20240317

 これは予想というかまだ中身としては全然詰められていない考えでしかないのだが、身体と言語のきしみが小説に反響しているかぎり、小説は自我なんていうちっぽけなものでなく、人間の起源に向かいうる。
 具体的な題材として〝人間の起源〟を書かなくても、身体と言語のきしみが反響しているかぎり、そこには身体にどのように言語が刻みつけられるのかという人間の起源が書かれることになる。反対にそのきしみが反響していなければ、小説で仮りに人間の起源を書こうとしたとしても、そこで立ち上がってくる問題は、身体と言語が安定した後での自我の悩みや憂愁みたいなものにしかならないだろう。
 ——と、書くといかにももっともらしいけれど、これは中身が詰められていない表面的な言葉で、中身を欠いた言葉は、こんな風に簡単にどんどん前へ進んでいって、大仰な宣言めいたものになってしまう。
 我に返ってもっと控えめな言い方をすれば、人物が空間にどのように配置されているのかということが忘れずに書かれている小説には、身体と言語のきしみがどんなに小さくても必ず反響している。それを書く小説家にしてみれば、「写真に撮ればいっぱつなのに、面倒くさいなあ」と、文字の不便さ不自由さを実感していて、小説家としてはまずはそういう気持ちとして身体と言語のきしみを感じることになる。
 これは重要なことで、ここに踏みとどまっているかぎり、小説は感傷なり憂鬱なりあるいは高揚感なりの一色の感情に染まらない。読者としては感傷でも高揚でも、何でもいいから一色に染まった感情に浸ることを求めがちだけれど、それは本来、小説の機能ではない。
 文字によって得られる喜びというのは、ただ視覚や聴覚が刺激されて起こる快楽とは別のものだ。『罪と罰』でも『アンナ・カレーニナ』でも『百年の孤独』でも、作品の終わりにちかづくとものすごい高揚感が到来するものだけれど、それらの高揚感は、あの長さがあるから生まれてくる。作品の中で使われている思考法やイメージの現前化の仕方に読者が馴れるためには、まずは一〇〇ページか二〇〇ページのトレーニング期間のようなものが必要で、そのあいだに読者の中にその小説を読むためのシステムが出来上がって、小説と共振できるようになる。
保坂和志『小説の自由』 p.174-176)



 朝方に一度目が覚めた。小便に立った。白湯を飲んだ。二度寝した。その後の眠りは浅く、夢をたくさん見た。そのほとんどは忘れてしまったが、四年生のS.Sくんといっしょにロープーウェイらしきものに乗っているものがあったのはおぼえている。
 9時半に活動開始。歯磨きをすませてからきのうづけの記事にとりかかる。11時になったところで第五食堂へ。おもては小雨。打包して帰宅後、火鍋のにおいがしみついたセーターを羊毛コースで選択。ライダースジャケットにもやっぱりスパイスのにおいがついているようだったので、キッチンのそばの鴨居に干しておくことに。コーヒーの香りで上書きする作戦。
 食後のコーヒーを淹れ、12時から15時まで「実弾(仮)」第五稿作文。今日もひたすらシーン27をこねくりまわす。むずかしい。途中、二年生のR.Hくんに微信を送る。作文の途中、きのうのできごとをいろいろに思い出し、そわそわイライラしてしまったので、はやいところ話をつけておこうと思ったのだ。昨日のきみのふるまいを見ていて確信した、このままだと夏にインターンシップで日本をおとずれたときに絶対に失敗する、一度ふたりで会って話しましょう、と送ると、「すみませんが、最近いろんな政治についての情報を受けて、頭に政治だけになったのです」とすぐに返信があった。じぶんがほとんど関係妄想的なものにからめとられつつあることに、陰謀論者の一歩手前まで来てしまっていることに、なんでもかんでも爱国の小粉红と表裏一体をなす存在になりつつあることに、彼が現時点でどこまで自覚的であるかは不明。とりあえず明日ふたりで昼飯をとることに。
 きのうづけの記事の続きにとりかかる。17時になったところでふたたび外へ。第五食堂近くの菜鸟快递で荷物回収。あごひげをたばねるためのヘアゴム。そのまま第五食堂で打包。食後は30分ほど仮眠。チェンマイのシャワーを浴びる。
 コーヒーを淹れ、きのうづけの記事を完成させて投稿する。ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読みかえす。以下、2023年3月17日づけの記事より。

