20240224

どうしてぼくは思うのだろう
「この男はイカレポンチだ」と
彼がクリーム入れを手に取って
「キュートなモオモオちゃん」とそれを呼ぶ時に
 
どうしてかはわかっている。
それは彼がどうしても人々に馴染めずにいる孤独感を
少しもかくそうとしていないから
サム・シェパード畑中佳樹・訳『モーテル・クロニクルズ』 p.158)



 10時起床。寒すぎるので寝床のなかにそのまま小一時間とどまる。花粉症の症状はほぼ解消された。鼻のなかがむずむずすることはまだあるが、鼻水および鼻詰まりに悩まされることはない。日本を出ることによって享受できる最大の恩恵。
 ラスクと白湯で軽い食事をとる。きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回。酸化のすすんでいる豆を挽いてコーヒーを淹れ、日本から持ってきた冬用の作務衣を洗濯機に突っ込み、たまっている日記の読み返しにとりかかる。

 まず、2023年2月21日づけの記事より。2022年2月21日づけの記事に引かれていた「坑夫」(夏目漱石)の一節を受けての記述。

 俗人はその時その場合に書いた経験が一番正しいと思うが、大間違である。刻下の事情と云うものは、転瞬の客気に駆られて、とんでもない誤謬を伝え勝ちのものである。自分の鉱山行などもその時そのままの心持を、日記にでも書いて置いたら、定めし乳臭い、気取った、偽りの多いものが出来上ったろう。とうてい、こうやって人の前へ御覧下さいと出された義理じゃない。
夏目漱石「坑夫」) 

 このくだり、こちらの考える日記観と正反対でけっこうおもしろい。というのも、こちらはむしろ、時間が空けば空くほど、事後的な正当化をやどした気取りや偽りが混じるという考えから、日記はなるべくためずに、さっさと書いてさっさと投稿すべきという考えなので(そのほうがじぶんの「愚かさ」をちゃんと記録できる)。

 同年同月22日づけの記事と23日づけの記事も読みかえす。以下は23日づけの記事より。「窃盗協会」のくだり、まんまマルケスの世界やよなと思う。

 一九八九年春の北京は、アナーキストの天国だった。警察が急に姿を消し、大学生と市民が自発的に警察の任務を果たした。あのような北京が再現することは、おそらくないだろう。共通した目標と共通した願望が、警察のいない都市の秩序を整然と維持していた。街に出れば、友好的な空気が流れていることを感じる。地下鉄もバスも切符を買わずに乗れた。人々はお互いに微笑み合い、よそよそしさが微塵もなかった。よく見かけるような街角での口論もない。いつもは勘定高い商売人も、デモ隊に無料で食べ物と水を提供していた。退職した老人がわずかな銀行預金から現金を引き出し、広場でハンストをしている学生にカンパした。コソ泥たちまでもが窃盗協会の名義で、「ハンスト中の学生を支援するため、一切の窃盗行為を停止する」という声明を出した。当時の北京は、「四海の内はみな兄弟」とも言うべき都市になっていた。
 中国の都市で暮らしていると、強く感じることがある。とにかく、人が多いのだ。しかし私は、天安門広場の百万人デモを見て、ようやく中国は世界でいちばん人口の多い国だということを実感できた。天安門広場が毎日、黒山の人であふれている光景は壮観だった。地方からやってきた大学生が広場の片隅あるいは街頭に立ち、来る日も来る日も演説を続けていた。喉がかれ、声が出なくなっても、頑強に演説をやめようとしない。取り囲んでいる人々は、苦難の人生を歩んできた老人も、赤ん坊を抱いた母親も、若い学生の童顔に見入り、稚気に富んだ演説に耳を傾けている。誰もが尊敬の表情を浮かべ、しきりにうなずき、熱烈な拍手を送っていた。
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)

