20240210

 簡単にまとめると、ここ最近のインターネットの学級会は「傷ついた」という「身体的な体験」に基づくポピュリズム(リベラル)と、不都合な真実を暴露する「エビデンス主義」(アンチ・リベラル)が互いに争っている。そして、どちらの陣営からも「批評」や「ポストモダン思想」は嫌われることになったのである。
(綿野恵太『「逆張り」の研究』)



 正午起床。冷食の海老ピラフを食ったのち、コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書く。
 14時半過ぎに(…)一家が到着する。おもてに出る。父も母も遅れてやってくる。(…)と(…)と対面。(…)は前回うちの両親と会ったときとくらべると多少人見知りがマシになっているのか、母からの質問に対してもやや恥ずかしそうにしつつもしっかり返事していた。父は(…)を抱かせてもらっていた。しかし(…)はすぐに大泣きしはじめた。母は(…)に黒ひげ危機一発を渡した。(…)や(…)がまだ小さかったころによく遊んだやつだ。
 助手席に乗りこむ。(…)へ。(…)のテンションは例によってかなり高い。平日であるにもかかわらず(…)付近はやたらと混雑していた——と思っていたのだが、それはこちらの勘違いであり、実際は三連休の初日なのだった。とはいえ、初詣の期間も過ぎた頃合いであるわけだし、そんなに混んでいることもないだろうと思っていたのだが、駐車場はほぼ満車、それで仕方なく駐車場の入り口で車を一時停止して、出ていく車をじっと待つ構えとなった。待ち時間はそれほど長くなかった。おとずれたのが15時ごろだったからだろう、参拝を終えて帰宅する客の姿がけっこう目立ったのだ。車内では明日(…)のうちに行かないかと誘われた。(…)一家は今日と明日の二日間、(…)の実家——とはいわないのか、両親の新居というべきか、そこに寝泊まりする予定だという。来週末はまた(…)と(…)のふたりがやってくるわけであるし、明日も(…)のところで半日過ごすとなると、日記の記述もふくめてかなりの時間をもっていかれることになるわけだし、となると出国までにイーディス・パールマンを読み終えることができないのではないかと少し考えたが、いやだいじょうぶだ、執筆の時間をいったん書見にあてればいいのだと思いなおした。
 参拝。(…)ちゃんは(…)を抱っこ。(…)は荷物持ち。そしてこちらはひたすら(…)の子守り。かなり混雑していたので、手をつなぎっぱなしのままで移動する。(…)のテンションはここでもめちゃくちゃ高かった。一家は今日の朝京都を発って(…)までやってきたわけだが、先生と会ったときに元気いっぱいでいれたほうがいいからお昼寝したほうがいいんじゃないのと(…)ちゃんが道中うながしたところ、ふだん昼寝を率先してしようなんてことはないのに、(…)はみずから寝よう寝ようと目をしっかりつむっていたらしい。そういうわけでフルチャージ済みの(…)はひっきりなしにしゃべり、飛び跳ね、子どもらしく多動に多動を重ねた。
 しかしびっくりするほどの人出だった。(…)にやってくるのなんて十五年ぶりくらいになるのではないかと考えたが、いや、そうではない、いちど(…)といっしょにやってきているのだ、だから11年ぶりということになるのか? 見知らぬ土産物屋や飲食店もたくさんあった。小腹が空いていたが、食べ歩きは帰路にすませようという流れに。銀行や郵便局が景観を損ねないために(…)仕様になっているのは知っていたが、おなじく京都の町家みたいなかまえのスタバがあったのには驚いた。のちほど母に報告したところ、わりと最近オープンした店舗らしい。駐車場は県外ナンバーの車だらけだったし、地元で日頃見かけることのない、あかぬけた髪型や服装の若い男女の姿も多かったが、外国人は数えるほどしかいなかった。場所によってはめちゃくちゃ混雑していたので、そういうところを通り抜けるときは(…)を抱っこした。
 (…)は往路の時点ですでに咽喉が渇いたと訴えていた。しかしいま飲ませると小便を漏らすかもしれないとのことで((…)は今日おむつを穿いていなかった)、ジュースを買うのは帰りなと両親から言い含められていた。咽喉の渇きのためだけではない、たぶん序盤から飛ばしすぎたのだろう、(…)を抜けて(…)の中に入ったあたりから口数が少なく足どりもやや重くなっているふうだった。(…)と(…)ちゃんはお守りを買った。(…)ちゃんはもちろん去年いろいろ病気をして大変だったので健康祈願のもの、それから(…)には渋滞中にイライラしすぎて事故を起こすおそれがあるからという理由で交通安全のものを買うというので、これにはけっこう笑った。(…)は! マジで! 渋滞にハマると信じられないほどイライラするのだ! 「あああああああ!」と叫びながらハンドルを叩きまくるのだ! 渋滞中の(…)と就寝中のじぶんを闘鶏のように対峙させたらどっちが勝つのだろうと思う。どっちもクソ短気で、ちょっとしたことでキレ散らかす。
 (…)は砂利道を靴の先端でわざわざジャリジャリしながら歩いた。それを(…)ちゃんから何度か注意された。黒い靴の先端がそのせいで白く汚れていた。その(…)をときおりこちらは抱っこする。そういうわけでこちらのパンツも一部が白く汚れた。ユニクロの安物なのでかまわない。(…)は今日Vivienne Westwoodのチェスターコートを着ていた。(…)がヴィヴィアンを着ているところをひさしぶりに見た。(…)が生まれてまだほどないころだったか、子育て中はしょっちゅうゲロまみれになるので、とにかく安くて動きやすい服しか着たくないと言っていた。
