20240214

「(…)そして死ぬことで、あたしたちはあるものを失くすのよ、つまり——」フランは言いよどんだ。「どうした、はやくいえよ」サムは包みを開きおわった。褐色で堅い、草の繊維を思わせる塊から、細い一切れをナイフで切りとった。
 フランがいった。「原罪の重みを」
フィリップ・K・ディック浅倉久志・訳『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』)



 昼前起床。父が(…)を風呂にいれる。出てきたところを母といっしょにバスタオルでわしゃわしゃする。今日はたいそう暖かく、日差しもたっぷりな日中だったので、濡れた毛を乾燥させるのにドライヤーを使う必要はなかった。入浴してぐったりしている(…)を庭に面した窓の近くに寝そべらせて、そのまま自然乾燥させた。
 メシ食ってきのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返す。2023年1月14日づけの記事に過去記事の引用とそれに対する注釈および関連する別の引用などがまとめられていた。

(…)マクドで本を読んでいて、途中からとなりの席に着いた大学生男子二人組の、その片割れが興奮すると声が大きくなるタチだったらしく、十分に一度くらいの割合でぎゃーぎゃーとわめかれ、率直にいって少々うざかったのだけれど、ホットコーヒーのおかわりが無料だということを知らなかった相方にむけて発した、「これ永遠の飲み物だぜ!」という発言には不意をつかれたというか、もうすこしで吹き出すところであぶねーという感じだった。語の組み合わせが斬新すぎる。
(2009年2月10日づけの記事)

「これ永遠の飲み物だぜ!」には当然笑ったが、しかしそれ以上に、この「大学生男子二人組」が現在三十代半ばであるというその事実のほうにぐっとくるものがあった。あるいはまた、そのように彼らの現在のことを想像しているこちらがいることを、彼らふたりのほうではきっと考えたこともないだろうこと——そのことになんともいえないほどの風通しの良さをおぼえる。「これ永遠の飲み物だぜ!」という、発言者当人も忘れている可能性のきわめて高い馬鹿馬鹿しい言葉が、赤の他人によって日記に書きつけられていること、そしてその記述をきっかけにおよそ11年後、おなじ赤の他人によってみずからの現状が想像されていることを、当の本人らは絶対に知ることがないという事実――ここに自由がある。じぶんにたいする言及がじぶんのまったくあずかりしらぬ予想だにしない一画でなされている彼らの立場に立つとき、じぶんにもまたそのような死角があることをありありと感じる。死角、それは他者だ。この世界には他者がいる。他者とはこちらの支配をのがれ、想像をうらぎり、視界をふりきりその外へ外へと逃げ去るものだ。そのような他者の存在だけが、どういうわけかこちらには自由を担保してくれるものとして映じる。あるいは自由とは——少なくともこちらにとっては——じぶんの予測や常識をうらぎるすべての事象にあたえられた名前なのかもしれない。そしてくりかえしになるが、それこそ他者の存在によって担保されているものなのだ。
(2020年2月14日づけの記事)

「他者とはこちらの支配をのがれ、想像をうらぎり、視界をふりきりその外へ外へと逃げ去るものだ。そのような他者の存在だけが、どういうわけかこちらには自由を担保してくれるものとして映じる。あるいは自由とは——少なくともこちらにとっては——じぶんの予測や常識をうらぎるすべての事象にあたえられた名前なのかもしれない。そしてくりかえしになるが、それこそ他者の存在によって担保されているものなのだ」という箇所、けっこう大事だ。「予測や常識をうらぎるすべての事象」というのは、現実的なもの(出来事)であるが、それこそが「自由」である、と。そしてそのような「自由」を担保するのが「他者」である、と。現実的なもの(出来事)をもとめる傾向を仮に(死の)欲動とすれば、(死)の欲動とは「自由」をもとめる力であるということになる。そしてこの場合の「自由」とは、象徴秩序の対義語ということになるだろう。自由とは危険なものだ。そして主体はその自由を享楽せずにはいられない。
(2021年2月14日づけの記事)

