20240221

ここの人々は
いつのまにか
彼らがその振りをしている
人々になった
サム・シェパード畑中佳樹・訳『モーテル・クロニクルズ』 p.65)



 7時起床。朝っぱらからいくら丼を食す。身支度を整え、間借りの一室からパンパンになったリュックサックとキャリーケースを下に運ぶ。リビングであらためてパッキングしたものを再チェックしていると、(…)が体をこすりつけるようにそばにやってくる。犬馬鹿の両親が、(…)はやっぱり賢い、(…)が出ていくのを理解しているのだ、とさも感心したように口にする。次の夏に会うことができるかどうかわからない。注射を変えてから後ろ足はややもちなおしたかなという印象を受けるが、脇腹には小さな腫瘍らしきものがたくさんあるし、なにより夏は毛量が多く暑さの苦手な(…)にとってなかなか苦しい時期なのだ。再会はできるかもしれない、でもそのときすでに(…)が寝たきりになっているという状況は十分考えられる。
 時間になったところでおもてに出る。(…)駅までは仕事休みの父が送ってくれる。父は日頃(…)から(…)にある職場まで車で通っている。その事実を先日知った(…)は、嘘やろ! とびっくりしていたが、ただ父の出勤時間は深夜であるので、100キロでぶっ飛ばせば30分ほどで到着するという。同僚のなかには(…)から(…)までやはり車で出勤している人物もいるという。都会の人間には考えられへんやろなと笑った。
 (…)駅に到着。改札を抜ける。特急はすでに到着していた。車内は意外なほど混雑していた。平日の早朝でなぜこんなにと思った。少なくとも京都時代、帰省にあたって乗った電車は往路にしても復路にしても、だいたいいつもガラガラであったように記憶しているのだが、難波行きのものはいつもこんな具合なのだろうか? となりの席が埋まるかもしれないなと思った。埋まるとなると、デカいキャリーケースをとなりの席の足元に置いておくことができず、自分の足元にまで引っ張ってくる必要がある。その場合はじぶんの足の置き場がなくなる。結果として、かなり苦しい姿勢を強いられることになる。そういう経験がかつてあったので、だれも来てくれるなよと、駅に到着するたびに願っていたのだが、それが功を奏したのか、難波駅までずっと二人分の席を独占することができた。それでちょっと思ったのだが、列車内はときおり車掌が見回りにやってくる、あの車掌がたとえば端末かなにかで、◯号車の◯◯番は荷物が多い、だからぎりぎりまでとなりの席に客が来ないようにすべしみたいな通達を送っているということはないだろうか? そういう情報がネットワーク上で共有されており、各駅の切符売り場にしてもネット上での売買にしても、大荷物のとなりの席は可能なかぎり後回しにされるみたいな、そういう仕組みができあがっているとは考えられないだろうか?
 難波駅南海線に乗り換える。改札を抜けてからトイレで小便をする。乗り換え予定の電車がいまにも出発するというタイミングだったが、別に一本くらい遅らせてもなんてことないだろうとトイレに行った、しかし用を足してからプラットフォームにもどるとまだ出発せずに待機していたので、キャリーケースをガラガラさせながら小走りでむかった。いったん閉まった扉を車掌さんが開けてくれた。
 車内の座席はすべて埋まっていた。大荷物の乗客ばかりだった。韓国人女子四人組がいた。中国語も少しきこえた。ドア付近に突っ立っているのはこちらのほかに制服姿の男子と女子ひとりずつのみ。外国人観光客が大半を占めるこの電車を通学に利用する子らがいるのかと思った。もしかしたら前回この電車に乗ったときもおなじ感慨をおぼえたかもしれない、おなじ感慨を書きつけたかもしれないが、そういう生活を送る思春期の人生をいろいろに想像してみた。この沿線に住んでいる世帯の子どもらは、ほかの地区の子らにくらべて、たとえば外国語学習の意欲が高いみたいな統計があったりするのかなと思った。車内ではコートを脱いで小脇に抱えた。コートはこれ以降終日小脇に抱えたまま一度もはおられることがなかった。