 お賽銭は500円することに。(…)夫妻が500円ずつぶちこむというのでそれにならったかたち。(…)は(…)から10円玉をもらっていた。二拍二礼だったかなんだったか忘れたが、アレしたのち、健康で過ごせますように、「実弾(仮)」が完成する前に死ぬようなことがありませんようにとお祈りした。(…)は賽銭を放りこむだけ放りこんでお願いごとをしていなかった。いまからでも間に合うからお願いごとをしなと帰り道の途中に伝えると、じっと押し黙ってなにやら考えているふうだった。
 (…)をあとにしたところで買い食い。(…)ちゃんがまず麹甘酒なるものを飲んだ。それから(…)が一本で7000円以上するウイスキーを買った。酒好きの友人に渡すお土産だという。(…)のために(…)仕様の自販機でゴクリを買った。それから(…)を散策。あの犬かわいいなと、(…)と(…)ちゃんのどっちかが人混みの先を指さした。デカいトイプードルを連れて歩いている男性がいた。え? (…)ちゃうけ? と目を凝らしてみたところ、男性の後ろ姿はやはり(…)さんっぽい、というかあんなにデカいトイプードルなんてほかにいない、そういうわけで(…)を抱きかかえたまま駆けていき、旦那さんの前にまわりこんで、こんにちは! と声をかけた。かたわらには奥さんもいた。ふたりは突然子連れであらわれたこちらに一瞬びっくりしたようすだった。友人の子どもといっしょに来ているんですと事情を告げる。遅れて(…)夫妻もやってくる。(…)はさっそくこちらに飛びかかって顔をなめまくった。夫妻もすぐに(…)に触れた。(…)はまったく警戒しない。完全になされるがままでよろこんでいた。こちらは(…)の相手に夢中になっていたので気づかなかったが、途中で(…)が(…)に叱られた。たぶん(…)にちょっと乱暴なことをしようとしたのだと思う。それで(…)は途中から不貞腐れていた。(…)くんの調子はどうですかとたずねられたので、最近また足腰がしっかりしてきた、ただ(…)と同じでうんこに膜が張っているのが気にかかると答えた。
 まさかこんな連休のただなかに、こんな人混みのなかで散歩させているとは思わなかったので、ちょっと驚いた邂逅だった。(…)は(…)が気に入ったようだった、もともとトイプードルが好きだったらしい。近くでソーセージを売っていた。不貞腐れたままの(…)を連れて、鉄板の上だか網の上だかで焼いているソーセージを見せてやると、(…)のテンションが一気に転じた。ソーセージは二種類あった。一本は中にチーズが入っているフランクフルト。こちらはそれを食うことに((…)がおごってくれた)。夫妻はペロペロキャンディみたいにぐるぐる巻きになったやつを買った。(…)はそれをわけてもらっていた。
 ソーセージを食う前だったかもしれない。宝くじ売り場があったので、一等500万円のスクラッチを5枚買った((…)は10枚買った)。200円のあたりが2枚出ただけだった。クソが。土産物屋の店先に出ている玩具に(…)がひきよせられた。触れてはいけないと注意書きのある玩具にそれでも触れようとするので注意したが、(…)はなかなか言うことをきかなかった。砂利道を靴の先端でジャリジャリしながら歩いたときとおなじだ。注意されても一度では言うことをきかない、聞こえていないふりをしているつもりなのか、(…)や(…)ちゃんから本気で叱られる直前まで「挑む」ことが最近たまにあるのだ。
 駐車場にもどる。(…)のところは二番目が去年産まれた。(…)もまだ出産祝いを贈っていないとのことだったので、だったら明日やつのうちに向かう途中イオンにでも立ち寄り、ベビー用品をまとめて購入して連名の出産祝いにしようという話になった。(…)にはそのついでにトミカを買ってやればいい。(…)は「ジイジとバアバ」のうちにこれからふたたびおとずれると知ってテンションが爆上がりしていた。それからこれは去年の夏休み中のできごとであるが、(…)のうちの庭に(…)がじぶんで木の板を敷きならべてこしらえたテラスの、その表面が太陽に熱せられてチンチンになっていたにもかかわらず、こちらが「こんなん全然あつくないわ!」と言いながらその上を歩き出す、しかしほんの二歩か三歩で「あち! あち! あち!」と言いながらひきかえすというのを(…)を抱っこした状態でなんどもなんどもくりかえしたことを口にした、「(…)ちゃんちの庭で先生あちあちあちってなったなあ!」と言った。よっぽど印象に残っているらしい。
 実家の前に到着したところで、じゃあまた明日とあいさつ。帰宅。両親は(…)を(…)川に連れていってもどってきたばかりのところらしかった。(…)は今日(…)川でずいぶんしっかり歩いたという。のみならず車内でも自力で立ちあがり、四本足でしっかり自重を支えたまま窓の外に顔を突き出していたという。ここ二三日、(…)はたしかにちょっと元気だと思う。頻繁に庭とうちを出入りするし、その際に介助を要さないことも多い。でもどうして急にそんなふうになったのかはわからない。(…)でトイプードルの(…)に会ったことを告げると、両親はびっくりしていた。
 夕飯。食後はソファでBuriedbornes2をプレイ。入浴後、『葬儀屋の娘』(工藤祐次郎)や『あかるいくらい』(浮)を流しながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返す。以下、2014年2月10日づけの記事より。職場でインフルエンザが流行し、こちらが臨時出勤を余儀なくされた日のこと。(…)さんをモデルにした人物は吉森さんという名前で「実弾(仮)」に登場させているわけだが、このくだりはそのまんま使いたいくらいだ。

