20240403

小説は、深刻なものを深刻一色に、悲しいものを悲しい一色に書くのは簡単だけど、それでは書いている本人がつまらなくて、そんな書き方をしていたらバカになっていくような気がしてくる。どうしてそういう風に思うのかの説明を自分でもつけられないが、とにかく小説家はあの手この手を使って、小説が一色に染まらないようにする。小説は書体や文字の大きさを変えずに紙にべったりと印刷される表現形式だから、そこには本筋と脇道、大事なこととどうでもいいことという区別はない。
保坂和志『小説の誕生』 p.94)



 8時15分起床。台湾で地震発生の報道。マグニチュード7。震度6強。かなり大きい。外はきのうにひきつづき雨降り。気温もぐっと下がった。厚手のヒートテックにジャージをはおってもなお肌寒い。
 10時から一年生2班の日語会話(二)。第17課。声出しは1班の学生よりもしっかりするのだが、やっぱり男子学生を中心に授業中ろくに話をきいていない学生が目立つ。というか男子学生はどのクラスであっても(勉強熱心な子以外)基本的にみんな授業中はスマホでゲームをしようとする、そのせいで男子学生の割合がほかの学年にくらべて大きい一年生のクラスはどうしてもダレた空気になる。いずれにせよ、いまの三年生や二年生にくらべると、一年生は2クラスともたぶん相当まずい、来年の四級試験の結果などどうなるんだろうかと心配になる。あんまりそういうことはしたくないんだが、やっぱり内職している学生も注意したほうがいいのかもしれない。大学生相手にそんなふうにするなんてという抵抗がどうしたってあるのだが、こっちの大学(生)ってほとんど日本の中高(生)みたいなものであるし、ほかの教員らはしょっちゅう「授業を聞け」だの「ちゃんと勉強しろ」だの口を酸っぱくして注意している、そういうノリにいい加減こちらも合わせていくべきなのかもしれないが、正直全然気乗りせん。
 教室を出る。雨の降る中、第四食堂に立ち寄り、ひさしぶりにハンバーガーを打包。帰宅して食し、小一時間ほど昼寝。目の覚めたところでコーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読みかえす。

 今日づけの記事をここまで書くと時刻は16時半。待ち合わせの時間まで一時間ほどあるので「実弾(仮)」第五稿を少しだけいじる。震災後ほどない時期、薬局でマキロンを買おうとしたところ、大きいサイズのほうの生産は東北の工場が請け負っている関係上、小さいサイズのものしか現在市場に出回っていないと言われたことがかつてあったのだが(日記にそう記録されている)、そのエピソードをシーン28にうまくねじこんだかたち。
 二年生のR.Kさんから微信。今日は映画を観に行く約束の日だから忘れないでね、と。女子寮前で待ち合わせでいいのかとたずねると、R.Uくんがそっちに迎えにいくという。で、そのR.Uくんに連絡をとると、いまから迎えにいきますみたいなことをいうので、迎えに来なくてもだいじょうぶだと応じる。
 身支度を整えて出発。雨は降りやんでいたが、いつまた降りだしてもおかしくない雨模様だったので、折り畳み傘をもっていく。気温もぐっと下がったので、厚手のヒートテックに冬物のセーターを重ねた。女子寮前に到着。R.Uくんが後ろからやってくる。女子寮からS.SさんとR.Hさんがほどなくやってくる。R.Hさんのメイクが前回とは全然ことなっている。前回よりはるかにナチュラル。こちらが指摘するよりも先に、今日の化粧はどうですかというので、すごくかわいいと思うよと応じる。今日は「中国の有名なスター」の风格つまりスタイルを真似たものだという。