20240330

「わからない」こと、考えこませることは芸術にとって大事なことなのだ。難解なものばかりをありがたがった、やみくもな芸術信仰の時代がかつてあったけれど、そういうことではなく、「わからない」ことは人間を通常の安定した言葉の領域の外に連れ出す。
保坂和志『小説の誕生』 p.20-21)



 10時ごろ起床。たっぷり寝た。第五食堂の一階で炒面を打包。帰宅して食し、きのうづけの記事の続きを長々と書き進める。投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返す。作業中は『たのしみ』(U-zhaan×環ROY×鎮座DOPENESS)と『BeAt日ShIt01』『BeAt日ShIt02』(鎮座DOPENESS)と『Wayward』(Bart Graft)と『Hey Panda』(The High Llamas)を流した。
 17時ごろに二年生のC.Rくんからボイスメールがとどいた。いっしょに(…)で食事しましょうという誘い。当然K.Kさんも一緒だろう。今日中に作文の添削をすべて片付ける予定だったので、連絡に気づいていないというていでいったん無視することに。第五食堂で打包する。食うものを食ったのち、もうすでに夕飯をとってしまったC.Rくんに返信。
 日本で麻疹が流行しているというニュース記事の見出しが目についたので、そういえば以前母から次回の帰国時に予防接種を打つようにというLINEがとどいていたなと思ったが、しかし中国にはじめて渡航する前にもしかしたら接種したのではなかったか? あのときかなりの種類のワクチンをまとめて打ったようなおぼえがあるのだが——というわけで過去ログに検索をかけてみたところ、2018年8月3日づけの記事がヒットした。

(…)病院には14時半ぴったりに到着した。受付で診察券を提出して予防接種でやってきた旨を伝えると小児科のほうにいくようにいわれたのでそちらに移動してそこの受付でまた診察券を提出した。問診票の質問事項にざっと記入して体温をはかってそれがすんだところで四番の部屋の前でお待ちくださいといわれたのだが小便をしたくてたまらなかったのでリュックを父にあずけて便所にいった。用を足したところで四番の診察室の前にあるテーブル席に着席したのだがまもなく名前を呼ばれたのでくだんの診察室に入ると五十代か六十代らしくみえる女医と看護婦がいた。それで予定どおりA型肝炎B型肝炎の予防接種をしてもらうことになったのだが母子手帳を見た女医がはしかの予防接種は一度しかやっていない世代なのではないかというのでそれもできればしてもらおうと考えていたところだと受けるといま受けることもできるというのでそれじゃあついでにお願いしますといった。女医は中国にたいする反感というよりは嫌悪感に近いものを持ち合わせているようだった。こちらが中国で仕事をしているという話をきくなり中国のワクチンはあてにならないこのあいだもニュースになっていた実際日本にいる中国人の母が幼子を連れて帰国前に予防接種をしていくケースも多いなぜなのかとたずねると中国の病院はアテにならないからだといっていたとそのようなやりとりをこちらに聞かせてみせる段階はまだふつうではあったのだがそのあと独裁政権がどうのこうの一人っ子政策がどうのこうのこうと無関係な話をはじめてしかもその話を語る口ぶりが完全にあっち系のひとのものであったというかふつう中国に滞在して働いているという人間をまえにしたら多少なりともそのあたり気遣うというか相手がかの国にたいしてどのような感情を抱いているか探りを入れてから話題をひろげるだろうにそういう断りいっさいなしで強烈な批判をあちこち飛び火させながら延々と繰り出しつづけるのでコミュニケーションの儀礼性や手続きなどを無視してまでみずからの主張を開陳するタイプの人間はまずもって信用ならないとする経験則が即座に働きこのババアうぜえなとおもったというか別段政治的なあれこれにかぎった話ではなくて宗教にせよマルチにせよ自己啓発にせよおなじであるのだけれどもじぶんが全的に正しいという危険な確信ぬきで相手の立場をおしはかるための二三の質問や儀礼的手続きを省略することなど普通はまずないはずなのでこれは一種のリトマス紙として機能する。医師はわりと保守的な人間が多いという話を以前どこかで聞いたことがあってそれが本当かどうかは知らないしそういうものの見方にもさほど興味はないのだがしかし出国前におなじ予防接種をおなじ病院で受けたときには若い男性医師が中国も都市部の病院であれば日本よりも技術は上ですといったりお仕事がんばってきてくださいと肯定的に見送ってくれたりしたのだが今度のババアにかんしてはまるでこちらが彼の地で苦難に満ちた暮らしを送っていること前提のような口ぶりでまあ人間わりと適応できるもんですからとかご本人が慣れたら別にいいですもんねなどと変にイラっとくるようないいまわしばかりするので不便も不都合もまったく感じないですねとそのときは応じたのだがそういうこちらのひそかな苛立ちなどもおそらくまったく理解していないふうであった。ただかたわらにひかえていた看護婦さんだけはそのあたりも感づいていたんではないかという気がする。

