20240310

 読者は気がついているだろうか? 私はここで、自分のことを「私」と書いたり「こっち」と書いたり「読者」と書いたりしている。しかもこの段落にも「読者」という呼び名が出てきていて、前の段落の「読者」は「私」から移行してきた「読者」であり、この段落の頭にある「読者」は私自身を含まないいま読んでいるあなたであるのに混乱は起こしていない。さらにまた「いま読んでいる」と、苦もなく書く私は、書いている私にとっては一ヵ月ちかく先になるこの文章が読まれる時間を平然と織り込んでいる。
 実験的に「あなた」という呼びかけではじまる小説がある。「あなたはいま憂鬱とも期待とも呼べる重く華やぐ気持ちを抱えて列車の窓側の席にすわっている」というようにしてはじまる小説のことだ。実際のところ、「あなた」が主人公になる二人称小説も何度も書かれてしまえば、〝実験〟というより〝意匠〟のひとつで、いまさら実験小説のつもりで「あなた」を書いていたらもうすでに困った時代錯誤だが、かつて「あなた」が〝実験〟であった驚き・混乱・発見よりも大きなそれらが、ごく普通の一人称小説・三人称小説の中にあるのではないか。
 たとえば一人称小説を少し注意深く読んでみるとすぐに気づくが、語り手の「私」にとっての本当の現在とはどこにあるのか。その混乱ないし曖昧さのまったくない一人称小説はどこにもない。三人称小説では、たとえば地の文で「人生はむなしい」と書かれているとき、それが書き手の感想なのか、主人公の感想なのか、あるいは読者がそこでそう感じたかのように誘導されたものなのか、はたまた一個人の感想という次元をこえた〝真理〟として提示されているのか、判然としないことが珍しくないが、読者はそれをいちいち厳密には整理しないまま読み進める。しかしそれは整理のしようがないとも考えられなくはない。他人[ひと]の感想を自分自身の感想のように感じているのが人間の意識のあり方ではないか。
 一人称小説の現在時の確定しがたさも三人称小説の感想の確定しがたさも、どちらも人間の意識のあり方に由来している。小説として稚拙だとか不徹底だからでなく、それが人間の意識のあり方なのだ。
保坂和志『小説の自由』 p.99-100)



 9時起床。10時半ごろにS・Sくんから到着の連絡がある。身支度をととのえて外に出る。S・Sくん、S・Sさん、S・Sさんの彼氏が門の外にいる。S・Sさんの彼氏はすぐに去ってしまう。さすがに日本語学科の学生と日本人たちに囲まれて昼飯を食うのは気まずいと感じたらしい。三人パーティーでホテルにむかう。どこの大学院を受けるか決めたのかとS・Sさんにたずねる。大連海事大学という返事がある。四年生のG・Kくんが受験した大学だ。レベルの高い大学なんでしょうとたずねると、理系の大学であるので文系である日本語学科はわりと入りやすいという返事。R・Kくんは四川外国語大学だと言っていたというと、S・Sさんがびっくりする。R・Sさんの第一志望がそこなのだと続くのに、マジ? クラス内で内卷じゃん! とおどろく。S・Sくんはいまだ大学院に挑戦するか就職するか決めていない。しかしスピーチコンテストに興味があるというので、これにもまたびっくりした。S・Sくんであれば代表として申し分ない!
