20240416

 たとえば、信仰というのは、その人が信仰するシャカやキリストやマホメットの言葉に寄りそって生きることで、自分自身では言葉を残すことのできない人たちも不死性を得られるということなのではないか。私を構成しているのは他の人たちによって語られた言葉の群れだ。私というのがそういう存在であるならば、ある人がシャカならシャカの言葉に寄りそって生きるなら、その人はシャカと同じかそれにちかい不死性を得ることができるのではないか。
保坂和志『小説の誕生』 p.183)



 6時半起床。雨降り。ひどい湿気。8時から二年生の日語基礎写作(二)。時間いっぱい使って「村上春樹の比喩」。前半で解説&クイズ、後半で実践。問題なし。
 雨の降るなか、傘差し運転で(…)へ。食パンを三袋購入する。第四食堂に立ち寄り、猪脚饭を打包。寮にもどると、ナイジェリア人のHがちょうど電動スクーターにのって門の外に出るところだったので、門を開けて通してやる。ありがとう、ひどい天気だな。電動スクーターを傘差し運転する人間をはじめて見た。
 帰宅してはやめの昼食。11時から13時までたっぷり昼寝。正午に起きるつもりだったのだが二度寝してしまった。ほどなくして卒業生のR.Kくんから連絡。10分後に大学に到着する、と。
 それで身支度をととのえて瑞幸咖啡へ。R.Kくんと再会。ひさしぶりとあいさつしてアイスコーヒーを注文。そのままおよそ三時間ほどカウンター席で談笑。週末に上海にいくという。姉が上海に住んでいるので同居する予定。姉は現在生物学の博士課程に在籍しており、今年で卒業。彼氏からはすでにプロポーズを受けている。彼氏はよくできた人物であり、姉のことをつねに尊重しており、プロポーズをする前にもわざわざR.Kくんにこれこれこういう計画を考えているのだがどうだろうかと相談したり、親しい友人たちにビデオを撮ってもらってそれを編集するなりしていた。いいひとだねというと、でもわたしはそんなふうな関係は嫌だというので、どうしてとたずねると、彼氏を尊重する彼女のほうがいいという返事。要するに、男のほうが女よりも立場が明確に上である——そのような男尊女卑的な関係性のほうがじぶんにはいいということなのだろう。そういう発言をなんの悪気もなくしてみせる点からもわかるようにR.Kくんはおそらくかなり保守的な人物。なにかの拍子に污染水の話になったが、中国国内で流通している情報にまったく疑念を抱いていないようすだったし、ゼロコロナが徹底されていた時代にこの国で流通していた情報がいかに出鱈目だったかという話をこちらがやや遠回しに披露してみせたときも、「でも世論を誘導するのは大事です」という反応があった。ある種の典型。
 以前微信でやりとりした際、上海で仕事を探すと言っていた件について、あれはバイトを探すという意味なのかと確認したところ、正社員であるという返事。じゃあ働きながら修士課程に通うの? とたずねると、然りの返事。授業および課題は週末の二日間にかためて平日は朝から晩まで会社で働くつもりだというので、さすがにそれは無理でしょう、かなり厳しいんでないのといったが、本人はだいじょうぶだと言ってゆずらない。じぶんは忙しいほうがいい、寝そべるのは好きじゃないというのだが、しかし大学院に進学した学生らはだいたいみんな、学部生時代ののんびりした日々がなつかしい、院生生活は本当に忙しい、毎日論文をたくさん読まなければならない! と嘆いている。R.Kくん、院生の生活というものをもしかしたら根本的に理解していないのではないか? 働きながら修士をとる学生は(…)大学にたくさんいるのかとたずねると、おそらく前例がないという返事。ちなみに彼は日本語学科の翻訳コースを選考。同級生はおよそ20人ほどだという。修士にしてはけっこう多い。
 この一年、ずっと浪人として生活していた。実家のすぐそばに「自習室」があったので、月におよそ500元払って毎日そこで勉強していた。同時に、ジムに通って筋トレも継続した。毎日、実家→自習室→ジムのローテーションだった。それでじぶんには自律した生活を送ることができるのだという手応えのようなものがあったのだろう、それもあって会社員として働きながら修士をとるというこちらからすれば無茶としかおもえない計画も根を詰めれば達成できると考えているふうだった。卒業後は貿易関係の仕事に就きたいという。ずっと以前からそう考えていたらしく、卒論のテーマも貿易にしたとのこと。これは知らなかった。
 家庭は裕福だという。両親はなんの仕事をしているのかとたずねると、東北地方や新疆で手に入れたナッツ類を(…)省内で売買する仕事。稼ぎはかなりいいのだが、肉体労働であるので大変であるし、買い手がなかなかつかないときなどはかなりやきもきするはめになる。院試に失敗したらその家業を継ぐつもりだったが、じぶんとしてはやはり大学で学んだ知識を使った頭脳労働に就きたい。だから今回院試に成功してほっとしているとのことだった。
 かつてのクラスメイトらの話にもなる。全然知らなかったのだが、C.Sさんは現在黑龙江の大学院に在籍しているらしい。現役時に合格したのだという。彼女はもともと(…)大学だったか(…)大学だったかを志望していたはず。そこは無理だったが、別の大学院にすべりこむことができたということだろう。あと、R.Sくんは現在インターンシップで日本にいる。日本にいること自体はモーメンツの投稿経由で知っていたが、彼はインターンシップに参加するために大学を卒業直前で休学、しかるがゆえに現在もまだ四年生という立場らしい。これも初耳だった。もうすぐ帰国する、帰国したら先生に会いたいと言っているとのこと。R.Sくんはあのクラスのなかでもっとも日本語能力の高い学生であったし、将来は日本で働きたいともつねづね言っていた。ちょっといまどういう将来を考えているのか、こちらとしても知りたい。
 先生は日本に帰国するつもりかというので、最近ときどきそういう可能性についても考えると応じる。モーメンツの投稿でなんとなくそんな気がしていたという反応があったが、こちらがモーメンツに投稿しているのは学生らといっしょに遊んだ記録だけであるので、なぜそんなふうな解釈にいたったのかは不明。また以前みたいに貧乏暮らししながら読み書きだけの毎日を送りたいんだよね、ぼくももうすぐ四十歳だし、残された人生があと何年あるのかわからないからという。結婚はしないのかというので、結婚願望を抱いたことは一度もないと応じると、R.Kくんはかなり困ったようす。この社会における保守的な価値観を全面的にインストールしている彼なので、結婚願望もなく貧乏暮らしをのぞんでいるこちらの選択をどう理解すればいいのか困惑しているふうだった。ただ同時に、そんなふうにじぶんのやりたいことがはっきりしているのはすばらしい、うらやましいという反応もあって、これは日本にいても中国にいてもしょっちゅう投げかけられる言葉だ。たしかにじぶんは幸福だと思う。二十代のはやい時期に、じぶんがなにをやりたいか、その答えをはっきりと見つけることができた。人生を棒に捨ててもよいと思えるものに出会うことができた。そういう意味で本当に恵まれている。
 16時前になったところで、ぼちぼち小便をしたくなってきたからと理由をつけて店を出ることに。R.Kくんはこのあと(…)に移動、その後N先生と合流していっしょに食事をとる予定であるという。外国人寮の前でさようなら。またなにかあったら連絡してくれといって別れる。

