20240404

 私は、文学に関して「新しい」ということはもうありえないし、それを目指すべきではないといつも考えている。前にも書いたことだが、ヌーヴォー・ロマンまでつづいてきた「新しさ」「文学の変革」というような概念は、工業製品と同じように技術革新がなされることを称揚する価値観であって、文学はその価値観と同じ基盤で考えることをやめる必要がある。
 「新しさ」という概念・価値観は人の関心をひじょうに浅薄なものに向ける機能があって、その浅薄な関心の中では、暴力という題材と病んだ精神という性格にばかり注意がいってしまうことを反省できない。たかが言葉にすぎないのだが、言葉に依存する部分が大きい思考(そうでない種類の思考もある)では、「新しさ」というようなたった一語が、思考を方向づけてしまう。
 それにまた、カフカベケットのように、主人公の能動性を放棄した小説は、小説の流れの中で異物でもあって、異物を「新しい」とは言わない。ヌーヴォー・ロマンはアンチ・ロマンつまり反小説とも言われていた。もっとも、「反」とは言っても「小説の中での反小説」ぐらいにしか思われていなかったのかもしれないけれど、反小説か非小説ぐらいでないと、無気味なものに起源を持つ人間のことをちゃんと考えることのできる散文は書けないのかもしれない。——しかしそれでも、小説というのはなかなか奥深いものであって、非小説もまた「小説」という言葉が使われているかぎり、小説として読まれることになるだろう。そこでいう小説が、「新しさ」に気をとられる人が考える狭義の小説を指していないことは言うまでもない。
保坂和志『小説の誕生』 p.101-102)



 10時半起床。爆睡した。「爆睡した」と書きながら「10半起床」なのだから、今学期はここ十数年でもっとも健康的な生活——というか朝方生活を送っているといえるのではないか。今学期の時間割表が送られてきたときはなんで早八が週二日もあんねんとキレかけたが、実際にやってみるとなんとかなるものだし、これはこれで悪くないリズムかもしれない。
 第五食堂の一階で炒面を打包する。それから延々ときのうづけの記事の続きを書く。作業中は『Just Give in / Never Going Home』(Hazel English)と『The Modern Dance』(Pere Ubu)と『This Heat』(This Heat)を流す。This Heat聴くなんて何年ぶりや?
 外国人教師のグループチャットに新規メンバーが参加する。E.Aという名前の男性。どこの国の人間か知らんが、Mechanical Manufacture and Automationの学生らを担当するとのこと。アイコンの写真を見るかぎり、インド? パキスタン? そのあたりだと思うのだが、パキスタンといえば今学期からうちの大学にやってきたS.Kのアカウントがグループチャットから消去されていることに気づいたので、なるほど、Kがはやくもうちの大学のクソっぷりに耐えかねて戦線離脱、代わりにこのE.Aなる人物がやってきたという流れだったりするのかもしれない。ま、なんでもええわ。ワシは学生との付き合いで手一杯やねん。