O.Gさん、R.Kさん、K.Dさんの三人娘もやってきたところで出発。まずは裏町にむけて歩き出す。S.Sさんの前髪きみがカットしたらしいねとO.Gさんにいうと、みんな笑う。O.Gさんがあまりに自信満々だったので任せたものの、実際の出来栄えはけっこう微妙だという評判。S.Sさん自身、短くなりすぎた前髪がなかなかしっくりこないのか、しょっちゅうヘアピンをいじったりミラーモードにしたスマホをながめたりしていたが、こちらは正直カット後のほうがかわいらしいと思う。O.Gさん曰く、『富江』の髪型をイメージしてカットしたとのこと。
 K.KさんとC.Rくんの話になる。このあいだみんなぼくの部屋に来たでしょう? その翌日もまたあのふたりはぼくの部屋に来たんだよ、それでずっと恋愛の話をしていた、あれは相当恋爱脑だな! という。K.KさんはC.Rくんの元カノの存在をすごく気にしていたよと続けると、実はCくんの元カノはいまでもCくんのことを諦めていませんとR.Uくんがいう。R.Hさんもその件については知っていたらしく、うんうんとうなずいてみせるので、オッケー、じゃあその話は先輩には秘密にしましょう、ますます心配してしまうだろうからと提案する。
 南門からキャンパスの外に出る。スーツケースをひきずっている学生の姿がちらほらある。明日から清明节で三連休。こちらや二年生のように今日の午後授業がない学生らにとっては三・五連休になるわけで、実家がさほど遠くない学生らは帰省するだろうし、そうでない学生らの多くも旅行に出かける。いやしかし、学生らの旅行もこちらが赴任したばかりのときにくらべると頻度が減じているというか、はじめてこっちに来たとき、連休とみるやいなやかならずといっていいほど旅行に出かける学生らの姿を見て、中国人は本当に旅行好きだなとびっくりしたものだったが、やっぱり景気が悪くなってしまっているからだろうか? あるいはコロナによる外出制限の影響が精神的に——習慣の断絶というかたちで——尾をひいているということなのかもしれないし、それ以上に调休の導入がなによりもおおきいのかもしれないが、あの当時にくらべると連休であってもおとなしくキャンパスで過ごすという学生が圧倒的に増えたように思う。
 裏町にむかう。高校時代は生物と歴史と政治が得意だったとR.Hさんがいう。R.Hさんはこのあいだ習近平が(…)に視察におとずれていた際も、モーメンツにわざわざ习大大が来ていたなんてと感動の言葉めいたものを投稿していたし、おそらく平均的な愛国少女なのだろう。K.Dさんはなんの科目が得意だったのとたずねると、R.Hさんが返答を奪い去るようにして数学! と応じたが、本当かどうかわからない、たぶん冗談だと思う。なになに? といいながらR.Kさんが横から入ってきたので、きみは高校のときになにがいちばん得意な科目だったとたずねると、生物と地理! という返事がすぐにあって、そうだった、Rさんとは以前この話をしたなと思いだす。わたしは地理が全然わかりませんとR.Hさんがいう。省の位置さえおぼつかないみたいなことをいうので、だいじょうぶ、ぼくもおなじだよ、いまだに東京と大阪の正確な位置がよくわからないからと答える。
