20240415

 たとえば能や狂言などの伝統芸能は、個人の個性ではなくて、伝統芸能としての動きを継承することが優先される。連綿と受け継がれてきた動きが最初にあって、それによって精神が生まれてくるその世界にあっては、個人は伝統芸能を形あるものとする媒介のようなものになるのではないか。「個性」「個性」と言われている現代人には自分が〝媒介〟のようなものになるなんて、とうてい受け入れられないと思われるかもしれないが、伝統芸能から見たら個性なんて、伝統という根を持たない者による苦しまぎれの悪あがきでしかないのかもしれない。
保坂和志『小説の誕生』 p.179)



 12時半起床。やっちまった。アラームで一度10時に起床したはずなのだが二度寝。あしたは早八だというのに……!
 だるい。食堂まで出向くのもめんどうなのでトースト二枚で食事をすませる。コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読みかえす。以下は2014年4月15日づけの記事より。

 彼は自分をひとつの「類」と見なしていたが、それに属しているのは彼ひとりきりだった
(残雪/近藤直子・訳「素性の知れないふたり」)

こうして旅先の記録を日記としてつけていると思うのだが、たとえば一年後でも三年後でも五年後でもいいのだけれど、これら旅先の日々をふと思い返すことがあったとしても、じっさいに彼の地で過ごした記憶をそのまま想起するというよりはむしろそれらの日々を記録した日記の文章のほうを優先的に思い出すことになるんではないか、たとえ記憶そのものの想起にいたることがあったとしてもあくまでもそれらの文章を起点とすることではじめてそこにいたるというふうになるんではないか、それくらいじぶんのなかでは文として整列された体験のほうが五感で受容されたなまものの記憶よりもずっと幅をきかせているようなところがあるような気がしてやまない。職業病というのは世の中にたくさんあるけれど、こうした記憶のたくわえ方というのは毎日飽きもせずに日記を書きつけているここ数年のこちらにおける一種の職業病(というよりは生活習慣病といったほうが適切かもしれないけど)みたいなものともいえるかもしれない。

 一年生2班のK.Kさんから微信。今週の授業で印刷する資料があるのであれば17時までに送ってほしい、と。ちょっと待ってと返信したのち、さっそく第18課の資料を詰めなおして送信。ついでに第14課&第15課の資料も詰めなおして1班のY.Tさんに送信。さらに日語文章選読用に「卒業生のみなさんへ(2019年)」も軽く詰める。
 部屋に掃除機をかける。湿気のせいなのかなんなのかわからんが、黒くてねちょねちょしたほこりが寝室のフローリングのいたるところに転がっていたのだが、全部吸いとってやった。必要な資料をすべて印刷し、明日の授業で使うデータをUSBメモリにインポートする。それにしてもなんかベタベタするなと思ってスマホで天気予報をチェックしてみたところ、今日の最高気温は32度! マジか! 部屋のなかにずっとおるから気づかんかったわ! 室内はそれほど暑くない、しかしベタベタする。そういうわけでエアコンをつけて除湿。予報によると今日の夜から一週間ずっと雨降りの模様。(…)の典型的な天気。
 17時になったところで寮を出る。門前でCとすれちがう。第五食堂で打包した帰り道らしい。全食堂のなかで第五食堂がもっとも売り上げがいいという。さもありなん。食堂にむかう道中、背後から「先生!」と呼びかけられる。二年生のR.Hさん。めずらしくママチャリに乗っている。じぶんで買ったものだという。さっきまで図書館で勉強していた、これから快递で荷物を回収するとのこと。なにを買ったのとたずねると、服という返事。夕飯は第四食堂のハンバーガーを買ったとのこと。
 第五食堂の二階でいつものように打包。ついでに一階の売店で袋麺をふた袋購入。寮にもどる。むかいの部屋からちょうどナイジェリア人のHが出てくるところだったので、Helloとあいさつ。食事をとり、ベッドでひとときだらだらし、チェンマイのシャワーを浴びる。
