20240412

「純文学」「エンタテインメント小説」という区別はおかしいとか意味がないとか言う人がいるけれど、「文学とは何か」という問いのある・なしで、二つは厳然と区別される。
保坂和志『小説の誕生』 p.155)



 8時半起床。寝不足であるはずなのだがふしぎと疲労感はない。歯磨きをすませてクリームパンを食す。Tシャツを重ね着したうえにテーラードジャケットをはおって部屋を出たが、微妙に肌寒いようなそうでないような、いや健康体であればちょうどいいと判断するところであるのだろうけれども、なんせここ数日間発熱して寒気をおぼえたり就寝中に汗だくになったりをずっとくりかえしていたので、たとえば「涼しさ」の感覚ひとつとっても、それを心地よいものとしてそのまま享受していいものか、それとも発熱に由来する寒気に近しいものとして理解すべきなのか、体感でうまく処理できないところがあり、それは授業中に軽く発汗したときも同様で、教壇に立って大きな声で話しているのだから全身にうっすらと汗を掻くのは当然であるしいつものことであるのだけれども、それがときおり発熱に由来する発汗であったり体調不良に由来する脂汗であったりに誤認される瞬間があり、こういう感覚ははじめてだ、こんなことはこれまで経験したことがない。起き抜けに体温は測ったが、微熱ですらなかった。ただ、嗅覚障害は昨日よりきつくなっている。それでも手首にふった香水はぎりぎり嗅ぎとれた。コーヒーの味はほぼしない。
 10時から二年生の日語会話(四)。ここ一週間のことを軽く話す。それから「発表:わたしのアイドル」について説明&実演。先学期やった「発表:食レポ」はみんながんばりすぎだった、もっと気軽にやっていい、あんなにみっちり準備する必要はないと言っておく。くじ引きをこしらえて発表順を決定する。ここまでで授業前半。後半は自由。「わたしはアイドル」でとりあげるアイドルを決めて、中国語で軽く構成だけでもこしらえておきなさいと指示。ついでに学生のところをまわってだれをとりあげることに決めたかと質問していく。けっこうみんなバラバラ。重複は確認できたかぎり、R.HさんとS.Gさんのみ。ふたりは中国の有名な女優さんをチョイスしていた。あと、G.Kさんが『ハウルの動く城』のハウルにする、すごくかっこいいからというのをきいて、あ、Gさんはやっぱレズビアンではなくてバイセクシャルなんだなと思った。
 ちょっと気になったのがR.Kさん。彼女は今日は相棒であるO.GさんとK.Dさんとは離れた席にひとり着席しており、それ自体はときどきあることなのだが、あきらかに機嫌が悪かった、口数も少なくむっつりとした表情をずっと浮かべていた。なにがあったんだろう?
 そのR.KさんとT.UさんとS.Kさんの三人は明日から二日間会計学の試験。さらに、こちらは初耳だったのだが、C.Eさんも明日は小学校教師の試験をひかえているとのこと。R.Kさんをのぞく三人は授業後も教室に残るようすだった。混雑する食堂を避けるのも兼ねて教室で試験勉強をするつもりなのだろう。
 授業後は例によってR.Hくんがひとりでやってきた。いや、休憩時間中にもやってきて、先生いまコンビニ弁当が炎上していますねと、またどこで仕入れてきたのかわからんネタをもちだしてきたのだった。そんな話知らないけどと受けると、VPNを噛ませたスマホであれこれ検索したのち、これですといいながら短い動画をこちらに差し出してみせたが、通常のたまごとコンビニ弁当に入っているたまごを比較したもので、ちょっと見ただけでああはいはいこの手のやつねとどうでもよくなったので詳細は知らないが、たぶん、なにかしらの処置をくわえたところ、通常のたまごはAという結果になったのに対して、そうでないほうはBという結果になった、これはつまり保存料や添加物のためである! みたいなやつだと思うのだが、別にそんなもん炎上していないだろというか、コンビニ弁当が健康によくないことなんて別にだれだって知っていることであるし、同時に、健康によくないといったところでそれを食べた瞬間に体調が悪くなるなんてこともまずありえないのもだれだって知っていることである。この手の動画をヒステリックになって拡散しているのはきっとその動画でおこなわれている実験(?)とその帰結が科学的になにを意味しているのかについてなどいちいち調べるわけでもなくただAとBという異なる帰結が生じたというその事実を災厄Xと見なしてワーワー騒いでいる連中にすぎないのだろうし、そもそも動画のソースだってどこのアレなのか知れたもんじゃない。化学調味料にしても農薬にしても保存料にしてもそれらの文字を目の当たりにするだけでヒステリックに反応してしまう人種というのは残念ながら一定数存在しているわけで、そしてそういう界隈のなかにいるのであればなるほどたしかにそうしたもろもろはつねに「炎上」しているといえるのかもしれないが、そんなもんこちらからすればクソほどどうでもいいし、それよりもこちらはR.Hくんがまたしてもネットでたまたま見かけたコンテンツについて「真実」を手に入れたとばかりに目をギラギラさせて報告しにやってきたことのほうが心配だったし、正直げんなりもした。