 空港に到着。チェックインカウンターにはまずまずの行列ができていた。並ぶのもしんどいだけであるし、ひとが減るまでどこかのベンチに腰かけていようかなと思ったが、そのベンチもほぼ満席であるし、それに余裕をぶっこいてしくじるというパターンもおそろしいので、おとなしく列の最後尾についた。キャリーケースを椅子代わりにして腰かけ、『ゼロから始めるジャック・ラカン』(片岡一竹)の続きを読み進めた。Trip.com上ではバゲージスルー不可となっていたが、チェックインカウンターではバゲージスルーと言われた。乗り継ぎ先であらためてチェックインする必要もない、すべてここで手配をすませておいたと続くのに、そういうパターンもあるのかと思った。丸いシールを渡された。transferと記されている。それだけ胸のところに貼っておいてくれとのこと。すでに脱いでしまっているコートとインナーのセーターのどちらに貼っておけばいいのだろうと迷った。とりあえずむこうの空港に到着するまではそのままでいいやというわけでパスポートにはさんでおいた。
 保安検査の列もやはり混雑している。ネット上で関空の保安検査の行列がえぐいという情報をちらほら目にしていたが、シーズンオフでこの列はたしかにえぐいなと思った。待ち時間としてはしかしたいしたものではなかった。ただチェックインを終えた時点で、チケットに印字されている搭乗時刻(たしか12時50分だったと思う)まで残り十数分だった。で、保安検査の列に並んでいる最中、あれ? これ間に合わないんでないの? と思った。一度そう考えはじめると、けっこうあせる。周囲にいる乗客が手にしているチケットを見るが、こちらとおなじ廈門航空のものを持っている人物はまるで見当たらない。しかしチェックインカウンターではこちらの後方にならんでいる乗客も多数いたわけであるし、たぶんだいじょうぶなんではないかと思うのだが、いや、ここは事情を伝えて順番抜かしさせてもらうべきなのではないか? 急いだほうがいいんではないか? そうこうしているうちに、保安検査の手前でチケットを確認している外国人女性スタッフにじぶんのチケットを見せるターンがやってきた。女性スタッフは特になにも言わなかった。ということは急がなくてもいいのだなと理解した。
 保安検査と出国審査を通過する。リニューアルしている免税エリアを抜ける。さすがにこのときは小走りになった。搭乗時刻どころか出発時刻がせまっていたのだ。搭乗口に到着する。列ができている。しかし搭乗が開始されているようにはみえない。女性スタッフにいちおうたずねてみると、まだ搭乗は開始していないという。予定より遅れているのだろうか? とりあえずひと安心し、空いているベンチに腰かける。ベンチの左となりは、偶然であるしこれはめずらしいことであるが、日本人だった。おそらくは六十代のおばさん。そのさらに左となりも日本人で、こちらは若い男子大学生だった。ふたりはひっきりなしにおしゃべりしていた。聞き耳をたてているつもりはなかったのだが、いろいろ耳に入ってくる。おばさんの目的地はバンコクであるが、ただ廈門航空を利用してみたいというだけの理由でわざわざ乗り継ぎ便を選んだらしい。そういう発想が出てくる時点で、もしかしたらけっこう旅行慣れしている人物なのかもしれない。学生のほうはこの春から三回生で、目的地はカンボジアらしい。ボランティアで現地の子どもに英語を教えるという。過去にも二ヶ月ほど東南アジアをめぐった経験がある。父の仕事の都合で幼いころからあちこち転々としていたらしく、それで英語は達者なようだった。おばさんはそんな学生の言葉にいちいち過剰ともとれる、場合によってはわざとらしさがいきすぎて他人をなめているようにもきこえる、おおげさな相槌を何度も何度も何度も打っていた。
