20240209

 批評家の東浩紀さんは二〇〇〇年代に配信していたメールマガジンの鼎談で差異化ゲームの問題点について興味深い指摘をしている。ぼくなりに要約して紹介しよう。
「思考や解釈のメタゲーム」(メタ視点に立つための、差異化ゲーム)には多くの人がうんざりしている。そのために「思考や解釈のメタゲームを止めてくれるような特効薬」が求められている。そのひとつが、「泣いた」といった「感動」である。たとえば、映画やアニメを見て「これがおもしろい」といった「感想」を述べると、「別の視点もあるでしょう」とツッコミが入る。「感想」はあくまでもミニマムな解釈だから、すぐさま相対化されて「思考や解釈のメタゲーム」が始まってしまう。対して、「泣いた」という「感動」は「身体的な体験」であって、「シンプルで強力な反論不可能なもの」である、と。そして、もう一つ「思考や解釈のメタゲーム」を止めてくれる「特効薬」が、「アルゴリズム」や「工学」的な知である。思考や解釈を主とする人文学やポストモダン思想を毛嫌いして、「自然科学的な言説への無条件的な信頼」としてあらわれている。このようにメタゲームを止めてくれる「シンプルで強力な反論不可能なもの」が「身体レベル」「脳レベル」「工学的なレベル」で出てきている、と。
 二〇年近く前の文章だが、いままさにそのとおりになっている。最近では「傷つく」とか「傷ついた」という言葉がよく使われる。「傷つく」も「反論不可能」な「身体的な体験」である。「傷ついた」という「身体的な体験」を他人が解釈すれば、ハラスメントだと言われる。「傷ついた」かどうかを決めるのは当事者だし、その解釈ができるのも当事者だけである。周りの人間に許されるのは、「共感」や「同情」を寄せることだけだ。そこに感情を動員するポピュリズムが組織されるわけである。
「自然科学的な言説への無条件的な信頼」とは、いまでいうところの「エビデンス主義」のことだ。もちろん、エビデンスやデータを重視するのはいいことだ。だが、大半の人はデータを調べたり論文を読んだりして物事を判断していない。自分が所属するコミュニティの「常識」を流用しているのがほとんどである。もしくは「遺伝子が——、脳が——」といったそれっぽい話に飛びついたり、プレゼン資料みたいにわかりやすくデザインされたグラフを見て「エビデンス」と言っているだけだ。
 また、アニメやマンガの「考察」を「特効薬」に加えていいかもしれない。「考察」は「批評」や「解釈」と似ているように見える。しかし、「考察」は作品における「事実」(複線)に基づいて、作品の背後に隠された設定や今後の展開を明らかにする。作者が語った意図や狙いも絶対視するので、作者の想定に反するような批評や解釈が許される余地はない。人々が抱いた「感想」や、作者の主張にさえツッコミを入れる批評や解釈はめちゃくちゃ嫌われることになる。
(綿野恵太『「逆張り」の研究』)



 きのうづけの記事に書き忘れていたこと。三年生の(…)さんから例によって(…)の写真が送られてきたのだが、そのなかに彼女と妹と(…)の3ショットがあった。先学期末、妹との関係がはなはだしく悪化し、自殺するだのしないだのという話になっていたわけだが、少なくとも現時点ではある程度まで関係修復したということか。あとは(…)がいつもひとの食べ物を盗み食いするとか、ほかの犬となかなか仲良しになれないとか、そういう相談もあった。
 それから、『ローベルト・ムージル 可能性感覚の軌跡』からの引用。これは2023年2月8日づけの記事に引かれていたもの。これを読んだとき、ふと、中国に『ムージル日記』を持っていこうかなと思った。

 ムージルの本は生きているあいだに三五〇〇〇部も売れなかった。(…)もはや自分と時代をおなじくする人びとには、読んでもらえないという結論に達したあとのムージルに残されたのは、後世に望みを託すことだけだった。「トーマス・マンや似たような連中は、そのへんにいる人びとのために書く。わたしは、今いない人間のために書く!」(…)。
(オリヴァー・プフォールマン/早坂七緒、高橋 完治、渡辺幸子、満留伸一郎・訳『ローベルト・ムージル 可能性感覚の軌跡』)