(…)先生のレジュメにはところどころ(…)さんの書き込みの痕跡があった。一年生当時の、まだ全然日本語ができなかった彼女のお世辞にもうまいとはいえない筆跡だ。(…)先生は(…)先生で、レジュメは基本的にはもちろんWordを用いて作成しているのだけれども、ところどころに手書きのイラストや手書きの文字を添えている。そんなふたりの筆跡を相手取りながらこちらはこちらでまたメモをとっていたわけだが、そういうことをしているあいだ、たびたび、はげしくてするどい、ほとんど痛みにも似た感動をおぼえることがあった。(…)先生のことは(…)さんや学生から何度か聞いたことがある。ただ直接会ったことはないし連絡をとったこともない、そういう意味で、知っているともいえるし知らないともいえる半端な他者である。(…)さんはいま現在もっとも親しい学生のひとりであるが、このレジュメにたどたどしい日本語を書きつけていた当時の彼女とは面識がない、そういう意味でやはり、知っているともいえるし知らないともいえる半端な他者だろう。そしてそれらの半端さこそが、この世界にはじぶんではない他人がいるのだという当然の事実をあらためてみずみずしくつきつける、ほとんど啓示じみた瞬間のおとずれのきっかけとして作用したらしい。「知っているともいえるし知らないともいえる半端な他者」のものであるふたつの筆跡――それは指紋としての文字、他者の他者性(他者の特異性=単独性)のあらわれとしての文字だ――が、飛び石や踏み石のようなものとして、「(まごうことなき)他者」の実在を身体で理解するための筋道をつけてくれたのだ。結局、十数年の長きにわたってこのようにして毎日あほうのごとく長文日記を書き記しているのは、この世界にはじぶんではない他者がいるという当然の事実を、そしてその他者ひとりひとりに固有の記憶があるという当然の事実を、確認して指摘するためでしかないのかもしれない。実際、日常生活のなかでしばしば啓示に打たれたと感じるときというのは、だいたいいつも「他者」にたいする認識が十全に果たされたときではないか? そしてその「他者」にたいする十全な認識が、こちらの論理では、そのままある種の解放感/開放感、風通しの良さ、身体の軽さ、すなわち、「自由」の確保に短絡することになる。他人を見るたびにいちいち「他者」を感知していては、現実的な生活はほぼ不可能である。であるからひとは通常、そのような「他者性」を括弧に入れて処理する。イギリス留学時代の漱石が裸婦画を鑑賞するのは決してなまやさしいことではなかったというようなことを柄谷行人がどこかで書いていたが、あれはとどのつまり、裸婦像の性的側面を括弧に入れることでしか芸術としてのヌードは成り立たない(そしてそのためには特別な訓練が、そのような文化的背景を持たない当時の日本人には必要だった)ということだろう。あるいは、谷川俊太郎のお悩み相談室的な書籍だったかで、患者が死ぬたびに悲しくて泣いてしまうという医療関係者について谷川俊太郎がけっこう突き放した回答を寄越していたおぼえがあるのだが、あれも患者の実存(特異性=単独性)をまずは括弧に入れるのが医療に従事するものの覚悟であるのではないかと諭すようなものであったはずだ(ただし、おなじ医療でも、精神分析の現場においてはこれとまったく正反対の態度がもとめられるわけだが)。それにからめていうと、こちらはおそらく他者の他者性(他者の特異性=単独性)を括弧に入れることがあまりうまくない人間だということになるのかもしれない。こちらの括弧はおそらく箍が外れかけている。だからすぐに「他者」を見、「他者」を聴き、「他者」を感じ、そして法悦や啓示の敷居に立ち尽くしてしまう(こちらが筆跡フェチであるのも、その中に「他者」を見出しやすいからだろう)。こちらの生活の端々に顔をのぞかせるあれらの宗教的な感動は結局そういうことなのではないか?
(2019年2月12日の日記)