 「実弾(仮)」第五稿作文。19時45分から22時45分まで。シーン33をもういちど通す。それからシーン34の前半を大幅に加筆。以下はシーン28。以前マキロンのくだりを加筆したシーン。ホテルのシーンは基本的にどれもこれもよく書けているという印象。モデルが非常に明確だからだろうか。

28
 
 受話器を置いて、モニターを見あげる。二〇五号室の扉がひらいて、メイク道具一式が入ったプラスチックの籠を手に提げた木村さんが出てくる。ドアストッパーをはずして、扉の内側にくっつける。扉を閉める。がちゃんという音が階下のフロントにまで響いてくる。
 モニターの下に視線をずらす。全部で二十一室ある部屋番号の記されたボタンが横一列にならんでおり、各部屋番号の下にはその部屋の扉や精算機と連動したボタンが三つ縦にならんでいる。二〇五号室のボタンに目をとめる。扉の施錠と開錠に対応している下からふたつ目の赤く点灯しているボタンが、扉の閉まる音にほんの少し遅れて消える。消えたのを確認したところで、いちばん下のこちらもまた赤く点灯したままのボタンを押す。部屋番号のボタンが緑色に点灯し、コンピューターの操作履歴を記録するジャーナルが、電話機の横においてある機器の内部でガリガリと音をたてる。ロビーの壁面に埋めこんである客室パネルの一部がぱっと光るのを、画質の粗いモニター越しにながめる。
「もう完璧やな」
 機械の操作をする景人の後ろに立ち、煙草を吸いながらそのようすを見ていた塩崎さんが、むかしのドラえもんのような声で言った。景人はふりかえる代わりに、ふたりの姿を斜めから俯瞰する監視カメラの映像がリアルタイムで映しだされているモニターのほうを見た。五分刈りにした塩崎さんの頭頂部は、年相応に薄くまばらになっている。昨日が誕生日で、ちょうど五十歳になった。背が低く、顔が大きく、全体的に丸くぽっちゃりしているために、なんとなく三段重ねの雪だるまのようにみえる。
「完璧や完璧や、もう教えることはなんもない」
 塩崎さんはそう口にしながらマネージャーのデスクにもどった。サブマネージャーとして景人のフロント研修を担当することになったものの、ほとんどの時間はマネージャーのデスクで煙草を吸いながら携帯をいじくっているだけだ。ときどき思いだしたように景人のそばにやってきて、機械を操作したり電話対応したりノートに必要事項を記入したりするようすをながめるが、景人がミスをしてもしなくても「もう完璧や」と決まり文句のように口にする。やさしさや気づかいからではない。さっさと景人を独り立ちさせて、これまでどおり夜勤の長丁場をひとりで自由に過ごしたいのだ。
「おつかれさまです」
 ロビーに面した扉がひらき、バケツを手にした原田さんがメイクの控え室に入ってくる。景人は椅子を回転させてそちらに対して半身になり、おつかれさまです、と応じた。
「二部屋連続で風呂ラッキーでしたわ」
 原田さんはバケツを足元に置くと、そのまま流しに行って手を洗いはじめた。
「おつかれさん!」
 マネージャーの椅子に腰かけた塩崎さんが、くわえ煙草のまま顔もあげず、そこからは姿のみえない相手にむけて壁越しに返事をする。右手の親指で携帯のボタンを連打しながら、黒縁めがねの奥の柔和な瞳でスクロールする画面を追いつづけている。また海外のグロ画像サイトを巡回しているのだ。ビン・ラディンの死亡写真だとうわさされるものを景人も先ほど見せられたばかりだった。
 階段をおりてくる軽い足音がする。扉がふたたびひらく。足音の主である木村さんではなく、山盛りの食器をのせた三段重ねのトレイを胸の高さで慎重に運ぶ馬場さんの長身が、二本足でおもむろに立ちあがった熊のようにぬっとあらわれる。トレイのせいで足元がみえない馬場さんは、原田さんがさっき床に置いたばかりのバケツを派手に蹴飛ばしてしまう。その衝撃でハイボール用のジョッキがトレイの上で横倒しになる。馬場さんはいったんその場に立ちどまり、けわしい表情をこしらえたまま、山盛りの食器が安定するのを待った。ふつうの人間だったらまず浮かべるはずのひやりとした表情を、馬場さんはこれっぽっちも浮かべない。