 帰宅。きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返す。以下、2014年4月16日づけの記事より。『ここは退屈迎えに来て』(山内マリコ)について。以下で語っている「挑戦」は、「実弾(仮)」を書くにあたってこちらの脳裏に常にあるものでもある。

ただひとつ気になったのは収録されている作品の大半が「出戻り」の立ち位置からの語りとなっているところであり(これはじっさいに語り手が「出戻り」であるかどうかをいっているのではない)、この小説の語り手はみなみずからの生まれ育った故郷であるところの「ファスト風土」文化圏について批判的に、皮肉っぽく、とどのつまりはその「外」から(あるいはその「外」との対比関係を介して)語っている。そしてそのように皮肉っぽくときに辛辣なふうにさえみえる語りの距離感をもっともあらわにするものとして、たとえば三人称で書かれているにもかかわらずまるで目の前でくりひろげられている光景を高みの見物するような距離感で(おなじ位置にあるだれかにむけて)語りきかせているようなふしぎな印象をもたらす語りの「やがて哀しき女の子」があったりする(ここでの語りは三人称のていをとりながらもその実態は「外」に身を置く無名の傍観者による「一人称の距離感」をはっきりと保持している)。ゆえにこの作家の今後進むべき方向として、たとえば皮肉っぽく批判的なこの「外」からの語りを「内」にもちこんでみせることができるのかどうかというおそるべき無理難題、とどのつまりは 「椎名くん」の一人称で書くという挑戦がある、そういってみることもできるだろう。