 あと、(…)くんがずいぶんひさしぶりに記事を投稿していた。具合が多少良くなっているのであればいいのだが。新規投稿された記事のなかに『A』に対する言及があった。

 こんかい読んでこれは意外とすごいんじゃないかとおもった箇所は、12ページの「大佐は完璧な詩人だった。言葉の誤りを指摘されるたびに、むしろその言葉によって指示しようとした当のものを誤用された言葉に見合うべく変形してみせる、しなやかで強情な鑿の振るい手だった」というところと、28ページの、「罰の予感がすでに罪であり、罪の実感がつねに罰であった」というアフォリズム的なひとこと。どちらも段落のはじまりにあるもので、要は後続する記述群との距離感の点でというか、つながりがよくわからんというかほぼないようにおもえるその並列・切断感覚において(それぞれの直後としては、前者は「戦の大半は海戦であった」とつづき、後者は、「めざめと同時に今日がその日だとだれもが直感せざるをえない完璧な凪の数日というものが一年のうちに何度かおとずれた」とつづく)。特に後者。前者は大佐の人物像の記述として理解できるし、この前段で、「魂の感受性の異様な繊細さ」とかあったり、「世界と詩と魂が三位一体となってとりむすぶ崇高な共犯関係」と「詩」ということばそのものも出てきているし、大佐の「詩人」性はのちにもいくらかはあらわれていたはずなのでまだおさまりがつくのだけれど、ただこの三行がこの位置にあるのは特殊じゃないかとおもう。ふつう、前段の大佐の説明の部分とひとつづきに組み込んでしまうものではないかと。後者はもっとよくわからんというか、このひとことだけ独立自存しているような感じがありつつも、がんばって解釈をつけようとすればこれはこれのことであると強引に言えなくもなさそうな気もするそこはかとない意味のひろがりがただよっているような感触、だろうか? しかしそれも決して妥当にはなりきらないというような。