 ほか、『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す』(知念渉)のあとがきより。

 大学に入学して間もない頃、とても戸惑った経験がある。小学校の教師を目指して進学した教育学部の授業で周りの友人・知人と意見交換したときのことだ。はっきりと覚えているわけではないが、大学の授業では「理想の教師とは何か」「教師になりたいと思ったのはなぜか」「いい授業とはどんなものか」などのお題について話し合う、という機会が多かった。そういう意見交換を通じて周りの人がもっている生徒観をおぼろげながら知るわけだが、それが当時の私にはとても「優等生的なもの」に感じた。「こんな教師がいたら生徒に好かれると思う!」とか「こんな授業をしたら魅力的なんじゃないか」という友人たちの意見に対して、当時の私は「教師は教師であるという時点で、授業は授業であるという時点で、生徒にとって魅力的なものにするのは無理だろう」という冷笑的な態度をとっていた。
 いまから振り返れば、そうしたズレは私が生まれ育ってきた軌跡と、学友たちの軌跡の違いに原因があったのだと思う。私は、沖縄県玉城村(現・南城市)という農村部で生まれ育ち、親や親戚をはじめとする身近な大人に大卒者はいなかった。周りにいた大人や先輩、友人たちの多くは、高校卒業後あるいは中学校卒業後に農業や畜産、運輸業に携わっていた。そのような環境から、自分自身もきっと高校を卒業したら働くものだと思っていたので、高校では「遊び尽くす」と考えて、進学校ではなく中堅高に進んだ。実際、高校一年生から二年生まではかなり遊びほおけていたのだが、いろいろな偶然が重なって、高校三年生のときに一念発起し、地元の国立大学に進学することになった。一方、大学で出会った友人たちの多くは、親が教員や公務員だったり沖縄の一流企業に勤めていて、進学校を経て大学に入学してきていた。このような生まれ育った環境の違いから、生徒観のズレが生じていたことは想像にかたくない。
 ただ、いまだからそう整理できるわけで、当時の私にはそうしたモヤモヤを簡単にぬぐい去ることはできなかった。「優等生的なもの」を批判しながらも「なんだかんだ言って、結局、国立大学に進学した」自分自身に嫌気がさしていたし、「教師になりたい」と考える以上、自分の冷笑的な態度が自己矛盾を抱えていることにも気づいていた。議論の最中に周りから「友達の話ばっかりで、自分のことじゃないじゃん」と言われても、何も言い返せなかった。「大学になんて進学しなければよかった」「大学を辞めてしまおうか」と悩んだことも一度や二度ではない。だが、辞める決断ができないから、また鬱積してしまう。さらに言えば、大学での言葉遣いなどになじんでいくなかで、高校までの友人たちと距離ができてきたことも体感していた。大学生の自分探しと言ってしまえばそれまでだが、大学に入って一年くらいはそのような堂々巡りの状態が続いた。

 このあたりに関しては、大学進学後のじぶんの経験とかなり共通するところがあるなという感じ。「高校までの友人たちと距離ができて」いった理由として「大学での言葉遣いなどになじん」だことが挙げられている点など、似たような経緯を有している人間はみんなうんうんうなずくんじゃないかと思う。「言葉遣い」というものがいかに明確なしるしとして——部族の刺青のように——われわれの社会で機能していることか! 
 以下のくだりも、ほとんどじぶんが書いたのではないかという気がするほどだ。激しく共感する。

 このように形をあらためて振り返ると、私にとって「ヤンキー」とは、とても身近だったのに、大学進学を機に突然「絶対に同一化できない/してはいけない他者」になってしまった存在なのだと思う。こういった言い方が許されるなら、「ありえた(が、もう選びえない)もう一つの生き方」と言ってもいいかもしれない。本書のもとになった調査をするようになってから、いろいろな機会(大学の採用面接でも!)に「知念さんはヤンキーだったんですか?」と問われるのだが、その問いに私が肯定も否定もできずに言いよどんでしまうのは、ヤンキーに対してそうしたアンビバレンツな感情をもっているからだ。

