20240212

 哲学者のダニエル・デネットらの研究によれば、心の中の知識や信念に不一致を見出したときに、ぼくたちはおかしみを感じて笑いが起きる、という。ぼくたちの脳はたくさんの情報を高速で処理している。ときには不完全な情報のなかで知識や信念を形成している。そのため、どうしても現実との不一致が生じる。その間違った信念に基づいて行動すると、生存が危うくなる。だから、心の中の信念や知識のバグ取りの報酬としてユーモアの情動が生まれた、という説である。そのユーモアの情動という報酬を求めて、コメディやジョークといった笑いの文化を発展させてきた。
 たしかに漫才をものすごく単純化すると、観客に次の展開を予測させる「フリ」、その予測を裏切るような「ボケ」、両者の不一致を指摘する「ツッコミ」で構成されている。ただし、ここで重要なのは、不一致を見出したときに否定的な感情が触発されると笑えなくなる、ということだ。「怒り」や「悲しみ」「恥ずかしさ」といったマイナスの感情は、笑いというプラスの感情を押しやってしまう(相手を見下す優越感はプラスの感情なので、プラスの感情同士が掛け合わさって、笑いが増幅される)。
(綿野恵太『「逆張り」の研究』)



 11時起床。おとついづけの記事の続きを書いて投稿。父が買ってきた遠方にあるパン屋のハンバーガーや菓子パンを食す。食後のコーヒーを飲みながらウェブ各所を巡回し、2023年2月11日づけの記事と2014年2月11日づけの記事を読み返す。以下、ずっとむかしにTwitterに投稿していたつぶやき。初出は2016年5月24日づけの記事。

動画を描写するのはある程度たやすい。そのなかにあって動いているものから先に書けばいいから(ひとの目線は動くものをなかば反射的に追う)。困難は静止画の描写にある。そこにあって動くのはむしろ語り手の目線である。その目線の動き、とらえる対象の優先順位が、欲望の在処と傾向を暴露する。

そういう意味で、風景描写ほど人間の「内面」にせまるものはないという逆説も成り立つ。近代文学的な「内面」の投影とは無縁の、それ自体に徹してあるはずの風景描写が、それでいてたとえば「無意識」と呼ばれうるような、より過激な何事かをあらわにする。描写は赤裸であることをまぬがれえない。

感情は喜怒哀楽の四種類では当然ない。命名と分節は単なる便宜にすぎない。名づけられたものから名づけようのなさを取りもどすこと。すでにあたえられている「名称」を「文」へと解体することで? 名詞にたいする挑戦。世界の仕切りなおし。

「舞台」や「状況」を説明する文章を冒頭に配置すると途端につまらなくなる。読むもののなかでことばを組みたてていくよろこびが失われる。名詞的になってはいけない。名詞は了解を強いる。一転、形容詞的な世界について語っていた荒川修作のことばとたくらみがよみがえる。

ひとつの光景を具体的に描くにあたって抽象的なことばづかいをし、ひとつの光景を抽象的に描くにあたって具体的なことばづかいをすること。

 以下は2014年2月11日づけの記事より。

 今日多くの俘虜の記録が降服の心理について書き、「人間性」「生きる欲望」の如き観念をもってそれを飾っているが、卑見によればかかる行為には、必ずしも心理的連続性を求めなくてもいいのである。
 或るレイテの俘虜は肉薄攻撃に出されて家ほどある米戦車を見、俘虜になってもいいから家へ帰りたいと思ったそうである。しかもこの時まで彼は一度も降服しようとも、家へ帰りたいとも思ったことはなかったのだ。訓練とは既知の状況による習慣の蓄積であるから、未知の事実の前では一挙に崩れることがある。こういう心理の断層を時間的に表わす方法はない。
大岡昇平『俘虜記』)