「なんでこんなとこバケツあんじゃ」
 いまいましげにそう漏らしてから、ふたたび慎重に歩みを進める。扉を開けて馬場さんが先に控え室に入るのを待っていた木村さんは、足元に転がっているバケツを中腰になってひろいあげると、隣室の景人のほうに視線をむけてからおどけたように顔をしかめ、口パクでなにか言った。え? という目顔でたずねかえすと、小走りで近くにやってきて、流しのそばにあるカウンターの上に食器を置いた馬場さんのほうを指さしながら、ジイジまたはじめるで、と言う。自分が風呂ちゃうときにかぎってラッキー続いたからな、お怒りです。
「原田さん! あんなとこバケツ置いとったらあかんやろが!」
 ロビーにまでとどきかねない大声で馬場さんが吠えた。蛇口をひねって水を止めた原田さんがふりかえり、「え?」と言う。
「あんなとこにの! バケツおいてあったらワシ! 蹴飛ばしておめえ! 食器割るど!」
「でも、吉森さんからぼく、バケツはあそこに置いとけって言われたんですよ」
「でももクソもあるかい!」
 馬場さんは怒鳴った。相手の言い分を洒落くさいものとして門前払いしたわけではない。単純に返事がうまく聞きとれなかったのを力ずくでごまかしたのだ。
「吉森さんからな! あそこに! バケツ置いとくように! 言われたんやって!」
 木村さんが割って入る。馬場さんに話しかけるときは、大きな声でゆっくりと、文節ごとに区切るようにして語りかけなければならないことを木村さんは熟知している。まるで通訳みたいだとなにかの拍子に景人が漏らしたとき、通訳ちごて介護やろとマネージャーは半笑いで口にした。景人はそのときうまく笑えなかった。
「だれやて?」
 馬場さんがふりかえってたずねる。表情はけわしいままだが、木村さんを目の前にしたことで口調が少しやわらいでいる。馬場さんは死ぬまでに一度木村さんと寝たいと公言してはばからない。
「吉森さん!」馬場さんとおなじくらい声を張って木村さんが答える。
「吉森ィ?」馬場さんは眉間をむちゃくちゃにしかめて言った。残り少ない歯が口の中からぬるりとのぞく。血色が悪く灰色っぽくなっている歯茎のせいもあって、ほとんど鍾乳洞のようだ。「あんなもんおめえ! もうおらへん人間やんけ!」
「死んだみたいに言うたらんとき!」
 ぴしゃりと打ちつけるような木村さんの言葉に、景人はおもわずふふっと鼻を鳴らした。そのようすを遠目に認めたらしい馬場さんもつられてにやりとする。馬場さんの怒りは熱しやすく冷めやすい。
「ポリん世話なったら死んだようなもんじゃ!」
 景人と木村さんを交互にながめながら馬場さんは吠えた。声の調子はすでに完全におどけたふうになっている。
「ほんなら馬場さんこれまで三回死んだことになりますね」
 孝奈ならきっとそう切りかえすにちがいないだろう言葉を、景人は椅子に座ったまま口にした。馬場さんのとなりで木村さんがほほほほほと笑った。流しにいる原田さんも笑いだしたが、当の馬場さんにはきこえていない。きこえていないが、きこえているふりをして周囲の反応に同調し、なんとなくあいまいな笑みを浮かべながら、白髪に覆われた後頭部をぼりぼりと掻いている。年齢不相応に豊かな総白髪は、十円玉みたいな色をした肌とのきついコントラストもあって、ほとんど作りものみたいにみえる。
「それはそれとして景人くんよ、おめえフロントは慣れたんか?」
「ぼちぼちです」
 景人はそう応じてから立ちあがり、流しのほうにむかった。食器類を部屋から回収するのは本来フロントの仕事だが、景人の足を気づかってか、同僚たちはみんななにもいわず食器をさげてくれる。そのことが少し申し訳ない。どうせひまそうにしているのであれば、せめて食器の回収にだけは行けばいいのにと塩崎さんに対して思うところもあるが、それを言えるような立場でもない。
「ちょっと慣れてきたからいうて景人くんよ、レジの金抜いたらあかんどおめえ!」
