20240216

 日本語では語り手の主観性はとくに語尾に集中的に現れる。判断や断言を示す「——だ」「——である」、呼びかけや詠嘆を示す「——よ」「——ね」などだ。「です」「ます」も語り手の存在を感じさせてしまう。そこで言文一致体の語尾はもっともニュートラルな過去形「——た」に落ち着いた。
 語尾「——た」は、語られる出来事を客観的な時空の一点に位置づけ、読者の目の前で起きているかのように感じさせる効果がある。つまり言文一致はリアリティ(現前性)のための装置である。上演モデルが、語り手を意識させ、既知の物語をレトリックを含めて味わいなおす(語り物では聴衆は物語の大まかな内容をあらかじめ知っている)のにふさわしいとしたら、現前モデルは読者を物語の渦中に放り込み、未知の現在進行形のできごととして体験させる(サスペンス)。
(樋口恭介・編『異常論文』より倉数茂「樋口一葉の多声的エクリチュール——その方法と起源」)



 正午起床。父の手土産の寿司を食う。母の運転で郵便局へ。ZOZOTOWNにアウター二着返品。郵便局はなぜかやたらと混雑していた。その後、「(…)」という名前のトリミングサロンへ。(…)が通っている店。兄一家のところの(…)や(…)のところの犬も生前通っていたという。(…)のところの旦那さんから以前(…)が口をつけなかったという理由でドッグフードやジャーキーをいただいていたのでそのお返しを買いたいと母が言ったのだ。店は辺鄙な一画にあった。ふつうの一戸建てのような構え。中は犬猫の遊び道具やおやつなどの売り場とトリミングルームとに分かれている。扱っている商品の数は少ない。店舗がせまいからではなく、店のポリシーとしてモノを厳選しているのだろう。おやつにしてもほぼすべてが無添加の国産ばかりで、どれもこれもちょっとびっくりするほど高い。トリミングルームには白い小型犬が二匹いる。台の上におとなしく立っている犬のかたわらには若い女性がバリカン片手に立っており、羊毛みたいな毛をカットしている。レジにいる女性はトリミングを担当している女性ふたりよりも年長だ。あとで母に聞いたのだが、年齢は兄と同じで(ということは今年で41歳だ)、(…)ちゃんの知り合いだという(「(…)さん」というらしい)。母は一度だけ(…)をここに連れてきたことがある。しかし(…)はあの性格なので知らない人間によるトリミングを良しとしなかった。それで結局現在そうしているように風呂には父が入れるようになったのだった。
 レジの女性は当然(…)のことも(…)のことも知っている。(…)のところにお返しとしてなにか買いたいのだがと事情を告げると、毎回必ず買っていくのはこれだといって、バナナとあと二種類くらいの果物を乾燥させたチップスみたいなものを教えてくれる。とりあえずそれを二袋、それにくわえて(…)のためにさつまいもチップスを一袋買う。金はこちらがもった。トリミング中の犬二匹のうち、一匹は顔つきがちょっと老いてみえたのでそう指摘すると、13歳だという。小型犬だからだろう、(…)にくらべるとまだ足がしっかりしているというと、小型犬でもやはり12歳13歳くらいになってくると歩くこともままならなくなる犬も多いと(…)さんが言う。もう一匹の犬は若い。二匹はどちらもトイプードルとマルチーズのミックスということだったが、顔つきもサイズも全然違った。こちらも母も13歳のほうに魅力を感じた。たぶん大多数の人間はもう一匹の若いほう、体も小さくて顔もいかにも愛玩犬らしいかわいいほうを好むと思うのだが、こちらにしても母にしても老犬(…)の顔つきに慣れているので、ちょっとしょんぼりしたような表情を浮かべたままガラス窓越しにじっとわれわれのほうをながめる13歳のほうにひかれたのだと思う。トリミングをしている女性のいっぽうは、髪の毛を先端だけあざやかなブルーに染めていた。(…)にもこんな洒落た髪型の女性がいるのかとちょっと驚いた。目が合ったのでガラス越しに軽く会釈をする。のちほど三年生の(…)さんから(…)の写真がとどいたので、さつまいもチップスの写真を送ってやると、買ってきてほしいと遠回しに頼まれた。しかし食品は税関でひっかかる可能性があるし、そうでなくてもまた店まで車でおとずれるのはめんどうくさい。