 以下は2023年2月24日づけの記事より。

 作業のあいだ、(…)さんとやりとりを交わしていた。大学院で専攻を英語に変更するのかとたずねると、「未来の方向はまた知りません」「そして、どんなことでもやってみたい。」という。そういうアレから、好奇心のおもむくままに生きるのが一番だよ、周囲の目を気にしないタイプであればそうやってふらふらして生きるのが一番楽しい的なことを言ったところ、「私はときどきうらやましい」という反応があり、そう、彼女はわりとそういう自由をもとめるタイプなのだ。そうした生き方の問題について「これは先生とよく交流したいです。私はいろいろな疑問があります。」「たぶんは人生の信仰と欲望です。」「でも急ぎません。」という言葉が続いたので、じゃあきみの都合のよいときにまたゆっくり話しましょうと応じつつも、うん? と思った。ここで「信仰」という言葉が出てくるところにひっかかったのだ。さらにこちらがコロナにいまだ未感染であることを受けて、「たぶん神様がいます」と言ったり、「私の実家で神様がいます」「神様の加護を受けたはずです」と言ったりして、どういうニュアンスの発言であるのかがよくわからないのだが、しかしそれでいえば先学期、彼女と(…)くんと(…)さんと(…)さんの書道の先生と食事をした際、温州出身の(…)くんがキリスト教徒であることを知った彼女はちょっと特別な反応を示していた記憶がある。それにくわえて、彼女はいまどきの愛国心いっぱいの若者としてはめずらしく、このうえなく明確に、はっきりと、近平の旦那に対する批判的な意識を持ち合わせていた。それでふと思ったのだが、もしかして(…)さんもキリスト教徒なんではないか? それも(…)くんのように共産党支配下にあるほうのアレではなく、もっとガチの、弾圧される側の信仰を有しているのでは? あるいはキリスト教ではなく別の宗教——たとえば(…)先生の祖母がいれこんでいるという民間宗教だったりするかもしれないが、いずれにせよ、そういう意味でのマイノリティに属する人物なのではないか? そう考えてみると、クラスのなかで少し浮いているような雰囲気があり、かつ、政権に対して批判的であり文芸趣味も有している彼女のキャラが、けっこうしっくり理解されるのだ。うーん、物語の予感がする。

 (…)さんがなんらかの信仰をひそかに抱いているかもしれないということ、この記事を読み返すまですっかり忘れていた。(…)さん、現四年生(当時の三年生)のなかである意味もっとも気になる学生の一人であるのだが、結局、プライベートでの交流はほとんどないまま卒業の時期を迎えつつあるわけで、こちらが一方的に興味をもっている学生であればそれはそれでよしという感じであるのだけれども、彼女の場合は相手のほうでもこちらと一度ゆっくりいろいろ話してみたいという意思を明確に有しており、かつ、たびたびそのようなサインを送ってきたのであって、しかしそれにもかかわらず、こちらはそのようなサインを積極的にキャッチしようとしなかった、そのことをいまさらちょっと悔やんでいる。こちらは原則としてじぶんから学生を食事だの散歩だのに誘わないようにしている、しかしその原則に徹するあまり、遠回しなかたちであったりほのめかしというかたちであったりでしかこちらにアプローチできないひかえめなタイプの学生と交流する機会を何度も逃してしまっている(あるいは無視してしまっている)わけで、(…)さんもまさにそういうタイプであるのだけれども、いやそこは原則なんてものにはこだわらず、言外のニュアンスを汲んでこちらからちゃんと誘うということをするべきだったんではないか? 彼女はあきらかになにかを話したがっていた、なにかを打ち明けたがっていた、なにかを共有したがっていたはずであるのに! 過去にもそういう学生はたくさんいた。(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん……卒業生だけでもいろいろな顔が浮かぶ。
 十年前の日記もまとめて読みかえす。以下は2014年2月21日づけの記事より。

 ミンダナオの三人の病人中二人が死んだ。水葬が行われるそうで、有志は後甲板に集合と廻状が来た。
 祖国を三日の先に見ながら死んだ人達は確かに気の毒であった。しかし、彼等が気の毒なのは戦闘によって死んだ人達が気の毒なのと正確に同じである。私とても死んだかも知れなかった。自分と同じ原因によって死ぬ人間に同情しないという非情を、私は前線から持って帰っている。
大岡昇平『俘虜記』)