 正午起床。セカストに出向く予定。母がついでだからと押し入れのなかにたまっている引き出物などを取りだす。皿、コーヒーカップ、草履、子どもの日の兜と刀、ミキサーなど。すべて車のトランクに積みこむ。
 母の運転でまず郵便局へ。手持ちの二十万円を口座にふりこむ。口座に紐づけてある電話番号を確認すると、数字をひとつ誤入力していることが判明。修正する。のちほどビットコインイーサリアムの積立登録をしたが、やはりアホみたいに値上がりしている最中らしくて、あーあもったいない、ここらでいっぺん暴落してくれないかなと思った。
 セブンイレブンでコーヒーと母の分のカフェラテを買う。支払いは母からもらったクオカードですませたが、いまどきクオカードなんてもっているひといるのだろうか。
 セカストへ。不用品を運びこむ。値段がつかないものはそのままひきとってもらうつもりだったが、誓約書みたいなやつに買い取り不可と判断されたものは返却しますとの旨が記されていてアテがはずれた。荷物の量が多かったので査定には一時間ほどかかるとの由。古着を少しだけのぞく。
 セカストの裏手にある(…)ちゃんの宅へ。母の幼馴染。ふたりそろっていまどきあんな地域が存在することなど大半の日本人が信じないだろう限界集落の出。玄関に白黒の猫と三毛猫がいる。三毛猫は手を差しのべたら体をこすりつけてきた。マーキングだ。白黒は逃げた。玄関に出てきた(…)ちゃんは片足をひきずっていた。足が悪いらしい。今年の6月19日(母の誕生日!)に手術をする予定だという。片足がすんでリハビリが終わったところでもう片方の足という流れ。高齢者の多いクソ田舎だからか、同様の手術を希望する人間がたいそう多く、診断を受けてから手術まで半年以上待たなければならない。家のなかにも猫がいる。(…)ちゃん曰く「高貴な」顔立ちのもの。三匹とも元々は野良猫。「高貴な」子は家の中に出入りするし、寝るときも(…)ちゃんの布団でいっしょにというかたちらしいのだが、先ほど玄関で見かけた二匹は基本的に外にいる。だから(…)ちゃんは玄関先にちょっとした小屋のようなものを用意している。二匹はそのなかで夜を過ごす。ときどきはよその宅で一夜を過ごすこともある。三匹とも避妊手術をすませたいわゆる「さくらねこ」で、(…)ちゃんがメシをやったり病院に連れていったりしているというのだが、猫といえども三匹面倒を見るとなるとやはりなかなか金がかかるらしい。三毛猫は猫風邪をひいていて(猫風邪というのは完治することがないと(…)ちゃんは言った——と書いたところで、いま検索してみたところ、「また、風邪のウイルスの中には一度感染を経験すると、症状が治った後もネコちゃんのなかでウイルスが残り続けてしまうものもあります。/ウイルスが体内に残っているネコちゃんは、免疫力が下がったときに風邪の症状を繰り返します」との記述に行き当たり、コロナ回復後もウイルスが心臓に残りつづけるみたいな話だなと思った)、「高貴な」子は腎臓を悪くしている。
 (…)ちゃん宅をおとずれた目的は大型犬用のカートを借りるためだった。(…)ちゃんが以前飼っていた大型犬の晩年に利用していたもの。箱に入っているものを見せてもらったが、かなりデカくて、これはうちの車で運ぶのは無理だなと思った。箱に収納された状態であれば問題ないが、組み立ててしまうとトランクにも乗らない。車にのせる必要はない、玄関から出て近所をこれで歩けばいいではないかと(…)ちゃんは言ったが、うちの団地の周囲は坂道ばかりであるので、もともとがデカくて重いこのカートにさらにデカくて重い(…)をのせた状態でゆっくり散歩できるかといわれれば、かなり危ない、こちらや父であればなんとかなるかもしれないが、非力な母には絶対無理である。そういうわけでブツは引き取らないことにした。
 (…)ちゃんと顔を合わせるのは下手をすれば20年ぶりくらいだった。いや、もっとか? 中学生のときには会っているだろうが、高校入学後に会ったおぼえはない。だからだろう、(…)ちゃんはこちらの背が高くなっていることに驚いた。160センチちょっとのイメージだったという。いまどんだけあんのというので、最近測ったら172センチあった、中国に行ってちょっとのびた気がする、中国の野菜には成長ホルモンがばんばんうちこんであるから食べると背が高くなるという冗談があることを最近知ったと応じた。
 玄関には変わったかたちの石があった。長男の(…)君が質屋で見つけたのを買ってきたらしい。全部で三つほどあり、そのうち一つは最近値段が高騰しているという。何十万円の価値があるのかなと思ったが、そういうわけでもないという、せいぜい数万円らしい。とっときゃのちのち財産になるやろというと、そう思うんやったらいま買ってってーさと(…)ちゃんは言った。
 セカストにもどる。査定の結果が出ている。5000円オーバー。母の私物であるブランド品のバッグ数点におもいのほかまともな値段がついていた。押し入れのなかに眠っていたもろもろにもいちおう1点につき30円ほどの価格がついている。ただし、買い取り不可の品もいくつかある。家電は基本的に型が古すぎる時点で買い取り不可になるとのこと。しかるがゆえに昭和感満載のホットプレートと靴磨き機はアウト。あと、白い陶器の猫のかたちをしたディスペンサー(中に液体石鹸を入れて使うもの)も買い取り不可ということで持ちかえることになったが、これはダサすぎてむしろアリなんじゃないかと帰宅してから思った。
 (…)からLINEがとどく。明日と明後日(…)に帰るのでそのつもりでいろとのこと。了解。買い取り不可となった子どもの日の兜と刀はいらないかとたずねると、そういう縁起物を中古品ですませるのはよくないという売り手の言葉にまんまとのせられて新品を購入したという返事。
 帰宅。きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、1年前の記事を読み返す。以下、初出は2021年2月9日づけの記事より。