 セブンイレブンに立ち寄ってコーヒーとカフェラテを買った。帰宅してきのうづけの記事の続きを少しだけ書いたのち、今度は父の運転で(…)を(…)に連れていく。どうですかと具合をたずねられたので、最近は自力で起きあがるのもむずかしくなってきた、介助を必要とする場面も増えてきたと応じると、注射の種類を変えましょうかという提案があった。これまでは20だったのを30にしてみるという話だったので、要するに有効成分を増やすということだろう。それでお願いしてみることにした。(…)は後ろ足に注射をされても全然怒らなかった。若いころであれば考えられない。体重は23キロほどに落ちていた。いちばん太っていた時期で27キロあった。いまは夕方の散歩以外ほとんど横になっているので、脂肪だけではなく全身の筋肉がどんどん落ちているのだ。先生はそれでもやはりなるべく歩かせてやったほうがいいと言った。腰のところを吊ってやってでもという話だったので、去年の夏休み中に買ったあの介助ベルトをいよいよ本格的に使用するタイミングであるなと思った。それから後ろ足の出血についても相談。以前も爪のあたりから出血していたことがあったのだが、きのう片足だけではなく両足から出血が認められたので(それもカーペットにしっかりと血痕が残るほどの量だったので)、その点相談したところ、爪が変形してしまっているという返事。後ろ足がろくに動かない現状、おそらく重心が変にかかるようになって爪だの肉球だのに負担がかかっているのだろう。先生は少しだけ爪を切ってくれた。(…)は少し抵抗した。消毒についてはそれほど気にしなくてもいいようだった。ヨードチンキでも塗っておけば問題ない、と。
 会計は一万五千円弱。こちらが払ってやるつもりだったが、財布を忘れてきたので、帰宅してから母に「小遣いやるわ!」とイキって一万円札を二枚渡した。しかし月一の注射だけで一万五千円! おれの京都時代の家賃より高いやんけ! それにくわえて(…)はサプリも服用しているし肝臓の薬も服用しているし目薬も点している。大型犬の晩年はやはり金がかかる。なんぼあっても足りん。だからといってないがしろにする気になど絶対なれないが! とはいえ、なにがなんでも治療という方針でもない。(…)の脇腹にはこちらが帰国した時点ですでに小さな腫瘍のようなものがあった。単なる脂肪のかたまりかもしれない。腫瘍だとしても良性の可能性もある。仮に悪性であったとすれば手術となるわけだが、この年齢この体力で全身麻酔はかなりしんどいだろうし、人間と違って手術や入院の意味がまったく理解できない犬にとってはそれらの経験はただただ理不尽な恐怖体験でしかない。であるからその腫瘍らしきものについてはもう放置するという方針である。実際、この一ヶ月のあいだに同様の腫瘍が二つか三つほどやはり脇腹のあたりに増えており、となると癌細胞が転移しているのかなとも思うわけで、今日支払いの際にその点もちょっとだけ口にしてみたのだが、先生もやはり無理やり手術や検査などをすることはないという考えのようで、そういうところが信頼できる、これが(…)病院だったら絶対に手術をすすめてくるだろう、そして手術後になっていきなり100万円を請求するのだ(これは母の知り合いの実体験だ、請求された女性はさすがに旦那に打ち明けることができず内緒で貯金を切り崩したという)。
 帰宅。メシ食う。今日は常夜鍋だった。食後ソファで小一時間眠ってしまった。早朝の出発まで一週間を切っているこのタイミングで! またしても生活リズムの乱れるようなことを!
 (…)さんとやりとり。明後日日曜の昼に外で会うことになった。(…)さんは奈良から(…)まで車で来るという。明日土曜日はぶらぶらひとり旅をする(海沿いをドライブして日帰り温泉を楽しむ予定らしい)、宿についてはすでに安宿に予約を入れた、日曜日はこちらの実家まで迎えにきてくれるとのこと。(…)には去年の年始にもおとずれたらしい。ほかにいい場所はないだろうかというので母にたずねると、ドライブだったら(…)が一番いいとのことだったので、その旨告げた。
 入浴。コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ウェブ各所を巡回し(『手のひらたちの蜂起/法規』(笹野真)について書かれている(…)さんのブログ記事、ずっとおもしろい!)、1年前と10年前の記事を読み返す。作業中は『The Room』(Harold Budd)と『Ya Chaika』(角銅真実)を流した。後者は今日はじめて流したのだが、くるりの「アマデウス」のカバーがすさまじくて、うわ、あの曲をこんなふうに再解釈・再構築するのかとびっくりした。角銅真実のアルバム、いまのところ三枚ともすべていい。そのなかでも最新作の『Contact』はあたま二つ分か三つ分飛び抜けていると思うが。
 以下、2023年2月16日づけの記事より。

