20240225

国家の響きが草原に漂ってゆく
なにも信じていない声で
ただ慣習のためにうたわれた歌
サム・シェパード畑中佳樹・訳『モーテル・クロニクルズ』 p.172)



 きのうづけの記事に書き忘れていたが、きのうは元宵節だったらしい(学生らがその旨祝う投稿を汤圆によく似た食いものの写真や花火の動画などといっしょに投稿しているのを見た)。元宵節はたしか春節の終わりにあたるアレだったはずであるし、となるとbottle waterの配達がなかなかされないのも路面の状況が原因ではなくて単純に春節期間中で配送員が休みであるということなのかもしれない。
 10時半起床。今日もまた寝床で小一時間ぐずぐずした。朝食は白湯とトースト。食後のコーヒーを淹れるために台所に立つと、室内にもかかわらず吐息が白くけぶり、京都貧乏暮らしの日々を思いだした。
 「実弾(仮)」第五稿作文。13時過ぎから16時過ぎまで。シーン20、無事終える。そのままシーン21も通す。それほど大きな修正点はない。修正点がないのはそれ自体よろこばしいことであるはずなのだが、シーンのあたまからケツまでほとんど手をつけずに読み終えてしまうと、本当にこれでいいのか? こんなに手応えのないまま終わってしまってもいいのか? なにか足りないのではないか? もっと細かく加筆修正すべきでは? という不安に憑かれてしまう。
 アプリの更新をしたからなのかもしれないが、ヤフーメールにログインできなくなった。ヤフーメールは中国国内でも利用できるメアドであるので、こちらで生活を開始するにあたってわざわざ新規でこしらえたのだったが、「ログインの有効期限が過ぎています」なんて表示されたのはこれがはじめてだ。で、再ログインをこころみたのだが、IDもパスワードもさっぱりで、いろいろためしてみたのだがどれもこれもうまくいかず、そうこうするうちに試行回数制限をオーバーしてしまってアク禁を喰らってしまった。もうええわ!
 と、ここまで書いたところであらためてログインを試行してみたところ、問題なくできた。なんやこれ!
 夕飯は今日も(…)。ケッタでもまったく問題なかったが、いちおう運動不足解消を兼ねて徒歩でむかう。食後は(…)で冷食の餃子と缶コーヒーとハンガーを購入。帰宅後、クローゼットの整理。いらない服をまとめてデカいビニール袋のなかに放りこんでいく。なかなかの量になった。こいつらは夏休みに日本にもちかえってハードオフで全部売っぱらう予定。というかじぶんでもたいそう驚いたのだが、黒のパンツだけでなんで8本もあんねん! 烏賊でもそんなにようけズボンいらんやろ! ハンガーを買い足す必要はなかった。20着以上処分したので、ハンガーはむしろアホほど余った。これまで折りたたんで収納していたパンツも余ったハンガーに吊るすことにした。それからリビングとデスクまわりをざっと片付けた。これでずいぶん部屋もきれいになった。あとはリビングに掃除機をかけて、天気のよろしい日にシーツを洗濯するだけだ。

 シャワーを浴びる。きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の日記を読み返す。2014年2月25日は(…)とそろって神戸をおとずれ、ターナーの展覧会をチェケラしたのち中華街でメシを食った日だった。あれ、10年前なのか。そう考えてみると、10年ってすごく長い。想像もできないような出来事がいくつも生じる長さだ。
 冷食の餃子を食し、今日づけの記事も途中まで書いたのち、『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)の続きを読み進めて就寝。

処世論。ひとは三〇歳にしてなお、高い文化の意味において、初心者であり、子供である。ひとは見ることを学び、考えることを学び、話したり書いたりすることを習わねばならない。これら三つの目的は洗練された文化である。見ることを学ぶとは、眼に対象を近づけてこさせる冷静さ、忍耐を習慣づけることである。判断を差し控えるとは、個々の場合をあらゆる方向から見て、これを全体的に理解することを学ぶことである。これは精神のありかたのための最初の予備訓練である。一つの刺激にただちに反応するのではなく、これを抑制し、隔離する本能を意のままにすることである。見ることを学ぶとは、わたしが理解するかぎり、非哲学的な話し方を強い意志と呼ぶことである。ここで本質的なのは、決定を「望む」のではなく、決定を引き延ばしておくことができる点にある。あらゆる非精神性、あらゆる通俗性は、一つの刺激に抵抗できない無能力に基づいている、ひとは反応せずにいられず、すべての衝動に従うのである。多くの場合、この「せずにいられない」は、既に病的な徴であり、頽廃であり、疲憊の徴候である。非哲学的な粗野を「悪徳」の名で呼んでいるほとんどすべては、反応できないあの生理学的な無能力に他ならない。——見ることを学んだ一つの有利な応用は、ひとは学ぶ者として一般に緩慢であり、不信を抱き、抵抗するようになるであろう、ということである。ひとはあらゆる種類の異質なもの、新奇なものを敵意を抱いた冷静さをもって、近づいてくるにまかせる、——ひとはその前から手を引っこめるであろう(このイメージはすこしばかり、小犬が大きな犬の前で毛を逆立て、身体をふくらますのを思い出させないか? M)。
(p.49-50)