 小学生のころ、日曜日の昼ごろというのは別段どこかへ出かけるというわけでもなく、多くの家庭では家でゴロゴロして過ごしたものでした。小麦粉と葱と紅生姜、鰹節で、関東ではお好み焼きとしてまかり通っていた薄焼きのようなもので昼食をとっていると、近隣の家々から「NHKのど自慢」のメロディが流れ、そこに遠くから製材所で材木を切る音が重なってくる。当時の私にとって、その香りと音の作る空間こそが、けだるい日曜の昼下がりのリアリティを立ち上げてくれるものでした。
 ところがこのリアリティは、それを構成する要素を過不足なく用意すれば立ち上がるかというと、そうではないのです。遠くに響く製材所の音は象徴的な役割を果たしています。それは明確に聞こえるものではなく、意識すれば聞こえるものの、意識しなければ背景に溶け込んで聞こえないものなのです。香りと音の空間外部にあって、この空間に参与する可能性のあるもの——製材所の音はその象徴なのです。
 つまり、リアリティに欠かせないものとは具体的な要素ではなく、いつこの空間に参与するかわからない空間外部の潜在性なのです。窓を見ると、上空を旋回する鳩の群れが視界に一瞬飛び込んでくるかもしれず、遠くから猫の声が飛び込んでくるかもしれない。これらの到来を待つ構えこそが、リアリティを感じる私を作り出していたのです。
 だからリアリティ喪失の直前とは、外部からの到来を待つ構えの喪失であり、外部が遮断される感覚なのです。私の視界や、いまここにある世界から何か失われるというのではなく、逆に、何かがやってくるかもしれぬという可能性が喪失する。これがリアリティ喪失直前の感じなのです。
(郡司ペギオ幸夫『やってくる』 p.136-137)