 学生たちのおすすめの店は以前(…)があった跡地のその先にあった。まだできてまもない店らしい。こっちでよく見かける、タジン鍋の蓋なしみたいな小型の鍋に肉と野菜が煮込んであるのにレタスが申し訳程度にかぶせてある料理で、米とスープと漬物は無料。小さなテーブルを四つくっつけて長机とし、注文は学生らにまかせる。鍋を四種類注文してそれをみんなでわけるという。わいわいがやがややっていると、G.Kさんも店に来た! とだれかが口にする。恋人がいっしょにいる! と続くので、Gさんはたぶんレズビアンだよなと思いつつもそちらをのぞきにいこうとすると、当のGさんがひとりでやってくる。デートしているの? とたずねると、実は彼氏じゃないです、彼女ですというので、いや知っとるけどと内心思いつつも、うんうん、じゃあ彼女を紹介してくださいと応じる。で、ふたりが座っているテーブルのほうに移動したのだが、彼女は短髪のボーイッシュな女子学生で、ちょっと雰囲気が卒業生のO.Cくんに似ていた。法律を専攻している学生だという。付き合ったのは去年の四月。いまはちょうど一年らしい。うらやましいねクソ! というと、ふたりとも笑った。彼女はもしかしたらちょっとだけ日本語を解するのかもしれない。
 食事は腹六分目にとどめる。おかわりが必要かと学生らに問われたが、お腹いっぱいになると映画の途中眠くなってしまうからと答える。こちらの左となりに座ったO.Gさんは眠そうにしている。あまり寝ていないというので、またゲームしていたのとたずねると、絵を描いていたという返事。見せてとお願いすると、はずかしいから少しだけといいながらスマホをこちらに見せてくれる。中国産ゲームのキャラクターらしい。それとは別に金髪の男の子のキャラ絵も見せてくれる。先生『ヘタリア』知ってますかというので、名前だけ知ってるよというと、これはロシアくんですという。労働節に(…)でまたコミケが開催される、O.Gさんは自作のイラストをそのコミケで販売する予定だという。また三人でいっしょにいくのとたずねると、今回はK.Dさんとふたりでいくという返事。K.Dさん今度もフリーレンのコスプレをするのとたずねると、今回はコスプレしないという返事。R.Kさんは留守番。彼女は両親との関係もよろしくないのでおそらく連休中は(…)にとどまるのではないか(となるとおそらく一度は誘いが入るだろう)。
 R.Hさんの恋バナがはじまる。実は先学期一度告白したのだという。びっくりする。相手はかっこよくて背が高い物理学科の男子学生。でも性格は有病だという(その瞬間みんな爆笑する)。R.Hさんの会話能力にはやや難があるので詳細がちょっとつかみにくかったが、ふたりはひとまず友達から関係をはじめることになった。しかし後日男のほうからあらためて告白(?)があった(と書くと、K.KさんとC.Rくんのパターンみたいであるし、それを踏まえたR.Uくんがさっそく「悲しいですか?」と口にし、こちらは当然クソ笑ってしまうわけやが!)。男はR.Hさんの勇気に感服したといった。女の子であるのにじぶんから気持ちを打ち明けるそういう態度に感動した、と。で、晴れて正式に付き合うことになったのかどうか、そのあたりはよくわからないのだが、しかし関係が一歩進んだと思ったのもつかのま、男はその後R.Hさんに全然会おうとしなかった、デートの誘いもまったくなかった、だから有病だというのだった。
 店の前をT.Uさんが歩いていったと学生のだれかがいった。わざわざ店の外に出て彼女の後ろ姿にむけて「Tさーーーーーん!」と呼びかけた。すぐにR.Uくんがやってきて、先生! はずかしいからやめろ! といった。席にもどると、先生は本当に社牛だと学生たちがいった。社交+牛逼=コミュニケーション能力が高いという意味だなと察し、そういう人間じゃなかったら外国人のほとんどいないこの土地で中国語もろくにできないまま生活することなんてできないからねと応じる。
