20240217

 そこでは、誰一人として、生まれた瞬間に開始した行為を息を引き取るまでに完遂することがないゆえに、目的と手段の差異を認識できる者はなかった。
(樋口恭介・編『異常論文』より青山新「オルガンのこと」)



 11時半ごろ起床。父の手土産の巻き寿司を食す。夕飯は兄一家がまたやってきて一緒にたこ焼きと串カツを食う予定になっているので、母と弟が買い出しに出かける。こちらは(…)の介護も兼ねて留守番。コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読みかえす。以下、2014年2月17日づけの記事より大岡昇平『俘虜記』の一節。『俘虜記』はまちがいなく傑作だったが、ジャングルで出会った米兵を撃つか撃たないか逡巡するひとときのできごとを執拗に思い巡らして言葉を尽くす序盤よりも(それはそれでおもしろかったが!)、俘虜生活のディテールが語られる後半のほうがよかった記憶がある。なかでも印象に残っているのが以下のくだりだった。これは10年経ったいまでもときどき思いだす。(軍人としての死を遂げたあとに)俘虜として新生した生活においてうながされる性の構築主義的側面。

 進藤の名が収容所に鳴り響いたのは、戦争も終りに近く、毎週各中隊で演芸大会が催されるようになってからである。或る夜、わが中隊の俘虜達が、それぞれの流行歌やお国自慢の民謡などを聞かせた後、飛び入りで「姑娘の歌」を歌った。かなり音域の広い裏声で、俘虜には完全な女声と聞えた。
「わあーっ、ちんぽの先がかゆくなって来たぞ」と聴衆の一人が怒鳴った。
 以来彼は方々の中隊の演芸大会の引張り凧となったが、終戦後演芸大会が発達して、収容所全体の綜合大会が催された時、世話人達は彼に女装せしめるのが、一層感銘的であると判断した。
 鬘は麻袋をほぐしたのを製図用の黒インキで染めて作った。ブラウスは白のアンダー・シャツを俘虜の中にいた洋服屋が綴り合わせ、スカートはメリケン袋を青インキで染め、やはり洋服屋が仕立てた。サンダルは下駄屋が作った。白粉だけは班長の場合と違って、長時間固定させなければならなかったので、大隊長のイマモロが特に米の収容所長に懇願して、WACからクリームとパウダーを貰って来た。そして口紅をさし、頬紅を塗った。
 大隊本部前に設けられた舞台の前で開演を待ちながら、私は進藤の楽屋入りを見たことがある。夕方はまだ明るかった。彼は世話人の一人に連れられて、石のごろごろした空地を突切って来た。
 私は自分の眼を疑った。私は無論これが単に女の服装をした男にすぎないのを知っている。しかし私が見る鬘、顔、胸(彼は当今の女性並に贋の乳房を入れていた)、腰はどうしても女なのである。歩き方まで、私のようにジロジロ眺める俘虜の視線を意識した、つまり完全に女の動作なのである。
 以来私は我々が普段見ている女とは、実は女でも何でもないのではないかと疑っている。ただ男の通念に従って女らしく化粧した人形にすぎないのではないか。女形が女より女らしいとは、屢々好劇家によって繰り返される常套句である。
大岡昇平『俘虜記』)

 進藤は歌と扮装は巧みであったが、アクションは下手であった。それでもとにかく彼女は収容所に現われた最初の女性であった。所謂「おかま」があったかどうかは詳かにしないが、魅了された多数の「男性」が彼の周囲に蝟集したのは事実である。
 競争があり鞘当があった。わが特攻隊員が化粧し始めたのも無論競争の仲間入りするためである。彼はまたどこからか米軍のサージァント・メージャーの腕章を手に入れて来て、得意気に腰へぶら下げて歩いていた。米軍の制服制帽のほか何の変化のない俘虜の服装にあっては、何でも装飾にならないものはなかったのである。しかし塚本はあまり成功したらしくない。