あとFくんのブログの3月8日づけの記事冒頭に引かれていた岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』の一節、「パリサイ人の祈り」のエピソードがまんまオコナーで、というか“Revelation”で、あ、このエピソードを下敷きにしていたんだなと思った。

 この点について、イエスの考えを示すもう一つの有名な話に「パリサイ人の祈り」がある。
 「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスはつぎのたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はパリサイ人で、もう一人は徴税人だった。パリサイ人は立って心の中でこう祈った。[神よ、私はほかの人々のように、貪欲な者、不正な者、姦淫する者ではなく、また、この徴税人のような人間でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の一〇分の一をささげています]。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら言った。[神よ、罪人の私を憐れんでください]。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのパリサイ人ではない」」(『ルカ』一八の九~一四)
 このパリサイ人は非の打ちどころのない道徳的人間であったにちがいない。律法をきちん(end116)と守るだけではなく、ふつうの人間ならば誰でもやっているような悪事をまったく働いていないらしい。だが、それではだめなのだ。なぜなら、彼は他人を軽蔑し、自己満足にふけっているからである。他者への愛がないからである。
 パウロが言うように、愛がなければ、どれほどの道徳的高潔さもなんの意味もない。それだから、イエスはパリサイ人を「白く塗られた墓」だと言う。「白い」とは、外面は清潔だということだ。「墓だ」とは、中は死んでいるということである。
 (岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、二〇〇三年)、116~117)

 オコナーの小説に出てくる(もたざるものではなく)富めるものたち、世俗化したキリスト教道徳に安住してみずから善人であると信じて疑わないひとたち、それは要するにパリサイ人のヴァリエーションなのだ。しかしこうしてみると、イエスの言葉の射程はやっぱりひろい。現代でいえば、いわゆるallyを称するひとびとのうちにも突き刺さる部分が少なからずあるはず。オコナーの手法を借りて現代と相対する小説を仮に書くことがあるとすれば、それはポリコレやアライを含むあらゆるアイデンティティポリティクス的な連帯が、それがそうであるかぎりどうしたって不可避的に含むことにならざるをえない欺瞞をするどく突くものになるだろうとこれまで何度か日記に書いたことがあるが、なまなかな覚悟ではそんなもの書けないよなと思う。反動的だ、ネトウヨだ、みたいなクソ雑な批判もきっと寄せられるだろう。

 いまから10年前、すなわち、2014年3月17日をもって当時運営していた「きのう生まれたわけじゃない」を閉じている。何年くらい続いていたのだったか? Aさんにせよ、Wさんにせよ、Fくんにせよ、Sさんにせよ、いま付き合いのあるひとびととはほぼ全員このブログを経由して知り合ったのだった(H兄弟とは厳密にいえば哲経由で知り合ったということになる)。で、その17日をもって、行き先を告げないまま新ブログ「信じる人は魔法使のさびしい目つき」をはじめている。これはたぶんそれほど長く続かなかったはず。二年か三年くらいだったろうか? イニシャルトークや伏せ字であれこれするのが面倒くさくなり、結果、当時面識のあった読者だけをアクセス可能にした鍵付きブログに移動し、そこで七年だか八年だかひたすらひきこもった挙句、「×××たちが塩の柱になるとき」をたちあげ、検閲バージョンの記事をそちらでも公開するようになったのが、たしか2022年の12月だったはず。

 授業準備。日語基礎写作(二)の「◯◯の日記」を印刷し、必要な資料をUSBメモリにインポートする。日語会話(二)第13課の資料もチェック。別にそんなところにこだわる必要もないのに、授業で使用する画像をGimpで作りなおしてしまう。無駄に時間がかかる。作業中は『Three』(Four Tet)と『Crush』(Floating Points)をくりかえし流す。
 卒業生のR.Sくんから微信がとどく。彼氏と別れたという。全然悲しんでいない、むしろ幸福そう。楽しげなボイスメール。
 冷食の餃子を食し、寝床に移動して就寝。