20240215

生け贄は捧げなくてはならないが、生け贄になりたがるものはだれもない。事実、われわれの全生活は、その一大原理に捧げられている。
フィリップ・K・ディック浅倉久志・訳『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』)



 11時起床。弟のこしらえてくれたうどんを食す。ZOZOTOWNからglambのアウターがとどく。試着してみる。悪くない。悪くはないのだが、これにはたして30000円もぶちこむ価値があるのだろうかと悩む。服に関しては悩んだ時点で買うべきでないというのがこちらのポリシーなので、例によって返品手続きをおこなう。
 コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書く。投稿し、1年前と10年前の日記を読み返す。(…)ちゃんが昨夜もってきてくれたガトーショコラを食す。うまい。

 『双眼鏡からの眺め』(イーディス・パールマン/古谷美登里・訳)を最後まで読む。訳者のあとがきで知ったのだが、イーディス・パールマンは10年以上日本語を勉強していたらしい。収録作のなかに日本語講座に通う人物を主役に据えたものがあり、文法に関するけっこう細かな言及があったので、もしかしてとは思っていたが、そこまで本格的に勉強していたのか。
 弟と母がアルゼンチン赤海老と鯛を丸一尾買ってくる。下手に外食するよりも鮮度のよい魚をスーパーで買って父に捌いてもらったほうが安上がりだという。(…)を連れて(…)川へ行く。今日はだれにも会わない。後ろ足からまた出血する。帰宅してからマキロンで消毒する。夕飯の赤海老と鯛はどちらもクソうまかった。今回の一時帰国中に食ったもののなかでは一番だと思う。
 入浴後、執筆するつもりだったが、なんとなく『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)を手にとってしまう。過去に100ページほど読んだ痕跡があったが(付箋が貼ってあったのだ)、最初から読むことにする。
 (…)さんから週末に会えないかと微信がとどく。ひさしぶりに対面でいろいろ話したいという。わざわざ(…)まで出張ってくるつもりらしいので、またなにか悩んでいるのかもしれない。しかし対面してゆっくり話すにしても、そもそも(…)駅前にも(…)駅前にもカフェなんてこじゃれたものは(たとえチェーン店であっても)一軒もない。車がないと話にならないのが田舎の宿命である旨を伝えると、だったら車で向かうというので、よほど話したいことがあるようす。今年の夏から数年ぶりに中国に渡るわけであるし、いろいろ気にかかっていることがあるのかもしれない、(…)さんは旅行好きであるしローカルの人々と交流するのも好きであるわけだが、コロナ以降——さらにいえば処理水放出以降——ますます悪化している人民らの対日感情についておそらく不安があるのではないか、以前のように日本人ひとりで中国国内をぶらぶらしてもだいじょうぶなものだろうかという懸念があるのではないだろうか、それでそのあたりの肌感覚を直接こちらにたずねてみたいというのがあるのではないか。あるいはひょっとすると家族に渡航を反対されてうんぬんという話かもしれないが、そんな話であればわざわざこちらに相談する必要も意味もない。しかし(…)さんはそういう贅沢な不要や無意味を好む。


 
 卒業生の(…)さんがモーメンツに佐井好子なるアーティストの楽曲リンクをはりつけていた。なんとなく見覚えのある名前だと思ったので調べてみると、非常階段のJOJO広重が絶賛しているアーティストだった(「佐井好子こそ最も愛し、重要な影響を受けたアーティスト」「死ぬまで聴きつづけるだろう」)。それでこちらもひとまず『胎児の夢』を流してみたのだが、ところで(…)さんはいったいなに経由でこの日本人アーティストを知ったのだろう。彼女は現在とてもレベルの高い大学院に在籍しているはずだが(どこであるかは忘れたが!)、専攻は日本語から別分野に変更したし、学部生時代はそもそもろくに勉強していなかった——というのは一年生時に半年だけ対面授業を担当したことのあるこちらの感想であり、彼女のクラスメイトである(…)さん曰く、大学院に進学すると決めたあたりから一念発起して猛勉強を開始し、それで見事現役合格を果たしたらしいのだが、いずれにせよその一念発起のきっかけも過程も当時日本でオンライン授業をしていたこちらはまったく知らない。だから彼女がどういう人物であるかもやっぱり全然知らないわけだが、少なくとも非常階段を好んで聴取するタイプの人間では絶対ないので、JOJO広重経由でたどりついたわけではないだろう。中華音楽アプリに内蔵されたアルゴリズムの悪戯か。
 夕飯の残り物である鯛のあら汁をお湯代わりに沸かしてインスタントラーメンを食った。寝床に移動後も『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)の続き。