 歌姫進藤の影響は俘虜の一部を必要以上に男性化すると同時に、他の一部を必要以上に女性化した。後演芸大会が進歩して芝居が演ぜられるに到って出現した女形達は、いずれも進藤に倣って男子を誘惑するのを好んだ。進藤は普段でも夜は女子の服装を着用していたが、そういう女形達も出演によって得た様々の衣装をまとって、嬌声を発して密造の酒を注ぎ、隣人の膝に凭れかかった。それほど女性化する容姿と才能を持たない者でも、志ある者は赤や黄に染めた布をターバンのように頭に巻き、この風習は復員列車の中まで持ち越された。
大岡昇平『俘虜記』)

 (…)ちゃんと(…)と(…)が来る。兄は仕事で少し遅れるらしい。母と弟もほぼ同時に帰宅する。(…)と(…)がさっそく公園に行きたがる。外はいつ降ってきてもおかしくない雨模様。第一公園には先客がいる。幼い息子とその父親らしい姿。ブランコを漕いでいる。われわれとほとんど入れ替わりに去る。(…)と(…)はさっそくブランコに乗った。前回同様、(…)はふつうのブランコで立ち漕ぎする。(…)は子ども用のブランコに座る。こちらに背中を押せ押せとけしかける。
 スッキリングを隠すゲームもする。こちらの私物の赤いスッキリングをひとりが公園内に仕掛ける。残りの三人がそれを探す。今日は(…)と(…)だけではなく弟もいたのだ。弟はなかなかセンスのよいコートを着ていた。リサイクルショップで6000円ほどだったという。ゲームは3ターンほどで終わった。姪っ子たちはブランコのほうに興味があった。
 公園の入り口にある門の上に髪留めが置いてある。(…)のものだ。以前この公園をおとずれたときに落としたものだ。その後こちらと母親のふたりで公園をおとずれて探したが、どこにも見つからなかったものだ(このことは日記に書き忘れている!)。たぶんのちほどこの公園をおとずれたひとが見つけてくれたのだろう。持ち主がいつかふたたびやってくることを見越して目立つところに置いておいてくれたのだ。(…)町もまだ捨てたもんではない。善良な小根の持ち主がいるにはいるのだ。
 帰宅。(…)がこちらを弟の部屋に連れていく。なにをするのかと思ったら、ままごとをするのだという。(…)も連れてくる。肝心の弟は台所で夕飯の支度をはじめている。あいつら勝手におまえの部屋入ろうとしとるけどええんかんとたずねると、いつものことやという返事。(…)と(…)は今日もパンパンになったリュックサックを背負っている。中にはSwitchやiPadやぬいぐるみが入っている。そのぬいぐるみを弟の万年床の上にならべる。ぬいぐるみには名前がついている。レインボーカラーのテディベア。もともとは(…)のクリスマスプレゼントだったが、(…)が気に入り、二年近くほぼじぶんのものとして使っていた。それに(…)が抗議した結果、(…)もまたクリスマスプレゼントとして類似のぬいぐるみを得た。(…)のぬいぐるみは「にじちゃん」という。(…)のぬいぐるみは「うすちゃん」という。たぶん(…)のぬいぐるみのほうが色味がうすいからだと思う。コンドームみたいな名前だ。ぬいぐるみたちはどちらもクリスマスにうちにやってきた。だから誕生日が同じだという。だから双子という設定にしたのだという。「にじちゃん」が(…)の手元に二年近くあった件について、それはほとんど「誘拐」じゃないかと口にすると、(…)はゲラゲラ笑った。(…)はすぐにゲラゲラ笑う。いちどツボにハマると、そのまま泡でも吹くんではないかといういきおいで笑い転げる。これは(…)ちゃんの血筋だという。にじちゃんもうすちゃんもふたりによればぬいぐるみではないらしい。生きているのだという。生きているのであれば、やはりぬいぐるみが必要である。だから、にじちゃんとうすちゃんにもそれぞれお気に入りのぬいぐるみをもたせた。うすちゃんのお気に入りのぬいぐるみは、もっとちいさなテディベアだ。名前をつけてもいいというので、「しげぞう」と提案する。ふたりともダメだと怒る。じゃあ「つけもの」はどうかと提案する。「つけもの」だったらいいとふたりとも納得する。