 あと、「夕方(…)さんから職場に連絡があって熱があるので休みます、でもたぶんインフルエンザではないと思いますとそこはしきりに否定してみせるのだけれど、これもう確実にパンデミック前夜だろうという気がしないでもない」という記述にちょっとおどろいた。10年前の時点ですでにパンデミックという言葉はこちらにとって日記に書きつける程度には使い慣れたものとしてあったのか。
 そのまま昨日づけの記事にもとりかかる。投稿し、今度は1年前と10年前の記事を読み返す。以下は2023年2月12日づけの記事より。初出は2022年2月12日づけの記事。

(…)シャワーを浴びている最中、直前までFF7REMAKEの動画を見ていたためだろうが、ループものについて考えた。すべての記憶を持ち越したままじぶんの人生を最初からやり直すという方式ではなく、たとえばある日、突然、人生の軌道がそれ相応に固まりつつある時期に(十代後半から二十代前半?)じぶんの人生が二周目であることに気づき、一周目と二周目の差異に翻弄されるみたいなタイプのエンタメ小説もあるのだろうかと思った。なろう系の発想でいえば、一周目の記憶をフルに使って二周目の人生を神話の原父のごとく思うがままに享楽しまくるわけだが(チート)、この発想って結局、一周目の人生のなにもかもが壊滅的にうまくいっていないことが前提になっている。たとえばじぶんの身で置き換えてみるとわかりやすいのだが、手持ちの記憶を引き継いで高校卒業と同時に人生をやり直すとして、一生食っていける金を稼ぐ手段は無数にあるだろう。ただ、そこで食いっぱぐれることのないほどの大金を稼いだとして、じゃあもう働く必要はないのだしという感じで、(…)や(…)で働かないという選択をじぶんは選びとることができるのだろうかと思う。記憶の中に同僚や学生らとともに過ごした経験は確かに蓄積されている、その経験をこの世界は決して認めない、そういう状況にじぶんははたして耐えられるのだろうかと思う。耐えられないのではないか? そこで二周目でも仮に(…)や(…)で働くことになったとする、しかし当然一周目とは差異が生じる、一周目とはいくらか異なる人間関係を築き上げることになるだろうし、一周目で起こったはずのイベントが二周目では起こらないこともあるだろう。一周目に比べてはるかに良い関係性を築き上げ、はるかに良いイベントが生じるかもしれないが、一周目はより良く美しいそれらによって次々となかったことにされていく。そのことに自分は耐えられるだろうか? 耐えられないのではないか? 耐えられずに狂うか死ぬかするのではないか? そういうようなことをぼんやりと考えていたとき、ふと、あ、おれってこんなにもじぶんの人生を肯定している人間なんだ、と驚いた。橋本絵莉子波多野裕文の“飛翔”の「もう一度やり直せても同じことを選ぼうと思う」という歌詞を思い出した。
 この発想であれば、ラノベではなく擬似私小説のほうが面白いかもしれない。自分の人生を大学卒業あたりからたどりなおすのだが、「なかったこと」にされていく細部に耐えられなくなっていく語り手による手記。この方法を用いれば、私小説(一周目)と擬似私小説(二周目)を組み合わせることができるし、それを現実と虚構の対立として作り上げることもできる。さらに手記という体裁に工夫をくわえてもう一段メタフィクションっぽく積み上げることもできるかもしれない。ずっと以前から、過去の日記とそれに対する注釈というかたちで小説を作ることができないかと考えていたわけだが、その方法よりもこちらのほうがずっといいかもしれない。

 それから以下のくだり。2014年2月12日づけの記事より。

痰のからんでいる感じがあったのでのどをふりしぼって吐きだすと血だらけの真っ赤っかだった。結核時代ならたいそうなことである。(…)の従姉妹の、名前をど忘れてしてしまったが、駅まで送っていく短い道のりのとちゅうで彼女が梶井基次郎の小説が好きだと口にして、吐き出した血痰の水のなかに沈んでただよっているさまを金魚に喩えている箇所があってそこがすごく良いのだといっていたのを思い出した。たしかにこれ以上正鵠を射たものはないというくらいすばらしい比喩だと思う。