 17時をまわったところでふたたび第五食堂で打包。食後、チェンマイのシャワーを浴びたのち、日語会話(四)の授業準備。毎回議論ばかりやると学生らも飽きるしこちらもしんどいので、今学期もプレゼンをさせることにした。で、テーマを「わたしのアイドル」にすることにしたので、その例を実演するための資料を作成したのだが、なかなかけっこう時間がかかった。もちろん、こちらのアイドルといえばムージルということになる。次回の授業は「わたしのアイドル」の実演&解説、残った時間で資料の下準備。で、発表はおそらく2コマか3コマにわたることになるはずで、合計3コマか4コマこれでつぶせるわけだから上々だ。プレゼン系の授業、もうちょっと増やしてもいいかも。そっちのほうがこちらも楽であるし、学生の気分転換にもなる。一年生にもやらせたろかいな。さすがにむずかしいか?
 きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回。AさんがブログでR.Hくんのファンになったと言明しているのを読んで、まあたしかに周囲の空気なんて知ったことないというような、大人の社交儀礼なんてどうでもいいというような、積みあげられたものなんて知ったことかとぶちこわす無知と経験の欠落にもとづくアナーキーなふるまい、じぶんの興味関心にひたむきにひたすら邁進していくあの愚直さ力強さみたいなものを前にして、もうちょっと冷静になれ、急ぐな慎重になれと制しようとするこちらのふるまいこそが、いかにも年を喰った権威者みたいでダサいなと思う瞬間もなくはないし、それは、去勢をよしとする、転移のきっかけとしての権威を必要とみなす、そういうじぶんの現在の立場のダサさとも通底するもの、つまり、その経路や論理はどうであれ結果的にありがちな年のとりかたをしてしまっているんではないかという疑問にもつながるものでもあるわけだが、でも同時に、放っておけばアンチ中国共産党の度がすぎるあまり第二次世界大戦中の日本軍のふるまいやトランプのむちゃくちゃな言動すべてを肯定しかねないそういう危うさをまえにしてなにもいわないのはやっぱりちがうだろうというのもある。もっとも、そういう危うさにかぶれるのも愚直な若さの特権であり、それもふくめておおらかに肯定する視線を部分的には持ち合わせるべきなのかもしれないし、そういうふうに彼をながめる瞬間も実際あるにはあるのだが、「調停者」の星のもとにうまれたじぶんにとってはなかなかあたまの痛い存在であることには変わりないし、こちらにだって重ねてきた月日とそれにともなう考え方の変遷があるのだから、むしろ若者に対して中途半端に理解者面するほうが嘘に欺瞞になるだろうし、考えようによってはそれこそが保身的なふるまいではないかという反省意識もやはり働く。ただ、そういうあれこれの葛藤とは別に、彼自身が口にした「ぼくはさびしいです」という言葉、それはおなじ思想信条の人間をこの社会にに見つけることがなかなかできない、翻墙した先でしかつながる他人を見出すことができないという現状を踏まえての言葉だったわけだが、その「さびしさ」と、彼がしょっちゅう彼女を取っ替え引っ替えしている事実に対してS.Sさんがぽつりと漏らした「Rくんはさびしい」という言葉の「さびしさ」が、おのおのの文脈を離れてこちらのあたまのなかで共鳴する瞬間が彼について考えているとときどきあり、その瞬間、彼の孤独が、もっと鮮明に、もっとなまなましく、こういってよければもっとずっと近しいものとして、ふしぎとこちらにも感受される。しかしRくんがゴダール映画の若く行動的な活動家であるとするなら、こちらはうじうじしている老年のゴダールになるわけか。『フォーエヴァー・モーツァルト』がまた観たくなってきた。DVDはたしか実家にあったはず。
 1年前と10年前の記事を読み返す。以下、2023年4月4日づけの記事より。

 先に見たように、S1によって文のはじめを、S2によって文の終わりを指し示すことで、ボタンタイの図式を、意味を生みだすプロセス一般を説明するのに用いることができる(…)。文のはじめに言い間違いが含まれる場合、次のように考えることができる。分析家が、言い間違いの直後に間髪入れずに分析主体の発話を中断するなら、話者と聞き手の双方が参与している通常の意味を生みだすプロセス——話者と聞き手が、言い間違い〔S1〕を、文脈すなわちS2に依拠して、S1が本来(少なくともある水準では)そうであったはずだと考えられるものへと置き換え、「合点がいく」ように言い間違いを体裁よくごまかす、そうしたプロセス——をぶった切ることになる。つまり、意図された意味、ないし意図されたクッションの綴じ目をぶった切ることになる。分析主体の発話を中断することで、意図されたS2(ここでは文脈として理解できるだろう)が言表されるのを防ぎ、それによって、意図されていた遡及的な意味の産出を妨害することができる。こうして、言い間違い(S1)は「文脈から引き離され」、他の可能なS2(あるいは文脈)を思い浮かべることができるようになる。そのようなS2は、S1に異なる意味を遡及的に与えることができる。これは、最初のうちは分析主体に不満を与えることが多いが、意味の産出——それは、〈欲望のグラフ〉の下段に、すなわち想像的な段階と呼ぶことができる段階に位置づけられる——を超えるための、唯一の道である。
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』)

 この手法で小説を書くことができないかなと思った。いや、それってつまり、結局のところ、加筆および削除を禁止する小説、要するにひとふで書きのインプロヴィゼーションで書かれた小説ということになるのかもしれないが、そうではなくって、もうすこしシステマチックに、(訂正の許されない)「言い間違い」を生み出すための仕掛けを一種の法としてあらかじめ外在させておき、その法にしたがって書くという方式をとることができるのではないかと思ったのだ。

 以下は2014年4月づけの記事より。

 …映像には嘘をつかなければならない理由はなにもありません。たしかに、映像に嘘をつかせることはできます。でも映像というのは、ひとつの事実にすぎないのです。ひとつの事実のひとつの要素にすぎないのです。すべてでさえないのです。映像に嘘をつかせるのは、映像のつかい方なのです……
ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫・訳『ゴダール映画史』)

 その後、今日づけの記事を途中まで書きすすめたのだが、その最中にふと、40歳になったら右手の前腕にタトゥーを入れようかなと思った。
 寝床に移動後、『新しい小説のために』(アラン・ロブ=グリエ平岡篤頼・訳)の続きを読んで就寝。