 にじちゃんとうすちゃんのふたりのために読み聞かせをするという。(…)が『かわいそうなぞう』を持ってくる。なつかしい。こちらも子どものころに何度か読んだ。ぬいぐるみ用の布団をかぶせてもらったにじちゃんとうすちゃんにむけて(…)が本文を読みはじめる。つけものはこちらの作務衣のポケットに入っている。『かわいそうなぞう』は全文ひらがなだ。そのせいかもしれないが、(…)はたびたび読むのに詰まった。地の文はふつうに読む。しかし鉤括弧でくくられたセリフの部分は抑揚たっぷりになる。アニメ世代だと思う。最後の2ページは(…)が読んだ。(…)のほうがすらすらと読んだ。
 階下にもどる。たこ焼きと串カツの準備が着々と進んでいる。ふたりはまだ遊び足りない。UFOキャッチャーごっこをする。にじちゃんとうすちゃんとつけもの、それに(…)もしくは(…)をそれぞれカーペットの上に適当に配置する。こちらがクレーンとなる。両腕をアームがわりにする。横移動と縦移動をする。ふたりにストップをいわせる。そのままカーペットの上の景品を両腕でつかみとる。クレーンゲームの最中は『サーカスチャーリー』のBGMを鼻歌でうたう。サーカスチャーリーの音楽やねえか、と傍で見ていた兄が笑う。あんたらええな、遊んでくれる叔父がふたりもおって、と続ける。
 串カツとたこ焼きは腹五分目にとどめる。どちらもそれほど好きなわけではないし、なにより油物をこちらはあまり受けつけない。ソファに腰かけてぐったりしていると、食事を終えた(…)と(…)がすぐにまたやってくる。あそぼ! あそぼ! とうるさい。(…)が台所にあるインターフォン用の受話器を手にとる。インターフォンはとっくにあたらしいものに変更している。だからその受話器はどこにもつながらない。受話器を耳に押し当てた(…)は、あんたいま何時やと思っとんの!? どこおんの!? (…)公園に行くって話やったやろ! はよ帰ってこなあかんやろ! と激しい口調で言う。そして受話器を置いて、おかんごっこ! と口にし、ゲラゲラ笑う。すぐに(…)もおなじことをする。あんたちょっとどこおんのさ! 門限ってわかっとんの! いま何時やと思っとんの!? もう九時半やで! いい加減にしな! 見ているだけでおもしろい。つられて笑ってしまう。
 兄がふたりを風呂に入れる。(…)ちゃんがふたりの教育について話す。(…)はすでに(…)に通っている。(…)もこの三月から通う。それとは別の塾なのか通信講座なのか、よくわからないけれどもそういうものをやらせるべきかどうか、(…)ちゃんは迷っている。弟が必要ないという。小学生なのだ。(…)に通っているだけで十分だ。こちらも同意する。(…)も(…)も文系らしい。(…)については判断するにははやすぎる。(…)については国語の成績は飛び抜けていいが、算数は平均よりすこしよい程度。中学受験をさせるつもりはない。(…)はうちのすぐそばにある(…)中学校に将来通う気まんまんでいる。(…)は年のわりにけっこうおぼこいほうだと思うと(…)ちゃんが言う。四月から五年生になる。とにかくポケモンが好きすぎる。五年生だったらぼちぼちアイドルとか興味もつ子らもおるんちゃうのというと、友達らはジャニーズとか言うとんやけどさぁ、あの子まったく興味なくてとにかくポケモン熱がすごいんさと(…)ちゃんが応える。小学校では授業でタブレットを使っている。タブレットのインターネットアクセスは当然制限されている。制限されたなかでもつながるサイトのなかにポケモンにかんするものがある。