20240228

 ぼくは八〇エーカーの芽ぶきはじめた牧場の奥深くにいて、ぼくの頭は決してじっとしていなかった。ぼくの目はみずみずしい緑の牧草の連なりを舐め、いちばん新しいトラクターの轍を捉えることができた。子牛がつけた深くへこんだ足跡は、辺りがまだ泥で、草がどこもかしこも黄色い無精ひげ程度に短く食い尽くされていた頃につけられたものだ。ちょうど彼らが防火線を切った頃だった。ぼくの体が行って横たわりたがっているのが聞き取れた。が、ぼくの頭は言うことを聞かない。ここでは一日の時の推移が他よりずっとはっきりと感じとれた。ここでは何もかもが、太陽が空から去ろうとしているのを親しく感じ取っていた。塵でさえ太陽に別れを告げていた。
 背後で納屋から誰かがぼくを呼んでいると、ぼくは思い続けていた。本当にその声が聞こえたので振り向いて後ろを見た。誰もいなかった。
 ぼくはもう一度牧場の方を向き、どこまで行ってみようかと思った。海に泳ぎに出るときに自分にしたのとまったく同じ質問だ。そこより先に行くと危険だという地点、それはいったいどこだろう? それからぼくはわかった。そんなことを考え始めたら、もうその地点は過ぎているのだと。
サム・シェパード畑中佳樹・訳『モーテル・クロニクルズ』 p.180)



 10時半起床。トースト二枚と白湯。コーヒーを淹れて12時半から15時半まで「実弾(仮)」第五稿作文。シーン24、いちおうあたまからケツまで通してみたが、要修正箇所が複数ある。今日はいまひとつ集中できなかったので明日以降徹底修正をほどこす。
 作業中、また身体の冷えに見舞われた。暖房の設定温度もあげるようにしているのだが、やっぱり朝メシをもうちょっとしっかり食ったほうがいいのかもしれない。トーストだけでは足りない気がする。今日から第五食堂が営業を開始するという話なので、朝昼兼用のメシは食堂でとることにして、トーストは夜食にまわしたほうがいいかもしれない、そうすることでしっかり体温を確保すべきかもしれない。
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返す。以下、『形なきものの形 音楽・ことば・精神医学』(木村敏)に収録されている「AイコールA」という文章を踏まえての記述。初出は2021年2月28日づけの記事より。

これを読んでふと、愛着のあるものを対象aとして考えるという大雑把な筋もありではないかと思った。この場合の愛着のあるものというのはもちろん、わたしという特異性を成立せしめる特異的な意味(歴史)を持つものというような意味である。対象aというのはそれを介して現実界に触れ得るものであるという意味で、こちらはわりと大雑把に、物語化されることのないできごと、象徴化されることのない現実的なものとして理解しているので、その筋でいくと、対象aを「わたしという特異性を成立せしめる特異的な意味(歴史)を持つもの」とするのはちょっと意味不明にみえるかもしれない。しかし特異的であるわたしの同一性を支えるものとして、やはり特異的な意味(歴史)を持つ身の回りの品があると考えると、その品の損失とはそのままわたしの同一性を揺るがす一種の脅威となりはずであり、そしてそのような同一性の揺らぎ、一瞬垣間見える裂け目とは、まさに物語の破れ目であり、現実的なものの出現といえる。そういう観点から、わたしをわたしたらしめる数多の要素(意味)の、そのなかでも特に力を持ったもの、つまり、その喪失その損失それとの別離がわたしの同一性を揺さぶるもの、そういうものをひとまず対象aの具体例として考えてみることもできるのではないか(この場合、ラカン対象aの例として挙げた「まなざし」「声」「糞便」「乳房」のうち、少なくとも「まなざし」と「声」は理解しやすいものとなる。他者からの親しい「まなざし」および「声」、あるいは、敵意に満ちた「まなざし」および「声」は、それを受けとる私が他者にとってどのような存在であるのかというイメージ(同一性)をそのたびごとに作り替える)。

 ケッタに乗って老校区の菜鸟快递へ。コーヒー豆も回収する。帰路、第五食堂に立ち寄る。一階にある一店舗のみ営業を開始している。厨房前にはちょっとした人だかりができていたが、学生とそうでない姿の割合は半々といったところ。あまりうまそうな店ではなかったが、(…)にもどってきてからというもの、毎日麺ばかり食べてろくに野菜を摂取していなかったので、トレイにならんでいるおかずの中から野菜を多めに打包用のプラスチック容器に詰めてもらう。帰宅して食す。食後はYouTubeでひさしぶりにバラエティ動画を小一時間ほどダラダラ視聴してしまった。
 チェンマイのゲストハウス並のシャワーを浴びる。コーヒーを淹れ、『PALEHELL』(Paledusk)と『Your Favorite Things』(柴田聡子)と『Alloa』(Limpe Fuchs)をたてつづけに流しながら今日づけの記事を書き、来週の授業でおこなう予定のゲームを最後まで詰め、『意味の変容』(森敦)の続きを読む。