 以下も同日づけの記事より。一部書き直して『S&T』に収録した記憶がある。

パンを食べ終わったところで河川敷をひたすら南進した。(…)くんの楽曲にでたらめな歌詞をはめこんで歌ってみたが、うまくいかなかった。しばらく歩いていると川をはさんだ対岸でもまたボーダーコリーをつれて歩いている人影が認められたが、リードを引っ張って先をゆこうゆこうとするその後脚がすこし不自由なようにみえた。対岸のそのまたむこうのこの街をとりかこむ山の一部が茶色く浮かびあがっていたのだが、部分的な日差しのせいでそのような色合いに染めぬかれてみえるだけなのか、それともじっさいにそこだけが立ち枯れてある木々のためなのか、あるいは木々の引っこ抜かれて開拓された山肌のあらわになっているためなのか、どれだけ目を凝らしてみてもやはり見極めがつかなかった。対岸をじぶんとおなじ方角にむけておなじような歩調で歩く人影があった。両者をへだてる空間をたっぷりと用いてゆったりと鷹揚にいくらかもったいぶって舞ってみせる一羽の、あれはおそらくとんびであるように思うのだけれど、鳥がいて、その軌道をぼんやりと目で追っているうちに対岸の相手のほうでもやはり同じようになぞっているらしいその目と不意に行きあう瞬間というのが幾度かあった。かなり間遠な距離ながらしかしたしかに互いを認識するふうな、独特の歩みのぎこちなさのようなものがそのときだけ際立つようであり、そしてまたそこで際立ったものを認める両者の意までもが重ねて際立つようであり、と、いちどこうなると意を決してそらすべきものをそらさないかぎり際限ないものにとらえられてどこにもいけなくなってしまうのではないかというおそれが煮凝る。これは偶景になる、そうメモして顔をあげるとすでに人影はなかった。狐につままれたようだった。

 以下は2014年2月22日づけの記事より。(…)から結婚報告&シカゴ赴任の連絡があったので、出国前に東京で会おうということになり、上京の計画を立てている。たぶん(…)くんとはじめて会ったのもこのときだったんではないか? 「どうにでもなれの磊落な開きなおりだけがどうとでもなる現実の寛容を呼びよせる」というフレーズが気に入った。これはまさにじぶんの生き方そのまんまだな。

(…)くんが寝床の世話をしてくれるというのだけれど、さすがに四日も五日も世話になりつづけるのもアレであるし、三月だからさすがに野宿はつらいことを考えるとやはりネットカフェかカプセルホテルあたりでの宿泊も考慮してとかいろいろ思うのだけれど、まあそういうもろもろ考えたり計画したりするのあんまり好きでないしとりあえず現地にさえいってしまえばあとは存外なんとかなってしまうものだという傲岸不遜な思いあがりめいた楽観性もあって、それも決してゆえなきものというわけではなくそれほど多くはない過去の旅の記憶がしかしたしかに裏打ちするところではあるので、とにかくさっさとチケットだけ確保してあとはぜんぶむこうで適当に決めようと思った。タイもカンボジアも沖縄もぜんぶそうだったのだ。ぶらぶらしてたらだれかが見かねて拾ってくれる。あるいは絶好のどこかにどういうわけかたどりついてしまう。どうにでもなれの磊落な開きなおりだけがどうとでもなる現実の寛容を呼びよせる。

