20240311

 無意識は「他者の語らい」として規定される。事実、自己が語ることがらは、物語化されており、したがってナルシシズムに浸されてしまっているから、信用できるのは他者からくる言葉だけである。ところが、他者から来る言葉だけを吐いている人間は、どう見られるだろうか? 自己責任の取れない人、ということになる。どちらにしても自分らしさというものは期待できない。だから、人格というものがあるとすれば、それは、他者から来た言葉とナルシシズムとの組み合わせ具合として定義されることになる。人格とは、その組み合わせ具合の、その人ごとに最も安定したあり方、ということになる。
保坂和志『小説の自由』より季刊「大航海」51号特集「精神分析の21世紀」掲載の新宮一成の文章 p.143)



 9時半起床。グループチャットで日中の学生たちがやりとりしている。C・Sさんが火鍋に関する冗談をいう。辛味とは痛覚の一種である、しかるがゆえに辛い火鍋を食べる人間はみんなMである、と。
 歯磨きをすませる。第五食堂で朝昼兼用の食事を打包する。食後のコーヒーを飲みながらひたすらきのうづけの記事の続きをカタカタする。完成したところで投稿。その後、今週の授業スケジュールを確認する。この一週間、交流活動と日記の作文以外なにもできていない。まず大急ぎで今週の授業準備をすませる必要がある。それから日記の読み返しもすませなければならない。

 日記を書いているあいだ、たびたびあたまのなかで、(…)大学の学生たちの関西弁が脳裏を去来した。そのなかでももっとも印象に残っているのはMさんがこちらに呼びかけるときの「先生」だ。標準語では第三声(中高型)で、例として挙げるのもどうかと思うが、「jk」とおなじアクセントになる。しかしMさんをはじめとする一部の学生たちやY先生は、第一声(頭高型)で「先生」と発音しており(「弁慶」とおなじアクセント)、その「先生」がなぜかすごくあたまに残る。どうしてかな? と考えたところで、あ、そうか、これは関西弁であるけれども(…)弁ではないからだとひらめいた。聞きなじみのある響きではあるのだけれども、しかしじぶんの「母語」では決してない、そこのところの微妙な度合い、ニュアンスのようなものがきっと変にひっかかるのだ。
 第五食堂で打包する。S先生と敷地内ですれちがう。S先生はこちらと非常に似た生活をしている。17時ごろにかならず第五食堂の二階で打包するのだ。外出時はいつもマスクを装着しており、こちらの姿に気づくと目をそらし、気づいていないふりをしてすれちがおうとする(日本語に自信がないのだ)。
 食後のコーヒーを飲みながら明日の授業準備をする。「キャッチコピー」。鉄板の教案であるので問題なし。配布用の資料をまとめて印刷する。かたづいたところでチェンマイのシャワーを浴びる。さっぱりして部屋にもどると、韓国人のK先生からの着信が残っている。何日か前、モーメンツにK先生が学生といっしょに食事をとった際の写真をのせていたので、あれ? また(…)にもどってきたのかな? と思ったのだが、こうして電話があるということはやっぱりそうなのかもしれない。折り返し電話。やっぱりそうだった。今月からふたたび(…)に滞在しているという。しかし先学期同様、一ヶ月の短期間のみ滞在、来月にはまた韓国に帰国されるという話だった。先生も今週お忙しかったでしょう、日本の大学からお客さんが来られていたみたいで、と例によって流暢な日本語で気遣ってくれるので、なかなか大変でしたと受ける。K先生も今週いっぱいはなかなか忙しくしていたらしい。しかし今週末、すなわち、16日(土)と17日(日)は暇であるらしく、よければ食事をいっしょにという話だったので、ぜひぜひ! と答える。学生たちをまた連れていってもいいですか? というと、もちろんという返事。店はわれわれのほうで決めるので、また予定が決まったら連絡しますと告げる。

 たまっていた日記の読み返し。まず一年前のもの。2023年3月6日から同年同月11日まで。以下、何日づけの記事に引かれていたものか忘れてしまったが、2013年3月12日づけの記事より。