 搭乗時刻は結局予定よりも一時間ほど遅れた。理由はわからない。天候不良のためなのか、それとも関空内の混雑が原因なのか。搭乗する。三列シートの窓際に座る。右となりは二年生の(…)さんに似た若い女の子。そのさらに右となりは中年女性。どちらも中国人だ。機内食は変に多かった。先のおばさんが学生相手に廈門航空のサービスは評価が高いという情報をYouTubeで見たと語っていたが、こういうことなのかなと思った。とはいえ、機内食はしょせん機内食、目クソ鼻クソでしかないわけやが! 離陸の瞬間と着陸の瞬間はどちらも居眠りしていた。ふと目が覚めると、右となりの(…)さんに似た子がこちらの肩にあたまをあずけていた。起こすのがしのびなかったので、そのままなるべく動かないようにした。機内には日中夫婦もいた。夫が日本人で、妻が中国人。妻はやや訛りが残るものの、がっつり関西弁をあやつっており、幼い子どもらにもその関西弁で指示を出していた。
 長楽国際空港に到着。フライト時間は三時間ほどだったろうか。飛行機をおりる。transferのシールは結局胸に貼っていない。おりてすぐのところにtransferというサインの出ている一室があった。ガラス扉でへだてられている一室にはしかしだれの姿もない。ここでひとりで待つのだろうかと一瞬思ったが、いやそれはないだろ、入国手続きが必要なはずだ、これは中国を経由して別の国に向かうひとたちが待機する場所なのではないかと予測した。とりあえずひとの流れにしたがって歩いた。途中、スタンドデスクでarrival cardを記入している、あれはフィリピン人だろうか? あるいはマレーシア人だろうか? とにかく中国人でもなければ日本人でもない男性の姿を見かけたので、英語でそのカードはどこで手に入れたのかとたずねた。機内で配られたとのこと。おれはもらっとらんぞ。

 近くに立っている若い警備員にarrival cardはどこにあるのかとたずねる。カタコトの英語でエスカレーターをおりた先にあるという返事がある。言われたとおりに進む。入国審査の入り口前には青色のロープが張り巡らされている。行列はほとんどない。入り口に立っている警備員の男がarrival cardはむこうにあると壁際を指さす。先着している外国人らがスタンドテーブルでarrival cardを記入している。カードの山から一枚手に取り、テーブルの端っこに移動して必要事項を記入する。飛行機をおりた時点でやたらと暑いなと感じていたが、カードの記入をはじめるころには顔中に汗をだらだらと垂らしていた。テーブルの上においたカードに記入するために顔を下にむけると、こめかみのところに掻いている汗のせいでめがねが何度も何度もずりおちそうになる。ちょっとこれ異常じゃないかと思ってスマホで気温をたしかめると最高気温30度とあって、は? マジで? 福建省ってそんなに暑いの? とビビる。カードの記入ついでにスマホSIMカードもChina Mobileのものに入れ換える。記入を終えたカードを先の警備員のところに持っていきパスポートといっしょに見せると、transferだったら裏面のほうにも記入しなければいけないと指摘される。それでまたスタンドテーブルのほうにもどる。東南アジア系のお父さんがarrival cardを記入している。そのお父さんのそばにひかえている未就学児童の女の子がカードに必要事項を記入するこちらの顔をじっと見つめてくる。汗が止まらない。セーターを脱いでヒートテック一枚になりたい。
 入国審査にむかう。こちらの前を歩いていた男性は日本人だった。小さな男の子を連れている。どこに並べばいいかわからずやや困惑しているふうだったので、空いているとこならどこでもいいですよと教えてあげる。入国審査官は中年女性だ。中国語はできるかというので、一点点と答える。写真撮影と指紋採取。中国にはどうしてやってきたのだというので、仕事だ、自分は教師だ、大学で日本語を教えていると中国語で応じる。問題なし。抜けた先のフロアに制服姿の女性がひとり立っていたので、transferする予定なのだがどこにむかえばいいかと英語でたずねる。二階がdepartureになっているという返事があるので、礼を言ってからエスカレーターで二階にあがる。