 店を出る。后街を横断する。一年前の授業で日本語での「道案内」を練習したわけだが、その復習を兼ねて、映画館までの道案内をしてくださいとR.KさんとR.Uくんにいう。先生が中国語で道案内してくださいとR.Kさんがいう。それで中国語の道案内フレーズを教えてくれたので、それを何度か復唱する。后街の出口付近には比較的おおきな果物屋がある。その果物屋の看板が白と緑と赤で、セブンイレブンみたいだとR.Uくんがいう。ローソンを知っているかとR.Hさんがいう。ローソンも日本のコンビニですかというので、そうだよと受けると、セブンイレブンとローソンはどちらが人気ですかというので、やっぱりセブンのほうが人気があると思うねと受ける。日本と中国のコンビニの違いについて話す。中国のセブンイレブンもローソンも日本の店舗にくらべるとかなりせまい、日本のコンビニは品数も多いしたいていのものは手に入る、お弁当も多い、味もセブンイレブンのはかなりいいけれども値段は少し高い——などなど話しているうちにS.Eさんのことを思いだしたので、日本に一年間留学していた先輩がいるけれど、彼女は毎日セブンイレブンのお弁当を食べていたせいで、日本にいるあいだにけっこう太ってしまった、だからこの夏日本にいく子たちも気をつけなさいと話す。
 交差点を渡る。映画館が視界に入る。R.HさんがK.Dさんになにか茶化すようなことをいう。するとK.Dさんがぷりぷりしたようすで歩く。本当に「ぷりぷりした」という形容がぴったりのかわいらしい歩き方で、それを見たR.Hさんが、先生! K.Dさんを見て! というので、彼女の真似をしてこちらもぷりぷり歩いてみせる。両腕を脇腹にぴったりくっつけるようにしてまっすぐ下ろすのだが、グーにした手首から先はそらしてペンギンみたいにし、その姿勢で歩幅の短いキャットワークみたいにして早足で歩く。後ろを歩くR.UくんとS.Sさんがゲラゲラ笑いながらスマホでそのようすを撮影する。K.Dさんはクラスで一番背が低いし、顔もリスっぽいし、それにくわえて声も高く、これは彼女と高校時代に同級生だったC.Sさんからきいた話であるが、K.Dさんが授業中に指名されて発言すると、その声のかわいらしさに男子学生らがざわざわするほどだったという——そのK.Dさんであるが、先日寮で、もしM先生に彼女ができたらじぶんはうんこを食べてもいいと放言したという。K.Dさんにうんこを食わせるためだけに彼女を作って結婚しますというと、みんなゲラゲラ笑った。
 R.Kさんからチケットを渡される。学割みたいな文字の印刷されているチケットだったので、嘘でしょ? 無理でしょ? というと、だいじょうぶ! 先生ならだいじょうぶ! とみんないう。でもヒゲはダメ! というので、黒のウレタンマスクを装着して口周りを隠す。あごの先からヘアゴムでぐるぐる巻きにしたひげがぴょこんとはみだしたので、それも折り曲げてマスクの内側に無理やり畳みこむ。絶対無理だよ! と主張したが、だいじょうぶ! 先生は留学生です! 問題ない! という。いやいや、38歳やぞ!
 館内に足を踏み入れる。この映画館にはこれまで何度も足を運んでいるが、こんなにも混雑しているのをみるのははじめてだった。ロビーにあるベンチがほぼすべて埋まっていた。それにくわえて、椅子に座ることのできない人影があちこちで突っ立っており、受付にも行列ができていた。さすが宮崎駿! 今日が公開初日であるのにくわえて明日から連休というこのタイミング、ある程度は混雑するだろうとは思っていたが、これほどとは! 新海誠の『天気の子』にしても『すずめの戸締り』にしてもこちらは学生らにさそわれるかたちで公開初日に映画館に足を運んでいるが、いずれも席の埋まり具合は五割以下、いや三割程度だったかもしれない、そしてコナンにいたっては十人以下だったように思うのだが、ひるがえって宮崎駿はやっぱりすごいな! ここまで埋まるのか!