 そういうわけで麻疹の予防接種を打つ必要のないことが判明したのでその旨母にLINEを送っておいた。

 バスケコートのあたりからマイクを使った男性の声がきこえてくる。歓声もときどきあがる。週末であるし、なにかしらのイベントが開催されている模様。仮眠はとらず、コーヒーを淹れて、19時から作文の添削にとりかかる。小一時間ほど経過したころだったろうか、C.Rくんからまた着信がある。いまどこにいますかというので、寮にいますという。先生の寮に行っていいですか、忙しいですかと続くので、いま作文を直していると応じる。K.Kさんが代わる。ちょっと相談したいことがありますというので、だったら断るわけにはいかない。許可する。
 ほどなくしてふたりがやってくる。外はいつのまにか雷雨。雷の落ちる音が何度も鳴りひびく。雨音もすさまじい。窓の外の暗闇を照らす稲光が電気のついている部屋にまでおよんで、一瞬室内がぱきっと明るくなることもある。ふたりともけっこう濡れている。タオルはいらないという。汗と生乾きの衣類のにおいが部屋にただよいはじめる。紙コップに水を出して渡す。きのう学生らが買ったコーラの残りもある。ドラゴンフルーツを食べるかというと、いらないという。相談らしい相談はなにもなかった。ただ雨宿りしたいだけのようだった。ふたりしてバスケの試合を観覧していたというので、外の歓声はそれかとなる。突然の雷雨を受けて試合は中断、選手も観客もみんなまとめて体育館に移動したという。(…)の代表チームと校外の代表チームの試合。かっこいい男の子がたくさんいましたとK.Kさんが興奮したようすで口にする。C.Rくんはニコニコしている。嘘でも嫉妬するふりをしたほうがいいんじゃないのとなんとなく思う。
 C.Rくんはピアノが少しだけ弾けるという。暇なときはいつも音楽学院をおとずれてピアノを練習している。ピアノをはじめたのはこの冬休み。3000元の電子ピアノを一台買った。うちのキーボードを弾かせてやる。まだまだ初級者という感じ。去年から本を読むようになり、ピアノを弾くようになった。順調に文化系男子になりつつあるわけだ。
 C.Rくんの両親は離婚しているという。たしか高校入学前に離婚したという話だったと思う。初耳だ。いまは養蜂家の父親といっしょに住んでいる。継母は優しいとのこと。K.Kさんの両親も離婚しているが、父親は再婚していない。そしてK.Kさんは姉のいるC.Rくんとちがってひとりっ子である。だからこそ将来は故郷の大連にもどるつもりでいる(父親をひとりにしたくない)。C.Rくんも大連で暮らすことに抵抗はない(それどころかはるかむかし、父親から将来はいい仕事を探すために大連に行ってみればどうかと提案されたこともある)。ただ、父親と継母を故郷に残すのが心配。こういう考え方をする中国人は多い。日本人にくらべると家族の距離が近い。ふたりの場合はそうでもないが、距離が近すぎるせいで苦しんでいる子たちの姿もこれまでたくさん見てきた。
 相談らしい相談はなかったと先に書いた。しかし実際はあったというべきかもしれない。K.Kさんは自分が直接C.Rくんにきけないことをこちら経由でききたがっているふうにみえた。たとえばC.Rくんの元カノの存在。じぶんの両親は離婚している、だから愛情の不安定さというものを身にしみて理解している、だからこそときおりちらつく元カノの存在に警戒心をおぼえるのだ——みたいなことをまず日本語でこちらに告げてみせる。C.Rくんは当然その日本語をききとることができない。それをこちらがよりシンプルな日本語にパラフレーズし、ところどころ中国語で補うかたちで、C.Rくんに告げる。するとそれに対してC.Rくんが率直な反応をする。そういうやりとりが何度もくりかえされたのだ。元カノとは完全に切れているので問題ないとC.Rくんはいった。K.Kさんは元カノが(…)の学生であると勘違いしていた。そうではない、高校時代の同級生だったはずだとこちらが補足すると、然りとC.Rくん。元カノはいま(…)の大学にいるという。C.Rくんは先学期軍事訓練の教官を担当した、その関係で外国語学院の後輩女子のなかには彼のことをかっこいいという人物がたくさんいるとK.Kさんがいうので、先輩は「嫉妒」しているみたいだよと中国語読みでC.Rくんに伝える。きみははじめての恋愛だからいろいろ不安になっているだけだ、三ヶ月もすればそういうものもすっかりなくなるとK.Kさんにいうと、実はわたしはじめての恋愛じゃありませんという意外な反応。中学生のときに二度男の子と付き合ったことがあるという。
 友人関係の話にもなる。R.Hくんを嫌っているひとがたくさんいるとC.Rくんがいう。理由はきいていない。もしかしたら政治的意見の対立が原因になっているケースもあるのかもしれないが、それよりはやっぱり日本語能力で相手にマウントをとろうとするあの姿勢のせいだろう。かつてのOさんやO.Cくんとまったくおなじだ。できる子たちはなぜその能力を見せびらかし、他を見下そうとするのか、けっこう理解に苦しむ(しかもその「できる」現状は多くの場合、じぶんたちが大学入学以前より日本語を勉強していたというアドバンテージの産物でしかないというのに!)。友人関係の話になったので、R.Kさんとの関係はまずくないのかとK.Kさんにたずねる。かつてはいつもペアで行動していたふたりであるが、最近ではすっかり別々になっている。関係が悪くなったわけではないという返事。去年の夏にふたりで(…)旅行をしたときにちょっとだけ揉めた、しかしそのあと仲直りした、でも自然と距離ができた——そんな感じらしい。K.KさんはおそらくR.Kさんがうつ病をわずらっていることを知らない。R.KさんはいまはY.Tさんと親しくしているらしいが、Y.TさんといえばC.Mさんの相棒でもあるわけで、Y.Tさんはうつ病の女子ふたりに頼られているということになる。
 ふたりして、というよりたぶんK.Kさんのほうが主にという感じなんだろうが、長居する姿勢だったので、二杯目のコーヒーを淹れてほどなく、ふたりはリビングのほうに放置してひとり寝室にもどり、デスクで添削の続きにとりかかった。が、ふたりは寝室の部屋の入り口までやってきた。そしてそこから顔を出すようなかたちでこちらとの会話を続けようとした。ふたりでイチャイチャしとけよ! C.Rくんの作文を見たいとK.Kさんがいうので、紙切れを渡した。上手じゃないです! と読みおえたK.Kさんはいった。Aですか? とC.Rくんがいうので、Aではないなァと正直に答えた。ふたりは昨日、K.Kさんからのリクエストもあって、モーメンツにおそろいの写真を投稿し、正式に交際発表したわけであるが、それを見た四年生のR.Kさんが、彼女は現二年生の班导だったのでC.Rくんとも付き合いがあるわけだが、そのC.Rくんのところにわざわざ電話をかけてきて、K.Kさんはとても優秀な学生だ! 絶対彼女を手放してはいけない! と熱弁したという話があった。
 ふたりはそのまま21時半まで滞在した。去ったところで換気扇をまわし(雨に濡れたふたりの衣類のにおいがたちこめていた)、チェンマイのシャワーを浴びた。それから添削の続き。

