20240408

 作者体調不良により、本日の「ロベルトMのシャーマニズム仮想通貨宣言!」第351回はお休みさせていただきます。ご了承ください。



 きのうづけの記事に書いたとおり夜は地獄だった。夜は熱があがる。しかも薬の効果が切れる。そういうわけで夜中から朝方にかけて何度もじぶんのうめき声で目を覚ますはめになるし、しんどさのあまり吐き気をおぼえることもある。三度か四度、そんなふうに目を覚ましたところで、あかん、もう限界やわとなり、食パンを生のままかじって風邪薬をのんだ。それで熟睡。
 次に目が覚めたのが何時だったかすでによくおぼえていない。8時か9時ごろだったんではないか。食パンの残りを食った。予想と違うなと思った。予想では発熱はきのうで終わり、今日はほぼ通常どおりに過ごし、明日の授業には当然出席するというつもりだったのだが、これはひょっとすると明日もまだきついかもしれない。ほとんどずっと横になっているせいで身体が痛くてたまらないのだが、それ以上にいまだに薬の切れ目に達すると発熱するのが問題で、昼飯は冷食の餃子を食ったのであるけれども食後またあたまがぼうっとしてきて、体温計で熱を測ってみるとなぜか38度以上あって、あれ? 悪くなっとるやん! というアレなのだが、それでも薬は効く。とりあえず風邪薬を服用しさえすればその後数時間はほぼノーマルで過ごすことができるのだが、いやしかし、これもしかしたら風邪じゃないかもしれん、コロナかもしれんという疑いが、実はきのうおとついあたりからあったのだが、どんどんふくらんできた。以前コロナになったときもこんなふうに熱がとにかく執拗で、ふつうの風邪だったらだいたい二日もあればよくなる、薬でいったん発熱を抑えることに成功したらそのままぶりかえすことなく片付くというのがだいたいのパターンであるのだけれども、前回コロナになったときはいったいなんどぶりかえせば気が済むのかとびっくりするほど発熱がしつこかった、そしてそのしつこさを今回の発熱もやはりともなっているように思われるのだ。それにくわえて鼻の違和感がある。前回コロナになったときは水の中で溺れたときのような、鼻の奥がツーンとする痛みが熱が下がるにつれてあらわれ、そこから長い味覚および嗅覚障害が続いたのだったが、そのツーンに近い痛みを昨日あたりから微妙に感じているのだ。コロナだとすればタイミングとしてはやっぱりアレか、『君たちはどう生きるか』(宮崎駿)を観るために映画館をおとずれたあれがきっかけだったりするのかもしれない。
 冷食の餃子を食したのち、薬をのんでまたひと眠りし、14時半になったところで活動開始、薬が効いているうちだけでもなるべくいつもどおりに過ごそうというわけで、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返した。AさんがわざわざブログにR.Hくんの件で茶化して悪かったみたいなことを書かれていたので、いやいやわざわざそんなかしこまってもらわんともと恐縮したのだが、ところでそのブログ記事のなかに「自分を枉げない」というフレーズがあり、「枉げない」は「まげない」と読むらしい。知らんかった。ググってみたところ、武部良明日本語教育における表記の問題—表記に見られる動詞の書き分けについて」という論文のPDFがヒットしたのだが、そのなかに「表記においては,「塩が水にトケル」のように, 液体の中に混ざる揚合に「溶ける」, 「鉄が熱でトケル」のように, 固体が熱せられて液状になる場合に「熔ける」と書き分けられていた。また, 「棒をマゲル」のように, まっすぐなものを曲がった状態にする場合に「曲げる」, 「事実をマゲル」のように, 本来のものを変えてゆがめた状態にする場合に「柾げる」と書き分けられていた。これらの例において「鉄が熱で溶ける」「事実を曲げる」とし, 細かい区別をなくしてしまったのが現代表記である。」とあった。

 その後、『センスの哲学』(千葉雅也)を少しだけ読む。熱があるせいでどうしたって視線が文字を上滑りしてしまう。17時になったところで第五食堂をおとずれて打包したが、食欲はあまりなかったので、夕飯は二回にわけて食べた。夜はどう過ごしたのだったか、全然おぼえとらん。明日の授業もお休みさせてほしいと二年生のグループチャットに通知を送ったのはたしか。昼間どれだけ眠っていても、やっぱり体が弱っているからなのだろうか、寝床に横になればすぐに眠りについてしまう。就寝中にじぶんのうめき声で目が覚めることはもはやなかった。代わりに朝方ひさしぶりに気絶しかけたが、それについては翌日づけの記事に記すことにする。