 映画がはじまるまで40分あった。ロビーはかなり蒸し暑かった。ゲーセンコーナーをのぞいた。ぼろぼろのクレーンゲームにパチモンであることをまったく悪びれていない名探偵ピカチュウのぬいぐるみが積まれていた。レトロゲームを複数プレイできるアーケードゲームが数週類あったが、選択肢に『冒険島』とあったので、これ『高橋名人の冒険島』のことやなと察した。R.UくんもR.Kさんも子どものころにプレイしたことがあるという。『高橋名人の冒険島』は、あれは2だったか3だったか忘れたが、スーファミ版のものが、こちらが小学校低学年の時分にずいぶん流行した記憶があるわけだが、それよりも古いファミコン版のものを、いま二十歳前後の学生が子どものころにプレイしていたときくとやっぱり妙な気分になるし、そんなふたりはしかし現在、中国が誇るゲーム『原神』などをスマホで毎日プレイしているわけだ。これも中国の急ピッチにすぎる進歩を象徴する現象といえるかもしれない。ずっと以前、卒業生のOさんが、中国ではCDを買うという文化があまり根付かなかった、なぜならカセットテープの時代からMP3の時代に一気に飛んでしまったからだ、CDを買ったり借りたりして音楽を聴くという楽しみを楽しんでいた時代がかなり短かったからだといっていたのを思いだす。アーケードゲームにはほかに『ザ・キング・オブ・ファイターズ』もあった。これも中国でよく見かける。
 ロビーにもどる。ロビーにはステージとスクリーンがあり、スクリーンでは近日公開予定の映画の予告編が延々と流れているのだが、そのなかにデジモンの劇場版らしいものと『SPY×FAMILY』の劇場版の予告編もあって、後者の公開はたしか今月30日だったろうか、R.Kさんが観たいという。先生いっしょに観ましょう! というので、いいよーとまた安請け合いしてしまったが、O.GさんとK.Dさんのふたりはしかし(…)のコミケに参加するわけであるし、同郷のR.UくんとS.Sさんのカップルはそろって帰省するだろうし、そうなるとこちらとふたりで映画を観ることになるのか? さすがにそれはR.Kさんにとってやや重荷になるんではないか? ちなみに『SPY×FAMILY』は中国語で『间谍过家家』というらしい。间谍はそのまま間諜であるが、过家家ってなに? うちで過ごすということ? 生活? とたずねると、学生らはどう説明するかやや困ったようす。で、最終的に辞書アプリの画面を見せてくれたのだが、过家家は「ままごと」という意味らしい! なるほど! 「スパイ」と「ままごと」という意味か! これはなかなか気の利いた訳では?
 空いているベンチが少ない。ベンチに座っているR.Hさんのひざの上にK.Dさんが座っている。そのようすを見てなんとなく気になったので、R.Uくんに体重をたずねると、60キロくらいだという。R.Uくんの身長は177センチ。かなり痩せ型だ。クラスメイトのS.Bくんは50キロ以下だという。Sくんの身長はたぶんこちらとさほど変わらない。こちらも大学を卒業してほどないころ、人生でもっとも痩せていたころには体重が50キロを切ったわけだが、その後栄養失調でぶっ倒れて以降は食うものをしっかり食うようになったし、ときどきは筋トレもするようになったしで、たぶん55キロを切ったことはない、55キロから60キロのあいだをうろうろしている感じだと思う。C.Tくんは90キロだというので、ちょっとびっくりする。Cくん、たしかに太っているけれどもタッパはそれほどない、にもかかわらず90キロなのか。
 体重の話をきっかけにO.Gさんが高校生のころに倒れたという経験談を話してくれる。その日は朝ごはんをろくに食べていなかった、しかし高校の授業の一環で午後5時までボランティアをする必要があった、ボランティアが終わったあとに地下鉄に乗った、その地下鉄の車内で倒れてしまったという。救急車を呼ばれた? とたずねると、呼ばれなかったという返事。まわりの乗客らが介抱してくれたのだが、その介抱について、ren2zhong1といいながら鼻と上唇のあいだを指で押さえてみせるので、え? もしかして人中のこと? とたずねると、肯定の返事。武術関係者のあいだでは人体の急所として知られる人中であるが、こっちでは同時に「気つけ」のツボとしても知られているっぽい、倒れているひとがいたらとりあえず人中を押すというのだが、「全然効果ありません、痛いだけです」とのこと。