 馬場さんはでこぼこの歯茎をむきだしにして笑いながら景人の肩をポンとたたいた。馬場さんの手は大きい。景人のあたまをそのままバスケットボールのようにひっつかみ、身体ごと持ちあげることすらできるんじゃないかと思う。
「もう完璧や!」フロントの奥から姿のみえない塩崎さんが声をあげた。「もう完璧! いつでも独り立ちできる!」
「完璧やったらコップ一日におめえ、三つも割るかい!」
「いつの話しとんの!」
 木村さんはそう割って入るなり、景人のほうをちらりと横目でうかがった。景人はその視線に気づいていないふりをしたままカウンターのむこうにまわった。カウンターの上に置かれているトレイをシンク脇に移し、汚れた食器を一枚ずつ取りあげてシンクの底に置き、蛇口をひねって湯を出す。景人に場所をゆずる格好でシンクから一歩退いた原田さんは、それでいてその場を立ちさろうとしなかった。ハンドタオルで手を拭いたついでに、剃りあげたあたまから垂れ落ちる汗もぬぐいながら、景人の一挙手一投足をながめている。景人はあえてそちらに目をむけなかった。
「おれ、やろか?」
 高田さんは、案の定、そう切りだした。
「いやいや、これフロントの仕事ですし」
 景人は内心うっとうしく思いながら返事をした。ボロネーゼの盛られていた皿から順に、湯で汚れをざっと洗い落としていく。部屋に長いあいだ置いたままになっていたせいで、こまかい肉片がこびりついていてなかなかとれない。
「傷まだあるやろ? バイキン入って化膿するかもしれんで」
 景人の右手の親指には絆創膏が巻いてある。グラスを割ったさいにできた切り傷はそれほど深くはないし、すでにほとんど癒えているのだが、勤務中はリネンに触れることも多いので、血がつかないようにするために巻いているのだった。
「あとで消毒しとくからだいじょうぶですよ」
マキロンないってこないだマネージャー言うとったけど。ちっちゃいのは売っとるみたいやけど、おっきいのは薬局でも売ってへんかったって。おっきいやつはあれ、東北の工場で生産しとるらしくて」
 景人は顔もそちらにむけず、ただ「へえ」と低く漏らした。そうすることでやりとりに句点を打ったつもりだったが、「フロントはおぼえることよっけあるやろ。やるで」と原田さんは食いさがった。景人が断ることをわかりきったうえで食いさがってみせる、その姿勢がいちいち癪にさわった。景人は内心かなりイライラしながら、「いやいや」ともう一度句点を打ちなおした。
「食器まわりはメイクの仕事ってことで」
 原田さんはなおも続けた。あいかわらず空気が読めない。そのしつこさのせいで嫌われているのだということが、四十年以上生きてきてどうして理解できないのだろうと思う。
「どの道さげるついでやし」
 景人は反射的に舌打ちをした。相手にきこえるかもしれないし、きこえないかもしれない、微妙な大きさの舌打ちだった。おなじ言葉を木村さんや馬場さんが口にしたのであれば、悪意のない気づかいとして受けとめることもむずかしくはなかっただろうが、相手が原田さんとなると、そういうふうにはいかない、うっすらと嫌味な皮肉のようにきこえる。
「そういや緊急地震速報の音あったで」
 原田さんが言った。唐突すぎる話題の転換に、景人は思わず「え?」と原田さんのほうを見た。
「ネットにあった。どんな音か知りたいってこのあいだ馬場さんと話しとったやろ? 聞いたことないんやんな?」
 前掛けのポケットから携帯電話を取りだしながらそう続ける。以前アルバイトをしていた別のホテルで支給されたという腰に巻くタイプの前掛けを、原田さんは便利だからという理由でビーチでも使っていた。
「鳴らしてみよか?」
 スポンジに洗剤をしみこませてから、ハイボール用のグラスとビールジョッキの内側をすばやく洗う。湯で流すついでに、その洗剤がシンクの底に置いてあるボロネーゼの皿に垂れ落ちるようにする。それから、洗剤を落としたグラスとジョッキを、シンクの右となりに置いてある乾燥機の中にひとつずつならべた。