引き継ぎのときに四連勤になったと(…)さんに告げると、きみはここの会社の人間のいうことを真に受けるんや、えらいやさしいなと、まるで社会の荒波をしらないきみには見抜けないのだろうが世知に長けたおれにはすべてがお見通しだぞ的な笑みを浮かべた物言いをしてみせるので、まーたはずかしいおっさんのイキがりがはじまったよーと内心で思いながらしらじらしくもどういう意味っすかと律儀にたずねてあげると、そんなもんサボりのための口実や、と自信満々にいってのけてみせ、そこから滔々と、ふだん電車に乗っている人間だったらマスクを装着している乗客の割合でインフルエンザが本当に流行しているかどうかの見極めはすぐにつく、そしてその基準に照らし合わせると京都でインフルエンザは流行していない、たいして流行していないそんな病気におなじ会社からふたりもたてつづけに患者がでるわけがないという、どこからなにをどう突っ込んだらいいのかさっぱりわからない穴だらけの論理に貫かれたあまりに稚拙な観察力自慢やら、仮に(…)さん他数名がインフルエンザだったとしてそれならばどうしてほかの人間がいま平気なのだという潜伏期間という概念をまったく知らないらしい口ぶりの推理力自慢やらをあいかわらずの巻き舌で披露してみせ、四十も半ばをすぎていったいどうして中学生みたいな口調で中学生みたいなひねりもクソもない深読みならぬ浅読みをさぞ自信満々に披露してみせることができるのか、そしてその稚拙さのあまりのひどさにおもわず絶句するこちらの反応をしてみずからの千里眼におそれいったものの感嘆と受け取ってしまうおろかさをもつことができるのか、重ねて絶句する。