 以下は2014年2月23日づけの記事より。

6時15分起床。8時より12時間の奴隷労働。(…)のおっさんの一件がどうにかこうにかかたちの上だけでも片付いたと思ったら今度は(…)さんと(…)さんの関係が悪化しつつあるというか(…)さんのインフルエンザからの復帰以降(…)さんがふざけた口調ながらも埋め合わせとして乳揉ませろや発言をくりかえしていてそれが一度や二度のことならまだしもわりと執拗なものだから(…)さんがけっこうご立腹な感じでわりと空気のわるいことになっており(…)さんもさすがにこれはまずいと思うところがあるらしくもうアホなことはいいませんといちおう誓いをたてたりはしたのだけれどまじめに謝罪する気恥ずかしさがたってかおどけた謝罪になってしまってそれにますます(…)さんが不機嫌になるという悪循環の流れがひとまずできあがってしまっており(…)さんにはその一線超えちゃ駄目だろしっかりしてくれよと思うし(…)さんには(…)さんは底なしの阿呆だけれどああ見えて不器用ながらも反省しているようであるしあの阿呆さに免じてここはもうひとつどうにかこらえてもらえればと思う。
(…)さんとふたりで話す時間があってそのときに(…)のおっさんのセクハラ騒動における(…)さんの対応にたいする不信感みたいなものを(…)さんも感じているようで女性だったらまあそりゃそうだろうなと思うというか今回の一件についてはじぶんもはっきりと(…)さんにたいして疑念と不信といらだちを募らせていたのだけれどこの職場にいる男性陣というのは基本的に徹底的な男尊女卑的思考の持ち主ばかりで「だから女は〜」みたいな物言いにはじまりいまどき本気で女は馬鹿だだの女には理性がないだだの女は子宮でものを考えるだの女はなんでもいいから構ってほしいだけの阿呆だだの男が浮気をするのは甲斐性だが女が浮気をすれば尻軽クソビッチだだのを本気で口にしていたりしてこういうの正直にいってけっこうきっついというかはっきりと抵抗感をおぼえるのであるのだけれど、そのような考え方の開陳、というかそのような考え方ありきのそれを前提とすることではじめて成り立つ言説の数々にたいして猛烈な反感を抱く人間がいるということを知らないくらいには無知で想像力に欠けたひとたちであるというかそれは彼らの所属するコミュニティ全体に蔓延する病であるのだから想像がおよばないのはある意味で仕方ないのかもしれないけれどもとにかくその一点にかけては最低最悪で毎度のことながらげんなりするし教育っていうのは本当に重要だと女性蔑視のみならず差別的言辞の日常茶飯事に飛びかうこの職場に身を置いているとつくづく感じ入るのだけれど、差別の構造にたいする感受性からではなくみずからもまたその被害をこうむりかねない女性であるというその防衛的な自覚に端を発するきわめてフィジカルなものなのだろうけれど今度の一件については(…)さんだけは唯一まともな考えをもっているように思われ、(…)さんが(…)のおっさんにたいするヒアリングの実行を(…)さんにせまったことについて(…)さんは(…)のおっさんがじぶんではない別の女にちょっかいを出しはじめたことに(…)さんが嫉妬したにすぎないのだと、このあいだの二時間にわたる長電話のあいだもしきりにくりかえしていたし同様の内容を(…)さんのまえでもべらべらと開陳していたらしいのだけれどその場にはもちろん女性であるところの(…)さんも居合わせていて、論旨もクソであればそれを開陳する場の選択もクソであるというか女性蔑視たっぷりの事柄を口にされて嫌な気持ちにならない女性なんてまずそうはいないだろうし、のべつまくしたてる口調が男性間でとりかわされる秘密の響きを帯びることでもあればそれはそのまま(…)さんにたいしてわれわれはあなたを女性として見ていませんのメッセージとして作用しかねないし、(…)さんは例外的にものわかりのよい女性であるから気にしないのでいるのだという弁明が仮にくりだされたとすればそれは外堀を埋める抑圧のほとんど最悪の形態だろうし、とにかくよくない、本当によくない。もうそれやったら男だけで勝手にすればいいってわたし思ったわ、と(…)さんは今度の一件をそう総括して憤っていた。それから、ふざけてやっているとわかってはいてもいざあんなふうなことをいわれてしまうとやっぱりどうしても恐怖感みたいなものをおぼえる、と(…)さんのことについても続けて語った。ふしぎなんやけど、わたし(…)さんがあんなふうに乳揉ませろとか吸わせろとかな、冗談やってわかっとんのやけどああいうふうにいわれてしまうと、ああ、そういうふうに見とんのやなって、そういう意識が働くとふしぎなんやけどちょっと怖くなる、恐怖心みたいなんがな、やっぱりどうしても出てくんのよ、ドアとか開けて待ってくれとるときにその腕のな、突っ張った腕の下とか通るときとかにな、やっぱどうしてもこうびくっと身構えてしまうの、やしわたしもうなるべく近づかんようにしとんの、こう、ちょっとでも身をひきはなしてな、そういうのってな、やっぱりあんねん、もう、相手がどうとかな、年齢とかそんなん関係ないとわたし思う、といって、そうだよな、やっぱりそう思うんがふつうなんだよな、と思った。それからこういう女性の心情の吐露さえ許さぬこの職場の空気はなんだろなと思った。(…)さんはじぶんの前ではこういうふうに本音のところで語ってくれたけれども、たとえば恐怖感のくだりなんてほかの男性陣のまえではぜったいに口にできない、したら若い女の子というわけでもないのにいい年してなにいってんだと、裏でそのように嘲笑気味にささかれることになるにちがいないと、そこまで考えてしまって結果なにもいえなくなるんだろうと、その内心のはっきりと透けて見えて、ここで働くのはけっこうつらいだろうな、とすごく同情した。そしてそのような空気の醸成されてあることにまったくもって無頓着な、徹底したミソジニーにつらぬかれてあるここの連中の価値観とそこから派生するなり補い合うなりしているにちがいない極右といってもさしつかえない政治的思考との結びつきもまとめて嫌悪する心がひさしぶりに巨大に燃えさかり、大戦時の日本を語るときのおきまりのフレーズに軍部の暴走というのがあるけれどもきっとそれだけじゃない、この手の市民ひとりひとりの下品きわまりない大声こそがむしろ時代を暗黒に押しやったんでないかと思われてならないしそれはここ数年の世論の移り変わりを見ていても感じる。すべて政権の問題か? その政権を支持する国民の問題か? むしろ国民の声がこのような政権を要請したんでないのか? 民主主義のじつをいうとすみわたった徹底こそがこの愚劣なポピュリズムを呼びまねいているのではないか? 金子光晴の自伝には大戦時の国民の愚劣なもりあがりがありありと描写され非難されていた。