 ちょっと思ったのだが、これ、もしかして本当に結核だったのではないか? 去年受けた健康診断の結果に結核疑いアリと出て、後日あらためてCTを撮りなおしたところ、過去に肺病をわずらったのを自然治癒している痕跡があると言われたわけであるけれども、それってもしかしてこの時期のことだったのでは? 京都時代はめちゃくちゃでたらめな暮らしを送っていたことであるし、身体がどういう壊れかたをしていてもおかしくはない。

 今日づけの記事をここまで書いた。時刻は16時をまわっていた。ZOZOTOWNからセール品の黒Tシャツがとどく。試着。問題なし。
 (…)を連れて(…)川へ。(…)、(…)ちゃん、(…)と会う。(…)はすでに帰路についていたところらしいが、われわれの気配に気づいていつものごとく猛ダッシュで道をひきかえしやってきたのだった。(…)のところは今日も母娘ふたりの付き添いだった。娘さんは中学生だろうか? もしかしたら高校生かもしれないし、意外に小学生かもしれない、最近の女の子はマジで年齢がわからない、いや最近にかぎった話ではないか、ずっと以前から女の子とはそういう生き物だったような気がする——と、書いてみて思ったのだが、こちらが他人の年齢を推測するに際しておぼえる苦手意識というか、見当違いもはなはだしいことを言ってしまうのではないだろうかとおぼえるためらいは、たぶん中国に渡って以降感じるようになったものだ、(田舎に住む)中国人と日本人の外見があまりに違うからだ、それでますます混乱するのだ。(…)のところの娘さんははじめて会ったときからだれかに似ている気がしてならなかったのだが、今日その既視感の正体がつかめた、卒業生の(…)さんや三年生の(…)さんに似ているのだ。猫目の女子なのだ。
 帰宅して食事。入浴。(…)からLINEがとどく。もう何年も前にこちらから借りパクするだけして着潰しやがったSTUSSYのナイロンジャケットによく似たものがメルカリにあったという報告。どうでもよろしい。ついでにちょっとやりとり。それできのうづけの記事にひとつ書き忘れていたことを思いだした。小学生のころ休み時間によくドッジボールをして遊んでいたが、チーム分けにあたってじぶんはいつも最後まで残っていたという話を(…)が不意に口にする一幕があったのだった。(…)は運動神経が悪くない、というか不器用ではあるけれども運動神経はむしろよいほうであるはずなのに、球技でチーム分けをするにあたってはしかし毎回残り物になった。つまり、それほど周囲から嫌われていたというわけで、その時点でこちらと(…)はちょっと笑ってしまうわけだが(小学生当時の(…)はすぐにキレるし絶望的に空気が読めないしで、たしかにおもいっきり周囲から嫌われていた——というか日常的に遊ぶ相手なんてこちらくらいしかいなかったのでは?)、息子の(…)にだけはあんなみじめな思いをしてほしくない、まわりから嫌われてほしくないと続けたのち、「マジで俺みたいになってほしくねえでなァ〜!」と抑揚たっぷりに口にしたのに、ゲラゲラ笑ってしまったのだった。
 書見。『双眼鏡からの眺め』(イーディス・パールマン/古谷美登里・訳)の続き。200ページほど読んだ現時点では「トイフォーク」という作品がもっとも印象に残った。『蜜のように甘く』収録の「夢の子どもたち」に通じるものがある。一見するとおだやかでしずかな生活の隅で口をひらいている闇がグロテスクなイメージをともなって表象される(「夢の子どもたち」では絵画であり、「トイフォーク」では人形である)。なによりも最後の一ブロックがすばらしい。ファーガスとバーバラはすでに孫のいる初老の夫婦。ベルナールとアンナというふたりよりも若い夫婦と知り合う。アンナはバツイチで、以前の夫とのあいだに娘がひとりいるが、夫に連れ去られてしまっていまはどこにいるのかすらわからない。ベルナールはアンナとのあいだに子どもがほしいが、アンナは生き別れとなった娘のことが念頭にあり、あたらしい子どもを作る気になれない。以下、若い夫婦のそういう背景を知ったファーガスとバーバラが寝室で交わすやりとり。