 こうしてぼくは内から外を見る——そして外から内を? ぼくは、いつか水晶のなかに閉じこめられているのを見たことがある一匹の蚊を思い出す。蚊は、ぼくがいまだに悟性のコントロールの下に制御できずにいるある審美的素質から、ぼくの——まあ、美的感情を——侮辱するなにものかだ。しかし、あのときぼくが水晶のなかで見た蚊は違っていた。
 あの蚊は異質な媒体に閉じこめられたことによって、あのディテール、ある意味で蚊としての人格を失って、繊細な器官を具えた暗い平面としか見えなかった。ぼくはまた、ある光が疲れた夕べに、黒い点となって、草緑色の丘の上を、黄色いオレンジ色の空を横切って進んでいく人間たちに対して、この感情を抱いたことがあるのを思い出す。つまり、近くにいれば、あるディテール特性の総計としてたしかになにものかによってぼくを侮辱したであろうこれらの形態が、このときは審美的快感を喚起し、ぼくのなかに共感の感情を顫動させた、あの感情である。
(1-2)

 これを読んだとき、かつて『S&T』に収録した一節を思い出した。

 疲労、辟易、いらだち――特定の個人を愛することの困難が日々を剣呑にする。毎日の買いだしにむかう道のりですれちがう見覚えのあるのかないのかすらさだかでない無数のかんばせファストフード店の二階席から見おろす交差点を行き来するときにまばらでときにはげしい色とりどりの人波、眼前をよこぎる電車の窓越しに一生分の一秒だけ目が合う無口なひとみ、欄干から見晴らす川岸に点在してはねまわる休日の人影――愛でるにたるうつくしい場面のひとつひとつを数えあげるうちに、風景としての人間にならばたやすくささげることのできるらしいおのれの愛の性質を知るにいたる。

 夜の書! ぼくは夜を愛す、夜にはヴェールがないからだ。日中には神経が失明するまでに激しくあちらへこちらへと引っぱられる。しかし夜は、猛獣がひとの頸にとびついて扼殺するとき、神経の生が日中の麻痺から回復し内部に向かって発展するとき、ひとが自分について新しい感情をいだくときである。ちょうどひとが手に蠟燭をもって、突然、暗い部屋のなかの、何日もなんの光線も浴びることのなかった、そして貪婪に吸いこみつつひとの顔をつきつける鏡の前に歩みよったときのように。
 扼殺する爪をもつ猛獣ども! 豹を車に繋いだ王たちがいた。引き裂かれる可能性のなかに漂うことは、かれらの最高の快楽だったかもしれない。
(2)

 ここを読んだときはKatherine Mansfieldの“Prelude”の一節を想起した。ニュアンスはやや異なるのだが、象徴秩序の保たれてある光と騒々しさからなる昼間の世界とは対極の、象徴秩序ががたぴし音をたててきしむ暗闇と静寂からなる夜の世界に対する言及という点では似通っている。

Then she did not hear them any more. What a glare there was in the room. She hated blinds pulled up to the top at any time, but in the morning it was intolerable. She turned over to the wall and idly, with one finger, she traced a poppy on the wall-paper with a leaf and a stem and a fat bursting bud. In the quiet, and under her tracing finger, the poppy seemed to come alive. She could feel the sticky, silky petals, the stem, hairy like a gooseberry skin, the rough leaf and the tight glazed bud. Things had a habit of coming alive like that. Not only large substantial things like furniture but curtains and the patterns of stuffs and the fringes of quilts and cushions. How often she had seen the tassel fringe of her quilt change into a funny procession of dancers with priests attending. . . . For there were some tassels that did not dance at all but walked stately, bent forward as if praying or chanting. How often the medicine bottles had turned into a row of little men with brown top-hats on; and the washstand jug had a way of sitting in the basin like a fat bird in a round nest.
"I dreamed about birds last night," thought Linda. What was it? She had forgotten. But the strangest part of this coming alive of things was what they did. They listened, they seemed to swell out with some mysterious important content, and when they were full she felt that they smiled. But it was not for her, only, their sly secret smile; they were members of a secret society and they smiled among themselves. Sometimes, when she had fallen asleep in the daytime, she woke and could not lift a finger, could not even turn her eyes to left or right because THEY were there; sometimes when she went out of a room and left it empty, she knew as she clicked the door to that THEY were filling it. And there were times in the evenings when she was upstairs, perhaps, and everybody else was down, when she could hardly escape from them. Then she could not hurry, she could not hum a tune; if she tried to say ever so carelessly–"Bother that old thimble"–THEY were not deceived. THEY knew how frightened she was; THEY saw how she turned her head away as she passed the mirror. What Linda always felt was that THEY wanted something of her, and she knew that if she gave herself up and was quiet, more than quiet, silent, motionless, something would really happen.
"It's very quiet now," she thought. She opened her eyes wide, and she heard the silence spinning its soft endless web. How lightly she breathed; she scarcely had to breathe at all.
Yes, everything had come alive down to the minutest, tiniest particle, and she did not feel her bed, she floated, held up in the air. Only she seemed to be listening with her wide open watchful eyes, waiting for someone to come who just did not come, watching for something to happen that just did not happen.