 ホテルに到着する。ロビーにはすでに日本人学生たちが集まっている。Yくんがパンパンのリュックサックを背負っている。すでに荷造りを終えた状態らしい。13時半に一度ホテルにもどってくるが、チェックアウトをすませているので、スーツケースはフロントにあずけてあるとのこと。Oくんは昨日の時点でもすでにかなり重いリュックを背負っていた(あまりに重いので、「子どもでも入ってんの?」と言うと、みんな笑った)。わたしはどうですかと言ってKさんがリュックをこちらにむけてみせる。これもやっぱりけっこう重い。
 歩いて(…)へむかう。お茶屋さんがたくさんならんでいる。ここだったらウーロン茶の茶葉もあると思うけどけっこう高いよとKさんに言うと、もうこれ以上荷物が入りきらないからいいですという返事。横断歩道で信号が変わるのを待っているあいだ、Aさんがビデオ通話をはじめる。弟ですといってこちらに画面をみせるので、わざと変なダンスをする。弟さんはかなりイケメン。S・Sさんも同様の言葉を興奮して口走るので、あーあ、彼氏がいるのに、だめなやつだと茶化すと、恋人とイケメンは別ですからとYくんがひきとる。スイーツは別腹みたいなもんやねと応じる。
 (…)の広場には例によってメリーゴーラウンドだのカートだのがある。S・Sさんどうぞ! といつものように茶化す。

 (…)に入る。メニューを説明するのもめんどうなので、こちらがいつも食す三品、すなわち、トマトスープに魚の切り身が浮いている麺、五鲜肉片面、牛肉担担面(不要辣椒)から選ばせることにする。S・Sさんが瓶の豆乳をすすめると、Mさん、Nさん、Yくん、Aさんも飲むという。その豆乳をYくんがこぼしてしまう一幕がある。Mさんのスカートにちょっとかかってしまったようだが、たぶん問題ない。牛肉担担面(不要辣椒)を注文したKさんが、これでも十分辛いというので、ぼくはもう慣れたけど、それでも一時帰国後にこっちにもどってきて最初にこれを食べると、やっぱり辛いなぁと感じるねと受ける。
 K・Kさんがやってくる。みんなの前できのう中座した一件についてまず説明したいという。先輩——おそらくルームメイト——が失恋した、だから慰めに行かなければならなかった、駆けつける必要があったのだという。そうか、じゃあきのう一日でふたりも失恋したんだな、とMさんを踏まえて口にすると、みんなちょっと笑う。笑ったほうがええねん、そんなもん。たぶんその先輩を慰める会があるのだろう、今日のお昼ごはんもその先輩たちといっしょにとる予定なのだが、約束は14時半からにしてもらったので見送りには参加できるとのこと。
 それで店を出る。(…)大学の学生たちが、ごちそうさまでした、と口にするので、内心ひそかに、え? と思う。昨日も今日もこっちのおごりなのか? うちの学生たちがそう言ったのかもしれない、なんせ中国人は——韓国人もそうであるときくが——ホスピタリティ精神がすさまじい。これについては(…)大学の学生たちもみんな口をそろえて言っていた。中国人って優しいひと多くないですか? めっちゃ面倒見てくれませんか? 歓迎してくれませんか? と。会計はいったんS・Sさんが支払ってくれたが、ぼくがあとで全部出すからとこっそり耳打ち。
 ホテルにもどる時間までまだ一時間ほどあったので(…)をのぞくことに。Yくんは(…)に到着した初日、すでにおとずれたことがあるらしく、カエルだのスッポンだのがいる水槽を見てびっくりしたという。(…)のそばには牛肉の火鍋屋と餃子屋がある。日本の学生たちはまだ一度も火鍋を食べていないという。それはもったいない。(…)にテナントとして入っているケンタッキーに新メニューのポスターが貼ってある。うまそうなハンバーガーだなと思って近づいてみると、肉といっしょにパイナップルをはさんであるやつだったので、あ、こりゃいらんわとなる。なんかこっちのケンタッキーってめっちゃファストフードっぽくないですかとMさんがいうので、うん? と受けると、日本やとチキンがメインやけどこっちはとあったので、ああそうそう、こっちのケンタッキーはなんかハンバーガーがメインな感じあるね、たしかにそう、と応じる。