見慣れた空間に出る。departure areaというのはどの空港でも似たようなものだ。バゲージスルーであるしチェックインの必要もないし、とりあえずコーヒーでも飲んで一服するか、あるいはちょっとみっともないがセーターを脱いでヒートテック一枚になるか、それらをするにしても先に保安検査を抜けてしまってからにするか、そういうことを考えながらスマホを見ると、Trip.comから通知とメールがとどいている。出発まで残り何時間ですよみたいなアレだろうと思ったが、そうではなかった、フライトキャンセルの通知だった。は? となった。マジで? は? マジだった。見間違いではなかった。変更先の便は翌日7時台のもの。それが都合に合わないのであれば一回だけ他の便に変更できるとメッセージにはある。仮に7時台のやつに乗るのであればその一時間半前には空港に到着しておく必要があるわけで、となると空港内で一泊することになるのだろうか? いや、さすがにこの歳でそれはしんどい! 济南でキャンセルをくらったときは空港まで小一時間かかる場所にあるホテルに宿泊するはめになったわけだが、できれば空港内もしくは最寄りのホテルで宿泊したい。というかその前にまずキャリーケースを回収しなければならない。あるいはあずけたままにしても問題ないだろうか? とりあえず航空会社のスタッフと直接話したほうがはやい。そういうわけで济南でのフライトキャンセル経験を活かし、廈門航空の窓口を探してぶらぶら歩く。窓口はすぐに見つかった。先客の姿もすでに二組ある。济南でのキャンセル騒動はすでに夜遅くであったし、济南出発の全便が一気にキャンセルされたせいで空港内の空気はかなり殺伐としており、暴動発生直前みたいなアレだったが、今回はそうでもなかった、たぶんキャンセルになったのはわれわれの便だけだったのだろう、窓口はがらんとしていた。先客二組はどちらも中国人。いっぽうは若い男性二人組、もう一方は母親と娘二人。変更先の便の調整中らしかったが、窓口にはスタッフがふたりしかおらず、かつ、そのふたりで同時におなじ業務にあたっているせいでなかなか手続きが進捗しなかった。そうこうしているうちに明日の便もなくなってしまうのではないかという懸念があったので、とりあえずTrip.com上で明日の便変更に同意しておいた。あたらしい女性スタッフがやってきた。そのスタッフがこちらの相手をしてくれるようすだったので、英語だいじょうぶかなぁ国内線のスタッフだしちょっとあやしいかもなぁと思いつつ、フライトがキャンセルされたこと、すでにチケットは明日のものに変更したことをゆっくりと明瞭に話してみた。まったく問題なかった。英語のできるひとだった。それで安心し、baggage claimで荷物を回収していないのだがそれはいま回収する必要があるのだろうかとたずねると、あるという返事。荷物も回収して明日またチェックインカウンターであずけなおす必要がある、チケットも発行しなおす必要がある。了解。そういうやりとりの最中に見慣れない電話番号から着信があった。たぶん荷物のことだなと思いながら出る。通話相手は男性。中国語で荷物をあずかっているというので、英語でいいかと断ったのち、どこに行けばいいのかと続けると、かなりカタコトの言葉で、Fの◯◯番まで来てくれという返事。通話を終えて窓口の女性にそう伝えると、そのカウンターならここをまっすぐ行った先にあるとのこと。最後に空港内にホテルはあるかとたずねると、それはちょっとわからないという返事。