 最近、ぼくは自分のために極めて美しい名を発見した、ムシュー・生体解剖学者というのだ。
 もちろん、ひとが自分のためにこのように美しい名を発見するのは、いつでもポーズである。しかしひとはしばしば深い弛緩の、過労からくる億劫の瞬間に、自分を立てなおすために、ひとにいつものエネルギー、快楽、努力をあたえるもっとも主要な刺激剤を一語に要約するために、このような名を必要とする。このような名は恥ではない。
(2-3)

 こちらも自分自身を「調停者」や「遅刻者」と名づけたことが過去にある。そのような名は恥ではない!

 「でも」と小娘が言ったが、そのなかにはついでに言ったかもしれない文全体が含まれていた。
(6)

 これは完全にムージルだ。ムージルとしか言いようのない一行だ。100%混じり気なしのムージルだ。もしこちらがこの文章のことを知らなかったとして、そしてこの文章がほかのランダムな作家の手による文章といっしょに選択肢として用意されたうえで、さてこのなかのどれがロベルト・ムージルによる文章でしょうかという問いが出されたとして、こちらはほかでもないこの文章がムージルのものであると言い当てることができただろうか? できたにきまっている! それくらいムージルなのだ! こういうことを書くと、じゃあ実際にここにある四つの文章のうちどれがムージルによる文章でしょうかと見当違いな問いをにやにやした面構えとともによこすクソ喰いバヤをトーテムとするカッペの畜群が湧いて出てくるかもしれないが、そういうやつにはおまえみたいなカスがいるせいで世の中がどんどん悪くなっているのだ、くだらないことをしているひまがあったらさっさと田舎に帰ってジジババの稲刈りを手伝ってこいと言いたい。

 ひとはしばしば彼のほんの一瞬の状態を、一本の長い鎖の一環と感じることがある。突然、さまざまな思い出が記憶のなかに蘇り、漠然と、そのなかではこれまでなげやりにしてきた多くのものが、にわかに一つの原因的な意味をもつように思われる一つの鉄の関連を感じる
(10)

 これはそのままムージルの短編の書き出しとしても通用する。というか、(内容は全然違うのだけれどもそのトーンが)ほとんど「グリージャ」の書き出しではないかと思う。

 人生には、奇妙に歩調をゆるめて、前進をためらっているのではないか、それとも方向を転じようとしているのではないか、と思われるような一時期がある。このような時期にひとは不幸におちいりがちなものらしい。
(川村二郎・訳「グリージャ」)

(…)あなたは、なぜあなたには街路が、あなたが出会った人びととは別なふうに思われたのか、その理由がいまでもわかったような気がします。あなたが以前には晴眼者だったとすれば、あなたはいまや千里眼なのです。あなたは物を透視し、また、「ばらばらにして」見ます。他人たちの眼が、計測可能なものへの欲求に従って、諸現象を周知の諸概念に収縮させると、あなたの眼は、放心しつつ、獲得された諸経験のおかげで、計量不可能なもののなかへ、(思考のスリップ)、把握不可能なもののなかへ解消していきます。万事において、あなたはそれらが身に纏って現われる形式を越えて見、背後にある存在の神秘な事象を嗅ぎつけるのです。あなたはかれらにメールヒェン(化身)を創作してやるというのではありません。街路は街路で、家は家、人間は人間です。けれどもあなたは、人間における、他の人びとなら幻影として恐れるものすべてを、理解し愛することができると思っている。あなたは家や街路を楽しんでいるが、それはあなたがかれらに向かって、きみは他人たち、盲人たちにすべてを、それについての知識がいまやぼくをかれらの上に高めている、すべてを隠している、と言うからです。静かな家よ、有り難う! 庭には木々がざわめき、その永遠に単調なメロディーから、かつて一つの恐ろしい考えが一人の人間の心のなかに飛んできたかもしれない。その夜の孤独のなかで、かつて自分の母親に対する恐怖から胎内で窒息死させられ、そのために二人とも死んだ、一つの思考が成熟したかもしれない、静かな家よ、そのなかで新月の夜にぼくの眠りの奇妙な生き物たちがさまよい歩いたかもしれない、静かな家よ。
(13)

 溶融しにくい銀のように、渓流の波が激しい勢いで流れて行く。牧草地は霧の天井で覆われている。他のすべては闇のなかの闇。そして眼は、それでもなおそのなかにニュアンスを発見することによって、洗練される。
(15)

 諸真理はあるが、一つの真理はない。ぼくは二つの絶対的に相反することを完全に主張できるし、いずれの場合にも正当な理由をもっている。ひとはいくつもの着想を比較考慮してはならない——いずれもがそれ自体一つの世界なのだ。ニーチェを見よ。彼のなかに、賢者の精神的自由の体系以外に、一つの体系を発見しようとするやいなや、なんたる惨敗に終わることだろう。
(17-18)

すべてはもっとも単純なものに——そう、常套句にまで還元されうる。
(23)

 五月二七日。知的人間は奇妙な道を辿る。つまり、こう言うこともできる。知性はその発展の過程できわめて大きな進歩をとげた。このことはつぎのように表現することもできる。知性はその発展の過程できわめて僅かな安定性を証明した。
(30)