 ロッカーに荷物をあずける。酒のコーナーをながめる。高級な白酒が大量にならんでいる。(…)のレストランでみんなが飲んだやつもあるかなと言って検分する。陶器の壺に入った似たようなやつがいくつかあったが、どれもこれも一万円近くする高級品だったので、やっぱあれ高かったんだな、だから国際交流処の鍵付きロッカーの中に入っていたんだなとなる。ジュースのコーナーものぞく。先生これ! とS・Sくんが黒胡麻おかゆみたいな商品を指差す。これを食べると髪の毛が生えます! というので、アホと受ける。Kさんの分のウーロン茶を探す。やっぱり見当たらない。これこのあいだ買いましたとYくんが花茶のセットを指さす。こちらが前回の一時帰国時に母への土産として買ったものだ。全然うまくなかったわけだが、それについてはなにも口にしないでおく。
 だれのスマホか忘れた、たしかK・Kさんのものだったと思うが、C・Sさんからビデオ通話がかかってきた。お別れの場に立ち会うことはできなかったが、せめて最後にビデオ通話であいさつというアレだったのだろう。そのスマホを奪いとる。カメラにむけて中指を突き立てて思いきり白目を剥く。先生邪魔! バカ! と叱られる。
 二階に移動する。生活雑貨品のコーナーにドラゴンボールとワンピースのフィギュアが陳列されている。以前はなかった。輸入代が上乗せされているのでかなり高い。日本だったらもっと安いよねとYくんに確認すると、じぶんはこういうのクレーンゲームでガンガンとるんで安いっすよという返事。Oくんが大量の箸を買う。お土産らしい。何十本あんねんというレベル。
 買ったものは買い物かごに入れる。こっちの買い物かごは日本のものよりでかい。さらに二本の持ち手とは別に、三本目となる長い持ち手がついており、そいつを犬のリードみたいにしてひっぱるかたちで、買い物かごをひきずって歩くことができる(買い物かごの底には車輪がついている)。学生らと買い物に来るといつもどうして買い物かごを持って歩くんですか、ひきずったほうが楽ですよみたいなことを言われるわけだが、こちらはどうしてもひきずって歩くほうがうっとうしく感じる。Nさんがせっかくだから経験してみたいといって買い物かごをひきずりはじめる。
 パンコーナーをのぞき、「水族館」をのぞく。日本ではまったく見ることのない魚のほか、牛蛙の敷き詰められた水槽、すっぽん、亀、山椒魚の入った水槽がある。牛蛙の入った水槽には蓋がついていない。どうしてジャンプして外に出ないのかわからないと女子学生らが遠巻きにびびる。それについてはこちらもずっと疑問だった。以前そこの水槽でうなぎだったかナマズだったかが脱走して大変なことになっていたよと伝える。精肉コーナーものぞく。真っ黒のにわとりがまるっと一羽売られているのを見て、こんな黒いのあるんですねとNさんが言うので、黒いやつのほうが栄養があって高級らしいよ、以前うちでこの黒いやつを使ってスープを作ってくれた学生がいたけど、それはすげえうまかったねと応じる。学生が料理を作りにきてくれるんですかとびっくりしてみせるので、ちょくちょく来てくれるねと応じると、めっちゃ愛されてますねという。めっちゃかどうかは知らんが、学生との関係はまずまず良好なほうではあると思う。
 野菜と果物のコーナーをのぞく。日本ではまったく見たことのないものが大量にある。これなんですかと日本の学生からたずねられるも、こちらも答えられないものばかり。辞書アプリやネットで和名を調べてみたところで、そもそも日本ではほぼ手に入ることのないものばかりなので、どれもこれも全然聞きなじみがない。ドリアンがあったので、みんなににおいを嗅がせてみる。
 Kさんが肉を食えないという。牛と豚はだいじょうぶだが、鶏肉はダメ。魚も生きているときの姿を想像できるかたちのものはダメだと続く。かわいそうなのだという。こっちではベジタリアンみたいだった、豆や野菜ばかり食べていたと続く。Kさんは后街の臭豆腐も女性陣で唯一口にしていなかったし、ほかの店でもあまり積極的に食事をとっている姿を目にした記憶がない。日本人学生のなかではある意味もっとも保守的なのかもしれない(その反対がMさんで、彼女は四六時中、食べ歩きしていたし、グループチャットでも物怖じせずガンガン発言する)。
 そのKさんがお土産に粉末唐辛子を買いたいという。おじいちゃんがうどんやそばにバンバンかけるからというのだが、こっちで粉末タイプのものは見たことない。パックに入った乾燥唐辛子——いわゆる鷹の爪をもうすこし細かく砕いたやつ——なら売っていたし、値段も安かったので、そいつを買うことに。