(…)は学校の休み時間中もそのサイトの記事を読みたくてしかたない。でも友達がたくさん話しかけてくる。その内容は全部「くだらない」と(…)には思われる。だから学校に行きたくないと駄々をこねた日もあった。同級生のなかにはすでにちょっとグレかけている子もいると(…)ちゃんが言う。ようすを見聞きしていればなんとなくわかるというので、五年生六年生やったらそうやろなと応じる。(…)ちゃんはポケモンが大好きな(…)のままでいてほしいという。グレる兆候なんていまのとこ全然ねえやんというと、でもわたしがあんなんやったからさという。(…)もあれやったしなと母が言う。ほな因果応報やんけとこちらが言って、みんな笑う。
 グレるところの想像できない子らふたりが風呂から出てくる。半裸のまままたしても台所の受話器を手にとってゲラゲラ笑う。(…)ちゃんがまず(…)の髪の毛をドライヤーで乾かす。(…)は濡れた髪のまま食卓についてはるかを食べる。(…)ははるかが大好きなのだ。

 (…)を髪の毛をのばしてヘアドネーションをするつもりでいる。最低でも31センチ必要だという。すでに31センチは余裕であるのではないかと言う。メジャーを使って測ってみる。問題ない。仮にいま31センチ分カットしてもボブにできるくらいある。(…)ちゃんは(…)の髪の毛を毎日ドライヤーするのが大変だという。じゃあ明日切ると(…)が口にする。別にええけどと(…)ちゃんが言うと、え? 明日!? と言い出しっぺにもかかわらずおどろいてみせるので、おまえがいまじぶんで言うたんやろがと即座に突っ込む。(…)も(…)も(…)ちゃんもゲラゲラ笑う。ヘアドネーションする前に(…)ちゃんにわけてくれと言う。ええよと(…)が言う。ほんとにわけてあげることができたらええのになぁと(…)ちゃんが言う。やたらと感情のこもった言い方だったので、しみじみ言うなと突っ込む。するとまた三人がゲラゲラ笑う。(…)が笑いすぎて吐きそうになる。
 (…)がお泊まりしたいと言いだす。ダメだと答える。次はまた夏休みだと言うと、夏休み前に一時帰国しろと言う。(…)は(…)で明日またうちに来ると言う。明日は友達と遊ぶ約束があるから無理だと応じると、え! (…)ちゃん、友達おったん! と驚いてみせる。明日が無理なら明後日に来ると続ける。学区外だから校則違反になるけれども自転車に乗ってひとりでやってくると言う。(…)線は交通量が多い。危ないからやめておきなと告げる。
 一家が去ったところで入浴をすませる。三年生の(…)さんからまた微信がとどく。今日はいとこの結婚式だったという。12歳年上の金持ち男性と中卒のいとこが婚約したという話は以前聞いた。写真が送られてくる。伝統的な婚礼衣装に身を包んだ美人のいとこと旗袍を着た(…)さんともうひとりの女の子(たぶん陈さんの妹だろう)。結婚式では知らない男性と手をつなぐ必要があったのでちょっと恥ずかしかったという。(…)にはいつもどってきますか? 21日の夜に(…)に着くよ、(…)には22日に戻るよ、「新学期はじめて料理を作ってあげたらどうですか」「(…)さんがまたうちで料理を作ってくれるの? もちろん、大歓迎だよ」「それともぼくがカレーでも作りましょうか?」「全部食べてもいいですか」「先生が作ったカレーも食べたいですから」「ははは」「時間はたっぷりあります。きみの料理を食べる日と、ぼくのカレーを食べる日は別々にすればいいでしょう」「それは本当によかったです」。
 夜食は「一平ちゃん夜店の焼そば」を食った。きのうもおなじものを食った。思うんだが、このカップ焼きそば、世界でいちばんうまい食いものじゃないか? マジで一瞬でたいらげてしまうんやが! 寝床に移動後は『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)の続き。