 原田さんは小声で、じゃあおねがいします、とだけ言い残して、カウンターのむこう側に去った。
 原田さんが去ったのと入れ替わるようにして、空のグラスを手にした木村さんがやってくる。洗いものをする景人の左斜め後ろにあるディスペンサーの前に立ち、グラスに冷水をそそぐと、テーブルにはもどらずその場に突っ立ったまま、日本酒でもなめるみたいにちびちびと口をつけはじめる。馬場さんと原田さんがそろって煙草を吸いはじめたので、副流煙を避けて換気扇に近いこちらに逃げてきたのだ。
 木村さんはそのままあとずさりする格好で洗いものをする景人の脇にそっと立つと、「福島いつ行くの」と小声でたずねた。
 マネージャーと最近またふたりで会ったのだろうと景人は思った。福島の件はマネージャーと孝奈しか知らない。ただでさえ吉森さんが抜けて人手不足におちいっているときに、またひとり抜けるということになったら、従業員のあいだできっと不満も生じるだろうから、ぎりぎりまで黙っておけとマネージャーに口止めされていた。
「わからんけどたぶん、はやくて来月やと思います」
 ホットコーヒー用のティーカップとスプーンを洗いながら景人は答えた。木村さんは体の向きを反転させて、景人と横ならびになってシンクをのぞきこむような姿勢になると、せっかくフロントの仕事おぼえたのになあ、とさらに声をひそめて言った。
「社長に言われたらしいすよ、ひとり若いの寄越せって」
「社長?」
「社長の知り合いが、まあそっち系のひとでしょうけど、ひとおらんからとにかくひとりでも送ってほしいって、ほんでジャーにビーチからだれかひとり送りだせへんかって話あったみたいで」
「じゃあ塩崎さんでええやん」
 木村さんはさも当然のように言った。横目でその表情をたしかめるが、きまじめな顔つきをしている。本気の発言なのだ。景人はちょっと笑った。
「いちおうここのサブマネージャーですよ」
「まあ、ほやけどさ」
「そもそも絶対役立たんでしょ、社長のツラに泥塗ることになりますよ。若くもないし」
 食器を洗ったついでに、食べかすで汚れているチョコレート色のランチョンマットも湯でざっと洗い流す。マットの表面は防水仕様になっている。弾かれた水滴が布地にしみこまず、水滴のままばらばらと鈴なりになってシンクの底に落ち、降りはじめの雨みたいな音をたてる。
「ひとり送ったとこでまあ焼け石に水やろって感じっすけど、でもまあこういうのはメンツの問題なんちゃいます? 若い男ってぼくと孝奈しかおらんでしょここに」
「井端さんじゃいかんの?」木村さんは深夜のメイクの名前を出した。
「ジャー頼んでもないんちゃいます? そもそも面接のとき以外まともに顔合わしたことないって」
「ほやからって景人くん、せっかく仕事おぼえたとこやのに」
 だからこそ自分が選ばれたという側面もないことはないと景人はひそかに思った。マネージャーには塩崎さんに徒労を味わわせたいという意地悪な気持ちも少なからずあるはずだった。
 蛇口をひねって湯を止める。ハンドタオルで手を拭き、頭上の収納棚から乾いたグラスをひとつ取りだす。ディスペンサーのほうにむきなおって冷水をそそぐ。木村さんも景人の動きに合わせて体の向きをふたたび転じた。
「景人くんが納得しとんのやったらうちもごちゃごちゃ言うことちゃうけど」
 カウンターの上に置かれたディスペンサー、コーヒーマシーン、ビールサーバーの陰に隠れながら、木村さんが低い声で言った。水音でごまかせない分、声をさらにひそめて続ける。
「二、三ヶ月の話らしいし、金もええみたいやからまあええかなって。ジャーにも世話なってますし」
 そう答えてからグラスの中身を半分ほど飲む。水がキンキンに冷えているせいで、あたまがツーンと痛くなる。木村さんは片手にグラスを手にしたまま、シンクの角に腰骨をあててもたれかかっている。自分がいなくなることをさみしがってくれているのだろうかと、景人はその横顔をながめながら考えた。少しだけ猫背になっているが、制服の胸はつんとふくらんでいる。その胸に触れたマネージャーの手のひらを想像する。股間が少しだけ疼く。