 一階にもどる。Yくんが乾燥バナナなどのお菓子を買う。Yくんもけっこう積極的なタイプで、たぶんもともとが酒飲みということもあるのだろうが、おつまみになりそうなものを見つけるたびに果敢にチャレンジしている。そのYくんのことでひとつ書き忘れていたが、彼は空港でジッポを没収されたらしい。関空→上海では問題なかったのだが、上海→(…)では機内持ち込み禁止だからとアウト判定、もともと中古で購入したものであるけれどもそれでも一万円以上したのでショックだったという。で、いまはしかたなくジッポのかわりにマッチを使っているのだが、中国の街中でもちょくちょくジッポを扱っている店を見かけることがあり、そのたびに心が動くとのことだった。
 セルフレジへ。セルフは現金での支払い不可であるのでいったんこちらの微信でたてかえる。支払いをすませ、ロッカーで荷物を回収し、店の外に出る。Oくんが200元だったか300元だったかこちらに手渡す。ちょっと多めだったので、お釣りを探そうとすると、必要ないという。とっておいてくれというので、だったらいまそっちの手元にないお札を渡すよということで、10元札だったか20元札だったかを渡す。Kさんからも20元渡される。きのう(…)で買ったお菓子の分もふくめてだというので、ここでも彼女の手元にない紙幣(一角紙幣)をお守りにしてくださいと伝えて渡す。
 ホテルにもどる。途中、犬のうんこが踏まれてぺったんこになっているのをKさんが踏みそうになったので、あわてて手で体をさえぎる。Kさんは白いスニーカーを履いている。白いスニーカーを中国で履くのはまずまずの自殺行為だ。Kさんがアルバイトの話をしはじめる。週六日働いているというので、多すぎでしょと受けると、一日の労働時間は短いという。塾・学童・歯医者の三つを掛け持ちしており、いずれも締めの時間帯で働いているとのこと。月収でだいたい七万くらいだが、いまはガソリン代も高いのでなかなか大変だという(ということは彼女は日頃、車で移動しているのだろう)。先生きのう文学好きだって言ってたじゃないですか、わたしも好きでとあったので、東野圭吾パターンかなと思っていたところ、本当に東野圭吾だった。K・Kさんも東野圭吾が大好きだよと伝える。先生は? というので、ムージルやオコナーといってもたぶん通じないだろうから、ぼくは夏目漱石とかもうちょっと古いやつのほうがいいかなと受ける。
 ホテルに到着する。日本人学生たちからお菓子の残りものを大量に受けとる。みんなスーツケースが重量制限ギリギリなので、ちょっとでも荷物を少なくしたい。そこで菓子の残りものがこちらに託されるにいたったのだ。リュックがパンパンになる。Kさんからは今日見送りに来れなかったR・Sさんへのプレゼントを渡される。
 ロビーのソファに座る。こちらの左にOくん、その左にKさん。その三人でしばらく談笑する格好となる。Kさんが高校時代英語漬けだったという話についてあらためてきいてみる。ペラペラなの? とたずねると、ある程度はできますという返事。中国語と韓国語にも興味がある、そのせいで全部中途半端になっていると続く。大学は最初から(…)大学に進学すると決めていた、にもかかわらず高校は特進コースに入ってしまった、ちょっと通う高校をまちがえていたかもしれないという。そういう話をしている最中、突然ティッシュを差し出されたので、え? となると、口元から血が出ているという。下唇の下にふたつちょっとしたできものがあったのだが、そのうちひとつがちょっと潰れてしまったらしい。ティッシュでその血をぬぐっていると、別のソファに座っていたMさんとAさんが心配そうにこちらをながめているのがみえたので、あかん、もう死ぬかもしれん、救急車呼んでくれへん? とふざける。こういうしょうもないボケをいちいち口にしてしまうのは確実にEさんの影響だと思う。いちどEさんが風邪をひいた状態で職場に出勤したことがあり、朝からかなりしんどそうにしていたので熱をはかってみればどうかと体温計を渡した。ぴぴぴぴっと鳴ったその体温計をながめたEさんは、あかん、一兆度や、と口にした。その「一兆度」といういまどき小学生でも口にしないアホすぎる桁にゲラゲラ笑ってしまったのをきっかけに、しょうもないボケって一周まわっておもろいなと感じるようになってしまったのだ。
 Oくんがわざわざ絆創膏をこちらに差し出す。そんなおおげさなもんじゃないよと応じたのち、そういやOくん初日にこめかみのあたりに絆創膏を貼っていたけどあれどうしたの? とたずねると、ホテルのシャワーヘッドが落ちてきてぶつかったのだという返事。わたしはあれ避けました! とKさんが続く。どんなホテルやねん。