(…)さんは二十歳のころに健康診断で聴診器を胸にあてられたあと、きみ胸がおおきいねと医者にいわれたことがあるといった。それから二十数年経ったいまでも、よほどのことがないかぎり病院にだけは行かないという意志がいきている。この挿話を聞いたときに、ひどい話だと思うと同時に艶かしいものをも感じとるじぶんがいた。要するにこいつだと思った。こいつを否定しては男の側から女性の立場を考えることができない。こいつを否定できぬ前提として組み立てるべきものを組み立てておかないと、ないものとして看過して組み立てたものはかならず脆弱性をきたすことになる。

 それから2014年2月24日づけの記事。

 自分の手段を十全に活用する能力は、手段の数が増えれば増えるほど減じてゆく。
ロベール・ブレッソン松浦寿輝・訳『シネマトグラフ覚書』)

 『シネマトグラフ覚書』(ロベール・ブレッソン松浦寿輝・訳)からの引用——ということは「きのう生まれたわけじゃない」をいよいよ閉じようとしている時期だ。イニシャルトークで誤魔化すのもそろそろ限界かなというアレから「きのう生まれたわけじゃない」を閉じるにいたり、そのまま「信じる人は魔法使のさびしい目つき」を新規でたちあげたわけだが、引越し先を告げていなかったにもかかわらず「信じる人は魔法使のさびしい目つき」にたどりついた読者がおり、そのひとからTwitter経由で引越し先を見つけるにあたって記事冒頭のブレッソンの抜書きがヒントになりましたというメッセージを受けとったことをよくおぼえている。