 あと、庄野潤三メジロの来る庭』の感想も。庄野潤三の晩年の作品群はかなり特異的なアレになっているので、また再読したい。

意図も企みもあったものではない、ただその日印象に残ったものを日記のようにしてしかし日記よりもよほど無造作にとりとめもなく書きつないでいくだけのテキストなのだけれども、本当にそれだけなのがまずすごい。おなじ話似たような話がおなじ言いまわし似たような言いまわしで何度となくしつようにくりかえされる痴呆の印象が、目にとめた風景すぎさった出来事そのことごとくにたいして漏らされる唯一絶対の感想「うれしい」のひとことと同居することにより、解像度のぼやけた老境の特権的な恍惚越しに認識される世界そのままの筆写に成功している。頭で書けるものではない。ただ書きつづけることによってのみ培われる書く(ことをおぼえた)身体が、その身体を司る頭の失調にもかかわらず(ながきにわたる習慣と経験の結晶としてのきらめく惰性から)独立的に書きつづけることを選んではじめて書きつけられうるたぐいの文字列の連なり、訓練の成果であり、未来への賭けに勝った言葉たちがここにある。

 今日も学生らからあけおメールがいろいろとどいた。(…)二年生の(…)さん、(…)二年生の(…)さん、四年生の(…)さん、一年生1班の(…)さん、卒業生の(…)さん。それから(…)先生からも連絡があり、東京のほうに来ることがあればぜひとのことだったが、やはり日本語がちょっと不自然だった。あと、これはちょうど(…)を参拝しているときだったが、「(…)」のふたりからも連絡があったのだった。例によってビデオ通話しませんかという誘いだったわけだが、外出中なのでこれは断った。それにしても春節初日にわざわざビデオ通話の誘いがあるのは意外だった。もしかしたらふたりとも親戚付き合いにうんざりしているのかもしれない。モーメンツでは二年生の(…)さんが、春節の過ごし方について、若い世代は若い世代と、老人世代は老人世代といっしょに過ごすようにすればいい、そうでないとただただ退屈すると愚痴をこぼしており、それについて賛成するコメントも多々ついていた。これはディスカッションのテーマになるかもしれない。
 夜、またしてもZOZOTOWNでセール品をポチってしまった。革ジャンと夏用のTシャツ。結局返品することになるだけかもしれないが!
 その後、書見。『コーダの世界 手話の文化と声の文化』(澁谷智子)を最後まで読む。