 ふうは来月、帰省する。そのあいだに会おうと言われた。福島に行くことに決めたのにはそういう事情もあった。最初は留学が決まったから会えないといってごまかすつもりだったが、現地の写真を送ってほしいと頼まれでもすれば一巻の終わりだ。それでなくてもボロの出てしまう可能性があるとためらっていたところ、マネージャーから福島行きの誘いがあった。ふうにはあくまでも医学部生のボランティアとして現地入りすると話した。
「消毒しときや」
 ふやけた絆創膏でぐるぐる巻きになっている景人の親指を見つめながら木村さんが言った。
「だいじょうぶでしょ」
「マネージャーこないだ買い出し行ったとき、マキロンおっきいやつ売ってへんかったって言うとったで。工場が東北なんてやって」
「ああ、なんかさっき聞きました」
「ほやし、うちもお姉ちゃんに言うといたん。姪っ子がな、ほら、またこれするかもしれんし」そう言いながら、グラスをつかんだ右手の小指だけをまっすぐにのばし、カミソリの刃に見立てたそれで手首を切るまねをしてみせる。
「それマキロンでどうにかなるようなもんなんですか」
「えらいことや! えらいことや!」
 塩崎さんがおおげさに騒ぎながら控え室のほうにやってくる。なにを言うとんのとあきれたようにつぶやきながら、木村さんは景人の前を横切り、カウンターに沿って左に、目隠しになるもののないところまで移動した。景人もそのあとに続く。
「さっきのお客さん募金してった! それも五千円!」
 メイクの控え室とフロントの控え室のあいだ、扉の取りはずされて枠だけになっているそこに突っ立ちながら、塩崎さんは煙草をはさんだ右手でロビーのほうを指さした。ロビーにあるカウンターはふだん無人で、呼びだしベルを鳴らされたときだけフロントスタッフが出ることになっている。カウンターの上には震災用の募金箱が置かれているが、部屋代の支払いは各部屋にある自動精算機ですませる仕組みになっているので、釣り銭などが投じられる機会はまずない。プラスチック製の透明な立方体の中に入っているわずかな小銭はすべて、ロビーに落ちていたものを掃除中にひろった従業員が入れたものだ。
「塩崎さんそれどんな客や?」
 テーブルの上座をいつものように陣どり、椅子の前脚二本を宙に軽く浮かせてロッキングチェアのようにぐらぐらさせている馬場さんが、くわえ煙草のままたずねた。
「若い姉ちゃんとおっさん。常連ちゃうと思う」
 塩崎さんはそう答えてから馬場さんのそばにやってくると、テーブルの上に置かれている灰皿に煙草の灰を落とした。木村さんと変わらないくらい背の低い塩崎さんは、座ったままの馬場さんとならんでも目線の高さがそれほど変わらない。
「ほんならおめえ、デリの前でかっこつけとるだけのの、まあしょうもないやつや!」
「おれも見てましたけどモニター、あれデリじゃないですよたぶん」
 ロビーに面した扉を背にして突っ立ちながら煙草を吸っていた原田さんが割って入る。馬場さんの言葉を受けての発言であるが、その目線は椅子をぎったんばったんさせている相手の横顔を通過し、カウンターのむこうにいる景人と木村さんのほうにむけられている。
「募金なんかする金あるんやったらおめえ、ワシらにおつかれさまです言うて置いてけバカタレ!」
 馬場さんが大声で吠えた。吠えたあとに景人と木村さんのほうを横目で見てにやりと笑ってみせる。原田さんの声はまったくきこえていない。
「デリやったら荷物もっと多いでしょ? ちっさいポシェットひとつだけでしたから、あれはデリちゃいますよ」
 返事をしてもらえなかった原田さんは、わざわざカウンターのほうにいる景人と木村さんのそばにまでやってきてそう続けた。木村さんは返事をせず、原田さんの手にした煙草の先端からただよってくる煙を顔の前でさっと払った。

 第五食堂で買った袋麺を食す。歯磨きをすませたのち、寝床に移動し、Katherine Mansfield and Virginia Woolf (Katherine Mansfield Studies)の続きを読み進めて就寝。