20240213

 フランスの哲学者アンリ・ベルクソンも笑いについてこんなことを書いている。私たちは自分が愛する人を笑うことがある。しかし、笑うためには「その愛情を忘れ、その憐憫の上を黙らせる必要」がある。というのも、どのような出来事にも「感情の共鳴を引き起こす」ひとは笑いを知ることはないからだ。「無関心な傍観者」となれば、あらゆる出来事は「喜劇」に変わる。「おかしさは、その効果を発揮するために、心情に瞬間的に麻酔をかけるような何ものかを必要とする」のだ、と。「憐憫の情」とは他者のことをかわいそうだと思う気持ちだ。つまり、他者への共感や同情をいったんストップさせないと笑うことができない、というわけだ。
 笑うためには怒りや悲しみといったマイナスの感情から距離を取る必要がある。ぼくたちが他人のミスや失敗を笑うのは、自分と他者の間に距離があるからだ。つまり、「傍観者」だからこそ笑えるのである。たいして、自分の失敗はなかなか笑えない。また、フィクションのキャラクターであっても、他者に感情的に同一化すると、その失敗は「かわいそうだ」と笑えなくなる。つまり、「弱者」に寄り添おうとする「リベラル」にとって、「当事者」から距離をとる「笑い」は「敵」になるのである。
 しかし、レベルにおいても「共感」や「同情」といった「道徳感情」が問題視されている。だったら、笑いを活用してみてはどうか。他人を嘲笑するのではなくて、自分自身を笑うことで。たとえば、なかなか笑えない自分の失敗やミスであっても笑う方法がある。ぼくたちは自分の過去の失敗を笑い話にしてしまう。時間の経過によって、いまと過去の自分の間に距離がうまれるからだ。そのときはめちゃくちゃ大変だったとしても、マイナスの感情から自分の身を引き離すことができる。
(綿野恵太『「逆張り」の研究』)



 11時起床。ZOZOTOWNで注文した革ジャン——という言い方はおっさんっぽいのか? やっぱりライダースジャケットと横文字で言うべきなのか? 知らんわカスが! 皮夹克でええわ! その皮夹克がとどいていたので試着。サイズを念入りにチェックした結果としてMを購入したのだが、背中のほうがけっこう突っ張る。Lにしたほうがよかったのかなと一瞬思ったが、いや革製品であるしこんなもんやろと思いなおす。インナーに厚手のセーターを着込んでもひとまず問題ないし、Tシャツ一枚の上に羽織るかたちになるとそこそこゆとりもできる。元値84700円がセールで30000円弱。AKM Contemporaryというブランド。全然知らん。(…)から先日「あんたほんまブランドこだわらんよな、知らんとこのもんでも平気で買うよな」と言われた。
 昨夜は大変だったと母がいう。おむつをちゃんと穿かせておいたにもかかわらず(…)のうんこがふたつ布団の上に転がっていたのだという。うんこの処理自体は問題なかったのだが、それにくわえて小便まで大量に漏らしており、それがなぜかおむつに吸収されず布団をびちょびちょに濡らしていたので、朝からコインランドリーに布団を持っていったと続く。いまは弟がその布団の回収に出向いている。就寝時におそらくおむつがずれてしまったのだろう。おむつパンツのサイズをもうひとつ小さいものにしたほうがいいのかもしれない。
 弟が帰宅する。塩焼きそばをこしらえてくれたので食す。食後のコーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の日記を読みかえす。GODIVAのチョコ詰め合わせが届く。中身を確認。一袋につきチョコがだいたい110個入っている。それを二袋買ったので、220個。来学期授業を担当する学生の総数を35人×4クラスとすると140人。全員に配るわけではなく、ゲームの勝者のみに配布する代物であるのだから十分すぎる。(…)先生と(…)へのお土産も同じものでいいかもしれない。もう一袋買って、それを半分ずつ渡すか。そういうわけでポチる。

 書見。『双眼鏡からの眺め』(イーディス・パールマン/古谷美登里・訳)の続き。今日は両親が時間差で歯医者に出向いていたので、(…)を連れて(…)川に出向くのは中止。二年生の(…)さんから微信。紙に書いた「發」の字の写真とともに「今年はお金持ちになりますように!」というメッセージ。「發」の字に金持ちという意味があるのかなと思って調べてみたところ、実際そうであるらしい。恭喜发财という四文字の並びもよく目にするが(「发」=「發」)、これもやっぱり「お金持ちになれますように」という新年のあいさつだという。
 書き忘れていたが、昨日、(…)先生からまたメッセージがとどいたのだった。メッセージというか刺身の盛り合わせの写真で、たぶんいまこんなにおいしいものを食べていますよの意味であると思うのだが、なぜこうたびたびこちらにこうした写真だのメッセージだのを送ってくるのかわからない。友達が全然いないんだろうか? 最近離婚したという話であったし、さびしいんだろうか? (…)先生は来学期からあたらしい大学に赴任するわけだが、そこに遊びに来てくださいとこれまで何度も言われているし、こちらの勘繰りがたしかであれば彼の母語および母文化(?)は中国寄りであるので、その手の言葉も単なる社交辞令ですますわけにはいかないのかもしれない、マジではるばる遠方までおとずれる必要が今後出てくるのかもしれない、そうなったら正直だいぶめんどうくさいなと思う。
 夕食と入浴。革ジャンをあらためて姿見の前で着用してみたところ、あれ? これやっぱりダサくない? めっちゃおっさんくさくないか? となった。ゆえに返品決定。こんなにもたびたび返品をくりかえしていたら、いいかげんZOZOTOWNブラックリストにのるかもしれない。返品にかかる送料はもったいないといえばもったいないのだが、しかしこのクソ田舎ではセカスト以外に服を買う店などまずないわけであるし、はるばる名古屋だの京都だの大阪だのに出向いて服屋めぐりをする、その手間暇とかかる金と時間とを考慮すれば、たとえ送料がかかるにしても良いと思ったものはZOZOTOWNでいったん取り寄せし、実際に試着してみるというこの手法のほうがいい。というかふと思ったのだが、ZOZOTOWNを試着サービスと割り切って使用したうえで、いいものがあったらそれをメルカリなりヤフオクなりでもっと安く購入するという田舎住まいの人間も世の中にはおそらくいるのだろうな。
 しかしこのままなにも買わずに中国にもどるのは悔しい。そういうわけで以前目をつけていたglambのビッグフードジャケットをポチった。泣きの一回。これが最後の勝負だ。