 『意味の変容』(森敦)を読み終わる。以下、浅田彰による解説「森敦氏への手紙」より。

 この作品の素晴らしさは、森さんが生涯にわたってさまざまな場所で積み重ねてこられた多種多様な体験のエッセンスが凝縮されているところにあると思います。けれども、そこは森さんのこと、真面目一徹に体験を積んだのでもなければ、それを「文学的」に昇華しつくしたつもりになっているのでもないことは、言うまでもありません。言ってみれば、森さんはどこにいるときでも他所から来た二重スパイだったのであり、どちら側につくでもない不安定な姿勢を保ちながら、その姿勢だけが可能にする情報収集活動を続けてこられたのではないでしょうか。
 インテリジェンスという言葉が「知性」と同時に「諜報活動」を意味するように、そもそも知識人はそのような二重性を運命づけられている筈です。ところが、多くの人がそれを放棄して、いずれかの側にベッタリくっついてしまう。たとえば百パーセント現実主義になったり、百パーセント理想主義になったりするわけです。そのどちらもまったく観念論的なものにすぎないことは言うまでもありません。このとき人は、現実という虚構にへばりついて真面目になるか、理想と現実との距離をイロニーに託すか、いずれかをとるほかなく、どちらとも割り切れないところから生ずるものであるユーモアは失われてしまうのです。
(151-152)

 (…)時代のじぶんもまた「どこにいるときでも他所から来た二重スパイ」として、「どちら側につくでもない不安定な姿勢を保ちながら、その姿勢だけが可能にする情報収集活動を続けて」きたといえるのかもしれないなと、ここを読んでふと思った。もしかしたら(…)で働いているいまもそういう節がなくもないのかもしれないが、(…)時代は明確にそうだったと断言できる。その「情報収集活動」の結果は日記というかたちに結実しているだろうし、「実弾(仮)」にも反映されているはず。
 卒業生の(…)くんから微信。大学院の面接用に自己紹介の文章を書いたので修正してほしい、と。ちゃちゃっと直す。うちの学生が書いた作文を読んでいると本当によく思うのだが、そしてこれについてはこれまでに何度も日記に書いてきたと思うのだが、日本語能力うんぬんの前に文章に関する基本的な構成能力みたいなものがまったく欠落していると感じることが多い。定型文を思いつくままに配置しているだけで、文脈や流れに対する意識がなく、段落も段落としてほぼ機能していない。はじめは中国語を母語とする人間に特有のリズムや構成意識に日本語を無理やり押しこんだ結果としてそうなるのかなと思ったが、読書が趣味であるという学生の書いた作文は最低限の構成が保たれているので、やっぱり活字離れが原因なんだろうなという気がする。日本でもレベルのそれほど高くない大学のレポートなどはたぶんこういうレベルなんだろうなとなんとなく思う。
 冷食の餃子を茹でる。おもてで雨が降りだし、雷がゴロゴロと鳴りはじめる。(…)さんからブログにコメントが届いていることに気づく。例の「誰でも/誰もが」問題について、『名詞句を受ける「でも」の用法特性と使用条件』という論文が参考になるかもしれないとのこと。さっそく付されていたリンクから論文をダウンロードしてななめ読みしてみたが、34ページの「「誰でも」「誰も」の本質的相違」というくだりが参考になりそうだった。特にヒントになりそうなのが、「「誰でも」は「N1であってもN2であっても…誰であってもQ」といった仮定的・選択的な関係を表すため,「みんな」と同じ意味では使いにくい。一方「誰も」は仮定的意味が薄く,集合の要素の全体をひとかたまりのものとして一括して捉える事態把握を表すため,「みんな」と互換性をもちやすい。」という箇所。こちらが感覚的におそらくそうではないかと考えた内容と一致している。あと、「「誰でも」「誰も」を取り上げた先行研究としては,中西(2006a),楊(2007), 中西・平岩(2019),Hiraiwa・Nakanishi(2021)などがある。中西(2006a)は, 肯定述語と結びつく「誰も」と「誰でも」の違いや「みんな」との置換可能性などについて詳細に観察している。楊(2007)は,「誰でも+VP」「誰もが+VP」とそれぞれに対応する中国語表現の“谁+都+VP”“ 个个+(都)+VP”の対照を試みたものである。実例の観察に基づき,文のタイプやイメージスキーマにおけるプロファイル(際立ち)のあり方の違いなどを指摘し,説得的な説明を提示している。中西・平岩(2019)は日本語の「不定語」(indeterminates)が「か」「(で) も」等と結びついた場合の統語・意味構造全般の分析を試みたものである。 Hiraiwa・Nakanishi(2021)は英語で書かれた論文だが,基本的な主張は前者と共通している。通言語的な視野に立ち,「誰でも」の構造を「誰であっても」 という「譲歩条件節」の動詞「ある」が削除されたものと捉えている点が注目される。」という箇所もあり、仮に同様の質問を今後うちの学生から受けることがあれば、中国語との比較でこの問題を論じたものらしい「全称詞構文の日中対照研究─「誰でも+VP」,「誰もが+VP」と“谁+都+VP”“个个+(都)+VP”を中心に─」(楊凱栄)という論文を当たってみたほうがいいかもしれない。『日中対照言語学研究論文集─中国語からみた日本語の特徴,日本語からみた中国語の特徴─』(彭飛・編)に掲載されているらしい。値段を調べてみたら13200円しとるが! ま、こちらとしては、この問題がそれひとつで論文が成立するほどの難問であることがたしかめられただけで満足だ。仮におなじ質問をうちの学生から受けたとしても(そんなことはまずないと思うが!)、大学院で研究するレベルの問題であるから文法的な理解はひとまず措いておいてこっちのほうが感覚的および慣例的には正しいとされていると丸暗記しておきなさいと対応できる。