 指定されたカウンターにむかう。制服姿の男性がひとりこちらのキャリーケースのそばに突っ立っている。パスポートを見せて荷物を受けとる。空港内のホテルについてたずねるが、英語での返事はいまひとつ要領を得ない。とりあえず総合インフォメーションセンター的なところに行ってみればいいかと思っていると、キャビンアテンダントの女性から声をかけられる。廈門航空でキャンセルを喰らったのかと中国語でいうので、そうだと肯定する。じゃあこっちに来てほしいと受付のほうに連れていかれる。チケットの変更であれば先ほどアプリですませたと英語で伝えると、英語はあまりできないんだとカタコトの英語での返事がある。受付カウンターには関空で見かけた日本人男子学生がいた。キャビンアテンダントの女性がこちらのパスポートをカウンターの内側にいた男性に渡す。チケット変更手続きはすでにすませたことを伝えなおすために、Trip.comの予約画面を見せながらカタコトの中国語ですでにチケットは予約しなおしたと伝える。それについてはどうやら相手も理解しているようす。たぶんこのとき彼らがしていたのはキャンセルを喰らった顧客情報の整理だったのだろう、何人の乗客を航空会社の手配したホテルまで送り届ける必要があるのか、そのあたりの情報を現場でいろいろ整理していたのだと思う。しかしこのときのこちらにはそんなあたまがなかった、前回济南でキャンセルを喰らったときも航空会社が手配してくれたバスに乗りこんで航空会社が手配してくれたホテルに宿泊したわけだが、今回も同様の経緯をたどるとは思っていなかった、いや正確にいえばそういうこともあるかもしれないが、同時に、そういったもろもろの手続きを個人でとることになる可能性もおおいにあるだろうと考えていた、だから全体的にふわふわしていた。カウンターでの手続きを終えたところで、キャビンアテンダントの女性に中国語で、空港内にホテルはあるのか? とたずねると、一階に受付がある、そこできいてみてほしいという返事があった。こちらは純粋に、空港内にカプセルホテルかなにかがあるのだったら、どうせ翌日早朝出発であるのだしそこで一泊するのもいいというあたまがあって質問したわけだが、たぶん彼女のほうでは航空会社が手配したホテルおよびそこまでの移動手段についての質問をこちらがしたと理解していたのだろう。もちろん、リアルタイムでそう考えていたわけではない、これを書いているいまならそう思うというだけのことだ。
 指示にしたがって一階に移動する。tourist information centerみたいな名前の受付がある。近づいてみると、関空で見かけたおばちゃんがいる。先の男子学生と話しこんでいたあの日本人のおばちゃんだ。となりには西洋人がいる。背が高く体格もがっしりしている白人の男。おばちゃんがこちらの姿を認めるなり、日本人ですか? という。肯定する。スタッフの女性がそのおばちゃんに紙きれを渡す。おばちゃんはやや戸惑っているようすだった。英語も中国語もできないらしい。それで代わって紙切れに目を通すと、今晩宿泊するホテルの名前およびもろもろの情報が記されている。ホテルの宿泊代は航空会社が出す、ただしその場合は同性同士の二人部屋となる、一人部屋を希望する場合は150元負担してもらう、ホテルまでの移動手段は航空会社が手配する、代替便に乗りそこねたときの保証はしかねる、などなど。すべて翻訳して伝える。女性スタッフがバスの乗り場について説明する文章を翻訳アプリを介した日本語でおばちゃんに提示する。やや不自然な日本語だったので、こちらが補足する。ありがとう〜! とテンションの高い日本語で口にしておばちゃんは去る。
 西洋人はカタコトの中国語でスタッフと交渉している。曰く、ホテルでは朝食は出るが夕飯は出ないことになっている、夕飯をもし出してくれるのであればじぶんもここに泊まる、しかし夕飯がないのであればじぶんでホテルを探すか空港内で一泊する、と。おもわず笑ってしまうと、彼もこちらを見てにやりと笑った。ロシア人か、セルビア人か、たぶんそのあたりの人間だと思う。女性スタッフふたりはあきれた表情を浮かべている。こちらもカウンターにパスポートと無効になったチケットを差し出した。先のおばちゃんがもらったのとおなじ紙切れが手渡される。部屋は一人部屋にしてもらう。(…)の空港近くでもともと一泊する予定だったのだ。それをキャンセルした分浮いた金があるのだ。ホテルまでどれくらいの時間がかかるのかとたずねると10分程度という返事。これはありがたい!