 ほどなくして(…)大学の教師陣もやってくる。H先生にあいさつ。学生たちの面倒をいろいろ見てもらったみたいでというので、先生からカップ麺をいただきましたからその分ですと応じる。U先生もY先生もP先生もやってくる。うちの子たちも日頃日本語を使う機会が全然ないので本当によろこんでいましたと、K・KさんとS・SくんとS・Sさんをあらためて紹介する。その後は各自自由にさよならのあいさつ。女性陣はハグしあう。Yくんが両手をひろげて構えをとりはじめたので、Kさん! Yくんが待ってるよ! とあおると、OkayとK・Kさんがハグしにいく。ラッキー! とYくんが言う。Mさんが号泣しはじめる。お別れの悲しみもあるのだろうが、それ以上にこの場にC・Rくんがいないことが悲しいのかもしれない。先生煙草吸う? とY先生が言う。吸うんやったらこれあげよと思ったんやけどと言いながらバッグのなかの煙草をちらりと見せてみせる。中国の高級煙草らしい。(…)でもらったのだという。学生らに確認してみると、すごく高いやつだという反応。Y先生はその煙草をちょっと隠すようなそぶりをみせた。喫煙者のYくんに奪われないようにするためだったのかもしれない。(…)先生とハグしたいんちゃうか? とYくんがY先生を煽る。わたしこのひとに遺産奪われるかもしれんのやわとY先生がH先生に言うので、ちょっとね、ゴールドのアクセサリーを相当ためこんどるっていう話を聞いてしまったんでね、こりゃなんぼかわけてもらわなあかんなと思っとるんですという。そしてY先生とハグする。P先生がやってきて、ポケットから100元札を数枚取り出し、うちの学生たちに手渡そうとする。学生たちは遠慮する。あまったやつだからと言うのに、遠慮せずもらっておきなさいとこちらも後押しする。ぼくもね、けっこうおごりましたよ、とP先生に言う。ありがとうありがとうとP先生からハグをもとめられる。
 そうこうしているわれわれの後ろに比較的年齢層の高い男女複数人が集まっている。宿泊客ではない。一行を見送りにやってきた偉いさんたちだという。(…)ではない別の大学の学長、図書館の(副?)館長、市政府の偉いさんなどらしく、なかにはこのままいけば(…)市の副市長になるだろう出世コースにのっている人物もいるとP先生がこっそり教えてくれる。(…)でもなんか相当すごい料理を出してくれたみたいですねと言うと、完全にVIP待遇やった、あれをね、うちの学生たちには普通とは思ってほしくないんやけどねとP先生は言った。お偉いさんのなかにいるおじさんが、号泣するMさんの言葉に听不懂と口にする。Mさんはそのおじさんのことを「ティンブドンのおじさん」と呼んでいた。たぶん彼女らに会うたびに听不懂と口にしていたからだろう。相手の肩書きを知らないがゆえにカジュアルにコミュニケーションをとっているMさんをよそに、うちの学生三人はかなり緊張していた、周囲にいるのが全員かなりのお偉いさんであることを理解していたからだ。
 ホテルの外に出る。(…)までは専用のミニバスで移動するという。バスのなかにまずスーツケースを運びこむ。その際にH先生がOくんを叱りつける。もたもたしていないでちゃんと周囲を手伝いなさい、と。小学校みたいだなとおもわず口にすると、わたしこういうの本当にイライラするんですとH先生が口にする。(…)大学の学生たちがH先生についてたいそうきびしい人間であると愚痴っていたと以前うちの学生からきいていたが、たぶんこういうところなんだなと思う。H先生はOくんのことを「O!」とふつうに呼び捨てにしていたし、たぶんほかの教員と学生との関係もそんな感じで、実際マジで大学というよりは小中高みたいなアレだよなと思う。規模の小さな大学であるし人数も少ないし、必然的にそういう距離の近さが生まれるのだろうが。バスに全員が乗りこんだところでこちらもそのあとに続くというクソみたいなボケを、将来の副市長の前でも披露してしまう(うちの学生たちは先生マジでやめてくれという苦々しい表情を浮かべている)。お偉いさんのなかにいる女性から日本語で「日本の先生ですか」とたずねられたので、そうですと受ける。なんとなく見覚えのあるひとだった。(…)にある本屋の老板ではないか? もともと(…)市図書館の館長だったが、そこをやめて本屋を開いたあのひとでは? たしかめる暇はなかった。ミニバスはマジックミラーになっている。だから車内のようすはわからない。それでも学生といっしょになって手をふる。Aさんが一度トイレに行くために車をおりた。気のせいかもしれないが、Aさんもちょっとだけ目元をぬぐっていた気がする。