彼は読書に明け暮れた。哲学書も読んだ、——しかし無計画に、だった。だいたい彼は大量の無秩序な知識をもっていて、彼の前に現われるさまざまな問題を、たいていは不器用に取り扱った。彼は、あてどもなく難解な本に沈潜した。きわめて几帳面な綿密さをもってそれらの本を読み、そのために彼の精神はしばしばまったく不毛な領域に、無意味に不毛で、しかも解読困難な形而上学的思弁に誘われた。本を読みながら、彼は退屈した。彼はこれらすべての努力の価値に対しあくまでも懐疑的だったが、ある強力な徹底性が、いったん始めたものに彼を固く結びつけていた。この徹底性に彼は悩んだ。これにはなにが病理的なもの、あるいは悖徳の幾分かが含まれていた。なぜならそれは、たんにその徹底性の野心を満足させるために、人間全体を冷遇したからである。しかし彼は一つの運命として、ある暗い不可解な衝動のように、その徹底性を内蔵していた。
(p.64-65)

それから冷却がきた。単純に、簡潔に、必然的に。二人の仲は終わった。「すべての一時間が魂に成長をもたらさないときに、これ以上いっしょにいるのは不道徳だ」と、彼は言った。「元気でな。」
(p.68)

死に対するかすかな恥じらい。
(p.68)

ニーチェについての覚書。
 ひとは彼を非哲学的だ、と言う。彼の作品は機知に富んだ冗談のように読める。ぼくには彼が、百の新しい可能性を発見し、そのどの一つも実行しなかった人間のように思われる。新しい可能性を必要としている人びとが彼を愛するのは、そのためである。そして、数学的に計算された結果なしでは済まされない人びとが、彼を非哲学的だと呼ぶのは、そのためである。ニーチェ自体は→若者らしい不遜←大きすぎる価値をもっていたわけではない。しかし、ニーチェと、自分が提示したものを実行する一〇人の有能な精神労働者は、我々に千年の文化の進歩をもたらすであろう——
 ニーチェは、公衆の利用に供せられている一つの公園のようである。——しかし入って行くものはただの一人もいない!
(p.71)

 この公園の比喩、どこかで目にした記憶があるのだけれども、『特性のない男』かな?

もっとも深い静寂の時間に寄せて。
 すべての人間は、彼の諸思想の墓場をもっている。われわれにとってそれらの思想がもっとも美しいのはその誕生の瞬間においてである。のちにはわれわれは、しばしば、それらの思想が、われわれを恍惚とさせたのはいつだったのかに関して、われわれを無関心にさせるのを感じて、深い苦痛を感じる。ところで、もっとも深く静寂な一刻[ひととき]は、それらがかれらの墓から立ち昇り、かれらの一つ一つがわれわれに失われた自我の一片をもたらしてくれるわれわれの魂のあの一二時から一時のあいだである。われわれはわれわれ自身について別な感情をもち、そして静かになる。なぜならわれわれは、一時の刻[とき]がうつとかれらが立ち去って行く必然性を知っているからである。
(p.72)

自分の考えを書きおろすときに屈辱を感じる人間がいるものだ。われわれの書き方はわれわれの精神性の所産である。二千年はわれわれとともに書く。しかし最も多く書いたのは、われわれの両親や祖父母たちである。ピリオドとセミコロンは退行の徴候——静止の徴候である。シンタクスを骨化した教授たちに任せておいてはならない。われわれがピリオドやセミコロンを打つのは、そう教わったからではなくて、われわれがそう考えるからである。終止符をもった文章で考えるかぎりは——ある種の事柄は言うことができない——せいぜい漠然と感じられるだけである。他方、今日なお無意識の識閾の上にある、ある種の無限の諸パースペクティヴが明瞭になり、理解できるようになるような表現法を学ぶことは可能であろう。
(p.75)

 「終止符をもった文章で考えるかぎりは——ある種の事柄は言うことができない」とか、ちょっとロラン・バルトみたいではないか。

われわれの生き方の一つの欠陥は、われわれがいわば「死んだ時間」を逃げられないことである。われわれは会話においては精神的である。つまりわれわれはしばしば坐り心地の悪い椅子に腰掛けて、産業博覧会の機械のように、われわれの精神を働かせる。
 とくに「精神的な」なサークルのなかでは、孔雀がいばるときにもっとも美しい色彩だけを見せるように、誰もが他人に対して用心しなければならない。この欠点から、ぼくは古代ギリシアの哲学学派の制度の偉大さを理解する。そこにはその成員相互のあいだに、「肉体的な」慣れと愛情があった。ここでは同性愛が著しく倫理的な性格をもっている。同性愛が、われわれにおいては、最良の場合にもそこで会話が終わる段階から、会話が始められるのを唯一可能にする、あの精神的信頼を高める。
(p.82-83)