 外出。ゴミ袋をもって部屋を出る。敷地内で(…)の姿を見かけたので、おたがいに手をふってあいさつ。もどってきたのかというので、一昨日もどってきたと受ける。(…)はめちゃくちゃ寒い! 雪まで降っている! と言うと、(…)は笑った。そのまま徒歩で南門のほうへむかう。キャンパス内の路面はすでに元通りになっていた。凍結もしていないし、雪も道端にしか残っていない。これだったらケッタでも全然だいじょうぶだったなと思いながら歩く。
 まずは(…)へ。食パンを三袋買う。店に入っていたのはいちばんテンションの明るいおばちゃん。帰ってきたのかというので、おとつい帰ってきたよ、こっちは本当に寒いねと受ける。それからセブンイレブンに立ち寄り、弁当とおにぎりを買う。精算時に温めは必要ないとやりとりしていると、「また来ましたね」と突然日本語で声をかけられた。滋賀県で仕事をしていたことがあるという例の男の子だった。レジに入っているのは女性ふたりだったが、彼女らとは別に、レジの端っこのほうでペーパーワークをしていたその姿に、こちらは声をかけられるまで気づかなかったのだ。それでしばらく立ち話。初詣はどうでしたかと言われたので、ふるさとに有名な神社があるんでそこに行ってきましたと受ける。(…)でこんなに雪が積もるのはめずらしいですね、おとついこっちに帰ってきたんですけど道路が凍っていて、荷物がたくさんあったし歩くのが怖かったですというと、つるつるでしたよねと言う。故郷は京都ですよねというので、ここに来る前京都に住んでいましたけど故郷は(…)なんですと応じると、はてなという反応だったので、(…)を中国語読みして伝えてみたが、やはり知らないようす。そりゃそうだ。ふるさとはどちらなんですかとたずねると、四川省です、成都の近くにある小さな町でという思いがけない返事があった。それだったら成都重慶で仕事をしたほうがいいんではないか? なぜよりによってこんな辺鄙な田舎町に? と思ったが、その点についてはたずねそこねた。四川出身でしたら日本にいるあいだは食事が大変だったでしょう? たぶん全然おいしくなかったと思うんですがというと、慣れるまで大変でしたけど慣れたらおいしかったですよという返事。うちの学生たちはみんな日本に行くまえに辣条や老干妈を持っていくんですよというと、相手は笑った。われわれふたりが立ち話をしているあいだ、レジに入っている若い女性ふたりはなぜかその場に直立してうつむいていた。店員の彼はもしかしたらバイトリーダー的なポジションなのかもしれない。しかし前回はじめて言葉を交わしたときも思ったが、発音含めて相当流暢だ、このレベルで会話できる人間はなかなかいない、会話の自然さという点だけにかぎっていえば、(…)先生レベルに達しているんではないか。
 元来た道をひきかえす。キャンパス内を歩いていると、前からスクーターがやってくる。こちらに接近するにつれてゆるやかに速度を落としはじめたので、あれ? もしかして? と思っていると、案の定(…)だった。新年好! とあいさつ。もどってきたのかというので、おとついもどってきたよと英語に切り替えて返事をする。めちゃくちゃ寒いね、おとついはこのあたりの道路が全部凍結していて歩くのが大変だったと言うと、あなたがこっちにもどってくる前日、つまり、三日前は気温が27度もあったよ、(…)なんて半袖で過ごしていたんだからというので、真的吗!? と爆笑した。いくらなんでもめちゃくちゃだ。三日前といえば福州の最高気温30度に悩まされていた日であるが、こっちはこっちでそんなに暑かったのだ。(…)は快递にparcelを回収しにいくところ。See you soon! と言って別れる。
 それで寮にもどった。(…)、(…)のおばちゃん、セブンイレブンの店員さん、(…)と、たてつづけに四人と対面して三カ国後のちゃんぽんで言葉を交わすうちに、ああもどってきたんだなという実感をおぼえた。同時に、さあ新学期がもうすぐはじまるぞというキラキラした期待感のようなものもこみあげてきた。いや、この種の期待感なんて実際に授業がはじまってみると一挙に消え失せてしまうというか、めんどくせえなあとかあのクラスもうちょいやる気出せよとかそういうネガティヴな感情にすぐさまとってかわられてしまうわけだが、それでもやっぱり学期はじめのこの雰囲気というのは独特の質感を有しており、いつかこの感情をなつかしく思い返す日もくるのかもしれない、この日の日記を10年後に読み返したときに、そうだった、新学期前のそわそわした感情、わくわくする期待感、そういうものがたしかにあったなぁと懐古するかもしれない。
 帰宅後、弁当とおにぎりをレンジでチンして食した。それからベッドに移動し、『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)の続きをちょっとだけ読み進め、30分ほど仮眠をとり、チェンマイのゲストハウス並にしょぼいシャワーを浴びた。
 で、20時半から「実弾(仮)」第五稿執筆。シーン20。ひさしぶりの執筆なのでチューニングを調整するのに時間を要した。なかなか気分がのってくれなかったのだ。ぐずぐずしているうちにふと「S」の完成稿が目についたので、序盤・中盤・終盤をそれぞれざっと斜め読みしてみたが、いやおれよく書いたなこれ、よくこんなもん完成させたなと、ちょっとびっくりした。それで元気が出た。ラーメンを食ったのち、気分転換に「実弾(仮)」第五稿のフォントを変更した。結果、一気にチューニングが合った。23時半まで鍵盤を前にしたグールドのようにキーボードをカタカタやった。作業中は『Special Evolution』(Rafael Toral)と『Og23』(Kevin Drumm)を流した。
 その後、寝床に移動し、『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)の続きを読み進めて就寝。