 のどが渇いたのでペットボトルの紅茶を買った。いつも第四食堂の売店で買うときは5元であるのに映画館価格で8元。日本円に換算すると、ふだん100円で買えるものが160円というわけで、これはかなり割高だ。R.UくんとS.Sさんもペットボトルのミネラルウォーターを一本ずつ買っていたが、二本で10元という価格にびっくりしていた。
 入場時間になる。チケットのもぎり、問題なく通過することができた、本当に学生で通じてしまった! 予約していた席はいちばん後ろ。映画館でいちばん後ろの席に座るなんてはじめてだ。学生らが席の予約をしたのは昨日の夜だったわけだが、遅すぎたのだ、宮崎駿の人気を学生らも過小評価していたのだ。日本語でわいわい話すわれわれのほうに周囲の客がちょくちょく目線をよこす。こちらの左となりに座ったR.Kさんがめがねを忘れたと嘆く。画面を見ることはできるが、中国語の字幕はそこからだとよく見えないという。映画がはじまってほどなくR.Kさんはスマホをかまえた。カメラをたちあげてズーム、それで字幕を追っているのだった。中国では映画の上映中みんな平気でスマホを使う。写真の撮影もしょっちゅうする。それがスタンダードだから、たとえば日本の映画館でおなじようなふるまいをしてトラブルになるということが、おそらく各地であるんではないか。
 で、『君たちはどう生きるか』を観た。これは傑作だった。宮崎駿の作品のなかでもしかしたらいちばん好きかもしれない。『もののけ姫』や『崖の上のポニョ』よりももしかしたらいいかもしれない。日本で公開されたときにいろいろな評判を目に耳にしていたが、全然難解ちゃうやんけ、ふつうにデカいフック山ほどあるやんけ、意味づけようと思えばなんぼでも意味づけできるやんけという印象。またトンネルからはじまるんかとか、ねじくれた『神曲』やなとか、最後は原作版ナウシカみたいやなとか、過去作をはじめとするもろもろの作品に対する目配せについていろいろ思うところもあったが、それらと宮崎駿のバックグラウンドを重ねてあれこれ書くよりも(それらも補助線としては使えるだろうけど)、作品の内側にとどまって観たほうが絶対おもしろいし、あと、作り手の制作過程がかなりトレース(想像)しやすく感じられたというか、ここまでは事前に大枠があったんだろうなとか、このイメージは換喩的に呼び出されたものだなとか、ここは偶然まとまりがついてしまったんだなとか、ここはのちほどなんらかのかたちで整理できるとおもってはじめてしまったもののそのまま逸脱に終わってしまった箇所だろうなとか、そういうアタリがけっこうつけやすい作品だとも思った。
 もっとも印象的だったのは、いまじぶんが「実弾(仮)」というリアリズムの小説書いているからこそ思うのだが、眞人がじぶんのあたまを石で傷つけた理由が語られない(内面が描写されない)点。いじめられっ子に対する復讐、父親に対する抗議、継母に対するアンビバレンツな感情(「かまってほしい」と「困らせたい」)、そのどれであるとも語らず(どれでもないと否定神学的的にも語らず)、ただ行為だけで完結させる。クライマックスでその傷跡について言及するにあたっても、それがじぶんの「悪意」であるとしか言わない。小説もこういうふうに書かないといけないなと思った。内面を語りすぎてはいけない、容易に意味づけてしまってはいけない。
 あと、最初の火事のシーン、病院にむけて街中を眞人が疾走するシーンで登場するモブがあきらかに宮崎駿ではない、ぐねぐねの線で表象されているのにもびっくりした。あそこを担当したアニメーター、宮崎駿的なものからあきらかに逸脱しているし、宮崎駿がそういう逸脱を良しとしたのにも驚いた。