 たとえば、私の友人のろう者は、待ち合わせに遅れるとき、次のようなメールを私の携帯に送ってきた。

銀行に手続きにかかった為に大変遅くなって申し訳ないと思いますのでごめんなさい。今横浜からJRに走ってます中。待ち続けて大変すまないと思います。

 この文章の意味するところは、とてもよく伝わってくる。でも、文章のつなげ方やリズムなどに関しては、明らかに日本語話者とは違うところがある。ところどころ、手話の直接的な表現も見られる。たとえば、「JRに走ってます中」は、「JRに乗っているところです」という手話表現を日本語に直訳したものになっている。また、「待ち続けて」という部分は、日本語では「長くお待たせして」という表現になるが、手話では相手の立場に立った表現を挿入して表すことが多い。
 この友人のように、文章が苦手という意識を持っているろう者の場合、自分が何か文章を書くときに、コーダにその文章のチェックを頼むということは、わりとよくあるようである。コーダは、書類や手紙、ファックスなどの文章を説明したり、その書き方を教えたり、文書に関する仲介もおこなっている。
 たとえば、私と同年代ぐらいのコーダでは、親の代わりに、学校の書類や連絡帳に書く文章を考えていたという人がかなりいる。特に、コーダのなかでも年上のきょうだいであった人たちは、弟や妹のぶんまでも「今日は熱があるので学校をお休みします」とか「今日のPTA総会の欠席します」という文章を自分でつくり、親に「こう書いて」と頼んでいたという。「コーダの会」で学校の連絡帳の思い出が話題になったときには、自分で大人の字を書き分けていたお兄ちゃんの話や、「うちは親が聞こえないから」と堂々と子どもの字でその文章を書いたという話も出てきた。
(…)
 正直な話、私は文章に関する話をこの本のなかでしてしまっていいのか、けっこう迷った。実際のところ、ろう者のあいだでは、日本語を使いこなせるかどうかがステータスになっているからだ。
 日本語の文章が苦手なろう者は、それを日本語が第二言語であるためとは考えず、そのことを恥ずかしく思い、引け目を感じている。モノリンガルが多い日本では、複雑な読み書きができないのが言語の問題としてではなく、能力の問題として捉えられてしまうことも多いし、文章が苦手なのは頭が悪いからだ、と思いこんでいるろう者やコーダも少なくない。ろう者やコーダでも文章がうまい人はいるという事実が、そうした認識に追討ちをかけている。
 しかし、手話でなら、複雑な内容を雄弁に伝えられる人もいることは、強調しておきたいと思う。
 前述の私の友人は、私とろう者の集まりに行くときや、海外のろう者と会ったときなどには、私のためにろう者の手話を通訳してくれる。ネイティブ同士の手話や外国の手話は、私には読めないからだ。
 それにもかかわらず、友人のほうは、聞こえる人に助けてもらっているという意識を持っている。そして、友人が海外のろう者に送るメールを私が英訳すると、その後には決まって、お中元やお歳暮と言う形で彼女からサラダオイルやカニ缶や果物が届く。
(115-117)

 さて、この辺で、話をコーダに戻そうと思う。前項でも見たとおり、一般の聴者は、ろう者とのつきあいが深くなってくるにつれ、ろう者の声に違和感を覚えていた状態から、それが気にならなくなるという状況に移行する。
 しかし、コーダがたどるのは、この逆の道筋である。
 小さいコーダにとっては、聞こえない親の声はごくあたりまえのものだ。親は、さまざまなやりかたで幼いコーダに話しかける。手話を使ったり、身振りを使ったり。コーダは聞こえる子どもなのだからと、声をつける親もいる。声をどの程度使うかというのも、どういう状況で使うかというのも、人それぞれである。人によっては、コーダに日本語の言葉を教えるときにだけ手話に声をつける親もいる。もちろんコーダは、きょうだい、おじいちゃん、おばあちゃん、親戚、保育園の先生、友達とのやりとり、テレビの子ども番組などを通して、音声日本語を聞き、言葉を覚えていくのだが、そのなかの一つに、親の声が入っていることもあるということだ。
(134)

 子どものころKさんとお姉ちゃんは、親に連れられて、ろう者の集まりによく行った。そして、同じように、親に連れられてきたコーダたちと一緒になって遊んだ。コーダの子どもたちのあいだでは、親の声を真似するのが流行った。
 
コーダはコーダで遊んでいて、誰かのお父さんが何か言うと、みんな、ふっと振り向く。で、「あんたのお父さん、何か言ったね」とか。それをみんなが真似した。そういう真似ごっこが一時期流行って……。
 コーダの中で?
そうそう。
 ろうの声を真似するのが?
うん。でも、それはまったく馬鹿にしているのではなくて。うちのお父さんの真似をされても私は嫌じゃなかったし、たぶんみんなも馬鹿にしているのではなかったんだと思う。ただ、なんだろう、反射的に真似するっていうか……。「おまえ、真似うまいな」くらいの勢いで。
 へえ。
 「違う、違う、こうして真似するの」とか。
 (笑)
たぶん、他の人が聞いたら「真似するんじゃありません」って怒られそうだけど、そうじゃなくて、「あ、言ったね」っていうか、なんか確認。「あの人いるね」みたいな。
私 うん。
自分の親の、私の「とみこ」(仮名)って言うときの言い方と、「あやこ」(仮名)……うちのお姉ちゃん、「あやこ」って言うんだけど、「あやこ」って言い方を、コーダの前で披露していた。
 へぇ。
「とみこ」とは言わなくて、「どみごー」っていう感じ。それを、もっと、「どみごーちゃん」「のみごーちゃん」とかって言う。しかも、イントネーションも、「とみこちゃん」じゃなくて、「どみごーちゃん」って同じので。でも、「あやこ」か「とみこ」か、たぶん、他の人には絶対わからないんだけど、私にはわかるし、それを真似する。
 ふーん。
ほかのコーダの前で。で、ほかの子も「うちはね、こういうの」って。「みみちゃん」(仮名)とか、「みみ」って発音をやってるのが自然とあって。
 (笑)
ほんと、笑い話にしかならなくて、馬鹿にしているとか、そういうの全然ないし、「おまえんちの父ちゃんの癖ってこうだよね」ぐらいの内容で、私がいかにね、うまいかってことを自慢してた。
(…)
 Kさんは、子どものときには、絵本を声で読んでくれるよう、お父さんにせがんだという話もしてくれた。
 