 ミニバスがホテルを出る。お偉いさんたちに再见と告げてわれわれも歩き出す。この一週間ほんとに楽しかったねえとみんなで話す。きみたち本当によくがんばったね、日本語で日本人とちゃんとコミュニケーションできたね、偉いよ、本当にすばらしい、ぼくはきみたちのことをいろんなひとに自慢できるよというと、K・KさんとS・Sさんのふたりが腕を組み、ふん! という自信満々のポーズをとりながら、わたしたちは優秀です! と口にする。北門の近くでS・Sさんの彼氏が合流する。こちらのリュックサックに入っている日本のお菓子をみんなで分ける。P先生からもらったみかんもある。C・SさんとR・Sさんのふたりはいまルームメイトの誕生日パーティーに参加中であるし、それがすんだところでこちらが直接持っていくと言う。C・Rくんにはいまから電話しますとK・Kさんが言う。
 北門からキャンパスに入る。S・Sさんと彼氏は図書館にむかう。残る三人でC・Rくんの寮がある第四食堂のほうまで歩いていく。きみたちふたりは特に日本語が上手だねと褒める。K・Kさんは関西弁の聞き取りであっても完璧。MさんだけではなくY先生もまたコテコテの関西弁をあやつるひとであったが、K・Kさんは彼女ともやっぱり問題なくコミュニケーションをとることができたようである(あの先生はとても優しいひとですとK・Kさんは言った)。S・Sくんにいたっては日本語の勉強をはじめたのが大学入学後であり、かつ、来日経験もいっさいないのだが、それにもかかわらずむこうの学生らとのコミュニケーションに大きな問題はなかったし、(…)ではその場にいるたったひとりの中国人であるという状況にも負けずおしゃべりに参加していた。本当にたいしたもんだ。ここでもあらためてふたりを褒めまくっておいた。先生いまちょっとさみしいですかとK・Kさんがいう。さみしい? とたずねかえすと、また(…)に日本人は先生ひとりになりましたと続けるので、でもきみたち学生がいるからね、そんなにさみしいことはないけど、でもこの一週間は楽しかったね、たくさんおしゃべりしたしねと応じると、だいじょうぶです、先生がさみしくなったらまたわたしたちといっしょに散歩しましょうと言うので、ありがとうと礼を言う。
 第二グラウンドで迷彩服の集団が歩いている。先頭は旗を手にしている。もしかしてあれって軍事訓練の練習? とたずねると、そうですという返事。軍事訓練は新入生の入学のあとでしょ? まだ半年近く先じゃないの? こんなにはやくから練習するの? とたずねると、肯定の返事。ほどなくして前からC・Rくんが歩いてくる。ちょっと気まずそうな顔をしている。最終日のお別れに参加しなかったことをこちらに叱られると考えていたのかもしれない。そういうつもりはまったくなかったので、辛苦了! と肩をぽんぽん叩いて、リュックサックの中に詰まっているお菓子を適当にわける。
 三人とはそこで別れる。库迪咖啡に立ち寄ってアイスコーヒーを打包して帰宅。さっそくきのうづけの記事の続きにとりかかる。S・Sさんがグループチャット上に(…)で撮影した写真を投稿する。四枚ある写真のうち三枚でOくんが目をつむっていたので、その点を指摘。するとS・Sさんが、彼はまばたきを何度もしていた、目が痛かったのかもしれないと応じたのち、連写した写真を動画風に加工したものを投稿したが、それを見るとたしかにOくんが尋常でないペースでまばたきをくりかえしていたので、ちょっと笑ってしまった。しかしOくん、あの物腰であるのにくわえて、なぜかときどくよくわからないタイミングでブルーのレンズの入ったサングラスをかけていた、だから本当に目の病気だったのかもしれない、あるいはチックの持ちぬしだったのかもしれない、そういう可能性は否定できない。
 ひたすら日記を書く。ひたすら! ひたすら! ひたすら! 書く! 17時になったところで第五食堂で夕飯を打包。Mさんから学生を代表して長文メッセージがグループに投稿される。S・Sさんがそれにすぐに反応する。S・Sさんも本当によくがんばったよな〜としみじみ思う。一年生の時点ではクラス最下位であったにもかかわらず、二年生の途中でB・Tくんと別れて覚醒、猛勉強していまやクラス上位、会話レベルだけでいったらトップクラスにまでのぼりつめたのだ。本当にたいしたもんだと思う。こちらも自分の変顔写真をトリミングして加工、「みんな本当にありがとう」のメッセージ付きで投稿。
 食後もひたすら日記の続きを書く。やがて(…)大学の学生たちから(…)の空港近くにあるホテルの写真が送られてくる。こちらがいつも宿泊しているホテルとは全然違う。めちゃくちゃ高級店。ホテル内にジムもある。浴室はなぜかスケスケ。