「偶景」の作文が一段落したところでマルティン・ブーバー『忘我の告白』の続きを読み進める。これ、ものすごく面白い。読んでいると色々と考えることや閃くところがあってなかなか先に進むことができないという良書特有の手応えがある。
たとえばドゥルーズ=ガタリが「人」+「馬」+「武器」=「遊牧民(機械)」になるみたいなことをどこかで書いていたけれども、その公式を人という特権的な所有者(中心)とその所有物(周縁)というふうに解するのではなく、権利上対等な関係同士の融合・合体すなわち変身の結果であると見なし(先の公式の=を→に置き換えるイメージ)、「遊牧民(機械)」とは「人」+「馬」+「武器」の三要素の組み合わせではなく(所有物である馬に乗り所有物である武器を手にした所有者であるひとの姿ではなく)、あくまでも分節しがたいひとつなぎの存在であると考えるその思考回路を、「いま・ここにおけるこのわたし」という具体的な個物(「わたし」という抽象的に記号化された対象ではなく)、取り替えのきかない実存にあてはめてみるとする。すると「いま・ここにおけるこのわたし」というものの成り立ちとは、その具体性(時-空間性)ゆえに到底数えきることのできない無限の要素の融合物であるということがわかる。「遊牧民」が「人」と「馬」と「武器」の合体変身であると形式的にいうことができても、具体性(時-空間性)を含み持つ「特定のこの遊牧民」を「特定のこの遊牧民」たらしめる要素は無限の細部にあまねく行き渡っているために形式的に表現することができない。彼が彼として生成されうるためには彼の出自に集約されうる時間的な因果の無限退行と、(被)所有・(被)所属関係の名のもとにきりもなく結びつく空間的な無限連鎖とが(それらは同一の事柄の別な言い換えでしかないのかもしれない)ともに窮められる必要がある。仮にその遡行を窮めてみようとでもいうならば、それは最終的にこの世界そのもの、いま・ここそれ自体のまったき肯定へと帰結するほかない。「いま・ここにおけるこのわたし」を「いま・ここにおけるこのわたし」たらしめる条件の、根拠の、原因の、遡行的な探究によって、ありとあらゆる歴史(時間)がわたしの起源として回収され、ありとあらゆる存在(物質)がわたしの構成物として回収される。世界は時間的にも空間的にもわたしという自我、自己イメージ、輪郭の拡大によって覆い尽くされることになる。わたしと世界はぴたりと隙間なく一致するにいたる。恍惚の境地とは、永遠の形象とは、そのようなものではないだろうか(恍惚体験を語るクリシェとして自我の拡張もしくは自我の消滅が散見せられることから、なんとなくそんなふうに思っただけにすぎないのだけれど)。
あるいはアルペ・ド・キュドーという人物の《だから魂はなにに触れようとも、そうするときには完全にそれに触れ、同時に完全にそれを経験し、またそれが固いものであるか、柔らかいものであるかを確かめ、温かいものと冷たいものを指先でもって完全に識別いたします。魂はなにかの匂いを嗅ぐときには、それを完全に嗅ぎ、その匂いを受けいれます。魂はそれが味わうものを完全に味わって、あらゆる味を完全に識別いたします。魂はそれが聴くものを完全に聴き、さまざまな音を完全に記憶いたします。またそれが観るものを完全に観て、さまざまなものの像を完全に思い出します。要するに魂は、完全に触れ、完全に嗅ぎ、完全に味わい、完全に聴き、完全に観、完全に記憶するのです》だとか《魂は場所の大きさには関係がありませんから、大きいほうの部分によって大きな空間を占めるとか、小さいほうの部分によって小さな空間を占めるというようなことがありませんし、部分のなかでは、全体のなかにあるときよりも乏しくなっているというようなこともありません。なぜといって、それは肉体のあらゆる部分のなかで同時に、そして完全に現存しているからです。そのため肉体のどれほどささやかな部分が打たれたり、刺されたりしても、それは完全に痛みを感じます。しかも肉体の小さいほうの諸部分のなかでもより劣っているということはなく、大きいほうの諸部分のなかでもより大きいということなどありません》といったような恍惚体験の告白を読むと、恍惚というのは要するに傾きがなくなるということなんではないか、と思わなくもない。