 空港の外に出てバス乗り場にむかう。大荷物の先客らがいる。半分以上が外国人だ。どうやらマレーシア人らしい。たてたスーツケースを椅子代わりにして座っていると、先のおばちゃんがまたやってくる。やはりおなじホテルに宿泊するかたちらしい。日本人の大学生の男の子もいたんだけど、彼もいま一生懸命乗り継ぎの手続きをしていて、とおばちゃんはテンション高く続ける。もともとの目的地はどこだったのかというので、(…)だと応じる。ピンときていないふうだったので、あ、そっか、このひとは観光客だったと思いなおし、(…)省という内陸の省にある都市だと応じたのち、じぶんは観光ではなく中国で仕事をしている人間だと続けた。大学で日本語を教えていると言うと、日本の大学で教えるより給料がいいのだろうかと言うので、このひとたぶん人材流出とか情報漏洩とかそういうおどろおどろしいアレを想像しているんだろうなと察し、教授なんて立場ではない、バイトみたいなもんだ、こっちで暮らすには十分な給料だが日本では厳しいと言う。おばちゃんはバンコクが目的地だと言った、ただ廈門航空を使ってみたかったのでこの便に乗ったのだと続けた。知っている。関空の搭乗口で全部耳にした。
 バンがやってくるまでけっこう待った。おばちゃんはほかの乗客らといっしょに我先に突っ込んでいった。こちらは乗りそびれた。一度で全員を運ぶのではなかった。ホテルまで行ってまた戻ってくると運転手は言った。一度で全員運ぶものと思っていたので余裕をぶっこいていたわけだが、しくじった。おばちゃんが車内からこちらに乗らないのと声をかけてきたので、次の便になるみたいです、いっぱいですってと応じる。こちらとおなじく乗りそびれていた中国人の男性が、いっしょに乗らなくていいのかと中国語でこちらにいうので、問題ないと答える。母子だと思ったのかもしれない。バンが去る。おばちゃんは窓の内側から最後までこちらに手をふり続けていた。マレーシア人一行も乗りそびれている。先の中国人男性は、あれはたぶんマレー語だと思うのだが(中国語で马拉西亚というのが聞きとれたので)、それでもってマレーシア人一行に事情を説明していた。たまたまおなじ便に乗ったマレー語が堪能な中国人であるのか、あるいはもしかしたらマレーシア人一行に雇われたガイドなのかもしれない。ときどきは英語も口にした。マレーシア人たちもマレー語と英語の両方を口にしていた。
 バンを待つあいだ『ゼロから始めるジャック・ラカン』(片岡一竹)の続きを読もうと思ったが、すでにおもては薄暗くなりつつあったし、疲れていたのでページをめくる手が、というか文章をたどる目が完全に止まってしまった。ようやくもどってきたバンに乗りこむ。キャリーケースをバンの下部にある専用スペースに積みこもうと思ったが、ものすごい熱気だったので、たとえ10分の道のりだったとしてもお土産のチョコレートが溶けてしまうのではないかと懸念された。専用スペースはせまく、ほかの乗客の荷物ですぐにいっぱいになったので、こちらの荷物は車内に直接積みこむことになった。それだったら問題ない。最後部五人がけの中央に座る。両隣は中国人。前の席はマレーシア人。マレー語の堪能な例の中国人男性も乗りこむ。男性は今回もまた乗りそびれた一部のマレーシア人たちに次のバンがやってくるのを待つようにと指示していた。
 バンが出発する。前の座席に座っていた若いマレーシア人の女性の手にしているスマホが暗闇のなかで灯っている。Googleにアクセスしているのがみえる。VPNを使っているのだ。日本人のおばちゃんと男子学生は出国前、関空の搭乗口で、中国ではLINEもYouTubeもアクセスできないらしいですよと話しあっていた。おばちゃんからはバンを待っているあいだ、その点についてもたずねられたのだった。VPNについて一応説明したが、あんまりピンときていないようだった。おばちゃんはずっとむかしに旅行したときに得た人民元を250元ほど持っていると言っていた。それだけあれば翌日昼までは十分にもちますよといちおう保証したが、しかし小さな店であれば現金での支払いに実質対応できないところも少なくない。空港近くであれば外国人の対応に慣れている店も多いだろうし、おそらく問題ないとは思うが。
 バンがホテルに到着する。入り口にはおばちゃんが立っている。夕飯に同行するパターンかなと思ったが、そうではなかった、おばちゃんはただこちらがおなじホテルに本当にやってくるのかどうか気にしていただけだった、バンからおりてきたこちらを認めるなりそれじゃあと言ってどこかに去っていった。たぶんひとりでメシを食いに出かけにいったのだろう。あの歳で海外一人旅を、それもわざわざ好奇心ひとつで目的地までの直行便ではなく乗り継ぎ便をチョイスするくらいなのだから、やっぱり見知らぬ異国をひとりでぶらぶらするのが好きなのだろう。アクティブなひとだ。