お父さんの声が好きだったからだと思うけど、お父さんのところにいって、絵本を持ってきて、読ませた。
 ああ、そう。
もしかしたら、「ろう文化宣言」とか知ってる人は、「なんて子どもだ」って思うかもしれないけど。お父さんの声が聞きたかったの、あのときは。話の内容じゃない。あと、あの一緒の空間を楽しみたかっただけ。本を読んで、絵を見て。ほとんど子どもはね、文章なんて聞いてないよ、あの小さいときは。
 うん、うん、うん。
たぶん、あのときの私は、少なくとも聞いていなかった。もし、文章を読まれても、邪魔なだけ。見たいのは絵だけ。絵で想像して。あとはお父さんの、声が聞こえて、その声っていうのが……うるさくない音楽と同じ。
 うん。
あの、自分のなかに自然に入ってくるような。あとは、お父さんのあぐらの中に、安心して座っているというか。あの感覚が好きで、じゃ、その次はこの本、その次はこの本って。
 うん。
お父さんも、「自分の言ってることはわかるのかな?」と思っていたかもしれないけど、その声がほんと、自分のBGMみたいな感じ。
 うん。
そうだな、なんか、声が……たぶん好きだったと思う。好きっていう感覚までもない。あたりまえすぎて。あたりまえにあると思っていたから。
(139-142)

 Kさんは、小学校に入学するぐらいから、聞こえない人を知らない聴者は、親の声に反応すると気づくようになり、家の外では、親が変に思われることのないよう、親に「声を出さないで」と言っていた。そして、親が声を出したときには、「かわいそうっていうんじゃなくて、聞こえないからこういう声なの」とまわりに示すために、大急ぎで手話をしてみせた。
 おもしろいのは、ろう者としては自然な親の表現を、聞こえる人は喧嘩とか感情表現と捉えかねないことがあり、そのことで緊張感が高まってしまうのを、子どもとして「ニコニコ」していることで抑えていたという話である。
 実際、手話で話すときには、普通に「違う違う」と言うときでも、手話の文法のために、眉根が寄ってしまったりする。ただ相手の話を「え?」と聞き返すときにも、眉がひそまってしまう。それらは、「そうじゃないよ」という内容や「わからない」ということを示すために必要な手話表現なのだが、その表情を、聴者は、「怒っている」「私のことを非難している」と誤解することは非常に多い(このように手話の文法から来る表情を〝感情〟と読み間違えられてしまうことは、コーダ自身も経験することの多い誤解である)。
 また、ろう者は手話で話が盛り上がっていると、声も「お〜」などとつくこともあり、それがますます強い怒りの表現と誤解されてしまう。
 Kさんは、お父さんの表情や声や早い手の動きに、周りの聴者が「喧嘩!?」と思うのを察知して、わざとニコニコしていた。親のそばで小学生がニコニコしていれば、まわりの聞こえる人は「それほど大ごとではないのだろう」と安心する。Kさんは、ろう者のなかではそういうことを絶対にしないが、まわりに聴者がいるときは、それとなく、そういう演出をしていた。
(144-145)

 そのようにして入った大学で、Kさんは、たまたま難聴の学生の声を聞く。そのとき「ものすごい懐かしさ」を感じた自分に気づき、自分が親の声に愛着を持っていることを自覚した。
 
