20240413

 小説と彫刻は「同じではない」とか「いや、それでもやっぱり同じところはある」とか、そういうこと以前に、小説と彫刻を同じ基盤に置いて問いを立ててみる人が、文章に関係している人にはほとんどいないみたいなのだ。小説は文章=文字によってできていて、文字には他の芸術にある形や音のような直接性がなく、いきなり抽象として与えられるために、美術や音楽と同列に考えにくいということだと思うのだが、小説もまた芸術の一様式であるかぎり何らかの直接性によって受け手に訴えかけるようにできているはずではないか? 私の出発点はいつもそこなのだ。
保坂和志『小説の誕生』 p.167)



 11時起床。昼メシは第五食堂一階の炒面。13時過ぎから「実弾(仮)」第五稿に着手するも、15時にはやばやと中断。全然集中できない。あたまがろくに回転していないのを感じる。ブレインフォグちゃうやろなと内心ひそかにビビる。
 切り替える。きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読みかえす。以下、2023年4月13日づけの記事より。

 その存続危機について、日本語学科の教員からなるグループチャット内で新情報らしいものが共有されていた。詳しいことはよくわからんのだが、大学レベルではなく政府レベルの話だと思う、教育部とか国家発展改革委員会とかそういう文字が認められるニュース記事のスクショをK先生が投稿していたのだが、2025年までに学科の改革がおこなわれるというもの。文面をざっと見た感じ、これからの社会でますます必要となる理系分野の学科新設をおしすすめるともに、経済や社会発展に対する良い影響の認められない学科を淘汰していくという方針が語られている模様。外国語に関しては、主要なものについてのみひきつづき力をいれるみたいな文言があることにはあるのだが、そこに日本語が含まれているのかどうかはさだかでないし、仮に含まれているのだとしても、現状ほど多くの日本語学科は必要ないだろうK先生もS先生も考えている様子。つまり、うちの大学の日本語学科が取り潰しになる可能性がこれでますます高くなったというわけだ。

 「2025年までに学科の改革がおこなわれる」というのがたしかであれば、ぼちぼちうちの大学にも動きがあっていいんじゃないかと思うのだが、やっぱりこの方針よりも学生の受け皿を増やすという方針のほうが重視されているのが現状なのだろうか? だからうちの日本語学科もいましばらくは延命されるということなのだろうか? こちらとしてむしろこの改革をきっかけにうちの日本語学科も閉鎖、結果大手をふって本帰国という流れになってくれたほうが、本帰国のタイミングを自分で決めるというコストをかけないですむ分楽でありがたいし、これまでにかかわってきた職場が最終的にはすべて破産なり閉鎖なりして終わるという「死神」の面目躍如にもなるしで、いろいろ助かるんだがなァというのが率直なところだ。
 以下は2014年4月13日づけの記事より。

 夜、一日の仕事が終り、あとは、風呂に入って寝るだけというときに、妻は書斎からハーモニカの箱を取って来て居間のこたつに置く。私が二人の好きな昔の唱歌、童謡を吹き、妻が歌う。二曲目はいつも歌なしハーモニカだけの「カプリ」ときまっている。「カプリ」は亡くなった私の友人の小沼丹の好きな曲であった。小沼は軽快で明るい曲が気に入っていた。
 さて何を吹くか。季節の歌をいつもとり上げる、まだ二月にならないので、「早春賦」には早いねという。「早春賦」は「夜のハーモニカ」の中でも私たち二人の特別お気に入りの歌である。谷のうぐいすの気持になり切って歌うので、歌い終ったときに妻はいつも、「ほーほけきょ」という。
 小学唱歌の「冬の夜」を吹き、妻が歌う。「春の遊びの楽しさ語る」というところがいい。
 一日の終りに妻がハーモニカを持ち出し、昔の唱歌や童謡を私が吹き、妻が歌うのがわが家の大事な日課となってから、どのくらいたったろう? 十年近くたったかも知れない。
庄野潤三メジロの来る庭』)

 長女来る。
 昼前の一回目の散歩から帰ると、足柄から長女が来ていた。例によって、私は、
「こにゃにち」
 と長女に声をかける。長女は、
「こにゃにちは」
 とこたえる。
 これは昔、長女がみていたテレビの漫画の主人公のあいさつのことばなのである。長女からそのあいさつことばを聞いて私は気に入り、長女が来たときだけいうことにしている。
庄野潤三メジロの来る庭』)

 晩年の庄野潤三の著作は万事こんな調子で、なんでもないできごとがなんの工夫もない文章で重複をおそれずつらつらつづられているだけで、ブログよりもずっとブログみたいなアレであって独特の味わい深さがあるのだが、これらの著作の特異性については青木淳悟経由で知ったのだった。
 あと、以下のくだりには腹がちぎれそうになるほど笑った。バイト先での一幕。

 休憩時間中、新聞のテレビ欄をながめていたJさんが、なんやこいつビッグダディって、ワシこいつ大嫌いやわ、京都きたらどついたるどバカタレが、とひとりで毒づいていたので笑った。

 読みかえしのすんだところで今日づけの記事もここまで書いた。時刻は16時半前だった。

 一週間授業を休みっぱなしだったので今後の授業計画を調整する。17時になったところで第五食堂で打包。食後、三年生のC.Mさんから明日食事を作りにいっていいかと微信がとどいたが、たまっている仕事を片付けたかったし日曜夜はスタバで書見と決めていたので、味覚障害を理由にこれは断った。
 30分の仮眠をとる。チェンマイのシャワーを浴びたのち、20時半から授業準備にとりかかる。日語基礎写作(二)用に「村上春樹の比喩」、日語会話(二)用に第14課&第15課、日語文章選読用に「キラキラする義務などない」の資料をそれぞれ詰めなおす。作業中は『The Zoo Is Far』(Christian Wallumrød Ensemble)と『14』(Supersilent)を流した。
 22時前からもういちど「実弾(仮)」第五稿。シーン32、無事片付く。シーン33もいちおうあたまから尻まで通したが、全体的にのっぺりとしていて弱い。ここはけっこうがっつり加筆修正が必要かもしれない。
 その後、書見。『新しい小説のために』(アラン・ロブ=グリエ平岡篤頼・訳)の続き。「ぼくは同時に、ぼくの意志の主体でもあれば客体でもある…… 人間は、出来ごとにたいする彼の密着、それらをとおして、彼自身がなるものとして出来ごとを達成する彼のやり方によってしか存在しない。」というジョー・ブスケの言葉が引かれている。ドゥルーズがジョー・ブスケを評価していたのはやはりこのあたりの思考なのだろう。あと、「木の十字架と十字のしるしがあるなどといってはいけない。そうすれば、非現実的なしるし[シーニュ]と、意味されたものとがあり、あとのほうが現実的であるということになろう。どちらのほうも、同時に、現実であり、またしるしなのだ」というくだりも非常にしっくりくる。
 それから、ロベール・パンジェというフランスの作家をはじめて知った。ベケットと親交があったらしい(ベケットみたいな作風の小説も残しているという)。和訳されているのは『パッサカリア』(堀千晶・訳)一冊きりっぽい。ちょっと気になる。
 1時になったところで書見は中断。夜食のパンを食し、歯磨きをし、寝床に移動後Katherine Mansfield and Virginia Woolfの続きを読み進めて就寝。