「外部からの到来を待つ構え」というのは、中井久夫のいうS親和者(分裂症的主体)の様態と同じだろう。「構え」が0になったとき、リアリティは喪失する。それは外部(出来事/外傷)が存在しないという世界、穴のない閉ざされた象徴世界すなわち記号化された世界ということができるのかもしれない。逆にその「構え」が100になったとき、象徴秩序は瓦解し、主体は臨床レベルでの分裂症者となる(そしてここでいう分裂症者は、実際には、自閉症者に近いものと考えられる)。

 夕飯はきのう(…)ちゃんからもらったワラサの刺身と粗煮。クソうまい。食後はソファでBuriedborne2を一度だけプレイ。今日は中国の大晦日なので、モーメンツに大量のごちそうの写真があがっている。夜が遅くなるにつれて花火の写真や動画も増える。入浴後、四年生の(…)くんと三年生の(…)くんからあけましておめでとうございますのメッセージがとどく。(…)くんは日本語はちんぷんかんぷんであるが、節目節目にはなぜかこういうメッセージをよくくれる。(…)くんは優秀な学生であるものの、こちらとの個人的な交流はないにひとしいので、このメッセージはちょっと意外だった。彼の地元は(…)。最近はよく雪が降っていたというので、モーメンツ経由でその手の写真や動画をよく見ていたよと応じる。(…)くんはバイク乗りなので、路面が凍結している日は運転をやめておきなよと、そんなことはわかっているだろうけれどもいちおう伝える。まだ日本にいるのですかというので、今月の21日に(…)にもどるというと、じゃあいっしょにごはんでもいきましょうという。めずらしい提案だ。
 「実弾(仮)」第五稿執筆。22時過ぎから1時半まで。シーン18をもう一度あたまからケツまでチェック。問題なし。シーン19もざっと通す。おおむね問題なしと判断されたが、「(キッチン)テーブル」と「食卓」の表記ゆれがあることに気づいたので、このあたりは要修正。
 二年生の(…)くんと(…)くん、一年生の(…)さん、四年生の(…)くんからもあけおメールがとどく。(…)くんが红包を送ってよこすので、ぼくは大人だからお年玉はいらないよと受けると、地元の風習で若いひとが大人に红包を送るというのがあるのだという。知らなかった。(…)くんは少数民族なので、彼の口からそういうめずらしい風習をいろいろ聞くのは楽しい。いまは麻雀をしながら白酒(アルコール度数は54度!)を飲んでいるとのこと。(…)くんは親戚付き合いがめんどうくさくてたまらないという。最近の若い学生はけっこうこの手の不満を口にする。夜が更けるにつれてモーメンツはますます花火一色と化す。都市部ではもう何年も前から花火は禁止されているという話であるが、うちの学生は田舎や農村の出身者が多いので、みんなアホみたいにどデカい花火——日本では絶対に個人で売買することが許されていない打ち上げ花火レベルのもの——をそこらの路上や庭先でアホみたいにガンガンうちまくっている。あれで火事にならないのがふしぎだ。しかし、春節だなァ。今夜、すべての路地裏で爆竹が鳴っている。
 作業中、『oar』(角銅真実)をダウンロードして流す。“いかれたBaby”のカバーがあった。“いかれたBaby”って、たぶんフィッシュマンズの楽曲のなかでもっとも多くカバーされているものではないか? こちらも例に漏れず“いかれたBaby”が大好きなわけであるが、ただ原曲のアレンジはあんまりピンときていなかったりする、だから本家よりもカバー版のほうがよくきいていると思う。HASAMI groupのやつとか、MariMariのやつとか、Asian Glowのやつとか、モトーラ世理奈のやつとか(これはあんまりきいていないか)、そしてなにより“WEDDING BABY”! 角銅真実のカバーも当然クソすばらしい。
 寝床に移動後、『コーダの世界 手話の文化と声の文化』(澁谷智子)の続きを読み進めて就寝。