 ロビーに入る。受付でチェックインをすませる。明日の出発時刻を中国語でたずねられたので、6時過ぎには空港に到着したいと伝えると、じゃあ6時出発のバンを用意する、10分前にはロビーに来てほしいとのこと。部屋は5階にある。エレベーターで移動する。ツインベッドの一室。济南のホテルも(…)のホテルも(…)のホテルも上海のホテルもどれもこれも似ている。高級ホテルでもなければ激安ホテルでもない、ごくごく普通のホテルはだいたいみんなこんな感じの間取りだよなと思う。いったん休憩する。水をたっぷり飲む。百度地图で近所にメシ屋がないかどうか調べてみるが、空港が近すぎるせいでか、どうも数が少ない。コートもリュックも部屋に置いておき、財布とパスポートとスマホと本と水だけ持って部屋を出る。一階に移動し、ロビーをうろうろしている若い男性スタッフに、夕飯をとりたいのだがこのあたりに店はないかと中国語でたずねる。むかいに別のホテルがある、そこで食事をとることができるというのだが、そのむかいのホテルはどう考えてもかなり高級な店だ。えげつない値段するんちゃうやろなと思いつつも、とりあえずそのホテルに向かってみる。外は台風前のようなぬるく厚ぼったい風が吹いている。ホテルは巨大。どこに入り口があるのか全然わからない。とりあえず建物の外周にそって歩く。ひとっこひとり見当たらない。本館とは別に別館みたいなものもたちならんでいる。ほとんどマンションみたいだ。これらの客室がすべて埋まることなんてあるのだろうかと疑問に思う。
 10分ほど歩いてようやく受付にいたる入り口を見つける。受付ロビーもやはり閑散としている。ひとっこひとりいない。カウンターに女性スタッフがひとりいるきりだ。英語で話しかけると、ちょっと待ってくれと中国語の返事。奥から支配人感のある男性が出てくる(絶対支配人ではないが!)。英語は少しだけできる模様。自分は宿泊客ではない、レストランだけ利用することはできるだろうかとたずねる。できるという返事。西洋料理のレストランと中華料理のレストランどちらがいいかというので、後者をチョイス。エレベーターで上階に移動するようにという。わざわざそのエレベーターの前まで案内してくれる。これ宿泊したらなんぼするんやろかと怖くなるほどサービスがいい。
 レストランには先客がいた。席はしかし四分の一ほどしか埋まっていない。当然ひとり客はいない。注文はテーブルのQRコードを読みこんでするおなじみのスタイル。海鮮の炒面がある。たしか60元ぐらい。思っていたよりも安い。それにくわえて海老の焼売も食べることにする。炒面はたぶん二人前か三人前はあると思うのだが、一人前で注文することはどうせできないので、もったいないけれども残しちまえばいいやと考えた。QRコードでの注文がうまくいかない。カウンターにいる女性スタッフに事情を伝える。ネットワークのほうに問題があるようす。直接手渡されたタブレットで先の二品をオーダーしなおす。
 料理が運ばれてくるまでけっこう時間を要した。海鮮の炒面はなかなかうまかった。甘い。広州料理と同じくらい甘い。そうか、福建省の料理もこういう感じなんだなと思う。ボリュームは予想どおりたっぷり。半分も食えなかった。海老の焼売が運ばれてくるまでまた時間がかかる。焼売は広州で食ったやつのほうがずっとうまかった。こちらもやっぱり甘い。いいかげん塩気なり辛味なりがほしくなってくる。広州旅行時におぼえた不満とおんなじだ。一品目はうまいのだが、甘いものが二品三品と続くと、ちょっとくどくなってくるのだ、塩気がほしくなってくるのだ。急須に入った無料の烏龍茶はべらぼうにうまかった。四杯五杯と飲んだ。
 会計は100元ちょっと。館内に便利店はあるかとたずねると、二階にあるけれども閉まっているかもしれないという返事。とりあえず向かってみる。開いている。スタバの缶コーヒーとミネラルウォーターと明日の朝食用にチョコレートのバームクーヘンを買う。それでホテルにもどる。シャワーを浴び、ベッドに横たわって機内食として配布されたナッツを食い缶コーヒーを飲み、今日のできごとをモーメンツで報告する。暑すぎるので、実家から夏の部屋着用にもってきたペラペラのイージーパンツを穿く。ヒートテックも弟にもらった半袖に着替える。さらに冷房もいれる。明日は5時起きなのではやめに寝床にもぐりこんだが、全然眠くならない、飛行機で寝すぎたのだ。読書灯の下で『ゼロから始めるジャック・ラカン』(片岡一竹)の続きをゆっくりめくる。