 それから10年前の記事を読みかえす。以下、2014年3月5日づけの記事。

とちゅうで父親の親族にまつわる諸々についてあらためて話を聞き出した。父は四人兄弟であるけれども、よそに嫁いだ姉(しかしこの嫁ぎ先がよそとはいいながらも以前も書いたように母方の祖母の一族にあたる)以外の三人のうち、男の子を産んでいるのはうちだけで、長兄の子も娘ふたり(うちひとりは連れ子)、父の双子の兄の子も娘ふたりで、うちだけは息子三人であり、ということは要するに最終的に(…)の名を継ぐのはうちの一家だけということになり、それがまた親族間のゴタゴタの理由のひとつにもなっているらしかった。母が一人目を妊娠したのと、父の双子の兄の嫁が一人目を妊娠したのがほとんど同時期だったらしく、そのときに亡き祖母がしばしば男の子を先に産んだほうが勝ちだ、これは競争だ、みたいなことをいってさんざんあおりたてたことがあったみたいで、それにくわえてじっさい、兄嫁は男の子のほうをほしがっていたそのために、結果的に男の子ばかり産んだじぶんが恨まれるにいたったんでないかと母は言った。弟を妊娠したときも、母はその兄嫁から、貧乏のくせに子どもばかりたくさん産んでみたいな皮肉をさんざんいわれたらしく、あげくのはてには、堕ろしてしまえばいいとさえいわれたこともあるという。母がいちど流産してしまっていることを知ったうえでそんなことをいうのだから、まったくもって根性が腐っているとしかいいようがない話である。父はそんな兄嫁の性格について、片親のもとで育ったのだからひねくれてしまっているのだ、みたいなことを言っていて、その言い方もどうかと思うが、しかしじっさいその兄嫁が(…)の家に嫁入りしたときに、亡き祖母などはどこの馬の骨ともしれぬ女と結婚なぞして、と猛反対したのだという。ひるがえって母親は当時小学校の臨時教員として働いていた、その差をもってしてまたもや祖母がなにやら口にしたらしく、それを小耳にはさんだ兄嫁は、わたしはMちゃん(というのは母親のことである)とだけはぜったいに仲良くしたくない、などとほかの親族に漏らしていたらしく、それをまた長兄の嫁などがあの子がこんなこと言っていたと母親の耳に入れるなどして、とにかくグチャグチャだった、この家はおかしいと短い同居期間中につくづく思った、と母はいった。ぜんぶタイミングの問題なのかもしれん、と応じた。男の子を産んだほうが勝ちやとかそういう考え方、ぜんぶばあさんのせいにできやんとこもあるわけやん、時代がそういう価値観で染めぬかれとったわけやし、ましてや旧家の出なわけやろ、必ずしも個人的な人柄に帰せることができるもんばっかちゃうやろたぶん、そういうの考えると、すごいタイミングの問題なんかもしれんなって、片親のもとで育ったとかべつにいまとかそんなんふつうやん、それでどうのこうの見られるってこともむかしとくらべたらそんなにない時代ではあるわけやん、それとかうちだけたまたま男の子ばっかり産まれたとかさ、母やんやって女の子ほしかったわけやん、ほんでじっさいそう口にしたこともあるわけやろ、でもむこうからしたら勝ち誇った皮肉みたいに聞こえてしまったりもするわけやん、なんかそういう、誤解に誤解を重ねるタイミングっていうか、ぜんぶがぜんぶ時代のせいにするわけちゃうけど、なかにはもうだれをせめたらいいってもんでもないような問題もあるよなってな、そういうふうに思うとこもまああるよなって、とそういうと、ひとつぼたんの掛け違いがあってそこからずるずるいってったんかもしれんなあ、と母もいった。

業も因果も血も呪いもしらない。そんなものはなんでもない。おれは許す。あるいはなにひとつ気にしない。この血族のなかで自由に動く。ふるまう。とてもしずかなトリックスターとして。みずからのみずからにたいする関係だけをきりもなく書き換える自足者として。

 2014年3月6日づけの記事は以前読みかえした記憶がある。どうやら以前、5日づけの記事を飛ばして6日づけの記事を読んでいたらしい。
 以下は2014年3月7日づけの記事より。このときのことはいまでもたびたびTといっしょにふりかえり、そのつど爆笑してしまう。記事のなかでは便宜的に「酔い」と表現しているが、実際は(…)をバカスカ吸っていた。この日は朝から晩までほぼ一日中吸っている。