 「あ、愛着持ってるな、私」って思ったのは、やっぱ、大学入ってから。中、高と反抗期で、あまりろうの人と接しなくなっていて、大学でふっとろうの声を聞いたとき。難聴の子だったのかな。その子は、自己紹介させられた。その子だけ。あの、「聴覚障害あるんで、自己紹介してください」って。
 うわ。その子だけ。
「なんで一人だけ?」って思ったけど、その声聞いたときに、けっこうはっきりした発音だったにもかかわらず、ものすごい懐かしさを感じて。……勝手に手話できると思って話しかけていって、「ねぇねぇねぇ」って手話で話したら、「わたし、手話できないんですぅ」ってその声で言われて、「あ、ごめんごめん」とか言って。
 ああ。
で、それからも、その子は私のことを「**さぁん」とか言うんだけど……、言われて、懐かしい……懐かしいなぁって思って。目がもう、たぶん、輝いていた。彼女の前では。だから、彼女も、声をかけやすかったのかもしれない。
 うんうん
そのときに、「ああ、懐かしいんだな、自分にとって」って思って。だから、なんか、そういう、ろうっぽい声が聞こえると、ふっと見てしまう。
 うんうん。
(151-152)

 コーダを持つ親が自分のマイノリティ性を感じていく一方で、子どものコーダのほうは、小学生ぐらいから、まわりの人が親をどう見ているのかということを、少しずつ意識するようになってくる。
 
O みなさんがどうかわからないですけれども、僕は、バカにされたくなかったというのがあって。
A あぁ。
O 僕ねぇ、あの、ほんとに、親にも言わへんのですけど、まわりは「あんたがしっかりせなあかん」って当然言うてくるじゃないですか。親が聞こえないから、「あんたがしっかりしいや」って、親戚も、おじいちゃんおばあちゃんも言わはるし、自分でも「そやそやそや」って思うけども。でも、それって、「そやそや」って思うだけ。
で、一つのきっかけは、小学校二年生のとき。たまたまうちの父親のおじいちゃんが危篤になってしまって、まぁ、学校を休まなければいけないっていうときに、両親、「きとく」っていう言葉を知らなくて、僕に訊いてくるんですよね。もちろん手話では知ってるけど、それを日本語の言葉でどう表せばいいかわからない。で、僕も、小学二年のときに「きとく」っていう言葉を知らなくって、「そのまま『死にかけてるから』って書いたらいいんちがう?」って言って。で、すごくまじめに「死にかけているから休ませていただきます」って連絡帳に書いてもらって、それを友達に持っていってもらった。その後で、まぁ、担任の先生にちょっといろいろ言われて、「あぁ、これは僕が言ったことやのに、親がバカにされたんやろな」って思って。
それからは、だからもう、自分のやったこと=親のやったことにもなるし、自分がちょっとでも変なことしてしまったら、「あぁ、あそこは親がああだから」って言われるのが嫌で。……優等生にならざるを得なかったかな。
A うちも、妹と私、やっぱり同じ感覚で。学級委員とかやっちゃったりとか。生徒会やったりとか。けっこう表は優等生なんだけど。成績も絶対「下」までいかない。ちゃんと「上」。最低でも「中の上」ぐらいキープしなくちゃいけないって、自分たちで決めてた。
O そうそうそう
A ね。自分たちで決めて。「私らが成績よければ、絶対親が文句言われない」。
M 自分だけに返ってくるんじゃないっていうのがつらかったな。
O 「僕=僕」じゃなくて、まわりは親を見ますよね。
M 私も、「あそこの親は聞こえひんし、しゃあないわ」って言われるのが……。
O そうなるのが腹が立って。だからこそ、なんでもできるだけ自分でやって。
(162-163)

僕はお父さんが亡くなったとき、「もう、これで手話やろうの世界とは関係がなくなった。もう関わることもない」と思った。手話サークルにも行かなくなって、数か月間、家にこもりがちになっていた。でも、なんだか落ち着かない。「人が足りないから手話サークル来て」と何度もメールが来て、「仕方がない」と思って行ってみた。そうしたら、手話でろう者たちと話しているうちに、ふさぎ込んでいた思いや日ごろのストレスが、きれいになくなっていることに気づいた。そのとき思ったのは、コーダっていうのは、親が亡くなって終わりじゃないんだということ。親が亡くなっても、僕のなかに残っている感覚がある。そのことに気がついた。これからも、ろう者やコーダとのつきあいを大切にしていきたい。
(231)