 パジャマ姿のファーガスは、ふんわりしたベッドカバーの上で足の爪を切ってはゴミ籠に捨てていた。ナイトガウン姿のバーバラは短い髪を梳かしていた。
「娘を亡くしたものだとばかり思ってた」と彼は言った。
「消息がつかめなくなったのね」
「ベルナールは娘を亡くした父親なんだと思っていたよ。いや、ある意味では亡くしたんだ。彼の子供は生まれさせてもらえなかったんだからね」ファーガスは立ち上がり、ゴミ籠を部屋の隅に戻し、爪切りを箪笥の上に置いた。
「ベルナールは他人の子をわが子の代わりにしている」バーバラが言った。ファーガスはそのことを考えながら肘を箪笥の上にかけた。「人の親となる怖さを味わうくらいならそういう方法も悪くない、という人もいるわね」と彼女はさらに言った。
 ファーガスは不愉快そうに彼女を見た。
 彼女は大胆な視線を返した。「いっそ、そのほうがいいかもしれない」
「という人もいるだろう」ファーガスは、彼女が同じ言葉を繰り返さないよう、急いでそう言った。安心できる環境で人の親となる喜びを味わってきた彼女——あの律儀に時を刻む時計の音に耳を澄ませばいいのだ。「ともあれ、私たちにはよくわかっている」と彼は言った。
 そして妻が同意するのを待った。
 さらに待った。
(p.166-167)

 ものすごく大雑把に言ってしまえば、ここで妻バーバラは「安心できる環境で人の親となる喜びを味わってきた」ことを沈黙というかたちで否定している。いや、それは否定というほど強いものではないかもしれないが、夫ファーガスが考えるほど能天気に丸ごと肯定できるものではないと訴えている。「トイフォーク」というこの小説では、上に引いた最後のブロックにいたるまで妻バーバラが家庭生活に対してひそかに抱いてきたであろう不安や不満などに対する言及はないし、そもそもバーバラの存在感自体が薄い、つまり、小説は基本的にファーガスとベルナール&アンナ夫妻との交流に軸足が置かれている——そしてそのような偏り自体が、バーバラの秘められた内心が沈黙(不同意)のかたちをとって突然あらわになるクライマックスの、その「突然」っぷりを裏打ちする。ファーガスがバーバラのことをまるで理解していなかったように、(バーバラに対する言及に乏しい/バーバラの出番が少ない)この小説を読んでいた読者もやはりまたバーバラのことを理解していなかったことを、この最後のブロックで突きつけられる(これをジョイスのいうエピファニーとして理解してもいい)。形式と内容のねじれた一致。その構造を、「ファーガスは、彼女が同じ言葉を繰り返さないよう、急いでそう言った。」や「そして妻が同意するのを待った。/さらに待った。」などのちょっと尋常でないほど冴えわたっている記述が力強く支える。
「トイフォーク」はわりと小説としての結構がかっちりしているほうであるのだが(とはいえ、ベルナールが大量の人形や玩具を作っていてそのなかにグロテスクな造形のものが混じっている点や、多言語をあやつる新聞売りが筋には直接関与するわけではないけれども妙な存在感で登場する点など、読み筋のフックとなるものはほかにもたくさん散らばっている)、パールマンの小説は基本的にけっこう危なっかしいというかきわきわというか、小説としての結構が半分ほどけているものが多い。だから読むひとによっては、これはちょっととっちらかっているんではないかと感じることもあるだろう。しかしそれはまずまちがいなく意図的なものなのだ。チェーホフマンスフィールドの路線をヌーヴォーロマンやポストモダン文学を経由してなお継承するとすればこれしかのだ。チャーホフやマンスフィールの路線をぎりぎりのところで保ちつつも、どこまでほどくことができるか、どこまでばらけさせることができるか、どこまで風通しよくできるか、そういう問題意識につらぬかれたものとみなすと、俄然わかってしまう。短編小説の割にはどれもこれも登場人物がやたらと多いのも、多人数の導入がそうした拡散性——それがリアリティをもたらすという信念がおそらくこの作家にはある——を小説に与えてくれるからだろう。