 第五食堂で夕飯を打包。食後チェンマイのシャワーを浴びたのち、19時過ぎから22時過ぎまで「実弾(仮)」第五稿作文。シーン34をがっつり加筆修正。かなりよくなったと思う。以下はそのシーン34の前半部。

 尻が冷える。ひざを片方ずつゆっくりと胸のほうにひき寄せ、体育座りの姿勢になる。コンバースの靴底が濡れた地面を軽く削り、土と草の濃いにおいがその傷跡からわずかにふくらんでたちのぼる。体育座りをしたまま重心を左側に、すかしっぺでもするみたいにかたむける。もちあがった尻の下に右手を差しいれ、中指の腹でブラックデニムの生地に触れる。表面はひんやりとしているものの、中のボクサーパンツまでしみているかどうかはわからない。おなじ手で地面に触れてみる。砂利のたくさんまじった赤土はじっとりとしているが、雨水をふくんでいるのか、ただ単に冷えているだけなのか、どちらともつかない。
 左ひざを横倒しにする。そのひざをはさみこむようにして両手を地面に突き、右足のつま先にもぐっと体重をこめて三点で体を支えながら、寝かせていた左ひざを浮かせてそちらもつま先立ちになる。蛙のようなその姿勢からひざをまっすぐにのばし、壁を押す手のかたちで地面に突いていた両手を離陸させ、視界を急激な俯瞰に転じながらゆっくりとその場に立ちあがる——その拍子に、右脇腹に鈍い痛みが走る。息をひゅっと吸う。たまらず体を硬直させる。痛みの走った瞬間の姿勢を維持したまま、脇腹を左手のひらで押さえる。歯を軽く噛み合わせたまま、口からふうっとほそく息を吐く。痛みがしずまったところで、あてがった指先にぐっと力をこめて、パーカー越しにも浮きあがっているのがわかる肋骨を一本ずつ、アコーディオンの鍵盤でも押さえるみたいにしてたどってみる。どれかひとつというわけでもないが、たしかに痛む。折れてはいない。
 雑草はほとんど生えておらず、赤土と砂利だけがむきだしになっている湿った地面が、新緑がにおいたつ旺盛な山を背にして、飾り気なく無骨にひろがっている。周囲に人影はない。ひとの声も当然しないし、車の通行する音もきこえてこない。代わりに、巻き舌みたいな鳴き声のハルゼミがジキジキジージキジキジージキジキジーと、山の木々の高い位置で輪唱でもするみたいに、音の途切れ目を作っては負けというゲームでもしているかのように、ひっきりなしに追いかけあって騒ぎあっている。地上は地上で、姿のみえない昆虫らがジージージージー鳴いたり、翅をこすりあわせて高い音を丸っこく奏でたりしている。孝奈は湿った地面の上を一歩一歩、足を運ぶたびに痛む右の脇腹を軽く抱えるようにしながら、山とは逆方向にむけてゆっくりと歩きはじめた。足音がじゃりじゃりとたつ。近いところにひそんでいる虫が、足音の接近に気づいて不意に息を殺すたびに、その命がとても身近なものに感じられる。
 赤土と砂利の地面の尽きた先には車道がある。白線のすっかり消えさっているその車道を、ちょうど小学校の二十五メートルプールに敷きつめた土砂をそのかたちのままどしんと——まるで容器に入ったプリンを逆さまにして皿に盛ったみたいに——置いた格好をしている空き地の上から孝奈は見おろした。空き地と車道をむすぶ急な斜面にはとっかかりがほとんどない。鵜川はここをあがるとき、革靴をすべらせて、まぬけな動物のように四つん這いになった。それも一度だけではなく、二度も。
 二メートルほど低い位置にある道路を見おろしながら、前歯とうわくちびるのあいだに突っこんでおいたティッシュを、孝奈はオーケーサインにした右手の人差し指と親指で取りだした。ティッシュは去りぎわに鵜川が放り捨てていったものだった。
「おまえにこんなこと言うてもしゃあないけどな」鵜川はそう言いながら、皮のめくれた拳をポケットティッシュでぬぐった。「明日じいちゃんの四十九日でバタバタしとるんやわ。ほやしもう妙な意地張んな。おとなしいしとけ」