 映画が終わる。これは中国の映画館あるあるだが、エンディングロールがはじまると同時に照明が灯され、さらに音声も切られてしまう。学生らのなかには米津玄師の主題歌を楽しみにしていた子らもいたので、この仕打ちにはぶーぶー不満の声があがった。傑作だった、宮崎駿の作品のなかで一番好きかもしれないというと、R.Uくんも同調した。反対に、R.Hさんはなにがなんだかわからず混乱したという。上映中もずっとスマホで情報を調べながら筋を追っていたとのこと。R.Hさんはそもそもほかの学生らとちがってアニメを観る習慣もない、そういうところにくわえて抽象度の高い作品に触れた結果として困惑しているふうだった。ほかの学生らがどういう感想を抱いていたのかはわからない。ただ、R.Kさんは宮崎駿の作品のなかでは『紅の豚』がいちばん好きだといった。インコはちょっとアメリカみたいだとR.Uくんがいった。もちろん、そういう読み筋もある。『雀の戸締り』とならべてこの作品を天皇制をめぐるものとして読む文章もおそらくすでに書かれていることだろう。
 映画館の外に出る。雨がぽつぽつ降っている。R.Kさんが傘を忘れたという。めがねも傘も忘れるなんてさすがきみは傻逼だなと茶化しつつ折り畳み傘を貸す。こちらには必要なし。エロいホテルの前を通りがかったので、トイレを借りるために入ったこのホテルの二階でセクシーな衣装を身につけた若い女性二十人くらいに迎えられ、学生といっしょにあぜんとして硬直した例の一件について話す。メイドカフェに行ってみたいとR.Kさんがいう。先生行ったことありますかというので、ないよ、あんなのはずかしくて絶対行けないというと、嘘! 先生は絶対好きです! という。ひとのことなんやと思うとんねん。
 南門からキャンパスに入る。K.DさんのBL好きの話になる。じぶんでBL小説を書けばいいじゃんというと、実はクラスメイトのC.SくんとR.HくんのBL小説を書いているという打ち明け話がある。少数民族同士のBLだなと笑う。C.SくんとR.Hくんといえば、政治的主張があまりに異なるために最近軽く喧嘩したという話を以前R.Uくんからきいたばかりであるが、ところで、K.Dさんは先日の写作の授業の課題で、ありがちなBL小説の導入部みたいな文章を書いてよこした、つまり、相性最悪の男子高校生ふたりが揉めて喧嘩して相手のことが大嫌いになるという展開で、作文はそこで終わっていたが、これがベタな小説なり漫画なりであった場合、当然これは導入部であり第一話であって、最悪だった第一印象がその後ゆっくりと改善されていき、ゆくゆくは——というふうになるのだろうが、C.SくんとR.HくんのふたりをモデルにしたBL小説を書いたというその理由ももしかしたらあのふたりが揉めたという一件を小耳にはさんだのがきっかけだったりするのではないだろうか?
 (…)楼にある売店で学生おすすめのトマトのカップ麺を買う。レジのおばちゃんが何人だとこちらに問うのに、日本人だ、わたしたちの外教だと学生らが応じると、中国語が上手だとおばちゃんがいう。わたしもそう思うとR.Hさんが受ける。わたしもそう思うとR.Kさんが続く。わたしもそう思うとこちら自身も続く。みんな笑う。
 女子寮前で女子学生らと別れる。R.Uくんとふたりで男子寮まで歩く。R.Uくんはたぶんうちのクラスでもっとも日本アニメをよく観ている学生のひとりであると思うが、『君たちはどう生きるか』はすごくよかった、『エヴァンゲリオン』も大好きだ、そういう実存主義(?)みたいなアニメがいいというので、要するにいくらか文学的であったり哲学的であったりするのがいいということだろう。今敏の作品は観たことがあるかとたずねると、知らないというので、もうずっとむかしに観たものだからいまはどう思うかわからないけど、『千年女優』とか『パプリカ』とかおもしろかったよと伝える。
