想」として見なされるようになりそしてその「思想」は持ち主の生涯をとおして首尾一貫していなければならず推敲・削除・加筆されることにでもなればたちまち「転向」という大げさな言葉遣いで指弾されるにいたる、こうした諸々がぜんぶおかしいんでないかと、そういう疑問からもなるべく矛盾をおそれずにじぶんの考えを書こう、「悲しかった」「楽しかった」「腹が立った」「超絶ハッピーだった」「クソイライラした」と同じぐらいの軽さでその日その時の思考を、なんだったら「思想」の大文字のもとに書き連ねていってやろうと、こういえばけっこうものものしい言い方に聞こえるけれどもとにかくそういうアレで過去の記述にしばられずに書いているつもりであるしその目論みはある程度うまくいっているように思うのだけれど(すなわちこのブログを通して読んでみるとじぶんの主張(それが主張と呼べるのであればの話だが)の二転三転していることがわかるはず)、ただこの意識が勝ちすぎると今度はかえって積極的に矛盾してやろうという恣意のたった傾きにおちいってしまうところがあって、ドキュメントというのはけっこうむずかしい、思ったことをそのまま書くというのははなはだしい困難であるなと思う。四年前五年前のブログにはたぶんいまとほとんど同じようなことも書いてあればいまのじぶんからしたら到底納得も共感もできないことも書いてあるんだろうけれどそれらをして変わったなと思うか変わらないなと思うかははっきりいってジャッジする側の人間のそのときの着眼次第みたいなところがあるだろうから一概にどうのこうのいえないだろうけれども、ただごくごく一般的な世論としてはなにごとも変わらないほうがよいとされているところがあってその不変を肯定的に評価する語に、というかその語の有する肯定的な響きのために不変が善いこととされるみたいな方向のほうがより正確なんだろうけれども、たとえば「本質」とか「根っこ」とかあるいは「三つ子のたましい百まで」みたいなのがある。そういうのもちょっと気にくわないというのがあってそれで一時期はやたら「変化」とか「変身」とか「変成」みたいなことばかり口にして書き記してしていたのだけれど最近はそんな物言いにも飽きてきて、というのもそういう言葉遣いをするひとがここ数年ですごく増えたような気がするからで(文学とか哲学の分野では「変身」の顕揚なんてものはとっくの以前から手垢のつきまくった一思考様式でしかなかったのだろうけれどもそれがここ数年でもっと広く一般的な領域にゆっくりと雪の降りつもるように降下しじわじわ浸透しはじめたという感触がある)、と、こう考えるとじぶんはじぶんなりにこの社会との緊張関係のもとに思考を練りあげているんだなと思わなくもない。

 今日づけの記事をここまで書くと時刻は15時。授業準備にとりかかる。日語会話(四)でやる予定のディスカッションの流れをシミュレーションしたりテーマを用意したり。こればかりは実際にやってみないとどうなるかわかったもんじゃない。とまれ来学期の授業準備はこれでおおむね片付いた。冬休み中にやるべきことは残りわずかだ。
 (…)を連れて(…)川へ。(…)&(…)と会う。(…)&(…)はもともと保護犬であるし、(…)のほうは特にけっこうしんどい虐待を受けていた犬らしく、コロナ禍のただなかではじめて会ったときはまだ見知らぬ人間に対して距離があったのだが、今日は全然そんなふうでなかった、やたらとひとなつっこかった。それにくわえて、ふだんは(…)との相性がそれほどよくないという話だったのに、今日はおたがい鼻と鼻をくっつけるほどに接近した(しかしのちほど(…)がマズルに皺を寄せてグルルルとうなった)。
 夕食後、ソファに横たわって『シンセミア』(阿部和重)の続き。途中で寝てしまう。入浴後も書見のつもりだったが、執筆したい気分になったので途中で切りあげ、23時半から1時まで「実弾(仮)」第五稿。シーン18の商店街の描写を加筆修正。ついでにChatGPTでいろいろためしてみたが、たとえば商店街の描写を手助けしてもらうにしても、「(小説の)描写」というワードは使わないほうがいい、そういうワードを用いたプロンプトだと悪い意味で「文学的」な文章が生産されてしまうようだ。それよりは舞台をこまかくしっかり設定したうえで、そこからなにがみえるか、なにがきこえるか、どんな香りがするか、思いつくかぎり箇条書きでピックアップしてくれみたいに指示したほうがいいのかもしれない。
 夜食をとるために下におりると、(…)がちょうど庭で用を足して部屋にもどってきたところだった。母曰く、介助なしで出ていき、介助なしでもどってきたという。昨日今日とうんこがちょっと軟便気味だったので、スマホを懐中電灯代わりにして庭に出てみたところ、ものすごく大量のうんこが漫画みたいに湯気をたてて積み重なっていたが、やはりちょっとやわらかいようにみえる。それにうっすらと膜が張っている。(…)は滅多に腹を下すことがない。14年生きてきて、明確に下痢になったのは一度か二度だけ。だからちょっとでも軟便気味であると、これはいったいなにごとだろうと不安になる。ここ数日の食事の変化といえば、(…)のところにもらった高級ドッグフードをいつものやつに少し混ぜるようになった点のみ。とりあえずそのドッグフードはやめておこうかとなった。
 寝床に移動後、『シンセミア』(阿部和重)の続き。最後まで読み終えた。やっぱりたいそうおもしろかった。そのまま『コーダの世界 手話の文化と声の文化』(澁谷智子)にとりかかる。