 添削を終えた。韓国人のK先生から着信があったことに気づいた。折り返し電話をかける。明日の朝(…)を発つ、米と味噌汁があまっているのでもらってくれないかとのこと。通話を終えてすぐにK先生は二階分の階段をあがってこちらの部屋にやってきた。日本の部屋みたいですねと、こちらの部屋を玄関先からざっと見まわして口にした。ビニール袋に入った少量の米とインスタントの味噌汁を受けとった。味噌汁は韓国で販売されている日本メーカーのものだった。留学生時代を思いだすんですとK先生は言った。来学期また(…)に来ることがあったらきっと連絡してくださいと伝えた。
 寝床に移動。上の部屋から赤ん坊の泣き声がきこえた。先週くらいからときどききこえる。上の部屋ではないかもしれない。でも赤ん坊の泣き声のあとにきまって床を踏みしめるどしどしという音が続くのでやっぱり上の部屋だろう。赤ん坊の泣き声は全然気にならない。イライラもしない。好きなだけ泣けばいい。でも赤ん坊の母親なのかもしれないあの死ぬほどやかましい女の遠慮もはばかりもない大声が深夜に上の部屋からきこえてくるとやっぱりイライラするし、死ぬほどデカい声で騒ぎたてながら階段をドシドシと踏みしめてのぼり、踊り場に達するたびにクソきたねえ声で痰を切ってみせるあの一連のふるまいには本当に我慢ならない。あいつにくらべたら野生のイノシシのほうがずっと上品だと思う。