 残ったポケットティッシュを袋ごと、四つん這いと土下座のあいだのような姿勢でうずくまりながら口から真っ赤な唾液を垂らしている孝奈のそばに放り投げると、鵜川は拳をぬぐったティッシュを丸めて革靴の先についた泥を拭きとり、そのままざりざりと足音をたてながら立ちさった。孝奈はおなじ姿勢のまましばらく動かず、ただふうふうと呼吸をくりかえしながら耳だけをそばだてて、鵜川が斜面をずり落ちるようにして車道におりたあと道路脇に停めてある車に乗りこみ、法事の準備でいそがしくしている実家にむけて走り去っていくのを待った。車の排気音が消えさり、ぽっかりと口を開けた静寂のなかで一匹のハルゼミがその気をうかがっていたかのようにジキジキジーと鳴きはじめたところで、ようやく顔をあげて上体を起こした。一度ひざ立ちになったものの、そのまま立ちあがる気力はなく、足を崩して地面に尻をつくと、鵜川の放っていったポケットティッシュの袋をひろい、新台入替日の記載されているパチンコ店のチラシが入っている面の裏から、震える指でつまみとったティッシュを丸めて口の中に突っこんだ。それからパーカーの袖やフロントに血が付着していないかどうかをたしかめた。血は洗濯してもとれないことを孝奈は前回学習した。
 そのティッシュのかたまりは、いま、真っ赤にそまっている。くちびるや歯茎にティッシュの滓がひっついてなかなかはがれないのを孝奈は舌でなぞってあつめた。あつめたものをそのまま道路の上にぺっと吐こうとするが、唾液もすべて吸いとられてしまっているので、うまく吐きだすことができない。切れて血のにじんでいるくちびるにどうしてもはりついてしまう。
 車が二台ぎりぎりすれちがうことのできるほどしかない車道のむこうには、錆と黒ずみの目立つガードレールをはさんで、まったく手入れのされていない休耕田が、道路より一メートル弱ほど低くなった位置に敷かれている。ガードレールのむこう側からは、短い支柱の先端に円形の頭部のついている反射板がカタツムリの角みたいにぴょこぴょことのぞいているが、輪切りにしたオレンジみたいなその板はどれもこれも割れて砕けている。孝奈は汚れたティッシュを足元に捨て、くちびるにはりついたものを指先でつまんだりこすり落としたりしながら、車道のむこうにひろがるその景色をなんとなく視線でたどった。好き放題に生い茂っている雑草の背丈のちがいで、かろうじて十字に交差する畦道に見当をつけることができるものの、長らくひとが足を踏みいれていないことのあきらかな休耕田は、はるかむこうにある雑木林の入り口まで続いている。錆びたトタンを貼りあわせたような納屋と、石の蓋で口をふさがれた井戸がぽつんとあるほかは、全体的に起伏がなくのっぺりとしている地上の上空、さっきまであるかなしかの雨が降っていた空は、ほこりのような雲できめこまかく覆われており、雲が薄くなっているあたりは、そのむこうに隠れている太陽がなかば透けているために、灰色というよりは銀色にそまっており、光線が差しているわけでもないのに見あげることのできないほどまぶしい。
 くちびるの隙間から唾ではなく空気を、まるで吹き矢でも吹くようにするどく吐きだす。切れたくちびるにこびりついていたティッシュが、歯クソのように口元から飛びだし、すぐに視界から消えさる。孝奈はもう一度、視線をかなたにまで送りだした。雑草に覆われた休耕田はなにものにも邪魔されずのびひろがり、黒々とした雑木林がそれを防波堤のように彼方で受けとめている。灰色の空は高く、さえぎる建物も稜線もない。目の前の景色はたしかにひろびろとひらけている。それにもかかわらず、ながめているだけで息がつまってくる。これが地元なのだと孝奈は不意に思った。たぶん名古屋にはこんな風景はない。東京や大阪にも。