 R・Sさんから微信がとどく。C・Sさんとそろって寮にもどった、と。菓子の入ったリュックサックを背負って外に出る。ケッタにのって女子寮へ。到着したところで電話をかける。ほどなくしてR・SさんとC・Sさんがやってくる。なぜか超ご機嫌のK・KさんまでHello! と言いながらやってくるので、あれ? なんかすげえバカそうなアメリカ人がいるんだけど、このひと留学生ですか? と言う。菓子をわける。カロリーメイトクリーム玄米ブランはこちらがもらう。こいつらは別にうまくもなんともないし、栄養摂取が目的のブツであるので、こちらにふさわしい。それ以外の抹茶チョコであったり、じゃがりこであったり、ポテチであったり、煎餅であったり、まんじゅうであったり、そういうもろもろはすべてふたりに渡す。ルームメイトといっしょに食べてください、と。さらにKさんからあずかっていた贈り物をR・Sさんに渡す。手紙と櫛。
 そのまま小一時間ほど立ち話をする。この一週間ほんとうに楽しかったねとあらためて話す。R・SさんがクラスメイトのR・Kくんと争うかたちで四川外国語大学の院試を受けるという一件についてたずねる。そうではないという。R・Sさんの志望校は浙江師範大学。名前に外国語が入っている大連外国語大学や四川外国語大学はレベルが高いので、そこは避けることにしたのだという。仮に合格したら彼氏とは遠距離恋愛になってしまうねと言うと、その場合は彼氏が浙江省にやってきますと言ったのち、はずかしい! はずかしい! と言って顔を真っ赤にしはじめる。K・Kさんの志望校は吉林大学。
 明日の早八は新人のS先生による授業。日本語はさほどうまくないかもしれないという。授業はマナーについてのものなので、そもそも日本語にはまったく関係ない。なぜそんな授業を受ける必要があるのかもわからないという。反対に、フィリピンで博士号を取得したいわゆる水博であるR先生は日本語が上手だとK・Kさんが言う。びっくりする。四年か五年前、こちらに送られてきた微信のメッセージは、大学一年生レベル以下だったように記憶しているのだが! 彼女が担当している授業は日本商法。学生がペアになり、いっぽうが中国語で文章を読みあげ、もういっぽうがそれを日本語に訳するというやりかた。
 スピーチコンテストの話になる。S・Sくんが興味をもっているようだというと、三人とも彼なら間違いないという。ただもしかしたら院試に参加するかもしれないし、その場合はだれになるかわからない、院試に参加せずインターンシップにも参加しない学生のなかで日本語がけっこうできる子となるとちょっと選択肢がかぎられてくる、C・Mさんくらいかなァという。二年生はどうですかというので、口語の優秀な子たちはみんなインターンシップに参加する、それ以外となると学習委員のR・Gさんが妥当かなというと、C・Rくんが興味をもっているようですよという言葉があり、さすがにこれにはびっくりする。Cくんではダメですか? というので、Cくんって正直きみたちのクラスメイトでいうところのK・Kくんとおなじタイプだよと応じると、じゃあダメですとみんな笑う。
 Mさんの話にもなる。東北料理店でMさんはC・Rくんに告白したとK・Kさんがいう。告白したかどうかはわからないけど、日本に来てくれますかと言ったら、その予定はないと言われたという話はあったよと受ける。それをきっかけに、過去にインターンシップで日本に渡った学生のうち、現地で恋人ができた子たちの話をする。その全員が女子学生だ。中国人男子学生がむこうで日本人女子と恋人になったという話はまだきいたことがない。こっちのカップルはすごいよね、毎日いっしょにいるし毎日微信で100回とか200回とか連絡をとるでしょう、信じられないわと漏らすと、日本人はLINEでの連絡あまり好きじゃないですかとR・Sさんがたずねる。ひとによると思うけど、でもこっちの恋人みたいに24時間ずっと連絡とってることは普通ないんじゃないかなと応じると、鼻の前で人差し指をたてて秘密のポーズをしながら、C・Rさんの話をしはじめた。曰く、去年のインターンシップでTという名前の日本の大学生といい仲になった、いわゆる友達以上恋人未満の関係、「曖昧」な関係で、C・Rさんが中国にもどってきたあともLINEで連絡をとりあっていたのだが、相手からの返信がとどこおるようになった、それでふたりの関係は冷めつつあるようだという話で、なるほどねと思った。とはいえ、それについては遠距離恋愛という性質も関係しているのかもしれない、Tくんなる人物も大学生であるわけだから恋人候補となる女の子なんて周囲に腐るほどいるのだろうし、わざわざ国境をまたいで24時間体制でやりとりしたいとは思わないのだろう。C・Rさんには悪いが、Tくんの気持ちがこちらにはよく理解できる。