 これは(…)くんの指摘どおりで、意図して「切断」をもちこんでいる。もちろん元ネタはムージルムージルは『三人の女』の書き出しで(正確にいえば、「グリージャ」と「トンカ」で)、最初に作品全体を象徴しているようにもそうでないようにもみえるアフォリズムを含んだ短い段落を置き、その後に叙述をはじめるという書き方をしている。「A」はとにかくこの第一段落になによりも強い影響を受けており、たとえば、基本的に機能に徹している「語り」がときおり「語り手」としてその存在論的次元を誇張するように前面にあらわれることがあるが——こちらの記憶が正しければ、それは「語り」に対する「語り手」のツッコミ(反論および疑問)というかたち(具体的にいえば、「しかし……では?」という文章)をとっていることが多い——、これは「グリージャ」と「トンカ」の第一段落において前面にあらわれていた「語り手」がその後姿をくらまして機能としての「語り」に擬態しているあの奇妙さを自分なりにアレンジしたものだ。そしてそれとは別に、「最初に作品全体を象徴しているようにもそうでないようにもみえるアフォリズムを含んだ短い段落を置き、その後に叙述をはじめるという書き方をしている」というその書き出しを、最初の段落のみならずほかの段落でも使ってもいいのではないかというひらめきにうながされるようにして書いたのが、ここで(…)くんが指摘している二箇所プラスαで、「作品全体を象徴しているようにもそうでないようにもみえるアフォリズム」を踏まえていうならば、それらの段落のあたまには「段落全体を象徴しているようにもそうでないようにもみえるアフォリズム」が意図して置かれている。こちらはわりと意味に憑かれやすいタイプであるので、そのアフォリズムを配置するにあたっては、なるべく「接続」よりも「切断」のほうに軸足を置くようにこころがけた(つまり、実質的に、その段落を象徴していないアフォリズムを、あたかも象徴しているかのように——そうみえる特権的な位置に——置いた)。そのようにして「切断」のリズムに身を慣らすことで、その後、改行なしで続けられる文と文のあいだに以前では考えられなかった飛躍をもうけることもできるようになったと記憶している(文章そのものはなめらかに連鎖しているのだが、その意味の流れにはゴツゴツとした違和感をもたらすことができるようになった)。
 おそらくだが、こうした「切断」および「飛躍」の感触は「S」ではほぼ見られなくなっていると思う。「S」は「切断」ではなく「接続」の小説、いや「接続過剰」の小説であり、そういう意味でいえばけっこう古臭いものだと思う。切れ目によって意味(解釈可能性-象徴的なもの)および無意味(解釈不可能性-現実的なもの)をもたらすのではなく、とにかくあらゆる読み筋を担保しながらもひとつの読み筋に還元する大きな筋だけは避けるという運動によってのみ成立している構築物であるので、一文一文の歩みも自然とそのようなものになっている。
 (…)は入浴で疲れているので今日も(…)川には行かない。そういうわけで、日中も夜も、ひたすら『双眼鏡からの眺め』(イーディス・パールマン/古谷美登里・訳)の続きを読む。「落下の仕方」「双眼鏡からの眺め」「おばあさん」「ジュニアスの橋で」あたりがおもしろい。手放しで絶賛するわけにはいかないのだが、それでもやはりこの作家から学ぶべき点は多いとあらためて思う。場面(時空間)が大きく転ずるにしても、そのための目印のようなものはもうけずさらっと転換するし(こうした不親切さ——いつまで経ってもお客様気分の抜けない俗世のカッペどもがしばしば「説明不足」と難ずるポイントだ、そんなに説明がほしいのであれば一生冷蔵庫や電子レンジの説明書を読んでいればいい——にこちらはつねづね好感を抱く)、しかも転換した先の場面が一行か二行で片付けられてふたたびさらっと転換することもままある(そしてそのような二度三度と続く転換が改行なしに、おなじ段落のなかですまされることもやはりある)。この軽やかさはほかに見たことがない。映画のカット割を意識して読むとまたおもしろい。
 短編で場面(時空間)を何度も何度も転換させるのは容易ではない。凡百の作家がそれをやろうとすると、概略的記述に終始してしまうことになるだろう。けれどもイーディス・パールマンはそうならない、文章はあくまでも事物の具体的なディテールにむけられている。それでいて、上に述べたような軽やかさを駆使することで、厚みのある時間もひろがりのある空間もなんなく移動してしまう——必ずしも全篇がそのような美質をそなえているわけではないが、しかしどの作品にも最低一箇所はそのような驚きをもたらしてくれる(目立たない)技術が使われている。
 こちらは前々から「実弾(仮)」を片付けた時点で短編にとりかかるつもりでいた。そしてその場合、多くの登場人物を取り扱い、多くの場面転換を有する、そういう短編を書いてみたいという欲望があったのだが、そうすると記述がどうしても概略的にならざるをえないのではないかという懸念があった。パールマンの小説はそんなこちらの懸念に対して大きなヒントを与えてくれたように思う。
 夕食後、(…)ちゃんと(…)がバレンタインデーのチョコをもってあらわれた。(…)ちゃんは手作りのガトーショコラ。(…)も手作りで、棒の先っぽにチョコで作ったかわいい熊の顔がついているものだったが、こちらと弟と母と父のために合計4本用意してあるうちの1本を、「これは(…)ちゃんの!」と何度も主張する。それで母が、なんでこれは(…)ちゃんのって決まっとんのとたずねると、え? これは失敗したやつから! という返事があったので、さすがに笑った。ふたりは渡すべきものを渡してとっとと帰った(どうせまた週末にやってくるのだ)。(…)からのチョコレートはカブトムシおよびクワガタムシとそれらの幼虫を模したものだった。型を使って作ったのだろう。カブトムシおよびクワガタムシはふつうのチョコレートで、幼虫はホワイトチョコレート。特に幼虫のほうの見た目がまずまずリアルだった。両親宛てのものはふつうのプレゼント袋に入っていたが、こちらと弟に宛てたものは、あれはたぶん市販でそういうものが売っているのだろう、病院でもらう薬の入っている袋を模したやつで、患者の名前欄には「(…)ちゃん」、用法・用量欄には「好きなときに好きなだけ」と書かれていたのだが、その字がなかなかうざだったので、性格がやっぱり出るなァと笑った——と書いたところで、ふと思ったのだが、「字が汚い」の意味で「うざ」というのはアレか、うちの方言か、だらしないとか几帳面じゃないとかそういうニュアンスであるのだが、これは標準語ではないし、もっといえば関西弁でもない。
 (…)ちゃんからもらったガトーショコラはボリュームたっぷりだったので明日食べることに。(…)&(…)の姉妹からもらったものはその場で食べた。日中AmazonからとどいたGODIVAの詰め合わせ(学生らにプレゼントするべくこちらが買った安物)も少し食べた。
 夜もひたすら書見。(…)の後ろ足がいよいよまずく、最近ではじぶんひとりで起きあがることもなかなかままならない。小回りも全然きかず、方向転換するためにはぐるりとその場で大回りする必要があるのだが、後ろ足がやはりついていかず、回転しているうちに足がもつれてそのままどしんと座りこんでしまうこともしょっちゅうある。本人は方向転換しようとしているのだが、ぐるりと大回りしてそのままどしんと尻餅をついてしまう、そのようすを見ているとまるでドリフトしているみたいではないかと思う——そう漏らすと、母が笑った。まあしんどいことは笑い飛ばすのが一番だ。ユーモアなしでは世の中やっとれん。