 作業中はずっとYouTubeにあがっている自然の音を流していたのだが、「虫の音」とかで検索すると秋の虫の音をつめあわせた入眠BGMとか夏のセミの鳴き声を風鈴の音色なんかと重ねたほとんどフィクショナルな「夏」を仮構したBGMとかそういうものばかりで、特定の時期に特定の土地でがっつりフィールドレコーディングしたものというのはあまり見つからない。たとえばシーン34は2011年6月上旬の東海地方の田舎を舞台としているのでそのような設定とぴたりとくるフィールドレコーディング音源が存在するのであればそれを流しっぱなしにして文章を書きたいわけだが(聴覚と嗅覚にまつわる描写はどうしても抜けが多くなるのでそういう「素材」がほしくなる)、なかなかお目当てのものはない。
 夜食のトーストを食し、歯磨きをすませたあと、寝床に移動してひさしぶりに『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)の続き。

 ユイスマンの『逆しま』を読みながら、ぼくはこの傾向の反対側の限界を発見した——そしてその必要性はぼくのまことに不幸な範例のなかに直接的に感じられる——作者がその作中人物たちに長口舌をふるわせるのほどぎこちなく感じられるものはない。かれらは、作者があらかじめ吹き込んでおいた蓄音機になってしまう。
 だからぼくは言いたい。ロマンのなかでは作者自身が話さないことが原則である、と。[これが許されるのは、趣味や思考法、その他の変革期にだけである、たとえばそれが近代の誕生に随伴したシュトゥルム・ウント・ドランクの時代のように。こういうロマンは「内容的」であって、そこには「芸術」が欠けている(ハルデンベルクがゲーテの『ヴェルター』を判定したような意味で)許されるものの限界はここではエセーからの分離にある]しかしまた物語の作中人物たちも「ロマン」を話してはならない。書く「芸術」の実質は、言うべきことが作中人物たちにふさわしいシチュエーションを作ること、他方、言うべきことを思考の流れのなかから、いわば示唆的な結節点のように選び——作中人物たちが「あまり」話さないようにすることにある。ユイスマンスの『ディレンマ』のなかの公証人がかなり成功した一例をしめしている。
(201-202)

 Ⅰ・α一般に人間について語られたそのものを因果関係の原因として造型するのではなく、今の状態と以前ノ状態[スタートゥス・クヴォ・アンテ]との間の眼につく隙き間を残しておくほうが、おそらく効果を高めるだろう。
(209)

思考が世界を高めるというのは、きわめて古い誤謬である。現代のより深い心理学は、世界を高めるのは感情であると主張してためらわない。感情という培養基から取り上げられないあらゆる思考は、ボール紙に播かれた草の種と同じように緑色に芽生えることができるであろう、しかし草の芽は芽生えるのと同じ速さで枯れてしまう。
(233)

 ある種の——エロティックなばかりではない——関係は、これと同じ関係はかつて存在したことがない、という観念によって、独特の音色を維持する。
(256, ゲオルク・ジンメル「二人の社会」より)

ぼくがきみの代わりに、きみのイメージを愛していたことを、ぼくはとうから気づいている。きみはそのイメージに温かさと性的なものをあたえるだけだ。
(264)

アナ なぜなら、生起する一切は死んだ騒音に他ならないから。でも、あなたのなかになにかが眼を開くと、世界は顫動する。
(277)

イグナーツ ぼくたちは他の人びとがやめるとこから始めるのだ。
(282)

 アンナ・カレーニナ
 「官房の制服」の原則がすばらしい首尾一貫性をもって遂行されている。作中人物はけっしてきまった様子をしているのではなく、いつでも他の誰かが「彼はこんなふうだ」と言うのである。それはきわめて厳格に遵守されていて、カレーニンの手は、アンナがそれを見つめるときには、粗野で骨ばっていると記され、リュディア・イワノーヴナが見るときには、柔らかで白いと言われる。考察はつねに個々の作中人物の思考であって、そのために、なんらかの強制が加えられることなしに、多様な世界像の併立という、強い印象が生じる。読者は、たとえばアンナが好意的であるときには、そして、好意的でないと感じられるときには、彼女がどのような様子をするかを見る。
(339-340)