 K・Kさんから実は好きなひとがいると打ち明けられた。これにはびっくりした。マジで! Kさん、とうとう恋人できたのか! というと、いまはまだその段階ではないという。知り合って三週間と言っていただろうか。いまは毎日微信で連絡をとりあったり、ときどきいっしょに散歩したりする仲だという。どこの学部の子なの? とたずねると、それは秘密ですという。どんな相手か具体的に知っているのはR・SさんとC・Sさんのふたりのみ。S・SさんはただK・Kさんが恋をしていることだけ知っているという。先生は知らないひとですよというので、じゃあ日本語学科ではないな、英語学科でもないでしょう、英語学科の学生だったらぼくと顔見知りの可能性もあるから、それからきみが恋愛対象として見るということはやっぱり東北出身の子だろうね、きみは相手の身長にこだわっていたし、とプロファイリングをすすめる。彼はいま勉強が忙しいですというので、だったらおなじ院試にそなえている三年生かな、いやでもきみはお姉さんタイプだから相手は後輩である可能性が高いと思うんだよなとぶつぶつ続けると、R・Sさんがたえられないとばかりに吹き出し、先生はするどすぎますと口にする。最終的に他学部の後輩であることをK・Kさん自身認めた(浮かれて口が軽くなっているのがよくわかった)。身長はそれほど高くないというので、いつも言ってるけど大事なのは三观だよ、顔とか身長とかそんなものはすぐどうでもよくなる、長くいっしょにいるには三观が一番大切だよという。三观は日本語でなんといいますかとR・Sさんがいうので、やっぱり価値観かなァと答える。三观は「価値観」「世界観」「人生観」の融合語であるが、日本語の「価値観」にはそれらをひとまとめにしたニュアンスもあると思う。散歩中も微信でやりとりしているあいだも会話が全然とぎれないとK・Kさんはいった。四月までに告白したいというので、マジかとびっくりした。もし告白して恋人になったら彼と先生といっしょにごはんを食べたいというので、ぼく完全にお父さんみたいだな、じゃあその日はスーツとネクタイで食事に参加するわと応じると、笑いの沸点の低いR・Sさんがゲラゲラ笑った。彼と先生も気が合うと思います、彼は文学が好きですというので、Kさんも好きじゃんと応じると、わたしが好きなのは探偵小説です、でも彼は先生とおなじ文学が好きですというので、じゃあ文学部の学生だな、いや中国語学科かなとプロファイリングをすすめると、R・Sさんがまたゲラゲラ笑う。KさんはcrushですとC・Sさんがいう。中国の流行語で、恋をしている状態とか、その恋の相手とか、どうもそのあたりのことを意味する言葉らしい。たぶん英語のcrushにもともとそういう意味があるんではないか? と思っていまググってみたところ、やはりそうだった、crushにいま好きな相手という意味があるらしかった( Who is your crush? なる用法がある)。さらに、「have + a crush on + 人」で「人が好き」の意味になるという。
 立ち話をしているあいだ、管理人の阿姨がものめずらしそうにわれわれのほうをながめていた。四年生のC・Iさんが通りがかる。図書館で勉強していた帰り道だという。教師の資格試験はどうだったのとたずねると、だめだめ! という返事。C・Iさんは日本語教師ではなく政治教師の資格試験を受けたらしい。たいそうむずかしかったという。二年生のR・SさんとI・Kさんからも「こんばんは!」と声がかかる。そろそろ自習を終えた学生たちが寮にもどってくるころだというので、混雑しないうちにおいとますることに。
 帰宅。この一週間のことをモーメンツに投稿する。学生たちも続々と同様の投稿をする。C・SさんがAさんにもらった手紙の写真を投稿していたが、手紙の最後に彼女らふたり+こちらのイラストが添えられており、それがすごくうまかった。チェンマイのシャワーを浴び、ストレッチをし、また記事の続きにとりかかる。グループチャットのほうで、(…)で火鍋を食べたよ! という報告がMさんから写真付きでとどく。
 きのうづけの記事を投稿し、今日づけの記事も途中まで書く。日本土産にもらったクリーム玄米ブランを食し、歯磨きをすませてベッドに移動後、書見するまもなく眠りに落ちた。



ひさびさに写真をのせる。
(…)