これまでに何度か書いたことがあるが、外国人のほとんどいないこの地方の、それも若者ではなくある程度歳のいった人間にとっては、抗日ドラマやニュースに出てくる日本人ではない、生身の日本人と接触する機会というのはまずないわけで、だから彼らにとってこちらは彼らの人生で唯一直接言葉を交わしたことのある日本人である——あるいは、そうなる——可能性が非常に高い。そうすると、あえてこういう言い方をするのだが、じぶんが日本を背負っているというか、日本人代表であるみたいな規範意識がどうして働いてしまう、働いてしまうというほど力強いものではないかもしれないが、だからといって決して無視できるわけでもないある種の圧みたいなものを感じる瞬間はたびたびある。個人と国家は別物だと日頃から公言しているし、実際そう考えてもいるはずなのだが、おそらく個人と国家を同一視する視線の持ち主がとりわけ多い国にいるからという事情もあるのだろう、自分自身もまたそういう意識を内面化してしまう、そしてそのことを自覚しながらも脱却することができない、そういううわつきのようなものがたしかにあって、だからこれがじぶんのなかでくすぶるナショナリズムの燠火なのだと思う。ワールドカップの日本戦だけをついつい観戦してしまうのと同レベルの、だからといって——あるいは、だからこそ——過小評価するわけには決していかない、油断すればいつどのようなタイミングで醜く燃え盛ることになるのかわからない、そういうものがたしかにじぶんにもあるのだ。疑いなく。

 夜は書見。『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)の続き。

 病気そのものは生の刺激剤でありうる。ただ、ひとはこの刺激剤に対して充分に健康でなければならない。
(41)

 なにをもってすべての文学的デカダンスを特徴づけるか?→『和合』?←生命がもはや全体を活気づけないことによって。語が主権を握り、文の外へ跳び出し、文は氾濫して、ページの意味を曖昧にし、全体を犠牲にして、文が生命を護る、——全体はもはや全体ではなくなる。しかしそれはデカダンスのすべての文体に対する比喩である。その都度、原子のアナーキー、意志の崩壊、道徳の領域では、「個人の自由」、——政治理論に拡大すれば「万人に平等の権利」。生、等質の生、生の振動と豊富は極小の形象に押し戻されて、残余は生に貧しい。到る所に、麻痺、労苦、凝固、あるいは敵対と混沌。両者は組織のヒエラルヒーのより高い段階に昇るにつれて一目瞭然となる。そもそも全体などもはや存在しない。それは混淆し、計算され、人工的になり、工芸品である。——
(41)

 ワーグナーと「他の人びと」との共通点——それをぼくは列挙しよう。肉体の衰微。目的に順応する正当な能力なしでの、伝統的な手段の乱用。今日では誰もそれに耐えるほど、強くなく、誇りもなく、自信もなく、充分に健康でもない、偉大な形式の模倣における贋金造り。細部における超活気。いかなる犠牲も払うことも厭わない俗受け。貧困化した生の現われとしての洗練。しだいにつのる、肉に代わる神経。
(42)

 上のくだり、さすがに口が悪すぎる!

良い作品を聴くと、自分自身が「傑作」になる。
(43)