 休憩時間中にやってきたといえば、C.Rくんも教壇にやってきて夕飯に誘われたのだったが、これは体調がまだ万全ではないからという理由で断った。たぶんK.Kさんといっしょにということなんだろうが、いいかげんあのふたりもデートにこちらを巻き込まないでほしい、メシくらいふたりで食べればいい。C.Rくんの日本語能力を向上させるためにこちらと食事をいっしょにとる機会をなるべく多く設けようというあたまがもしかしたらK.Kさんにはあるのかもしれないが。C.Rくんはこちらの咽喉のために養蜂家の父君がこしらえたハチミツを送るといった。ありがたい。
 R.Hくんとそろって教室を出る。食堂に行きましょうと言われたが、大混雑の食堂には行きたくないと応じると、じゃあセブンイレブンはどうですかとあった。それでセブンイレブンで弁当を買うことに。野菜と肉の入っているカレーが売っていたので夜食用のおにぎりといっしょに買った。店の入り口ではT.SさんとG.Gさんと遭遇した。
 南門から新校区に入る。もしかして彼女と別れたのとR.Hくんにたずねた。以前は授業が終わったらいつもいっしょにごはんを食べていたでしょというと、別れていないという返事。しかし気持ちはさめてしまっている、実は先日別れを告げたが、相手に泣かれてしまった、だからそこでちょっと妥協してしまったと続ける。なんで別れようと思ったのとたずねると、相性がよくないという返事。いまの彼女とは200日付き合っている、過去最長記録だというので、きみこれまでに5人以上と付き合っているでしょ? それで最長記録が200日なの? とたずねると、そうですという返事。中国の大学生でここまで短期交際ばかりくりかえしているのはけっこうめずらしいパターンだと思う、少なくともこちらはこれまで一度も出会ったことがない、そりゃR.Uくんから「恋愛に全然まじめじゃない」と苦言を呈されるわ。そのR.Uくんらと『君たちはどう生きるか』を観に行きましたよねと言われたので、行ってきたよと応じると、どうでしたかという質問。これまでの宮崎駿作品のなかではベスト3に入るかなと答える。どういうところがいいですかというので、表層的な細部をあれこれ指摘するような話が通じる相手でもなし、むしろ表層とは真逆の話になるしものすごくありきたりでつまらない言い方になるが、いろいろ解釈することができるからねと、こうして書いているとあらためてつまらない答えだなと思うのだが、もう仕方ないのだ、うちの学生相手に「解釈の多義性」というものがそもそもクリシェであるというところからはじめる作品分析の仕方であれこれ語っても意味がないのだ、なぜなら「解釈の多義性」そのものが彼らにとってはいちじるしく目新しくまったく理解のできないものであるからで、映画や本の話を学生からもちだされるたびに、言語の壁以上に分厚くていかんともしがたいこの種の壁の存在にコミュニケーションをあきらめてしまう、妥協してしまう、いやこれについては日本にいても同様であるのだが。本来なら批判すべき凡庸なクリシェでしかないものを暫定的な正解として差し出すしかない状況にはなかなかけっこう疲れてしまうが、それ以外に対処のしようがない。たとえば、村上春樹の小説について、彼の狙いや手法についてある程度理解したうえでその問題点や弱点を批判しているのではなく、そもそも「全然意味がわかりません」という批判で閉じてしまっているタイプの相手に、ムージルカフカやオコナーやマンスフィールド梶井基次郎の魅力をどう説明すればいいのかという話だ。R.Hくんはなにをどう勘違いしたのか、先生はきっとサスペンス小説が好きでしょうといった。色々と解釈して考えることができるみたいなこちらの発言を、推理小説のトリックをあれこれ考えるみたいな意味合いで理解したのかもしれないが、さすがにちょっと見当はずれすぎる、これまでこれだけ密に付き合ってきたわけであるのにいまだにこういうわけのわからん誤解が生じるのかとややがっくりくる。それでちょっと思ったのだが、出会ったばかりのころはR.Uくんのほうがずっと俗っぽく、R.Hくんのほうが抽象度の高い話ができる相手だという印象を抱いたものだが、いつのまにかその印象が逆転している、きのうの夜に微信で交わしたやりとりもふくめてそうであるが、R.Uくんのほうがずっと抽象度の高い話が通じる。
 帰宅。カレーを温めて食う。その後ベッドに移動。横になるとやっぱり激しく咳が出る。花粉症の薬との併用は禁忌であるが、知ったこっちゃねえわというわけで、咳止めシロップを服用。ブロンで遊んだことは一度もない。30分ほど仮眠をとるつもりだったのだが、3時間寝てしまった、気づけば16時をまわっていた。扉をノックする音がした。C.Rくんから着信があった。たぶんK.Kさんといっしょに部屋までハチミツを持ってきてくれたんだろう。しかしここで出ると、そのままふたりを室内に招くことになりかねないし、それでまた時間を奪われることになるのもうっとうしいので、電話には出なかった。C.Rくんからはのちほど部屋の前にハチミツを置いておきましたというメッセージがとどいた。
 13舍近くの快递でコーヒーミルを回収。いま使っているやつのハンドルがぶっこわれたのであたらしいのをずいぶん前にポチったのだが、寝込んでいたせいでずっと回収できずにいた。第五食堂で夕飯も打包。帰宅して食し、ひとときだらけたのち、チェンマイのシャワーを浴びた。それからコーヒーをたてつづけに二杯のみながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回、1年前と10年前の記事を読みかえした。以下、2022年4月12日づけの記事より。梶井基次郎のこの文章を読むたびに、雨の降らないかぎり毎日里山をのぼっていた保育園時代を思いだす。