 帰宅。すぐにチェンマイのシャワーを浴びる。R.Uくんから今日撮影した写真や動画がとどいたのでさっそくモーメンツに投稿する。カップ麺を食す。R.Uくんから『君たちはどう生きるか』について一点気になる箇所があったと質問がとどく。父親は本当に眞人や夏子を愛していたのだろうかという。仕事のことばかりお金のことばかり、さらにその金は戦争で稼いだ金である、車をのりまわして学校に寄付の名目で大金を渡して権力者ぶる、眞人が怪我をしても本当に心配しているふうにもみえない、と。そんなところがひっかかるんか、やっぱ中国は家族間の感情を重視するんやなとひそかにおもいつつ、あれは宮崎駿作品にたびたび登場する大人のステレオタイプみたいなもんだ、純粋な子どもに対置される存在みたいなもんだ、『千と千尋の神隠し』冒頭で豚になってしまう両親みたいなもんだという記号的解釈をひとまずあたえつつ、あの時代は妻に死なれた夫がその妻の姉妹をめとるということはごくごく一般的だった、そもそもお見合いが盛んだった時代があったことからもわかるように結婚において愛が必要であるという考えた方自体が近代の産物でしかない、だからふたりの関係が愛にもとづいていないように仮にみえたところでそれを現代の基準でジャッジするのはおかしい、さらに彼は老婆らが危険だと噂する塔に妻と息子を助けるためにむかった、あそこはかなりコミカルに描写されていたがそういう凡人俗人のがんばりみたいなものもちゃんと描くところに宮崎駿の優しいまなざしを感じることもできる、馬鹿を馬鹿、凡人を凡人、俗人を俗人として切り捨てないところに、完璧に調和した世界を拒否した眞人のふるまいとおなじ三观のあらわれを認めることもできるんではないかみたいなこともいった。眞人は物語が進行するについて制帽や制服を一枚また一枚と失っていくが、あれだってなんのひねりもない読み方をするのであれば、大人に対置される子どもの純粋さのあらわれみたいなものであり、R.Uくんもこの脱衣の露骨さには気づいていたというが、既存の三观からの脱皮とか、時代背景を踏まえるならば軍国主義からの解放とか、これもやっぱりなんのひねりもないベタな読み筋であるけれども、その読み筋に即して理解するのであれば、そうであるからこそ世界を司る立場に立つというある意味軍国主義的なもの独裁的なものの極致ともいうべき提案を断るにいたる眞人の決断も辻褄があうことになる。ただ、R.Uくんには伝えなかったけれども、そうしたベタな読み筋をもっとも強く補強することができるのはやっぱり精神分析的な知見、つまり、去勢のプロセスと重ねて読んだ場合になるのだろうけれどもさすがにそれはあまりにもわかりやすいしつまらない、しかしそのわかりやすさつまらなさに終始しない要素も当然あって、たとえば去勢の根拠としてもちだされるのが「自傷」=「悪意」という点はけっこうおもしろい。
 ところで、これは過去に何度も書き記していることであるけれども、中国の映画館では観客は笑いどころでけっこうしっかり笑う、しかも基本的に笑いのツボが浅いというか、小学生が笑うような小ネタでもこっちの学生たちはけっこうゲラゲラ笑う、そういうわけで『君たちはどう生きるか』の上映中もわりと笑い声がひっきりなしにたっており、特に青サギやインコ——しかし「インコ大王」という名前はどうしたってこちらに『LIVE A LIVE』近未来編の隠呼大仏や大西巨人の『インコ道理教』を彷彿とさせる——の登場シーンではみんなたいそう楽しそうにしていてそういう気分はこちらにも伝染するのだが、しかしそれでいえば最初に笑い声が生じたのは映画の序盤、大伯父について、本の読みすぎであたまがおかしくなったと語られた場面だったかもしれない、その瞬間こちらの周囲にいた学生たちだけがいっせいに吹き出し、先生! 先生! とささやいたのだった。ほっとけアホ。
 あと、ふと思いだしたので書きつけておくが、以前学生らがうちにやってきていっしょに料理を作った際、キッチンでカレーを作っている最中だったと思うが、R.Uくんにお父さんはなんの仕事をしているのかとたずねたところ、いまは仕事をしていないという返事があったのだった。複雑な事情があるのかもしれないと思い、詳細を問うことはしなかった。