帰宅してからもういちど引っかけなおした。近所で飯でも食おうという段取りになったので、ものすごく昭和な店構えの定食屋に冒険して入ろうと酔いまかせの高いテンションで提案したのだけれど、とりつく島もないあっけなさで一蹴されてしまい、結局なか卯に入ってうどんとカツ丼を喰らった。通路をはさんだとなりのテーブルにとてもひとのよさそうなカップルがいて、女の子のほうがおしとやかでつつましやかでかわいらしげな名家の令嬢めいた雰囲気のある娘だったのだけれど、どうもこちらふたりの会話を聞くともなしに聞いているふうに見えたので、ここはひとつ試してやろうと思い、大学の同級生のひとりにじぶんの父親についてぜったいに何も語ろうとしない男がいたと、ものすごい深刻なトーンでTにむけて切り出したうえで、四日前にそいつから連絡があった、あれほど頑に口にしようとしなかった父親の正体についてみずから水をむけた、それでこちらも大変おどろくはめになったのだが、なんとそいつの父親というのがじつは佐村河内だったらしい、と続けて、酔っぱらっているこちらふたりはそれだけでもう息ができないほど笑いまくるわけだが、あとになって確認してみたところ、カップルのほうも口元を噛み締めてけっこうプルプルきていたらしい。それから食事のあいまに、このあいだドトールで佐村河内が英語のリスニングを勉強しているところを見かけただとか、佐村河内(さむらごうち)とみんないうけれどもじっさいは佐村浩二(さむらこうじ)さんなんではないかなどと愚にもつかぬ戯言をくりかえし、そのたびに息ができなくなるくらい笑った。笑い疲れたところで店を出た。

 偶然といえば偶然なのだが、ちょうど一週間前くらいだろうか、佐村河内守が騒動以降に作曲した楽曲をYouTubeにあげているという情報を得て、何曲か流してみたばかりなのだった。
 2014年3月10日には夜行バスで東京をおとずれ、Hくんのところで仮眠をとらせてもらっている。そして昼にはNくんと再会、さらにFくんとはじめて対面している。だからFくんとも知り合って十年になるわけだ。しかし冷静に考えてみると、この十年で会ったのはたった二回ということになるのか? 三回だっけ? たぶん二回だよな? この次に東京をおとずれたのは『S&T』リリース直後で、そのときにWさんやSさんもいっしょになったのではなかったか? いや、ちがうか? その前に一度、おとずれたことがあるのだっけ? と、書いていて思い出した! WさんやSさんといっしょになったのはこちらがすでに中国で働きはじめて以降のことだ、Sさんが当時のこちらの日記に頻出するおびただしい数の学生の名前を整理するためにエクセルをこしらえているというクソおもしろいエピソードがあったのだった! だから、十年前がFくんとはじめて対面した日、その次が『S&T』リリース直後で、このときはFくんとH兄弟と会って豊川悦司のカプセルホテルに宿泊した、それで三度目となる状況がSさんとはじめて対面した日になるのだ。東京もかれこれ四年か五年おとずれていないことになるのか。Fくんの具合もちょっとずつ上向きになっているようだし、夏の一時帰国中、ひさしぶりに出張ろうかな。
 2014年3月11日には、HくんとFくんと博物館見学。これはすごく楽しかった記憶がある。夜は大学時代の同級生であるPとTとHと飲んでいる。そうだった、そうだった! そんなこともあった! Pがシカゴに渡る前のことだ。
 記事の読み返しをすべて終えると時刻は23時をまわっていた。(…)大学の一行は夕方無事日本に帰国、空港での集合写真が送られてきていたのだが、それとは別に、Oくんが夜遅く日本の風景や食事の写真をいろいろに送ってくれ、それらにさっそくうちの学生たちが食いついていた。Oくんの送ってくれた写真のなかには一蘭ラーメンが含まれていたが、これは中国でもかなり有名らしく、R・SさんやS・Sくんがすぐに、ここはとてもおいしいと有名です! とコメントしていた。
 K先生との食事会について、二年生のT・Uさんに連絡しておいたのだが、ほかの参加者らと相談して予定が決まったので、明日の授業中に報告するという連絡があった。また、S・Sくんからは明日の昼いっしょに(…)を食べにいきましょうという微信がとどいた。彼からこうした誘いがとどくのはよく考えたらはじめてだ。(…)大学の学生たちとの交流で自信をつけて、こちらを気軽に誘うことができるようになったのかもしれない。
 今日は一日中ずっとパソコンとむかいあっていたせいで、夕方から左のまぶたがぴくぴくぴくぴく痙攣して止まらなかった。目が疲れきっている。