 吊橋を渡ったところから径は杉林のなかへ入ってゆく。杉の梢が日を遮り、この径にはいつも冷たい湿っぽさがあった。ゴチック建築のなかを辿ってゆくときのような、犇ひしと迫って来る静寂と孤独とが感じられた。私の眼はひとりでに下へ落ちた。径の傍らには種々の実生や蘚苔、羊歯の類がはえていた。この径ではそういった矮小な自然がなんとなく親しく――彼らが陰湿な会話をはじめるお伽噺のなかでのように、眺められた。また径の縁には赤土の露出が雨滴にたたかれて、ちょうど風化作用に骨立った岩石そっくりの恰好になっているところがあった。その削り立った峰の頂にはみな一つ宛小石が載っかっていた。ここへは、しかし、日がまったく射して来ないのではなかった。梢の隙間を洩れて来る日光が、径のそこここや杉の幹へ、蝋燭で照らしたような弱い日なたを作っていた。歩いてゆく私の頭の影や肩先の影がそんななかへ現われては消えた。なかには「まさかこれまでが」と思うほど淡いのが草の葉などに染まっていた。試しに杖をあげて見るとささくれまでがはっきりと写った。
梶井基次郎「筧の話」)

 そのまま今日づけの記事もここまで書くと時刻は23時半をまわっていた。

 寝床に移動後、Katherine Mansfield and Virginia Woolf (Katherine Mansfield Studies)の続きを読み進めて就寝。